昭弘はベンチに腰掛けていた。両膝の上にそのまま折り曲げた両肘を預け、頭も同じ風に項垂れていた。
そんな様子の元団員の隣に腕を組みながら座るオルガは、同情の込もった声を掛ける。
「やっぱ、ショックはデカいか?」
「…そりゃあな」
―――26日 正午過ぎ
束の企てが判っても、これ以上昭弘に出来る事等たかが知れている。
ISを使った中央アフリカへの強行偵察、亡国機業の完全殲滅、T.P.F.B.の強制解体。いずれも証拠となるものが無い以上、軍を動かすには至らないだろう。
第一、モノクローム・アバターによるSHLA討伐を果たした亡国機業の行いは、今回に限り世間的に見て悪行とは言い難い。
今やれる事と言えば、今まで通り証拠を掴む為の諜報活動。先程千冬が言った地道な調査。
そしてMPSの生産工場を見つけ出し、破壊する事だ。そうなれば、新型MPSの供給を断つ事も出来よう。
即ち現状役に立つのは、楯無が個人的に動かしている諜報員のみと言う事だ。それも既に述べた通り、中央アフリカでの活躍は期待出来そうにない。
その事実は、千冬も昭弘も理解していた。
その上で昭弘は敢えて楯無に訊いた。ドスの効いた低い声に、縋る様な調子を混ぜながら。
《生徒会長。何かオレに出来る事は…》
対し、楯無は無慈悲な鉄槌を下す様に言い放つ。
「…今迄通り、無人ISから情報を引き出して」
だが良く考えてみれば、束が捨て駒であるタロたち5人に企ての詳細を教える筈が無い。何か引き出せたとしても、雀の涙程度の情報だろう。
それでも楯無はそれしか言えなかった。「出来る事は何も無い。元凶であるお前はただ普段通り授業を受けて待っていろ」等と、言える筈も無い。
証拠が無いとはこう言う事なのだ。実体がまるで見えて来ない。
実体が見えないのなら僅かな情報を頼りに推測し、自分で“形”を作って行くしかない。だがそれは“絶対”が無い以上、輪郭のぼやけた不安となって自身に襲い掛かる。
此処に居る3人も、その点だけは世界の無関心共と同じだった。この目で見てない以上、確信も実感も持てない。
心に残るのは、直接的な手段に出れない事への焦燥。そして“虚ろ”への恐怖にも似た歯痒さ。
―――
何をしようと避けられない事が解った。その事実は昭弘を水底へと追いやり、そのまま圧し潰さんと牙を剥く。
こんな事なら、先週みたくずっと情報収集に勤しんでいる方がマシだった。
それでもオルガは、あくまで慰めの言葉を贈らない。昭弘にそれが何の意味も成さない事は、団長であるオルガだからこそ良く知っている。
今の昭弘に唯一効果的なモノは、現状を冷徹に突き付ける事だけだ。
「…だがどうする?「お前とグシオンの事」も含めて、そろそろ今後の行動指針を―――」
オルガが言い終わるよりも早く、昭弘は勢い良く立ち上がった。オルガを見下ろすその目は、酷い驚愕の色を帯びていた。
何の話だ。いや違う、何故「その事」を。
昭弘は、自分でも知ってる様な知っていない様な冷たい鬼胎に襲われた。
対するオルガは、動じずに昭弘を真っ直ぐ睨み返す。
今の彼はオルガ・イツカであり、昭弘の夢が作り出した言わば昭弘の一部でもある。昭弘の秘密は、他ならぬ昭弘と同じ位網羅している。
一々そんな事を説明するのも手間なのか、オルガは構わず話し続ける。
「単一仕様能力。お前の感覚では、あと何回やれそうだ?」
オルガの言う単一仕様能力は、恐らくグシオン全てのリミッターを完全開放した状態を指している。
昭弘にはそれが解っていた。
「……あと1回…辛うじて2回って所だ」
その後少しだけ間隔を置く昭弘。
能力を使う度、混ざり合う意識、曖昧になる肉体と機体との境界線。そして、それにより得られる他を寄せ付けない別次元的強さ。
それらの体感を重ねる毎に、昭弘は本能的に理解していった。いつか必ず、大きな代償を支払う事になるだろうと。
当然、肉体にも精神にも何ら異常は見つかっていない。だが次発動しても大丈夫なのかと訊かれると、とても「はい」とは言えない。そう昭弘は感じていた。
それ程、昭弘はグシオンのISコアと「混ざり」を重ね過ぎた。
最近良く見るこの夢は、その影響だとでも言うのだろうか。或いは己の心が無意識の内に叫ぶ、警鐘の様なものなのか。
それとも背中の阿頼耶識に残留した、グシオンの意識の欠片が見せているのか。
それら全てをもう一度頭で整理し、昭弘は調子を変えずに再び答える。
今まで朧気だった不吉を、明確なものにする為。
「あと2回発動すれば、オレは恐らく『昭弘・アルトランド』じゃなくなるだろう。一体化するってのは、詰まる所そう言う事だ」
そうなる事で一番恐ろしいのは、何が起こるか昭弘自身まるで予測出来ない点だ。
記憶はどうなるのか、力の制御は可能なのか、意識は残っているのか。
そして“人間”で居られるのか。
だが逆に、発動させなければ何も起こらないとも言える。
そう単純に考えればそこまで深刻とも思えないが、昭弘を見るオルガの目にはそんな気楽さは微塵も残っていない。
「その2回分、何時使うかちゃんと考えておけよ?後になって悔やまねぇようにな…」
―――――6月27日(月) 早朝 130号室―――――
目が覚めた昭弘の頭には、夢の中でオルガが最後に言い渡した言葉が蠢いていた。鼓舞する様に、押さえつける様に、そして正す様に。
―――何時使うか
その言葉を、昭弘は振り払いたかった。
使う時など、殺し合いの場以外有り得ないからだ。そんな場所にIS学園の学友たちが居合わせている事なんて、あってはならないからだ。
しかし今の世界は酷く不安定だ。そんな状況、絶対に無いとも言い切れない。
もう二度と使いたくはない。
だがもし、使わざるを得ない強大な敵が現れたのなら…。
いつもと同じだ。
教員の言葉一つ一つを注意深く聞き、内容を理解すべくあらゆる手段を取る。
近未来的な形状の机に埋め込まれている端末への入力、或いは古風だがノートへの書き殴り、教材の読み返し。それら聴覚情報と視覚情報を照らし合わせ、新たな知識として頭に蓄積させる。
そんな生徒に対し、教師は自身の話が正しく頭に入ってるか確認する為、時折抜き打ちで問題を与える。
それこそが学び舎と言う空間で行われる授業だ。
毎日の様に行われる学びと教え。今更何ら動揺する事もあるまい行為。
だが昭弘の心は酷く乱れていた。教師の言葉は途切れ途切れでしか頭に入らず、ノートへの記入も「抜け」がそこかしこに見られる。
あからさまに集中出来ていない自身を叱責する様に、昭弘は嫌な脂汗と小さな溜め息をチリチリと小出しした。
そんな様子の青年に、黒髪一結びの少女は心配の眼差しを送る。
そんな様子の青年と、青年に何度も視線を送る挙動不審な少女を、眼鏡の少年は見比べる様に傍から見ていた。
―――昼休み 屋上
チキンバーガーとチーズバーガー総数5個が入ったビニール袋を右手に携えながら、本来なら直ぐ様袋に突っ込む筈の左手で柵を握り締める昭弘。
彼は今、兎に角一人で外に居たかった。館内に居ると妙に息が詰まる。
原因は解っている。昨日の一件とオルガの夢だ。
曇り空を見ながら、昭弘は思った。
此処で呑気に授業を受けている場合なのか。やはり自分も、そろそろ大きく動く時ではないのか。
分かっている。それらは全て自身の稚拙な我儘に過ぎない。
自分一人がそんな行動に出ようと、何も変わらない。昭弘には諜報に関するスキルは無いし、コネも無い。
つまりは単なる罪滅しにも等しい感情なのだ。
余計な手を繰り出して状況を悪化させたくなければ、学園の生徒を巻き込みたくなければ、ただいつも通りに過ごすしかない。
「早く食べたらどうだ?時間は有限だ」
まるで普段の調子を懸命に維持している様な声を掛けてきたのは、箒であった。
彼女はそのまま近くのベンチに座ると、自作の弁当を広げる。
「……そうだな」
本当は「食う気分じゃない」と答えたかった昭弘。だが、「ならば何時食うのか」と言う程度の冷静な思考は生きていた。
故に箒の隣にどしりと座り、バーガーの1つを手に取り紙包みを剥がし大きな口で齧り始めた。
が、咀嚼の為に口を開けても中々に話を切り出せない昭弘。歯も舌も唇も、ただ己の作業に没頭しているだけだった。
それで漸く、箒とこうして話すのが少し久しい事に気付いた。
「ラウラから聞いたぞ?ここ最近、随分とゴーレムにご執心だったそうだな?」
普段なら皆と昼食を摂っていただろうに。久しぶりで尚且つ様子のおかしい自分に、話し掛け辛いだろうに。
それでも態々自身の下に来てくれた事に嬉しさを感じる昭弘だが、今は申し訳無さと気恥ずかしさの方が大きくなってしまっていた。
「まぁな。…随分と心配掛けちまったみたいだな」
「…別に心配していた訳ではない。今だって、単に屋上で食べたい気分だったに過ぎん」
本当に箒は嘘が下手だ。今にも雨が降りそうな曇り空の下、態々屋上に出よう者などそうは居ない。
自身が気負わぬ様気を遣っているのか、単に強がっているだけなのか。
そんな事を考える昭弘だが箒の和風な弁当袋が再度視界に入ると、思考を切り替える。もう1つの黒い弁当箱が、袋の口から角を覗かせていたのだ。
「…一夏の分か?」
「えっ?あっ…ああ!そんなところだ。だがアイツ、自分の分を作ってきていてな。前日に連絡を入れておかなかった私のミスだ」
これも嘘だ。本当は昭弘の為に作って来た。
だが、只でさえ勘づきやすい昭弘。馬鹿正直にそう伝えれば、昭弘への気持ちがばれてしまうのではないかと尻込みしているのだ。
更には、もう十分な量の昼食を昭弘は既に持ち合わせている。箒の弁当が出る幕ではない。
だがこれでも、先日鈴音から言われた通り箒なりに一歩踏み出したつもりだった。
相変わらず意気地の無い女だと箒が思っていると、昭弘が未だ手付かずの弁当を手に持って答えた。
「なら勿体無いし2人で食おう。お互い育ち盛りだ。間に合うだろう」
「あっ!だ、だが…」
当然、箒は赤面する。好きな人の為に作った弁当を、当の本人と2人で食べる。奥手な箒からすればとんだ羞恥プレイだ。
そして、昭弘はこんな時でも容赦しない。
「食い切れないならオレが全部食うぞ」
「いや…そうではなくてだな」
「じゃあ何だ?言いたい事があるならはっきり言え」
そう言われてしまえば、黙々と箸を進めるしかない箒であった。
先のやり取りのお陰で、いつもの2人に戻りつつある昭弘と箒。昼食も大部片付いてきた。
だからか、昭弘は唐突に「ある事」を訊ねてきた。
そして、何か特別な事を訊かれるのではと、屋上に出る前から身構えていた箒は既に心の準備が出来ていた。
「なぁ箒よ。もしもだ。もし“絶対的な力”を手にしたら、お前どうする?どんな事でも成せる力だ」
それでも、この質問は意識の遥か外だった。
箒は困惑の言葉を喉奥へと押込みながら、されどそこまで悩まずに答え始める。
「…私はただ“強さ”が欲しい。…それだけだ」
正にそれは今の箒にとって悲願だった。自分がまだまだ弱者である事を、箒自身誰より深く自覚している。
剣にしてもISにしても、そして恋愛に関しても、彼女はブレない芯の様なものが持てないでいた。
「…そうか」
箒ならきっと力に頼らずとも必ず強くなれるだろうといった思いを、昭弘はその一言に込めていた。
自分のとは違う、十分に実現可能な願いだと。
そしてそのまま、昭弘は自身の願いを生気の薄い声で話した。
「オレは争いも飢えも存在しない、誰しもが平等になれる世界が欲しい」
昭弘がどれ程本気で、去れどどれ程実現不可能だと悲観しているのか、その震える声と何処か遠くを見詰める眼差しが雄弁に物語っていた。
箒はそんな昭弘の目が嫌だった。その何もかもを諦めている様な目が。見ているだけで、胸が酷く苦しくなる。
「…不思議なもんだな、言葉ってのは。口にするかしないかで、こうも気持ちが変化するとはな」
何と途方な願いなのだろう。
願いとは、箒の様に“自分の力”で叶えられる物でなければならないのだ。叶えられない願いは、最早「神頼み」でしかない。
だが無理な願いを声に出した昭弘の表情は、ついさっきとは違いまるで顔を洗ったみたいにさっぱりとしたものだった。
そう、昭弘は無力なのだ。秀でているのは戦闘技術だけで、殺し合いを止める事も出来なければ、それで苦しむ者を救う事も出来はしない。
「もしも」なんて何処にも無く、“絶対的な力”は誰であれ届かないのだ。
解っていた、始めから。だがどうしても受け入れられなかった。
それを漸く受け入れたこの瞬間、昭弘の心は普段の落ち着きを取り戻していた。
何時起こるかも判らないのならば、もう止めようがないのならば、己は来たるその時に“備える”だけだ。
何故打鉄弐式相手にバウンドビーストを発動させたのかなんて、今になって解ったからどうだと言うのだろう。
箒のお陰で、昭弘の腹はもう決まった。
備えを、その時が来るまでずっと継続する。それだけだ。
「…昭弘」
そう遠くない未来。
「…何も話してはくれないのか?」
夢の中でオルガに話した、2回目の発動。
「偶には私たちを頼ってくれ…」
“その時”こそ―――
ガシッ
「何処にも…行かないでくれ…」
この学園と永遠の別れをするのだろう。
昼飯を片付け、去ろうとする昭弘の手首を掴む箒の掌は、北風を地肌に受けた様に震えていた。
箒も一夏も、時たま昭弘にそんな事を言う。昭弘が言葉に出した訳でもないのにだ。
昭弘が時折見せる「何処か遠くを見詰める瞳」は、どうしようもなく彼等の心を不安定なものにする。
それは理由の無い、原始的な感情なのだろうか。
「何を言っとるんだお前は。オレはいつも頼りにしている」
箒の目を見て、そんな本心をさらりと述べた後
「前も言ったろう。何処にも行かん。オレの居場所は此処だけだ」
そんな嘘を、顔を背けながら優しく緩やかに言い放った。
屋上へと続く兼用附室の中で、一夏はずっと昭弘と箒を覗き見ていた。
途中で食堂から抜け出してまで、昭弘の為だけに此処へと赴いた箒。
昭弘を見る目、顔の火照り、声の出し方から仕草まで、全てが一夏の知らない箒だった。極めつけは、一夏ですら聞いた事のない箒の願いだ。
彼女はそれを、他でもない昭弘と共有したのだ。
違うのは昭弘もだった。あんなにも弱々しい姿、そして虚ろな瞳、自分には決して見せた事が無い。
まるで箒にだけは全てを曝け出している様な預けている様な、そんな一面が垣間見えた気がした。
一夏はそこまで分かっているのに、そこから先がどうしても解らなかった。一体、今自分が何を感じているのか。
これは果たして“嫉妬”と言う感情なのだろうか。だとしたら、その矛先は誰に向いているのだろうか。昭弘かそれとも箒か。
将又、3人で居られなくなる事への恐怖にただただ震えているだけなのか。だとしたらそれは、嫉妬と言う歪んだ愛情が介在していない証拠なのだろうか。
あの日、自分は束と約束した筈だ。箒と結婚すると。
しかしその箒の愛している相手が、もし昭弘だったとしたら。箒を愛しているとも、昭弘を愛しているとも解らない自分はどうすれば良いのか。
約束通り、強引にでも婚姻を迫るのか。
それだと自身の気持ちは、箒の気持ちはどうなる。
何より昭弘はどうなる。
(…そろそろ行かないと。2人に気付かれちゃう)
昭弘が去ろうとし、箒が彼の手首を掴むと、一夏も又忍び足で階段を下りて行く。
結局、何が正しいのかも自身の気持ちすらも分からないままだった一夏。
だがやはり約束は約束だ、守らねばなるまい。
ならばせめて箒を愛せる様、箒から愛される様努力するしかない。
元より結婚なんてそんなものだろう。
愛してるかどうかも解らない男女が、子孫を残し財を増やし、程々に楽しく過ごして老いて死んで行く。それこそが人間の本来歩むべき道だ。
互いを良く知る親しい男女がその道を辿る事に、一体どんな間違いがあると言うのか。
そこに自分の気持ちが介在する余地等、ありはしないのだ。
―――放課後
小道の両脇に広がる芝生、複数のコロニーを形成しているアジサイの群れ。
それは例え空が灰色でも、美しさを損なう事は無い。どころか、枯れたり物理的に破壊されたりしない限り、その美しさは変わる事など無いのだろう。
その小道を踏み締める箒は、人間は要因によって幾らでも変異してしまうのだと自らで証明するかの様に、晴れない表情で剣道場へと向かう。
空はとにかく薄暗く、今にも雨が降り出しそうな程分厚い雨雲で覆われていた。それ故か、湿気も最早息苦しさを感じる程だった。
だがそれらは、箒の顔色とは全く以て無関係なものだった。
彼女は改めて思い知らされた。自分と昭弘、どれだけ見えているものに隔たりがあるのかを。
同じ時間を同じ空間で生きているのに、知っている事はまるで違っていた。
箒は何も知らず、そして弱い。だから昭弘だって何も話さないのだ。話せば最終的に箒が傷付いてしまうと、そう考えているから。
昭弘が箒を巻き込まない様にしている事なんて、箒自身何となく解っている。
それは言い方を悪くすれば、箒が弱い存在である事を昭弘自身認めているに他ならない。
全ては自分が弱いせいだ。自分が弱いから昭弘は何も打ち明けられないし、それで却って傷付いてしまう。
ブブブブブブブブ…ブブブブブブブブ…
どんどん負の方面に思考が傾いていく箒だったが、突然自身の真っ赤なiPhoneがサイドポケットにて痙攣を訴えた事で我に返る。
元々、通話する仲の旧友なんて殆ど居ない箒。
一体誰からの電話かと、iPhone並に右手を震わせながらその紅い長方形の物体をゆっくりと手に取る。
曇り空を鏡の様に映す液晶画面には、「篠ノ之束」と表示されていた。
またも出ました天災です。前も似たようなシチュエーションがあった様な。
原作では箒から束に連絡していた…筈。