驚愕故、思考も右手の震えすらもピタリと止まった箒。無理もない。実姉と会話をするなんて、もう何年ぶりになるか。
だが、時は思考の停止に従ってなどくれない。バイブ音が4コール目に差し掛かった時、その圧倒的現実にどうにか気付いた箒は、冷や汗をだらりと流しつつ今自分が何をすべきか考える。
先ず移動だ。実姉とは言え、此処IS学園が安全とは言え、世界一の御尋ね者からの電話だ。なるべく人目に付かない空間での通話が望ましい。
最大の難関はここからだ。
急いで近くの校舎裏へと隠れる様に立ち入った箒。バイブ音は、もう8コール目を過ぎた。そろそろ切られてもおかしくない。
焦る箒、悩む箒。コールの前では、それすら一瞬だ。実姉が嫌いだとか何を話せばとか、逡巡している時間は無い。
どうする箒。思考は意味を成さない。出るか出ないか、その親指を液晶に当てるだけで決まる。
結果は、箒の方が一足早かった。
「…はい、篠ノ之箒です」
出てしまった。心の準備すら途中も途中と言うのに。
《もすもすひねもす~?世界が注目するスーパーアイドル、篠ノ之束さんどぅえーす☆んー久しぶりだねぇ箒ちゃん!》
数年ぶりに聞く、実姉の声。意味不明でハイテンションな口調は、まるであの頃と変わっていない。
顔は当然にして見えていない。だが、箒はその声を聞いただけで怒鳴り散らしたくなってしまった。お前のせいで、自分と家族が一体どれ程辛い目に会って来たか、と。
割れんばかりに歯を食い縛り、遣り場の無い眼力を飛ばし、液晶携帯を砕かん程に握り締める右手には血管が浮き出ていた。
だが…
―――妹の事を大切に思わない姉なんて、この世に存在しない
昭弘が零したその言葉だけが、箒の激情をどうにか抑えていた。
「…お久しぶりです、姉さん」
箒の返事を皮切りに、テンションがもう一段回上がった束は頭に浮かんだ事を纏めもせず声に出す。
《ねぇねぇ!友達は出来た?勉強は順調?いっくんとは
一度に複数の質問を繰り出すのは止めて欲しい。どの道答える義理も無ければ、指名手配犯と長時間通話する気も無い。
そう考えている箒は、あくまで事務的に話を進める。それは、自身の怒りを静める最善の手段でもあった。
「それより、どう言ったご用件ですか?手短にお願いします」
《えぇー?折角なんだしもっと話そうよー。あと敬語も止めてー》
「…切りますよ?」
箒の無慈悲な一言に、束は「ブー」と唇を振動させると、渋々話を進める。
《実はねー?箒ちゃんにプレゼントがありまーす☆》
プレゼントと聞けば、本来ならワクワクするものである。
だがそれも、この天災科学者が口にすれば嫌な予感しかしない。箒もその病に侵された一人だ。
《それは何とぉーー?「専用機」にございまぁーす☆勿論束さんが直々に作った奴ね☆》
「………え?」
一瞬、揺らいでしまった箒。いや事実、今も激しく揺らいでいる。
あの天災自らが作り上げた、しかも一点特注の専用機。その性能は如何程なのか、当然箒には計り知れない。
もしそれが本当に自分の物になるのだとしたら、これ程嬉しい話は無いだろう。あの、箒も良く知る代表候補生たちと、同等の力が手に入るのだ。
そうなれば、鍔迫り合いで甲龍に負ける事もなくなるかもしれない。
いやそれ以前に、何故唐突にプレゼントなのか。しかもIS等と。
確かに箒は来月が誕生月ではあるが、それでも憶測を絶やす訳には行かない。今迄何の音沙汰も無かったのに何故、と。
《ISの名前は『紅椿』。詳細はお・た・の・し・み♪って事で!臨海学校のタイミングで渡しに行くからね~☆誕プレって奴だよ!》
返事もせず、数秒の間にそんな事を長々と考える箒に対し、勝手に了承したと見なした束は話を進める。
そんな束を制したかった箒は、ぐちゃぐちゃとした頭の中を強引に正したつもりになると、臆病を押し退ける様に答えた。
「…お断りします」
《…うん?》
自分の聞き間違いか、とでも言いたげな戸惑いの声が返ってきたが、箒は尚も続けた。
「貴女の力なんて要らない。そんな物で得た強さなんて、偽りの強さでしかない」
箒が欲しているものは、姉の庇護なんかではない。強さと何の関係もないそれは寧ろ、箒の心を更に弱くしてしまうだろう。
《…んーちょっと箒ちゃんが何言ってるのか解んないや。兎に角もう殆ど完成してるら受け取ってー☆この子、箒ちゃんに凄く似合うと思うの!絶対箒ちゃんも気に入るからさ!》
反抗期の子供をあしらう様に、束はまるで箒の言葉に耳を傾けようとしない。
何でも成せる力を持ち、切磋琢磨を知らない彼女には、妹の言っている事が1ミリたりとも理解出来なかった。
束のそんな態度が電話越しでも伝わった箒は、油を注がれた様にますます燃え盛る。
「私は自分の力で強くなると言ってるんです!貴女の力なんて必要無い!」
《………は?》
必要無い。
その言葉だけが、束の脳内を埋め尽くした。黒ずんだ蟻が巣穴から一斉に飛び出したが如く、内側から瞬く間に。
どんな時も今この瞬間も、世界中の人間から必要とされている存在、篠ノ之束。
それが当たり前となっている彼女にとって、よりにもよって最愛の妹が放った「その言葉」は、精神に甚大な傷を負うには十分過ぎた。
乱れた思考に代わり、感情が際限無く膨張する。それは瞬く間に束の脆弱な心を内側から破り、外部へと放出される。
《箒ちゃん……私の事……必要無い……って》
箒にはまるで聞き覚えの無い、実姉のか細く震えた声だった。
箒にとって余りに予想外なそれは、天下の大天災とは思えない、置いてかれた子供の様な声。まるで別人だが、去れど紛れもない姉の声だ。
その事実が、箒の中に昔からあった感情を少しずつ目覚めさせていく。
そんな自身の心に大人しく従うしかない箒は、必死に弁明しようとする。
「ま、待て姉さん!私はそんなつもりで言ったんじゃ…」
《箒ちゃん喜ぶと思って……一生懸命作ったのに……》
だが、もう遅い様だ。心に受けた衝撃を脳が吸収しきれなかった為か、束の耳は最早正常に機能していなかった。
今の彼女は、ただ感情を言葉に変換して吐き出す事しか出来ない。
《箒ちゃん…素直で良い子だったのに…変わったね。まぁ元を辿れば私のせいだけどさ…》
不味い、非常に不味い流れだ。だが口下手な箒には、天災の…姉の機嫌を戻せる様な気の利いた言葉なんて浮かばない。
「姉さん聞いてくれ!!私は自分の力で―――」
《あーそっかー箒ちゃん私の事嫌いなんだぁ私一人のせいで人生滅茶苦茶いっくんとも離れ離れになっちゃったもんねー私と電話越しで話す事すら汚らわしいからさっきみたいな事言ったんだもんね!?》
「待て違う!!私は姉さんの事が―――」
プーーーッ プーーーッ プーーーッ …
箒の言葉は、誰に届く事無く肌寒い校舎裏をトボトボと漂うだけだった。
「…やってしまった。余計な一言だったな…」
眉を八の字に曲げ、項垂れながら溜め息を吐く箒。
だが致し方ない。数年ぶりの会話だ。流れた時と昭弘たちとの出会いは、良くも悪くも箒を変えてしまった。
突然の電話で心の準備が出来ていない事も考慮すれば、どの道会話のどこかで綻びは生じただろう。
(後で、駄目元で掛け直してみるか。どうせこちらからは繋がらないのだろうがな…)
存外に引き摺る箒。噴火直前の剣幕は、一体何処へ沈んでしまったのだろうか。
だがそれは、何よりも明確な証明となってしまった。やはり箒は、決して束を心底から嫌っている訳ではないのだ。それどころか―――
(姉さんの事が…どうだと言うのだ、私は…)
仮に途中で切断されなかったとして、そこから先の言葉を口に出せたのかは箒自身怪しかった。
指名手配犯だとか束のせいで辛い思いをしただとか、そんなものは体の良い言い訳だ。
本当は大切な家族だと思っているのに、傷付けるつもりもなかったのに、過去の出来事に囚われて素直になれない。
「…私は何故いつもこうなのだ。…教えてくれ昭弘」
口に出そうと、この場に昭弘は居ない。またしても、言葉は無駄に無意味に漂うだけだった。
―――――某所 某ラボ―――――
自室とも研究室とも分からない、整理整頓が行き届いているとは言い難い空間。
ソファの上で体育座りのままウワンウワンと泣き崩れる20もとうに過ぎた大人を、クロエは瞼を閉じながらも身体全体で見詰めていた。
《クロエ様、ココハ自分ガ―――》
「引っ込んでいて下さい。事態が悪化しかねません」
乙女の事は乙女に任せろとクロエが制し、ジュロは巨体をシュンと縮こまらせて後ろに下がる。
「束様、先ずは涙を拭いて下さい」
「グスッ…ヒッ…ゴメン…クーちゃん」
クロエが胸ポケットから取り出したベージュ色のハンカチを力無くブン取った束は、鼻孔と涙腺から止めどなく溢れる透明な液体を懸命に拭き取る。
クロエはそのまま立ち、兎耳の機械を避けながら束の頭を優しく撫でた。
「やっぱり…駄目だった。箒ちゃん、余所余所しくて冷たくって…終いにはさ…束さんなんて必要無いって、紅椿も要らないって…。覚悟はしてたけどさ…」
箒がIS学園に入って以降、束はずっと妹に連絡を取りたかった。
国の監視も世間の目も無いあそこなら、例えお尋ね者である自分が連絡を入れようと、箒に危害が及ぶ確率は格段に低くなるからだ。
だが、そんな時でも束の心は脆かった。
こんな、妹の人生を奈落へと突き落とした元凶を、身勝手で気儘な自分を、果たして拒絶しないだろうか。液晶画面の通話ボタンに指を添えようとする度、そんな恐怖が頭を過ったのだ。
それも、妹の誕生日と紅椿の完成が同時に迫った事で、漸く連絡する決心がついたのだ。
クロエと無人ISたちは、そんな束を見守る為に半ば強引に立ち会わされたと言う訳だ。
携帯もスピーカーモードにされており、箒の言葉はクロエたちにもガッツリ聞かれている。
結果はご覧の通りだ。
少しでも気を緩めたら震えてしまいそうな声を懸命に抑え、可能な限り普段の口調を演じて会話に挑んだ束。
だが、それも無駄だった。妹の反応は最初からどこか他人行儀で、それだけでもう束は目尻に涙が滲んだ。
そして止めの一撃となった「あの言葉」で、涙腺も心も中身が全て流れ出てしまった。
その後、箒が何を叫んでいたかなんて、放心状態となった束の耳奥に響いた筈が無かった。
(本当、泣き虫でお子ちゃまなんですから…)
そう思いながらも、クロエは束の頭を撫で続けた。
感情の浮き沈みが激しく、常に心が不安定な天災科学者、篠ノ之束。今撫でる手を止めたら、束がグズグズに崩れ落ちて沈没してしまうのではないかと、そうクロエは思ってしまった。
当の束は嫌がるどころか、さも撫でられ慰められる事が当たり前であるかの様に、想いの吐露を続けた。
「もう終わりだよ…完全に箒ちゃんから嫌われた。感情に任せてあんな事言っちゃって…ほんと束さんってゴミだよね…」
自暴自棄に陥る束。
だが、冷静に立ち会っていたクロエは解っていた。箒が何を主張したかったのかも、束を心底嫌っている訳ではない事も。
かと言って、箒を全肯定する気も無かった。電話を掛ける主の心境を理解していたクロエからすれば、箒の態度は流石に冷た過ぎる様に思えたからだ。
よって、クロエは束に優しく諭す事にした。
「…大丈夫、大丈夫ですよ、束様。妹君は、貴女を決して嫌ったりしません」
「だって…貴女は、妹君の事が世界で一番大好きなのでしょう?貴女が全身全霊を以て愛する人が、貴女を嫌うなんて絶対に有り得ません。私が保障しますから。ね?」
「…」
少しだけ、咽び泣く声が小さくなって来た。ようしあと一押しと言わんばかりに、クロエは畳み掛ける。
「それに、妹君の傍には昭弘様が付いてるでしょう?彼の事ですから、もし仮に妹君が貴女を嫌いになりそうでも、きっと良い方向に導いてくれます」
「あの人、真のお人好しですから」とクロエがそこまで言い終えると、束の身体の震えは無くなっており、先程からテラテラと姿を見せていた涙も流れを止めていた。
もうこれ以上沈まないだろうと判断したクロエは、束の頭から一旦手を離す事にした。
「…クーちゃん」
「何です?」
体育座りのまま俯きながら呼ばれたので、クロエはほんの少し腰を屈める様に顔を近付ける。
「………昨日、ケータイ取っちゃってゴメン」
「昨日の事を謝る気力があるのなら、もう大丈夫そうですね。或いは、私が優しい今なら謝るチャンスと思ったのでしょうか」
腕で包まれている両膝に顔を埋めながら、束は小さく頷く。
クロエは仕方が無さそうに優しく溜め息を吐いた後、透き通る様な声で束にお願いする。
「もう気にしていませんから、返して頂けますか?」
しかし、束は駄々っ子の様に拒否する。
「…駄目。またアキくんに告げ口するんでしょ?」
「しません。電話も、貴女の目が届く範囲でしかやりません」
クロエがそこまで言い切ると、束は俯いたままボタンの付いた脇ポケットから灰色の液晶端末を取り出し、クロエにポイと渡した。
「じゃあ私、そろそろ退室しますけど…宜しいですね?」
「ん…」
そのやり取りを最後に、クロエはジュロ以外の無人機を連れて部屋を後にした。
クロエのお陰でどうにか束の機嫌が戻りつつあるのを見計らって、ジュロが一番肝心とも言える部分を確認する。
《束様、結局紅椿ハドウナサイマスカ?》
目覚し時計の様なその質問に対し、束は頭を気怠げに上げながら、泣き過ぎた為か普段とはかけ離れた低い濁声で答える。
「…予定通り、臨海学校の日に渡しに行く。本人が嫌がっても強制する。最悪「学友皆殺しにするぞ」って脅せば、嫌でも受け取るでしょ」
《…畏マリマシタ》
物騒な物言いだが、束とて必死なのだ。
近い未来、訪れるであろう戦乱。その直中、何時何処でも自由に展開出来るISを持つ持たないは、即生死に関わる。妹を想うのなら、専用機の譲渡は当然の計らいだ。
束も本来なら、箒をIS学園以上に安全な場所へ隔離したい。そうしないのは、クロエの様に寂しい思いを、箒にして欲しくはないからだ。
それが例え、束の間の団欒だとしても。
束の思惑は、それだけに留まらない。それは白式の存在だ。
この紅椿は、言うなれば白式の“番”でもあるのだ。白式の能力を最大限にまで引き出し、それにより一夏の生存性を高める為の。
そして箒と一夏を、生きる上でも愛し合う上でも2度と離れられない様にする為の。
人一倍心が脆く、妹への歪んだ愛情を患っている束。
もし彼女が、昭弘と箒と一夏の三角関係を知ってしまったら―――
何をしでかすか、考えただけでも恐ろしい。
クロエママ……