子供が生まれたら犬を飼いなさい。という本を真に受けた両親は僕が二歳になってから犬を飼い始めた。ゴールデンレトリーバーのぼん。僕の一番古い思い出は彼の背中に乗っかろうとしてお腹にしがみついているというもので、僕の幼少期を語るときに犬の存在は欠かせない。
レトリーバーは実はそんなに長生きじゃない。ぼんは僕が小学校を卒業するときに死んでしまった。悲しくて悲しくて毎日泣き暮らしていた僕ら家族は次の犬を飼った。今度は保健所にいた雑種の犬で、体型や顔つきは限りなく柴犬に近いが、色は冴えない斑の焦げ茶色だった。名前はとん。とんはぼんに比べバカで、投げたボールを見失ってはとぼけた顔でもう一投を催促していた。
ぼん、とん、と来れば次はなんだろう。僕はあのままの人生が続いていたら、次の犬にどんな名前をつけただろうか。
『…ろ。こ……ラ…ダー…。……るか?……バ』
砂でも電波に混入したか?ざりざりのトランシーバーが耳障りな音を立てる。どうせこちらの声も聞こえやしないだろう。僕はそれを無視して双眼鏡を覗く。僕から256メートル向こうにいるのは046号と呼ばれる犬で、体にありったけの爆弾を括り付けている。
046号が向かっているのは『鞘』で、それは一言で言うならばたんぽぽの種に似ている。綿毛を抜いた、タイ米のような細長い種に。
たんぽぽの種と聞いて、僕はふいに谷津亜美香のことを思い出した。
谷津亜美香は僕の小学校時代の幼馴染で、僕と彼女の間にはいつもぼんがいた。彼女の家では動物を飼ってはいけないので、僕のぼんをえらく可愛がっていた。ぼんも亜美香にとても懐いていて、散歩のときに彼女がいないといじけていつもより短いコースへ僕を引っ張っていった。
「知ってる?」
たんぽぽの綿毛をくるくると回しながら、亜美香は僕に向けて、あるいはぼんに向けて言った。11歳の亜美香は僕より背が高い。僕の目線の高さに唇があって、その唇がきゅっとすぼまって綿毛を吹き上げた。
「たんぽぽはね、生存競争をしていないんだよ。在来種と外来種。繁殖力の問題で外来種ばかりにみえるけど、在来種の数が減ってるわけではない。外来種がマジョリティになっただけ」
「マジョ…?」
「多数派ってこと」
亜美香は頭が良かった。頭がいいけど、彼女の知識の殆どは生きる上で何ら役に立たないものばかりだった。このとき長々と語ったたんぽぽの見分け方なんかも、20年後には本当の本当に意味のない知識だ。もうこの世界にはたんぽぽなんて咲いてない。
「これは、多分カントウタンポポ」
「関東?」
「そ。日本の関東」
「関西タンポポもある?」
「うん。あるよ」
亜美香は夏休みに関東から関西へ引っ越す。だからひょっとしたらカントウタンポポは見納めかもしれない。ずっとずっとぼんを間に隣り合ってた僕たちだけど、来年の今頃は一人だ。
そう思うとなんだか喉の奥がぎゅってなる。
「じゃあ…この綿毛、持ってきなよ」
「え?なんでよ」
「あっちでも関東タンポポが咲くように」
「だめだよぉ!テラフォーミングじゃん」
「外来種とは仲良くやってるんだろ」
「そうだけどさあ…それに、可哀想だよ」
「かわいそう?」
「うん。知らないとこに一人ぼっちで咲くのは、可哀想」
そうやって話してる間、ぼんは僕と亜美香の間でうずくまり、幸せそうに唸っていた。
次に亜美香に会ったのは、僕の隣にとんがいた20歳の冬だった。
「や」
僕の頭の中の亜美香は11歳のままだった。だから挨拶されたとき、はじめは誰かわからなかった。
「亜美香?」
「久しぶり。ぼんちゃんは」
「流石に寿命でね。この子はとん」
「ぼん、とん、ときたら次は何かな」
亜美香はしっぽを降ってよってきたとんを撫でながら微笑んだ。笑顔だけは思い出の亜美香に似てるが、ほかは全部年月相応に成長していた。綺麗になっていた。
でも、背は僕のほうが高い。
「わかるもんだね。9年たっても」
「わかるよお」
昔と変わらない散歩コースを歩きながら、僕らはとん越しにぽつりぽつりと9年間であった出来事を話した。
話したいことは山ほどあった。散歩の時間だけじゃ語り合えないほど、9年という時間は僕たちには大きすぎた。
「就職はこっちでしようと思うんだ。やっぱ、東京が良くない?はは」
葬式で戻ってきた亜美香は、数日こちらに滞在したあと関西へ戻った。大学を出たあと、結局あっちで就職した。メールも何回か送りあったし、Facebookでお互いの近況は知っていた。けれども彼女の就職と、とんの死のせいで僕は強い無力感に襲われてSNSを開かなくなった。
あとになって、関西で就職したのは親の強い意向があったからだと知った。でもその頃には僕はネットから切り離された生活を送っていたし、彼女のステータスはおそらく『婚約中』になっていた。
彼女が結婚したと聞いた頃には、僕にも恋人がいて、数年後僕も結婚した。
落ち着いたら犬を飼おうかと話しているとき、僕はいつも犬越しに隣だった亜美香のことを思い出していた。初恋は古傷のように時折痛む。あるいはレモンのように、口の中をつばでいっぱいにするような酸っぱさを思い出させる。
僕と妻の隣に新しい犬が来る前に、世界は今みたいになってしまった。妻は犬とともに外へ出た僕の帰りをどんな思いで待っているんだろうか。いつもは考えないようにしてあるが、亜美香のことを思い出すとどうしても妻への愛おしさが抑え難くなる。
亜美香は生きているだろうか?ステータスの確認はできない。けれど数年前までこの地上にいきていた数え切れないほどの人間と同じように死んでいるのだろう。
僕と亜美香。
関東と関西。
僕とこれから爆弾と共に四散し死ぬ運命にある、限りなく死に近い046号。
僕と亜美香の間にはいつも何かがあって、一度だって触れ合うことはなかったね。
僕と君の中間にいた犬。
僕と死の中間にいる046号が、『鞘』に向かってゆく。