予兆は、あったのだと思う。地震雲や引き潮、鳥の大量死、ミツバチの消失。なんなら風の匂いが変わったとか誰も気づかねーよっていうようなやつが。
でもたとえそれがわかってても、誰もそんなの信じないよね。ある日突然世界各都市に何かが落ちてきて、そこから私達が知ってる世界がじわじわ終わっていくなんて。
だから私は呑気にも「キリストってすげー」とか「ムハンマドすげー」って思ってる。だってそうじゃない?預言なんて、神の代弁なんて、たとえ事実だったとしてもやるのは相当勇気がいる。
私だったら予言を授かったことすら黙っちゃうよ。恥ずかしい。その恥ずかしさは初潮が来たとき、周りの子との間に感じた薄膜のような自意識に似てる。
最近こういう、生きてるために全く必要でない空想する時間が増えた。やることは全てやったからいいと思う。
はじめの方こそ、外に出ようと必死に足掻いた。発狂寸前になって家の中をめちゃくちゃにしたりもしたが、高層マンションのベランダから見下ろす世界を眺めるうちにだんだん諦めがついてきた。
今じゃ、夫がもう二度と帰ってこないことも、この家の中で一人で死ぬことも納得している。
だってもう本当にどうしようもない。
このマンションはまるで肉の海に生えてる棒でまわりの高層マンションも下からどんどんそれに侵食されている。ぶよぶよとした根のようなそれは、都心からあっという間に広がってきたもので、例えるなら宇宙戦争にでてくるあの気持ち悪い植物だった。ただしあの映画みたいな地中から出てくる殺戮兵器だとかUFOだとかは一切見かけないし、報じられなかった。
それは、いわば種のようなものらしい。
たまたま地球に降り立った植物。たんぽぽの種のように、一番繁殖に適した場所に降り立ったのだ。
「私は、たんぽぽの種とラジオで聞いたときに昔幼馴染と話したことを思い出しました。私が引っ越すときに、彼はたんぽぽの綿毛を渡してくれました。私が寂しくないように。
ロマンチックだけど、家につく頃には綿毛は全部風に乗ってどこかへ飛んでしまっていて、私は裸の茎だけをしばらく花瓶に飾っていました。もちろん両親には笑われたけど。
彼はどうなっているんだろう。というか、世界はどうなっていますか?返事をください
私は武蔵小杉☓☓タワーマンションの24階14番にいます」
日課になった誰にも向けてない手紙を折る。下には誰もいないとわかってるけど、これをやめたらいよいよ人間性を失う気がした。
ある程度の混沌と混乱と虚脱を抜けてから、掃除や洗濯といった日常に伴う些事も再開した。夫のための食事も用意するのも、やめた。
大阪から東京に引っ越してすぐこうなるなんて。いや、こんな世界の終わりが来るのならば遅かれ早かれといったとこなんだろうけど。こんな簡単に色んなものがなくなるなんて思ってなかった。
電気はつかない。水道も来ない。慌てて買いだめた食料ももうない。根は、ドアのすぐそこまで伸びてきている。
ここで死んだら根に飲み込まれて養分になるのだろうか?自分の想像にぞっとする。
私はいつもどおりに手紙を紙ヒコーキにして、ベランダから飛ばした。
錆色の、人類のいない世界に真っ白な紙ヒコーキが飛んでゆく。もしかしたら私と同じように生きている人がいるかもしれない世界へ。
赤黒く変色した地上は人々の生活を覆い尽くし、ゆっくり世界を終わらせてく。
地上からはるか高いこの場所にも終わりは迫っている。
最近は、空腹のせいもあって息苦しい。ただ随分前に止まったラジオによると根は毒を出しているかもしれないので、ひょっとしたらこの息苦しさは毒のせいかも。
空の巣穴から出れない私に残されたのは過去だけだ。東の空を見た。夫がいる乃木坂のあたり。
引っ越してきたときは良く、この空の上からいろんなものを見た。今はもう、同じような赤黒い、気味の悪い植物のような肉のような物しか見えない。
ベランダの手すりを強く握った。ステンレス製なのに凸凹している。
見ると、細い根がここまで伸びてきていた。
私はスリッパを脱いで手すりの上に立った。
そして世界は終わる。