―――――6月10日(金) 5時限目―――――
6月。
IS学園の生徒たちにとって、その季節は中々身に堪えるものであった。
最新鋭設備の塊であるIS学園。当然の事、冷房等の空調関係も完備されてはいる。
ところが冷房をつけて良いのは外気温が30℃を超えた場合、しかも生徒が勝手気儘に操作できるものではないとの事。ざっくりとした理由を述べると、利便には費用と言うものが付きまとうからだ。
要するに25℃を超えて30℃を下回る日が多いこの季節は、彼女たちにとってとてつもなく暑いのだ。
彼女たちは少しばかり息を荒らげながら、素肌から排出した水分を純白のYシャツに染み込ませる。黒っぽく濡れ透けたYシャツは彼女たちの生肌に密着し、その奥で乳房を護っている下着が僅かに透けて見える。
そんな思春期真っ只中の男子が見たら大いに漲りそうな光景の中に、その巨漢は居た。
汗によるYシャツの透け具合は周囲の少女たちと一緒だが、内に搭載されている肉の量と生肌の質感は最早別の生物と揶揄されても不思議ではなかった。
そんなガチガチな肉体を普段通り張り詰めながらも、青年はまるで繊細な電子機器を取り扱う様な視線をある人物に向けている。この百花繚乱な空間でどの女子を見詰めているのかと、誰しもが思うのだろう。しかし筋肉青年『昭弘』の視線の先には、数少ない男子生徒の虚しげな背中があった。
時は6月7日の昼休みまで巻き戻る。
天上の大部分を多い尽くす積雲には、キレイな等間隔を維持しながら青空がその姿をちょこちょこと覗かせている。辺りを一望できるIS学園の屋上も、そんな青空からすれば平面にポツンと置かれたボタン程度にしか見えないのだろう。
屋上と言う名のボタンの上には、更に小さな点が此処彼処に散らばっていた。
その内、昭弘、箒、シャルルと言う名を冠した点は、一角に集まって何かを話し合っている。もっと正確に言えば話し合っているのは昭弘とシャルルで、箒は2人を見比べなから漫然と握り飯を口内に運んでいた。
「一夏の様子で他に気になっている事は、やっぱり織斑先生についての反応かな」
「と言うと?」
「大会中、僕が一夏に対して「流石はブリュンヒルデの弟だね」って言った事があるんだ。直後少しの間だけど、一夏は笑顔のまま硬直した。まるで彫刻の様な笑顔のままね。…凄く微細な事かもしれないけど」
昼食も放ったらかして、一夏の事で長々と喋る2人。どうにか絶え間ない会話の隙間を見つけた箒は、困惑を隠さず自身の疑問を割り込ませる。
「な、なぁ昭弘。これはデュノアも私たちに協力してくれる…と言う解釈で良いのか?何の説明も受けていないのだが…」
「ああそうだ、それより箒。幼少気の頃、一夏は織斑センセイについて何か話してたか?」
そうバッサリ答えると、昭弘は未だ状況を把握しきれていない箒に早速質問を投げ掛けてくる。
「昼休み、屋上で話がある。シャルルも一緒だ」としか言われていない箒。そもそもいつから昭弘とシャルルは仲良くなったのか、何故シャルルまで協力してくれるのか。そうやって1つの疑問が頭に浮かんでは、また新しい疑問に上書きされる。
何より、箒自身気分が悪い事に自分の事ながら漸く気付き始める。先程から齧っている握り飯も、中々喉の奥へと進んでくれない。
自分にとってのヒーローであり、初恋の相手でもある殿方。そんな幼馴染の「裏の顔」について、開幕からいきなりあれこれ分析されるのだ。箒からすれば、食事を放棄して耳を強く塞ぎたい所だろう。
しかし、箒はそれらの疑問や気鬱を一旦追い出しどうにか気持ちを切り替えようとする。いつまでも今までの一夏に囚われる訳には行くまい、と。肝心なのは今までの一夏ではなく今の一夏だ。
「……そう言えば、自分から千冬さんの話題を出す事は一度も無かったな」
当時は、箒もその事について特別思い入れ等無かったのだろう。今さっき昭弘から聞かれて、初めてその事に違和感を覚えたようであった。
「…高校生なら兎も角小学生くらいの子供なら、姉弟の事とか友達に喋るものなんじゃないかな?」
「ましてやその姉は天才ブリュンヒルデだ。子供なら自慢げに言い触らすもんだと思うが…」
そんな感想を漏らす2人に、箒は少しばかり不機嫌そうに口角を歪めながら言う。
「じゃあ何か?一夏は千冬さんに憧れている訳ではないと…そう言いたいのか?」
だがそれもそれで可笑しい。ならば何故、一夏は千冬の姿を模したレーゲンを見てあれ程までに激昂したのか。そもそも、何故千冬の剣術をしっかりと身に付けているのか。よもや無理矢理教えられた訳でもあるまいに。
憧れではないと言うのなら目標かそれとも…。考えた所で答えなど見つからないと悟ったのか、昭弘は千冬に関する一夏の台詞を頭の中で何度も反復する。
―――千冬姉は頼りたくない
昭弘の言葉に対し、さらりと一夏が零した言葉だ。真耶の事なら頼るとも言っていたので、教員ではなく意識的に千冬を避けたのは明らかだ。
―――それは千冬姉を…
昭弘の「何故ボーデヴィッヒを敵視する」と言う問い掛けに対する、一夏の途中で終わった返答だ。その後「これ以上は言いたくない」とも。
つまり皆に知られたくない感情なのだろうか。だとしたら少なくとも憧れではない。それとも、一夏自身も千冬に対する感情が良く解っていないのか。
思考の渦に嵌る昭弘を尻目に、シャルルはハッとしたように瞼を大きく開ける。
「焦りだ」
そんな一言をボソリと呟いた後、シャルルは普段の口調に戻って続ける。
「織斑先生に擬態したレーゲンを見た時の一夏。アレはボーデヴィッヒさんへの嫉妬心以上に…何処か焦っている様にも見えた。大会予選にしたってそうだ。どれだけ勝っても、もっと強くもっと強くって……ッ!」
言い終わった時の反応からして、どうやらシャルルは気付いた様であった。
そして、シャルルは次の言葉を繰り出すべきか大いに悩み始める。それは質問が纏まっていないと言うよりも、訊いてはいけない事なのだと昭弘や箒を気遣っているように見える。
それでも、前に進むにはやはり訊くしかなかった。
「……2人共怒らずに聞いて欲しい。一夏は今後一生、IS乗りとして織斑先生を超えられると思う?」
「―――」
「―――」
全く同じ沈黙。唐突な質問に対する、言わば呆気である。
しかし2人の沈黙は、直ぐ様別方向に分断される。箒の言葉によって。
「い、一夏を侮辱しているのか!?そりゃあ当然……」
それ以上、箒は声に出せなかった。
幼少期から千冬の剣術一夏の剣術を見比べており、剣の道にも精通している箒。一夏の今後における伸びしろを加味しても、2人の実力差がどれ程離れているのか彼女が誰よりも良く知っていた。
だからこそそこから先を言わなかった、言えなかった。
昭弘に至っては未だに沈黙を継続したままだ。
だが呆気に取られた沈黙から、黙秘の様な沈黙へと変わっていた。昭弘も又、千冬の試合を映像資料室で観た事があるのだ。だから昭弘も言わない、言えない。
心の奥底にずっと隠していたその残酷な答えを、昭弘は頭に浮かべるだけで声には出さなかった。代わりに一夏が千冬に対して抱いているであろう感情を、力無き声で示す。
「……劣等感か」
今までの千冬に対する一夏の反応が、もしその類の感情から来るものならば憧れよりよっぽど納得が行ってしまう。
そして悲しい事に、昭弘も箒もそれ以外の答えを見つけ出す事が出来なかった。
そんな事を思い出しながらも、昭弘の虚し気な瞳は一夏を捉えたままだ。
心なしか普段の一夏の背中よりも酷く小さく見えるその背中を目に焼き付けながら、昭弘は自分の行いを振り返り始める。
(結局オレは、ずっと目を逸らしていたって訳か)
昭弘や周囲の助力もあって、日々着実に成長していく一夏。
しかし、人間の成長には必ず終わりが来るものだ。そしてその成長が終わった時一夏の実力がどれ程のものになっているのか、昭弘も箒もある程度予測していた。一夏が頑なに固執する、一刀による至近距離での攻防。それでは千冬は疎か、ラウラすら超える事は出来ない。
それでも昭弘と箒は一夏を想い過ぎたが故、その未来を必死に否定し奇麗事で覆い隠した。きっと強くなる、だから一夏の好きなようにやらせよう、と。結果、ラウラの存在も相まって一夏の中にある劣等感はどんどん一夏の心を侵食して行った。
一夏はその劣等感を無意識に隠し続けた。千冬に憧れていると、千冬のようになりたいと、自分自身をも欺いて。
それは恐らく、此処IS学園に来てからではない。もっとずっと昔から。
5時限目も終わり、唸り声と共に身体の至る所を伸ばしながら疲労を表現する1組の生徒一同。
そんな中、一夏は疲労感を表に出す事もなく教本を勢い良くバタンと閉じる。そして教壇から今正に降りようとしていた自身の姉に、比較的落ち着いた調子で声を掛ける。
「織斑先生、少しお話が」
しかし授業はあと2時間は控えている。次の授業までそれ程間もない状況もあってか、千冬にはかなり急いでいる様子がありありと見て取れた。
「何だ織斑?今ここで話すと言う事は手短に済む話なんだろうな?」
千冬の問いに対し、一夏はコクンと一回だけ頷くと直ちに用件を述べる。
「オレと模擬戦をしてくれませんか?…出来れば今日中に」
教え子からの唐突な挑戦に、千冬は2、3秒身体の動きを止める。
周囲の生徒たちも、クラス代表からの突然の申し出に一人一人異なる疑問を口にする。やがてそれは小さなざわつきを引き起こす。そのざわめきで我に返ったのか、千冬は後頭部を軽く掻きながら理由を訊ねる。
「…どうしたんだ?急に。自分の実力を確認したいのなら、他に適任などいくらでも居るだろう?」
しかしそんな疑問をぶつけてくる千冬に対し、一夏は安い挑発を吹っ掛ける。
「オレに負けるのが怖いんですか?」
「……本当にどうしたんだ?一夏」
増々首を傾げる千冬。
そんな中、一夏の後方から巨大な影が近づいて来る。その影はゴツゴツとした右手で一夏の右肩を掴むと、一夏を制止しようとする。
「…もういい一夏、止せ」
そう言う昭弘の目には、一夏への哀れみが籠っていた。
そんな大男に掴まれていた一夏は、誰よりも早く昭弘の哀れみに気付くとボソボソ反抗の意思を示す。
「…何がもういいんだよ?」
「それは……」
それ以上昭弘は口を開けなかった。
昭弘と一夏を見て、収拾をつけるのに時間が掛かりそうだと判断したのか、千冬は理由を聞き出す事無く一夏に返答する。
「分かった。今日の放課後、お前と模擬戦をしてやろう。大会後で練習に使っている生徒も少ないし、3年生も先日の大会でかなりの人数がスカウトされたしな」
それに折角の生徒からの挑戦である。多忙とは言え、教師として無下に断る訳にもいくまい。
承諾してくれた千冬に対し、一夏は深く一礼すると淡々とした足取りで席へと戻って行く。
そんな一夏を遠い目で見送った昭弘は、焦りながら再び千冬に振り返る。
「織斑先生、しかし…」
「さっきから何だと言うんだアルトランド、お前らしくもない」
よもや、今この場で「一夏は千冬に劣等感を抱いている」と言える筈もない。一夏を制止した理由も「更に状況が悪くなる気がする」と言う、非常に曖昧で根拠に欠けるものだ。
「…もう行くぞ?急いでいるんだ」
その言葉を最後に、千冬は未だにざわめきの途切れない教室を後にする。
昭弘は普段と何ら変わらない千冬の後姿を、呆然と立ち尽くしながら見る事しか出来なかった。
そして、心の中で何度も言葉を繰り返す。無理やりにでも止めるべきだったのか、それとも止めるべきではなかったのかと。誰に問い掛けているでもないそれは、昭弘の中でただ虚しく回転していた。ダムに塞き止められた水が、行き場をなくしたように。
席に戻ろうとする昭弘の視界に、また一夏が映り込む。さっきと何も変わらない生気の薄い瞳で教材を読み耽る一夏が、そこに居た。
―――この日の為にそうまで勉強をしていたのか。あんなにもアリーナに行き通っていたのか
昭弘がそう考えたのは、あくまでごく一瞬だった。そう、そんな筈はないのだ。
たかが数日間、少しばかり練習量や勉強量を増やした程度で劇的に強くなれるなら訳ない。精々、しないよりはマシと言う程度にしかならない。かと言って、今の一夏に勝機がある様にも見えなかった。
よってか、一夏が勉強するその姿はいつも以上に昭弘の不安を煽った。
まるで意味の無い事を、無心に繰り返している様で。