日もあと少しで沈み行く、然れど禍々しい雨雲によって覆われた、黒に近い灰色の空の袂。
ピリリリリリ…
窓から染み入る隠微な雨音に支配されたその空間を、一つの着信音が両断進攻する。
教職員全員が手を止めて注視する先にはブリュンヒルデ、織斑千冬が。事実、音の正体は彼女の携帯であった。
だが今この空間で最大の驚愕に襲われているのは、携帯の液晶画面と相対している千冬であった。
───篠ノ之束───
そんな誰もが知ってる有名人の名が己の携帯画面に表示されていれば、大抵の人間は現実を受け止められずに右往左往するだろう。
だが我らが織斑千冬は別だ。驚きと乱れはあくまで2秒程度、直ちに通話ボタンへと親指を這わせる。その前にスピーカーモードに切り替えておく事も忘れていない。
どんな有名人だろうと、千冬にとっては一人の親友でしかない。
そして今は、限り無く敵に近い疑惑の人物でもあった。
《もすもすひねもすぅ~?ちーちゃんが世界で最も愛するシノノ───》
「束貴様ッ!今何処に居る!?仲間は何人だ!?今度は何をしでかすつもりだ!?」
千冬は敢えて周囲にも聞こえる様に声を張り上げる。世界的指名手配犯の名を聞いた教員たちは、各々の席を立つなり一気に警戒態勢となる。
千冬の怒声は単なる演技ではない。正真正銘、唯一無二の親友へ向けた心配そして憤りを声に乗せていた。
《ちょ、落ち着いてちーちゃん!最近音信不通だったのは謝るからさぁ!ハイゴメンチャイ☆ユルシテチョ☆》
久しぶりの会話で早速怒りが込み上げてくる千冬。本当にこの親友は相手をイライラさせるのが上手い。
当然怒りだけではない。この通話が同僚たちにも聞かれている事実を思うと、千冬は恥ずかしくて通話を切ってしまいたくなる。
子供なら身を任せてしまうであろうそれら激情をどうにか抑え、千冬は声を落ち着かせて親友の話を促す。
「…用件は?」
《流石はちーちゃん切り替え早いっ!実はちーちゃんに、超重要な指令がありまーす☆》
千冬は眉間の堀を深くした。
以前なら下らない雑談で電話を掛けてくる事もざらだった束から、久々の通達事項。千冬にはまるで予想が付かなかった。親友である千冬ですらそうなのだから、他の教員たちは猶更だろう。
そんな訳で、職員室に漂う警戒の色はより濃くなる。最早雨音なんて誰にも聞こえていなかった。
《来週の臨海学校なんだけどさぁ、必ず無人IS5体も連れてってね☆》
「……は?」
予想なんて初めから諦めてた千冬だが、それでも声を漏らさずには居られない程の想定外。
証拠がないだけで、かの機人らを学園に差し向けてきたのが束である事は千冬も解っている。学園の情報が束には筒抜けであろう事も。
それでも「何故今」という疑問が頭を埋め尽くす。彼等は束にとって使い捨ての駒でしかなかったのでは、と。第一臨海学校と何の因果関係があるのか。
何にせよ、束の要求は無理難題だ。
「…連中は待機移行出来ないISだ。学園人工島から出せば日本のレーダー網に捕まる」
今回の臨界学校、現地でのIS起動しか国は許可していない。そんな中ゴーレムを現地まで運んでしまえば、現地以外の道中日本国内で無断にISを起動させている事になる。
国がゴーレムの存在を知らない点も加味すれば、大事どころの騒ぎではない。
《ああそこん所はダイジョブ♪明日「秘密兵器」を送るからさ☆》
一応策はある様だ。
かと言って受け入れるかは別問題だ。
先ず連れて行かねばならない理由だが、これについてはどうせ束も教えてはくれない。こういう突拍子も無い事を話す時、大抵彼女は「何故」を語らない。
では次に優先して訊くべき事、「さもなくばどうなるか」だ。
「…もし連れて行かなかったら?」
《人が大勢死にまーす☆》
「…何処の人間が?何によって?」
《知りませーん☆》
死。冗談にしか聞こえない明るくいつもの砕けた調子で、悍ましい未来を言い放つ束。
だが千冬には解る。陽気な語調に含んでいる僅かな冷気、あの頃と変わらない、本気で言っている時の声だ。
嘘か真か、他の教員たちには解らない。だが強靭な心を常日頃から維持している彼女たちも、その単語を耳にすれば多少の動揺を隠せない。学園の生徒にも被害が出るのではないか、と。
ただ、千冬以外の全員が皆同じく感じている事、それは人の生死を何とも思っていない束の狂気であった。
《という訳で宜しくねーちーちゃん☆ちゃぁんと連れて来てね?でないと束さんもちょっと強引な方法取らなきゃだしー》
此方の反応も気にせず、束は勝手に話を纏めようとする。
「待て!束───」
既に遅かった。千冬の耳元では、通話が切られた旨を知らせる電子音が寂しく響いていた。
さもなくば人が死ぬ等と訳の解らない急な申し出、何も話してくれない親友。それらへの混乱と苛立ちが募った千冬は、液晶携帯を握り締め頭上高く掲げる。
が、彼女はどうにかデスクに叩きつける衝動を寸での所で抑えると、ガダンと少々乱暴に携帯を置いた。そうして今度は腰を椅子へ勢い良く落とし、そのまま片手で掻き毟る様に髪を掻き上げた。
皆、静まり返っていた。この状況で、誰に何を話せば良いのか誰にも解らなかった。
ただ雨音だけが、思い出した様に職員室を満たしていた。
翌日明け方。
警備員がIS学園校庭にて無人の大型トラックを発見。重厚そうな見た目だがその下地は薄桃色で、大小様々なウサギと兎耳を付けた可愛らしい女の子が夫々ペインティングされてたと言う。
タイヤ跡も無ければ侵入警報も無し、対空レーダーすら何の影も捉えず終い。遂にはどの監視カメラにも通過の瞬間は映っておらず、モニターが校庭エリアに切り替わった瞬間には既に「あった」らしい。発見10分前の外周巡回においても、校庭には特段異常も異音も無かったそうな。
積荷は無く、車内には一枚の粗雑なメモ紙が置いてあった。「束さん特製『縁切りうさぎ』だよん♪これに乗せれば大丈V♪」と。
取り敢えず「車輌」である以上、人工島と列島とを繋ぐモノレールに同じく隣接しているハイウェイ上を走らせる。
犯人のそんな意図くらいは、警備員たちも何となく理解した。
─────7月22日(金) 放課後
2週間は瞬く間に過ぎ去って行った。
明日はとうとう臨海学校、そして明後日が演習本番だ。
生徒一人一人、過ごしてきた時間は同じなれど、時間の質と密度は各々まるで異なる。長かったのか短かったのか、充実していたのか苦痛に苛まれてたのか、真っ直ぐだったのか曲がりくねっていたのか。中には、己の存在を見つめ直す者もそれなりに居た。
ただ一つ共通して言える事は、誰しも鍛練漬けの毎日であったという事だ。
それら全ては、辿り着くべき所に辿り着くが為。
「布仏から聞いたぞ簪。明日の臨海学校、学園に残るらしいな」
「うん…理事長に直談判してきた。しぬほど緊張したけど…何とかなった」
アリーナDのピット入り口付近から聞こえてくる、そんな低く鋭い声と高くか細い声。そこには何気無く訊ねる昭弘と、軽くサムズアップしながら得意気に答える簪が居た。
打鉄弐式のすぐ近くでだらりと座している様子から、合間の小休止中と見られる。
「打鉄弐式が未完成である以上、新武装を試す意味も必要性も無い…か」
「学園側も…その辺りは理解してくれたみたい。「ISを作り上げる経験も同等以上に有意義で価値のあるものだ」…って」
つまりは簪を手伝っている整備科志望の面々も、学園に残る許可が下りたという事だ。寧ろ彼女たちこそ、後学の為に簪の元へ残すべきと考えたのだろう。
「すまんな、オレだけ抜ける形になっちまって」
「仕方がないよ。より実戦に近い環境での…機動演習だから、整備科を強く志望している人以外は原則…強制だし」
どちらを志望しているのか微妙な立ち位置である本音も、今回は手伝いを泣く泣く断念した。簪が臨海学校参加を強く勧めたのも大きかった。
「それに昭弘1人が抜けても…作業に差し障りは…無いし」
「ごもっとも過ぎて何も言い返せんな」
元々ただでさえ訓練詰めな昭弘、それがここ最近では更なる拍車が掛かっている。故に常時簪を手伝える筈も無く、良くて1日30分程度だ。
内容も軽い入力を手伝ったり、物を運ぶなど雑用程度のもの。整備に明るくない昭弘に出来る事なんてそんな程度だ。
最初こそ昭弘が全体に指示を飛ばす事が多かったが、今では簪一人でも十分に現場を回せる。そういう意味では、ゴーレムが抜けてしまう方が痛手だ。
無力な自身に苦笑いを漏らす昭弘。
しかもそれら訓練は目指すべき夢の為ではなく、もっと虚しく後ろ向きなモノの為だ。そんなモノのせいで簪との時間が潰れると思うと、馬鹿らし過ぎて遂には苦笑いすら消失する。
時々思ってしまう事を今、昭弘は最も強く思っていた。自分は何をしているのだろうか、と。
対して、簪が零したのは大らかな微笑みであった。
「…その…明日は安心して行ってきたら…いいんじゃないかな。私はもう…割と大丈夫だし、そうしてくれた昭弘の言葉も…無意味じゃなかったから…」
申し訳ないなんて思わないで欲しい、無力だなんて思わないで欲しい、そしてもう心配なんてしないで欲しいと、そう彼女は言いたいのだ。
「…」
少し格好付け過ぎたかと簪は頬を赤くするが、昭弘も自身が恥ずかしくなった。まさか簪から慰められる瞬間が来ようとは、と。
だがお陰で、昭弘の気落ちも半分くらいは消え去った。良くも悪くも正直に物を言い、言った相手のケアまで出来る今の彼女ならもう大丈夫であると。
その確認が取れたという意味では、昭弘の気落ちも無駄ではなかったかもしれない。
「…ああ。だが、帰ったらまた打鉄弐式作りに参加させて貰うからな」
「うん。また一緒に…作ろう」
そう、2人は互いに約束した。
これで、昭弘の中にある大きな気掛かりの一つが消えた。
青空が水溜まりの様に点々と姿を覗かせる薄い曇り空の下、ピットの外、入り口の近く。
外の空気を吸いに行った昭弘の視界に、眼鏡を掛けた黒髪の少女が入り込む。誰かを待っている様だ。
背丈は丁度某生徒会長と同じ位…というより───
「……何してんです会長?」
「何故バレたし!?眼鏡だけじゃ不安だったから態々カラコンまで入れたのにぃ!」
変装した本人であった。
「顔の形とかクソ面倒臭そうな雰囲気とかで分かるんスよ」
「…え?マジ?アタシってそんな雰囲気出てんの?」
「少なくともオレには出てる様に見えますが」
よってか、昭弘は己の第一声を後悔した。碌でもない理由で変装している予感しかしないからだ。
そんな訳でやっぱり答えなくて良いという昭弘の心の声も虚しく、楯無は自分語り宜しくペラペラと口を蠢かす。
「いやホラ、昭弘くんの代わりにアタシが簪ちゃんの事手伝おうかなーって。でも今姉として手伝ったら簪ちゃんもモチベ下がるじゃん?」
「だから他人に成り済ます!……工作員の長がそんな粗雑な変装で良いのかって突っ込みは無しよ?」
妹を見届けると決めた以上、機会が来るまで姉としてベタベタ接する訳にも行かない楯無。だが妹の匂いを嗅ぐ事すら許されない状況は、彼女にとってこの上無く酷なものであった。
楯無のシスターコンプレックスは相も変わらず絶好調な様である。
「駄目」
「何でよ!?折角簪ちゃんが学園に残ってくれるのにィーーッ!やだやだやだ!このままじゃ妹成分足りなくて死んじゃう!」
終いには本心もダダ漏れ、子供の様に地団駄を踏んでしまうIS学園生徒会長殿。こんなのが生徒の見本となる生徒会のトップで大丈夫なのだろうかと、昭弘はIS学園の行く末を心配する。ついでに、もしかして暇なのだろうかと失礼な予想も立ててしまう。
「…と、そうだ。昭弘くんにも用があるんだったわ。もう織斑先生にも話したんだけど……ちょっと耳貸しなさい」
そう急にピタリと静まり返った彼女に、未だ呆気から抜け出せない昭弘は「今度は何だ」と厄介者を見るような視線を向ける。
それでも真面目な彼は、言われた通り彼女に耳を向けてやる。
それに合わせて、楯無も麗しい唇を彼の耳元へと近づけると───
「フーッ」
ブチッ
昭弘がこめかみに小さな青筋を立てたかと思えば、次の瞬間には楯無の頭蓋を片手で掴み上げた。
「イダダダダイダイダイ!!ゴメンゴメンゴメンゴメンって!頭割れるか縮むぅ!それ以前に首取れるぅ!」
楯無は己の悪戯を心底後悔しながら、自身の頭をドッジボールみたくガッチリホールドしている昭弘の右手にタップアウトする。
「『銀の福音』の試験飛行が明後日に変更された?」
人通りが一切無い崖の方角へと、一先ず移動した昭弘と楯無。
そこで復唱する昭弘に対し、楯無は鈍痛の残る自身の頭を押さえながら答える。
「部隊からの確かな情報よ。本来なら7月初めに行われる予定だったんだけど、現場チーフやお偉いさんの体調不良とか設備不良とか、諸々の要因が重なって24日に延期されたって訳」
「丁度アナタたちが飛行演習する日よ」
そんな事は言われなくても分かっている。良くある偶然だと、昭弘のそんな考えを見越した様に楯無は続ける。
「そして篠ノ之博士が織斑先生に命じたっていう、無人ISたちの不可解な同行。…何の関係があると思う?」
憶測の域を出ない故直接言葉には出せないのだろうが、楯無は福音の試験飛行延期も束の仕業なのではと疑っているのだ。
「…関係も何も無いでしょう」
何となく楯無が言いたい事を予想した昭弘は、顔を顰めざるを得なかった。
大胆かつ荒唐無稽だ、銀の福音とゴーレムたちを戦わせるなど。
だが、楯無の考えはどうやら違う様だ。
「アタシも、福音はIS側の新戦力と考えてるわ。それを篠ノ之博士が破壊するとは思えないし…。福音の実戦能力をテストするにしても、態々IS学園の無人ISを使う理由が解らない。逆に無人ISを始末する為でも、試験段階の福音に任せるなんて不確実すぎる」
「その辺りについて、アナタの考えを聞きたいのよ」
ゴーレムの同行、それに重なる福音の試験飛行日。そこから見え隠れする束の思惑なんて、昭弘に解る筈が無い。
だが昭弘も伊達に束と3ヶ月間一緒に居た訳ではない。それも千冬の様にずっと前でなく、今年の話だ。束が何を考えてるのかまでは解らないが、「どんな人間」なのかは凡そ知っている。
だからこそ、楯無も態々昭弘に訊ねて来たのだろう。
「考えって程じゃありませんが、束は「感情的」な人間です。好きなモノは心底からこよなく愛し、どうでもいいモノは視界にすら入らない、そして嫌いなモノは害虫の様に淡々と排除する」
「…今回の件も何らかの目論見ではなく、感情で彼女は動いているってこと?」
「アイツはアメリカを忌み嫌ってますから。案外、嫌がらせ目的で福音に“何か”を仕掛ける可能性はあります。福音が居なくとも、ISコアを作れる束が居る限りISがMPSに負けるなんて先ず有り得ない」
「対して、自身の作った無人ISの事は、他の誰にも作れない「最高傑作」とまで言ってました。それを自ら破壊するならまだしも、嫌いなアメリカが作った福音に破壊させるってのは…」
束の感情面から見ても楯無の言っていた不確実性から見ても、その線は薄いと見て良いだろう。
無論、感情抜きに何らかの意図があるのかもしれない。
だが昭弘の話を聞く限りだと、束は楯無が思っていたよりずっと子供っぽい性格をしている。
そう考えると10年前に引き起こした白騎士事件も、もしかしたら激情に身を任せてしまっただけなのかもしれない。それ程に、楯無から見てもあの事件は正気の沙汰とは思えなかった。
“天災”と呼ばれる人智を超えた科学者、篠ノ之束。彼女に対する認識を少し改める必要があるかもしれないと、楯無は思った。
「そういう訳だから、アナタも明後日は要警戒でお願いね?くれぐれも他言無用で。何が起こるか断定出来ない以上、バラしても憶測が憶測を呼んで混乱するだけだし」
そんな高い機密性も含めて、昭弘は強く頷く。束の心境や思惑はどうあれ、生徒たちに被害が及ぶ事態だけは避けねばならない。
海水浴を楽しむどころではないと、己を痛めつける様に昭弘は強く拳を握る。
最悪の場合、生きて学園に帰れない可能性すらある。何を起こすにせよ、かの天災にとって人の命は枯葉の如く軽い。
さっき簪とあんな約束をした矢先にこれだ。上手く行かない世の中、そして根暗な想定しか出来ない己自身が、昭弘は心底嫌になる。
そんな昭弘を諌める様に、楯無はあくまで穏やかな口調で言葉を零す。
「あんまりガチガチし過ぎても、皆から怪しまれるだけよ?」
今や楯無に緊張の色は無く、表情はいつもの余裕ある笑顔に戻っていた。
「あんな事言っといて何だけど、せめて明日の海水浴だけは目一杯楽しみなさい。毎年恒例、1年生の特権なんだから」
そう言いながら楯無は昭弘の肩を叩く。軽い言葉と肩への衝撃により、昭弘も思わず握り拳を解いてしまう。
だが昭弘にとっては、慣れない事を楽しむ方がずっと難しい。先日の水着購入然り。
「………怪しまれない様、楽しむ振りでも練習しときます」
違うそうじゃないと、楯無は何か根本から勘違いしている昭弘に対して、溜息混じりに首を何度か横振りする。
「つまらないならつまらなそうにしてれば良いし、気になるモノがあればそっちに行けば良い。母なる海は、どんな人間だって受け入れてくれるわよ」
「だからもう少し心のまま生きなさいよ昭弘くん。先の事考えんのも結構だけど、今眼前に広がってる景色しか人間には知覚出来ないのよ?」
昭弘が元居た世界だろうとこの世界だろうと、どんなに時代が移り変わっても変わらぬ生物の“掟”だ。
簡単どころか誰にでも等しく備わっているそれが、昭弘にはままならない事だった。
「という訳で!アタシも今を生きるべく妹の存在を全身に感じてきまーす!」
「だから駄目だっつってんだろ」
だが、楯無のそれにだけは素速く反応出来た昭弘であった。
「やーだーやーだー!!昭弘くんばっかずぅるぅいぃ!!」
ピット出入口方面へ突っ切ろうとする楯無を、巨体を壁にして必死に止める昭弘。手が掛かるのか頼りになるのかよく分からない御人だ。
(…「今この瞬間」か)
いずれ来たる先の先。そこに待っているのは目的と呼べるモノですらないが、その一日の為だけに昭弘は今日まで練度を積み上げて来た。ならば、日々絶えずその未来を思うのは当然の事だ。
先の一日を定めているのは昭弘だけではない。生徒一人一人、未来の為に今を生きている、未来があるからこそ今を生きて行ける。箒も一夏もセシリアも鈴音もラウラもシャルロットも、間も無く訪れる未来の為に今この瞬間も死に物狂いだ。
それでも尚、楯無の言葉は昭弘の中で確かに脈動していた。
過去も未来も一度頭から消し去り、感じたまま今を生きてみろ。「今」に身を任せてみろ。
明日は明日、明後日は明後日、そして昨日は昨日、人間はその時の「今」しか生きれないのだ。先の事なんて、その実想う事しか出来ないのだ。
希望ではなく絶望しか未来に待っていない昭弘は、それすら頭から抜け落ちていた。
その事に気付いた昭弘は思った。そもそもが望みの絶たれてる未来、それは果たして「未来」と呼べるのだろうか。そんな未来を考えて、そんな未来に辿り着いて、一体どうなるというのか。
ならば楯無の言う通り、今だけをありのまま感じていた方が遥かに有意義だ。名ばかりの未来など、一度と言わず永遠に頭から消し去って。
楯無が昭弘に口頭で贈った助言は、プラスにもマイナスにも作用していた。
何故昭弘がこんなにもネガティブなのかは、後々の話で分かります。時々表に出るくらい、結構精神的にキてます。