追っ手が近づいている。
数寸先もうかがい知ることが出来ぬ闇の中にあっても、後方から何者かが迫っているのが分かる。馬の蹄が絶え間なく地を叩く音、荒い息遣いと嘶きが少しずつ、しかし確実に。
ガッツはその重装備からは考えられない程のスピードで走り続けていたが、馬より速く走ることは敵わない。
共にいたはずの2人の姿も、いつの間にか見えなくなっていた。
追いつかれるまでそう時はかからない。撒くことは不可能だろう。そう判断した彼が追っ手を迎え撃つために、背負った大剣の柄に手をかけた時だった。
「キャアーー!!」
絹を裂くような声が響いた。
即座に得物を抜き放ち悲鳴が聞こえた方へ、追っ手が迫る闇へと風のように駆けだした。
すぐに声の主と、彼を追っていた者の姿が見えた。
辺りは天も地もまるで墨で乱暴に塗りたくったような暗闇だったが、不思議とその姿は鮮明であった。癖のある長い黒髪の、仕立ての良い白いネグリジェを着た少女の後ろ姿が見える。悲鳴を上げる少女の顔をうかがい知ることは出来ない。
少女は軍馬に乗った男に剣を突き付けられていた。
ガッツがそれを男だと思ったのは、剣を握る節くれ立った腕と体格からの判断に過ぎない。
騎士や衛兵などの着用するものとは違う、傭兵などの粗野さと質実剛健さを感じさせる鎧姿の追っ手には、首と右足がなかった。
「嫌ッ!」
首なしの傭兵が剣を振り上げると、少女は声を上げた。
ガッツは身を屈め、更に加速する。闇の中にあってなお黒い風となった彼はすれ違いざまに剣を振りぬき、男の胴体を鎧ごと騎乗する馬の首もろとも両断した。
重く速い斬撃の慣性によって男の上半身が飛び、闇の中に消えていった。
剣を握ったままガッツは少女に近づく。
座り込んだまま、黒髪の少女はすすり泣く声をわずかに漏らしながらうつむいている。よく見ればその白く細い腕で何かを抱え込んでいるようであった。
警戒は解かず、一向にこちらを見ることのない少女に手を伸ばす。
瞬間、鋭い痛みが走った。
「!?」
彼は自身の右肩を後方から矢が突き破っているのを視認した。
「…どっから湧いてきやがった」
振り向くと、今まで何の気配もなかったというのに、ガッツは大勢の人影に囲まれていた。
背に少女をかばう様に、ガッツは剣を構えようとした。
「ッ!」
しかし、今の今まで握っていたはずの重みが、それどころか着慣れた全身鎧の重さが消えていた。
彼は異変に気付く。
そもそもあの呪われた全身鎧は、今自分の肩から生えているような矢で貫けるような柔なものではない。目だけを動かし、周囲を見渡せどもあの鉄塊のような大剣すら見当たらない。
そして
自身の「両」の腕はこんなに細く、「両」の目の目線はこんなに低かっただろうかと。
「!?」
ガッツは、自身の体がシャツとズボンを履いただけの少年の頃ものになっていることを自覚した。
「死ね。」
己を射ったのであろう、先ほど斬った男と違い随分と仕立てのいい甲冑を着た太り過ぎの男が持っていた弩弓を捨て、腰の剣を走りざまに抜き放つ。
上段から振り下ろされた斬撃を、すんでのところで飛びのいて避けた。
「ぐっ!」
しかし、短くなった手足は素直にいう事をきかず、地面に傷口を打ち付け鋭い痛みが走る。
すぐに追撃がくるだろう。
体制を立て直した敵が、剣を腰だめにまっすぐこちらに向け、己を刺し貫こうと迫る
彼はすぐ傍に、先ほど斬った首なしの傭兵が握っていた剣が落ちていることに気づいた。
小さな体にはその剣は重かったが、迷いなくそれを拾い上げ、低い身長を生かして敵の懐に潜り込むと僅かに甲冑で守られていない脚の付け根を狙い刃を突き立てた。剣の柄から、皮を突き破り刃が骨に当たる鈍い感触が伝わる。引き抜こうとしたが収縮した筋肉に掴まれた刀身は、子供の筋力では不可能だった。
「グアァァッ!」
男がうめき声をあげて倒れ伏すと、すかさずガッツは全体重をかけて馬乗りになり敵が腰にさしていた短剣を奪うと、怯えた目を向けてくる男の顔へ、何度も何度も振り下ろした。
「はあ…はあ……」
やがて男が動かなくると、ガッツは今しがたこと切れた男の剣を拾い上げ、自身を取り囲む者たちへ鋭い闘気を向ける。
その時だった。
「殺してやる…」
すぐ背後から声がした。
「フッ…!」
両手でしっかりと柄を握りしめ、剣の重さと遠心力を利用して振り向きざまに剣を振る。
だが
「おいおい、またかよガッツ」
「ッ!」
刃が背後に立っていた少女の首を刎ねる寸前で、手を止めた。
「お父様の仇…!」
ようやく顔を上げた黒髪の少女は涙を流しながら、ガッツをあらん限りの怒りと憎しみを込め睨みつけていた。
「お前は、伯爵の…」
見覚えのある顔だった。
それはそう、彼が今の今まで短剣でめった刺しにしていた男に所縁のある娘で…
しかし、直前に聞こえた聞き覚えのある声は、彼を睨む少女の口よりも更に下から聞こえていた。
ゆっくりと視線を下に向けると
少女の腕には、1つの男の生首が抱えられていた。
生首は
その、忘れようにも忘れることの出来ぬ男の首は
「首をざっくりやられるのは、死ぬほど痛いんだぜ? なあ? ガッツ」
「ガンビーノ…ッ!」
生前と変わらぬ、他人を鼻であしらうような笑いを浮かべていた。
「ハッ…!」
ガッツが目を覚ますと、まだ早朝であった。
窓からは、僅かに白みだした空が見える。
寝覚めの気分はいつものように悪い。嫌な夢を見ていたような気がするが、霞がかかったようにもう思い出すことはできなかった。周囲を素早く見回し夢魔の類がいる様子がないのを確認した彼が視線を横に向けると、柔らかで暖かなベッドの上で魔法使いの少女と狼の娘が安らかな寝息を立てていた。
すっかり日も登った頃に、ようやく起きだしたシールケとシロと共に宿を出た3人は近場にあったファストフード店で、ふかふかのパンにひき肉を焼いたものと野菜を挟み込んだものと果汁を絞ったジュースという彼らの常識からすれば豪華な朝食をすませた。
やはり、路銀があるというのは素晴らしいことである。手持ちが何もなく、収入を得る手段も得られなかった昨日までとは大違いだ。
【GS】ゴーストスイーパー
社会の安全と経済活動をおびやかす悪霊や妖怪を退治することを生業とし生命の危険を伴う上に、生まれつきの霊的才能が必要となる。
悪霊が強力であればある程、それを退治出来る個人は少なくなるため、腕利きのゴーストスイーパーは欲しいままの報酬を受け取れた。
逆に言えば、能力がありさえすれば大金を稼ぐことが出来る商売でもあった。
宿を出る前に、改めてシロが知っているGSという仕事について聞いた話で、要はバケモノ相手の切った張ったの商売で、それはとても性に合っていた。世界には魑魅魍魎が溢れ、仕事の種がなくなることはほぼあり得ないとくれば、なんたる行幸か。
それからしばらく、3人は各地を転々と犬飼ポチの噂にも注意を払いながら、時折持ち掛けられる悪霊退治の依頼で生活資金を稼いだ。
間もなく、GSの相場からはとても考えられない低価格で仕事を請け負う、神出鬼没に現れる3人組GSの噂は静かに広がっていった。
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「ほんとにこんな所にいるんですか? 」
「俺だって噂に聞いただけだから分からんよ…」
「そもそもあの噂ほんとなんですかね? 金に汚いGSが格安で人助けしてるなんて……」
「分かってるよ。でも安くでやってくれるならそれに越したことはないだろ?うちもそんな予算ある訳じゃないんだから……お?」
「あれは?」
繁華街の表通りからずれた、ビルとビルの間の細い路地。
そこを2人のスーツ姿の中年の男性とその部下であろう若い男が、3人組のGSがいるという場所を探して半信半疑で歩いていた。
薄暗い狭い路地の更に奥まった場所に、手書きののぼりが立てられていた。
「すまい負け受治退霊悪」
古風な筆致で書かれた文字を見て、ほんとにあったと安堵した2人であったが、そこには誰の姿もなかった。
「もしかして留守? せっかく歩いてきたのに無駄骨かよぉ…」
「拙者たちをお探しでござるか?」
落胆の言葉をつぶやいた直後、すぐ横から若い女の声が響いた。
「!?」
驚いて振り向くと、そこにはTシャツにジーンズ姿の活発そうな、腰まで届く長い髪の少女と、全身を紫色の魔女装束で覆って座り込んだ小さな人影が、その手に持った杖の先に漂う光の玉にぼんやりと照らし出されていた。
特に、魔女は地面にチョークのようなもので描かれた魔法陣の上に座り、その周りには何かの液体が入った小瓶が配され、なにかが動いていると思いよく見れば茨でできた蛇が地面を蠢いていた。
「いかにも」という風体に、2人の男は噂が本当だったのだと思った。
「あれ?でも3人組って話じゃ…」
「先生、お客人でござるよ!」
魔女の横に立っていた長髪の少女が、のぼりが立っているほうへ声をかけた。
そこには誰もいなかったはず…
2人の依頼人は振り返り、少女の視線を追った。
「黒い剣士ッ…!」
先ほどは気が付かなかったが、そこには確かに人影があった。
闇に溶けるような、黒い鎧を着た精悍な顔つきの巨漢がそこに居た。
「…要件は」
「!? あ、あの。依頼したいことがありまして、見積もりをしていただきたく参りました」
少なくとも、彼らが噂の人物たちであると確信した男たちは名刺を取り出しながら話を始めた。
しばらく話しこんでいたが、結局見積もりは実際に現場を見てからということになり、軽い打ち合わせと現場の場所だけ聞くとその場は解散となった。
今夜の宿を用意するという依頼人からの申し出も断り、3人組は夜の街に消えていった。
「先生はなんで腰を据えないのでござるか? その方がお客も大勢来てくれると思うんでござるが」
先ほどの依頼人と別れ、食事を済ませたガッツたちが適当なホテルに腰を落ち着かせ一息つくと、シロが口を開いた。
彼らは今、仕事をする際は先ほどのように人目につかない場所でひっそりと受付を設けて依頼を受けている。
ガッツたちに除霊を頼んだ者たちは、口を揃えてその依頼料の安さと、確実に除霊してくれるウデを讃えた。
しかし皆、彼らが普段どこにいるのかは誰も知らなかった。
身の丈2メートルを超える甲冑姿の大男、捻じれた杖を持った魔女装束の子供、誰しも一瞬目を奪われるような綺麗な白く長い髪をなびかせる少女。
こんなチンドン屋のように目立つ3人組の居場所を人々が知らないのには理由があった。この町に来てすぐに、自分たちの恰好が周囲から浮いていることは薄々理解していたため、シールケが対処を施したのである。
彼女は以前、住んでいた森を出て人々が暮らす街に出た際も、その服装のためにじろじろと見られるのを嫌い、そのたび相手の精神に魔法で働きかけ自身へ注意が向かないようにしたことがあった。しかし、流石にそれは非効率が過ぎたため次善の策を構じた。
通常は住居などへの侵入者を防ぐため、周囲の木々などに刻む人払いの結界の文様を適当に拾った木片に描き、3人それぞれが持つことで簡易的な結界としたのだ。3人揃っていないと効力をほとんど発揮しないという制約があったが、これでかなり精神衛生面が改善された。
全く気付かれなくなる訳ではないが、限りなく存在感が希薄になるため、自分たちの方から接触を図らない限りほとんどの人々が自分たちへ視線を向けることがなくなり、今泊っているこのホテルも、一番服装が怪しくないシロに受付をさせてからひっそりと入ってきたのであった。
なので、仕事を請け負う時はわざと結界を解いて適当に街中を歩き、自分たちがいるということを宣伝した。だが、どこかに依頼を受ける場所を平設すれば今よりももっと食い扶持を稼げるのではないかとシロが思うのはある意味当然であった
「私も少し考えていました。どうしてなのですか? ガッツさん」
ガッツにも何か考えがあってのことだろうと思い今日まで聞くことはなかったが
やはり気にはなっていたようで、シールケも尋ねる。
「面倒を避けるためだ。」
「面倒、でござるか?」
「この町ではバケモノ退治が旨い仕事なのはもう分かってるだろうが……旨い仕事には必ず元締めってヤツがいるもんだからさ」
その言葉に分かったような分かっていないような顔をしたのがシロ。
納得した顔をしたのがシールケだった。
どのような商売にも、1つの業者が相場よりもずっと安い値段で請負を始めてライバルに顧客を持っていかれるような事を避けるため、その業界を取り仕切る組合などが存在する。
互いに抜け駆けをしないように監視することで全体の利益を保とうとするわけだ。
だが当然、自分たちはそんなものに入るつもりはないし、入ろうにも身分証すら持っていない。そして、知らなかったのだから仕方ないともいえるが、この数日の間に自分たちが依頼人から受け取っていた金額が相場からすると、どうやら随分と安いということもなんとなくだが分かってきた。
ガッツたちが除霊の依頼を受ける際に、現金支払いのみという条件がある。これはあまりに高い報酬を要求して小切手などの為替で支払われると、この世界の金融機関の使い方などわからない為に換金が出来ずに困るという切実な事情から、相手がすぐに準備できそうな報酬を要求するためでもあった。
しかし、他のGSからしてみればこれはダンピングだ。
そのことに気づいた時には、もうそれなりに自分たちの噂は広がっており書籍屋の店頭の雑誌に、ガッツとシールケは読むことはできなかったが
「庶民の味方!? 神出鬼没の3人組GS現る!?」という見出し文句が踊っているとシロがどこか誇らしげに報告してきたことさえあった。
「ま、そんな訳だ。目を付けられて寝こみでも襲われたら面倒なのさ」
「拙者たち、悪いことをしてるわけではないでござる…」
「……」
少し不満そうな2人の少女の視線を向けられたガッツだったが、少しすると装備の点検を始めてしまったため、シロたちも仕方ないと彼が静かに投げナイフを研ぐ音を聞きながら眠りについた。
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翌日、3人は昨夜示されていた仕事先に立っていた。
依頼主に指示された場所に辿り着くことはできたが、到着した頃にはかなり日も傾き、空は茜色に染まっていた。
泊ったホテルからそれなりに離れた場所にあったため、今回初めてシロの手引きで電車を利用した。自信満々に誘導するシロに従って乗車したが、しばらくしてまったく逆方向に向かっていることが判明したため急いで乗り換えたりしていたら、約束の時間にかなり遅れてしまったのだ。
「幽界の精霊たちが騒がしく気(オド)の乱れにより準備に時間を要しました。遅れたことは謝罪します。しかし、万全を期すため故どうかご容赦を」
現場で不安そうに待っていた依頼人と合流すると、シールケは帽子を目深にかぶり、普段は出さないような低い声音でそうつぶやくと、僅かに憤りの気配を見せていた依頼主も、昨日会った時の杖に灯った光や茨の蛇などを使役していた姿を思い出し、このミステリアスな魔女の言う事なのだから「そういうものか」と納得したようであった。
GSは悪霊やモンスターを退治してくれる業者くらいには思われているが、「よく分からない連中」というのが一般認識なので、それっぽく見せるだけで大体の相手は納得してしまうのである。
まあ、そういうふうに演技しろとガッツに言われていたわけであるが。
「…淀んでいますね」
「確かに、なんか嫌な場所でござるなぁ」
持ち込まれた依頼は、取り壊しが決まった廃工場に大量の悪霊が住み着き、作業が出来なくなってしまったためそれを除霊して欲しいというものだった。この世ならざる者たちが力を増す夜にはただ立ち入るだけでも命の危険があったが、日も高いうちなら悪霊たちもなりを潜めているらしく、解体作業をしようとさえしなければ、一般の作業員が内部に立ち入るだけならば襲われることはなかったそうである。
「それでは、お願いいたします…」
ささくそと逃げるように帰って行った依頼人を見送り、工場内に入ってすぐにシールケとシロはこの場所の感想を口にした。
水場の位置や窓の配置、出入り口の方向などが「良くないモノ」を呼び込みやすい設計だったようで、一度除霊してもすぐに他の悪霊が入り込んでくる状態になっているのか、そこかしこの暗がりから邪悪な気配が漂っていた。
これ程規模が大きい仕事は初めてであった。悪霊を1体や2体切り倒して終わりというものでもなく、逃げられれば捜索するべき範囲が広いという面倒な仕事だ。世間で噂されるような、正義や慈悲の心で悪霊退治を(少なくともガッツは)している訳ではないため、普段なら断る類の依頼だった。
それでも引き受けたのには理由がある。
この仕事を完遂するだけで、贅沢を言わなければ都内に土地付きの小さな1戸建ての家が買える金額が提示されたのだ。もちろん現金払いで。
根無し草の生活には慣れているが、それでもあまりにこの街は自分たちの常識が通じない。元の世界に戻る糸口を掴むにも、シロの仇を探すにしても、情報を集めるにはまず腰を落ち着かせる拠点が必要だった。
今まで拠点を定めなかったのは、一か所に留まって近所の仕事敵に目を付けられないにするためだったが、今回の仕事が終わればちまちま仕事をせずとも生活できる資金が一挙に手に入る。
ガッツたちは、適当なホテルに長期滞在して拠点とし、目立たない服に着替えて大手を振って街に繰り出し、情報収集に専念する腹積もりであった。
それに、こういう時に最も頼りになる方法を、彼女……シールケが持っていたのだから。
「この建物ごと清めるのが一番効率的だと思います。四方の陣を敷きましょう」
シールケは鞄から4枚の札を取り出すとガッツとシロも手伝ってそれを東西南北それぞれの壁に貼り付けた。
「シールケ殿、これはどんな術なのでござるか?」
戻ってきたシロがこれからシールケが行う魔術に興味が隠し切れないとばかりにキラキラとした目で尋ねた。
「私の幽体を飛ばし、四方を守護する王たちにお願いして力を借してもらいます…簡単に言うと大きな結界を張るのです。」
「魔術を使ってる時シールケは無防備になる。敵が襲ってきたら俺が前衛で、お前がシールケを側で守る。いいな?」
「おお、任せて欲しいでござるよ!」
シロが誇らしげに胸を張ったのを見ると、シールケは少し微笑むと術に集中を始めた。
「おぉっ…」
ガッツが横を見ると、シロがシールケの頭上の虚空を見つめていた。彼には目にすることはできなかったが
シロにはシールケの体から抜け出た幽体がはっきりと見えているようであった。
「行ってらっしゃいでござる!」
ぶんぶんとしばらくシールケの魂に手を振っていたが、やがて視線を周囲に鋭く目を光らせて彼女の体を守ろうと身構えた。
いつ亡霊共が襲い掛かってきてもいいように姿勢は低く、息を浅くする。彼女もこれまで何度か受けた仕事でも悪霊を斬ったことはあったが、今回のような大掛かりな実戦の経験は少ない。
緊張からか、目はせわしなくあちこちの暗がりを睨みつけている。
その様子を見かねたのか、ガッツがシロの肩に手を置いた。
「肩の力を抜け。そうしゃちほこばってると普段できることも出来なくなっちまうぞ?」
「先生…はい!拙者、頑張るでござる!」
ガッツは元気のいい返事に破顔すると、顔を上げてガラスの割れた窓からまだ僅かに差し込む日の光を見た。
「へっ。ま、この様子じゃ亡霊共が出てくる夜になる前にシールケの術が完成して終いかもだがな。せいぜいケガしない程度気楽にやれ。いいな?」
「心得たでござる」
ガッツが自分に気を遣ってくれたのが嬉しいのか、シロがその白い尻尾を振りながら返事をした時であった。
「あっ!」
シロが、突如後ろ向きに倒れたシールケを受け止めることが出来たのは、彼女の人間離れした反射神経と、シールケの魂がその肉体に戻るのを一瞬、目に捉えたからであった。
「シールケ殿? 大丈夫で…」
「そんな!? こんな、こんな…あり得ない!!」
シールケが焦りを隠さぬ声をあげた。
「シールケ殿?」
彼女の様子は明らかに異常だった。表情には傍目にからも強い焦燥の色が浮かび、シロがかける言葉も聞こえていない様子で目はせわしなく揺れ、何事かを考えている。
シールケは幼いながらも、聡明で賢い子供だ。
1歩間違えれば皆命を落とすという時でも、危険を顧みず最善の判断を下し実行できる勇気も持っている。
こと魔法に関してはその知識は誰よりも深く、何度も絶体絶命の場面からガッツ達を救ってきた優秀な魔法使いだ。
その中でも、今行っていた四方の陣の魔術は、険しい旅の中で最も日常的に行使していたものだ。
四方を守護する王たちを言祝(ことほ)ぎ、その力を借りて邪悪なものを寄せ付けぬ強固な結界を敷くもので、発動までに時間を要する本格的な術の中では炎や風、水や土などその場にいる精霊たちに即興で力を借りる類の魔術よりもずっと難易度が低く、シールケに魔法を教授されていた女性が最初に修得した魔術でもあった。
いつもなら、既に四方の陣は発動し、この淀んだ建物は清浄な気で満たされているはずだ。しかしそうはなっていない。よほどの不測の事態があったのだろう。
ガッツが力を抜くよう意識しながら取り乱すシールケの肩を掴み目線を合わせる。
「落ち着け。今発動しなかったら死ぬってわけじゃねえんだ。まず、落ち着け。」
「どうしたのでござるかシールケ殿?」
2人に目を合わせ、少し落ち着きを取り戻した彼女は、自分が発する言葉が信じられぬとばかりに呟いた。
「四方の王が…見当たらないのです」
日が沈んでゆく。
中途半端なところで終わってしまいました。
次がいつになるか分かりませんが、こんなssをずっと応援してくださった方、本当にありがとうございます。
シールケの魔術は、ちょっと独自解釈いろいろ入っていくと思いますが、生暖かい目で見てもらえますと幸いです。