IS~筋肉青年の学園奮闘録~   作:いんの

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第63話 清新の紺碧、混濁の青藍、無常の雄黄 ④

 正午から少しずつ傾き始めていた日が、気付けば夕焼け前の山吹色に砂浜を染めていた。それは即ち、海という特別な時間との別れが近い事を示している。

 

 悪くない半日ではあった。普段では味わえない体験であったし、何より一夏とずっと一緒に居られた。今の季節における心のリフレッシュには、これ以上無いイベントと言えた。

 だがそれでも尚、私の心は「まだ終われない」と叫んでいた。大部分を満たせても肝心の一欠片が足りないと、癇癪を起こしているみたいに。

 

 いや、今はそれより何より。

 

「一夏め。先程から鈴や無人機たちと何をコソコソと…」

 

 

 

 

 

「皆リサーチご苦労様。で、どうだった?」

 

《アンタノ予想通リ、アノ小島マデハ満潮時デモ海ヲ徒歩デ渡レル》

 

《アト砂浜モアリマシタシ!岩場モ沢山アリマシタ!》

 

 ビーチの端にて、一夏はシロとサブロからの報告に満足げに頷く。

 こういう調査は、ISの機動力とハイパーセンサーが物を言う。そして今、教師の許可無しにそうした事が出来るのは、最初から起動している無人ISだけだ。機動には限度があったが、小さな陸地一つを調べるのならそれで十分だった。

 

 ガイドブックにも乗ってない、生徒たちも教員もそうそう立ち寄らないであろう小島。其処こそ、一夏が2人の為に用意する舞台。

 誰からも何の許可も取っていないが、逆に「入るな」とも言われてないし立入禁止とも書かれていない。

 

 すると、一夏の隣で待機していたゴロに通信が入る。

 

《…一夏殿。タロヨリ、昭弘殿ノ配置ガ完了シタト》

 

「OK。じゃあ後は予定通り、サブロは島に入ろうとする人が居ないか見張って。シロとゴロはさっきと同じく、島内へ続く浅瀬で危険生物が出ないか監視。タロ、ジロは島内で監視。以上、各員くれぐれも見つからない様に」

 

 そんな指示を無人ISたちに送るよう、一夏はゴロに頼む。

 生物でない彼等なら、気配なんて消すまでもなく最初から無い。茂みにさえ隠れれば、監視には打って付けだ。

 

 事は順調に進んでいる。

 それとは別に、一夏は改めて「良い誤算」を心の中で噛み締める。

 

(まさか昭弘自ら鈴に頼み込むとはね…)

 

 

 

 

「鈴!本当に箒はこんな所まで来てくれるのか?」

 

 浜へと引き返す鈴音に、昭弘は小島内からしつこく確認していく。

 

「大丈夫だって!アタシの口車に任せなさい!」

 

 自信満々な笑顔で、浅瀬から浮き出る砂場を歩きながら昭弘に叫び返す鈴音。果たしてあの頑なな堅物少女を、異性の待つ小島へ誘う文句があるのだろうか。

 

 だがそれ故に、昭弘は鈴音に「良い場所の選定」及び箒の呼び出しを頼んだのだ。

 こういう時に頼りなのが鈴音であると、一夏だけでなく昭弘も良く理解しているのだ。おまけに彼女なら、「誰かさんたち」みたいに余計な勘繰りも勘違いも起こさない。

 

 

 

 

 

 海辺は退屈を大きく緩和してくれる。風の強さ、太陽の位置、潮の満ち引き、それらに応じて海は百面相の様に容姿を変えていく。

 海辺が綺麗に化粧を変えていく程、私の虚しさは助長されるがな。

 

(折角こんな所まで来て…)

 

 気分が沈み出した私の元へ、2つの影が駆けてくる。何やら唯ならぬ雰囲気を醸し出すその2人は、一夏と鈴だ。

 

「箒!昭弘見なかった!?」

 

「え?」

 

「ビーチの何処にも見当たらないのよ!」

 

 それを聞いて一瞬、私の中から憂鬱は退場し、代わりに虚無が頭を支配した。

 その夜闇の如き虚無が晴れて漸く、私の思考は奈落へと転がり出す。

 

(居ないって…どういう事だ。さっきまで…近くに居たではないか)

 

 削り取られる様な、内側から焼け爛れる様な痛みが、私の心を黒く染める。私の中で雁字搦めに根を張る、いつからか生まれた圧倒的不安。

 昭弘は何処に……何処に………

 

 

 

 まさかもう何処にも───

 

 

 

「何ボサっとしてんの!アンタも探すの!」

 

 私の悍ましい予想を遮る様に、鈴が私の手を強く引いては連れて行く。

 

「まだ砂浜しか探してないから、皆には伝えてない。もし見つからなかったら…大事にせざるを得ないけど」

 

 一夏のそんな言葉を聞いて、私の中に潜む絶望は心を突き破らんと膨らむ。

 

 

 

 一先ず浜の端まで出向いた我々は、かの巨体が見えないか周囲を見回すが…やはり視界にそれらしき人間は映らなかった。

 

「オレと鈴はこの辺りを。箒はあの小島を探して」

 

「あの小島にも居なかったら……先生たちに連絡しましょ」

 

「あ、ああ!分かった!」

 

 私はただ一夏と鈴の指示に従った。

 小島に続く砂場は最早潮に飲まれているが、そんな事に構ってなど居られない。いや寧ろ僥倖、あの程度の深さなら走って行ける。

 

 

 太陽に照らされし塩水を被った砂場は宛ら光の橋の様に、渡る私を小島へと送り届ける。

 普段なら心が洗われるであろうその光景も、今の私には単なる砂と水と光でしかない。どころか私の足を絡め取る砂と塩水は、肉体的疲労を与えてくる。

 疲れても疲れても、焦りは却って増すばかり。私は今日、まだ昭弘と何も話してはいない、何も伝えてはいない。何も…始まっても終わってもいない。

 

 だから必ず見つけ出す。

 

 そう意気込み、私は5分程海を渡って遂に小島へと足を踏み入れる。

 

「昭弘ぉーーーーーーーッ!!!」

 

 先のビーチよりもずっと狭い砂浜で、私は今一番会いたい男の名を呼ぶ。大きくも不安に押し潰されそうな震える声で。

 狼狽を隠す事無く、私は周囲を見渡す。まるで親とはぐれた子供の如く。だが「もしかしたら」なんて望むべくも無く、見慣れた巨躯、未だ見慣れない裸体は現れない。

 

 私は直ちに、奥の岩場や松林の探索へと頭を切り替えようとした。

 

 だが俯く事しか出来なかった。私の呼び掛けに対し、返って来るのは波の音だけ。そのショックから、私の心は立ち直れなかった。

 

 

「そこまで落ち込む程か?」

 

 

 寂しい自然の音を唐突に貫くテナーボイスが、私の背中を叩いた。

 

 

 

 

「ぃよしッ!昭弘と箒が接触したわ!」

 

 小島の手前、浜辺の端にある見通しの良い堤防にて、双眼鏡を覗きながら進捗を報告する鈴音。

 同様に双眼鏡を目に当てる一夏は、呆れの溜息を小さく吐き出した。

 

「それは良いんだけど…もっと違う誘い方は無かったの?」

 

「ああでも言わないと、ウブな箒は動かないわよ」

 

「まぁそうだけれども…」

 

 実際一夏も他に誘い文句が浮かばなかった故、鈴音の言葉にはそう返すしかなかった。

 

 

 

 

 振り向いた箒の視界、その中心に立つ昭弘。

 だが普段と何ら様子が変わらない彼の姿は、今の箒にとっては何やら現実味を帯びていなかった。

 

「?」

 

 箒は何の断りも入れず、昭弘の腕へと右手を伸ばした。少しの困惑を見せる昭弘に構わず、彼女は彼の左腕を慎重に撫でた。まるで感触を確かめる様に、夢現をはっきりと区別する様に。

 指の腹が感じる、昭弘の素肌。手の平全体が感じる、昭弘の筋肉。それらをしっかりと確認した箒は、漸く視界を埋める男の姿が現実であると理解する。

 

 そして歯を食い縛り、普段の落ち着いた表情が嘘の様な赤子の如き泣き顔へと変わり、大粒の涙をビー玉の様に瞼から垂れ流した。

 

「よがっだぁ…!アギイ゛ロが何処がへ消えでじまっだのがとぉ……!!」

 

「?…消えるってお前…」

 

 安心しきって尚も顔も赤く泣き続ける箒に対し、昭弘はますますの困惑を見せる。

 

(鈴の奴…どんな誘い方しやがった?)

 

 ともあれ、箒はちゃんと此処へ来てくれた。ならば鈴音が用意してくれたまたとない機会をものにすべく、ここは話を合わせておくべきであろう。

 

「心配掛けてすまなかった。暇だったんで、この辺を散策してたんだ」

 

 それを聞いて箒の号泣は少しずつ落ち着き始めるが、彼女の右手は未だ昭弘の左腕を掴んでいた。

 

 そんな彼女の背中に、昭弘も右腕を伸ばす。泣き震える彼女を抱き締めようと、それが無理でもせめて背中を摩ってあげようと。

 

「……ああっとそうだ、昭弘が見つかったと連絡せねば」

 

 だがそんな事を思い出した箒により、昭弘の行動は遮られる。

 もう少し早く右手を伸ばすべきだったと、昭弘はごく小さく溜息を吐きながら右腕をそっと引っ込める。

 

 

 

 そうして諸々の伝達が済み漸く泣き止んだ箒は、尚も昭弘の左腕を掴んだまま踵を返す。

 

「……で、では、私たちも戻るとしよう」

 

 何処か不本意そうに、そのまま昭弘の腕を引く箒。

 

 だがそれだけで、肝心の昭弘は微動だに動かない。どうしたのかと再び箒が振り向くも、昭弘は止まったままだ。

 腕だけを引かれたまま数秒の間を置いた後、彼は短く深呼吸して漸く口を動かす。

 

「箒も一緒に散策しないか?」

 

 確かに、まだ時間的には問題ない。

 

「え?…あ、ああ」

 

 故に突然というのもあり、箒は気の抜けた声で何となくそう答えてしまった。

 

(……ん?)

 

 直後、此処が人の立ち寄らなそうな小島、そして半裸の昭弘と2人きりであるという事実を遅れて把握し、箒は暑さではなく熱さからくる汗を額からだらりと流した。

 

 

 

 小島の4分の1を埋め尽くしている大小の岩、それらで出来た崖の上へと進む2人。直接よじ登る訳にもいかないので、松林の登り坂から回り込む様に、だ。

 崖の高さは、精々10m程度だろうか。

 

「林ん中は道っぽくなってて良かった。ごく偶に人が来るのか、獣道か」

 

 そう言いながら、サンダルで道を踏み固める様に進む昭弘。その後ろから、同じくサンダルで慎重に進む箒。

 「そうだな」とでも返すべきなのだろうが、その前に言うべき事を箒は言わねばならなかった。

 

「あのだな昭弘。今日は一度も話せなくて…すまなかった」

 

「折角の海なんだ、少しでも長く一夏と一緒に居たいのは当然だろう」

 

 振り返らずそう返す昭弘の口調に、さして変化は無い。嫉妬を帯びてる感じもしなければ、寂しさを訴える風でもない、ごく普段通りの声だ。

 

「…それも、そうだな」

 

 箒は昭弘が怒っていなくて胸を撫で下ろした反面、少しの立腹をも覚えた。自分が居なくたって、昭弘はどうとも思わないのか、と。

 

「…なぁ箒」

 

 そんな彼女に、昭弘は尚も進む方を向きながらまたも話し出す。

 

「オレもお前に何も話さず、放っておいてすまなかった。…と言ったら、お前はどう思う?」

 

 最後の一文を言い終えた昭弘は漸く立ち止まり、後ろの箒へと振り向く。

 心に言葉はもう出来上がっている、「寂しかった、お前とも一緒に居たかった、どうして話もしてくれなかったんだ」と。

 

「……私は………」

 

 だが中々声には出せなかった。昭弘のまるでどんな言葉も受け止めると、どんな感情も見透かすとでも言いたそうな、その顔を見ながらでは。

 

「…いや、言いたくなかったら良いんだ。忘れてくれ」

 

 時間切れであった。既に箒の眼前には、歩を進める昭弘の後頭部が映っていた。

 その優しさが、今だけは箒の心を抉った。

 

 

 それから数分、2人が無言のまま木の根はみ出る道の上を登り進んで行くと、深緑なトンネルの先に白い物体が映り込む。先ほど見上げていた岩場が、太陽光を反射しているのだ。

 そこに脚を踏み入れてみると───

 

「…」

 

「おお」

 

 右手に見えたのは、金粉を纏った海だった。西へと傾いた太陽が、砂浜から海へと黄色い光を注いでいる。それが無数の波と混ざり、不規則に点滅していた。

 

「…もっと先まで行ってみるか」

 

「…うむ」

 

 2人は手前の、階段と表するには程遠い岩の小集団に、慎重に手足を乗せ始めた。一番高い岩場に立つつもりの様だ。

 今の2人に危ないなんて意識は薄く、ただ奇麗なものをもっと良く見たいという欲求に支配されていた。

 

 

 意外にあっさりと踏み入れた、平たく巨大な一枚岩。そこからは全てが見えた。海も、空も、水平線も、そして地上も。

 今日何度も見ている景色の筈なのに、どうして同時に映るそれらはこうも新鮮で濁りが無いのだろうか。どうしてこんなにも、切なさまで内に湧いてくるのだろうか。

 

「太陽っつーのは面白いもんだよな。少し傾いただけでガラっと目に映るモンを変えちまう」

 

「…そうだな」

 

 互いに同じ事を思っている2人は、そう言いながら巨岩に座す。

 

 それ以外にも、想いを同じくしているものが昭弘と箒にはあった。

 それは今この瞬間、昭弘と共に見る景色が、箒と共に見る景色が、今日見てきた景色の中で最も奇麗であるという事だ。

 

 そう感じた2人は、つい互いを見合ってしまった。昭弘の瞳が、箒の姿を捉える。箒の瞳が、昭弘の姿を捉える。

 

「……なんだよ」

 

 困った様な笑みを零す昭弘。

 

「昭弘だって…」

 

 同じ様に笑い、顔を赤くする箒。

 

 互いに話したい事はいくらでもあるが、それ故に第一声を選びきれない。若しくは単に、今の状況をゆっくり堪能しているだけか。

 

 

 そんな2人を、ほんのり涼しい潮風は変わらず平等に撫でる。釣られてまた2人は、海辺全体を正面に見据える。

 眼前には、海面で砂浜でそして中空で、至る所で小さく脈動し変化しながらもまるで変わらない景色が未だ広がっていた。

 

「…気持ちいいもんだ」

 

「ああ…ずっとこうして此処に居たいものだな」

 

 裸体に近しい格好だろうと、凍えも羞恥も感じさせはしない太陽と潮風と海に、2人は感謝しながら身体全体で甘える。

 

 だが遠く広がる母なる「海と大地」を見渡していると、やはりどうしても再度の感慨に襲われる。

 視界を埋め尽くすそれらを、こうも輝き漲らせているのは誰かと。誰が隣に居るから、ここまで景色が美しく見えるのだろうと。

 

 それでも尚、隣を見れない。眼前の景色が余りに美しいから、それは原因の片方だ。

 今この時、恐らくこの広大な景色よりも美しさを凝縮しているのであろう、隣に座している彼と彼女。それを眼に焼き付ける勇気が、昭弘にも箒にもあと一歩足りないのだ。

 

 しかし、そろそろ証明せねばならない。

 前よりは成長したのだと、少しは強くなったのだと、今こそその証を行動で示すべき時だと。

 そう自身を鼓舞した結果、先に右隣へと振り向いたのは箒であった。

 

 

 西へと傾きつつある、夕日の一歩手前の様相を見せる太陽が、昭弘を右前側から照らす。それにより黒く陰る左半身には、まるで肉体の輪郭だけをなぞる様に外側から光が当てられている。輝く肉体と陰る肉体、それらを包み込むのはごく小さな黒い布切れのみ。

 箒の想像と寸分違わぬ、日に照らされた昭弘の裸体。まるでこの場所が昭弘の為にある様な、昭弘がこの場所の為に居る様な、それ程この光景はどんな自然画よりも自然であった。

 

 そんな昭弘を網膜に刻んだ箒は漸く、柔らかく微笑んだ。

 

 「言う」のなら、溢れんばかりの正の感情に満たされた今しかなかった。

 

「遅くなったが昭弘…水着姿、本当に良く似合うぞ」

 

 先に言われてしまい、思わず左へと振り向いてしまう昭弘。

 そうして彼が振り向いた所で、箒が2撃目を加え入れる。

 

「それとさっきの続きだが…お前が一緒に居なくて死ぬ程寂しかったぞ?私は」

 

 何の恥じらいも見せず、箒は笑顔のまま昭弘を正面に捉えながらそう言い切った。

 嘘でも世辞でも誇張表現でもない事は、昭弘にも判った。箒には、作り笑いなんて器用な事は出来ないのだから。

 つまり彼女は、本当に昭弘と一緒に居たかったのだ。そこから先の答えなんて、言葉に出すまでもない。

 

 そんな微笑みを続ける箒を、視界の中心に捉える昭弘。今度は彼が、彼女に向けている想いを知る番だ。

 黄金色の光を一身に浴びるその五体には少しの影しか無く、艶めかしさだけでなく神々しさをも見る者に感じさせる。それでも尚純白だと判る素肌はきめ細やかで、日光を反射する少量の汗がよりリアルを助長する。前へと投げ出された長い脚、丸く奇麗に纏まった臀部にそれを引き立たせる括れた腰、大きく形の整った乳房、そして潮風に長い黒髪を引かれながら笑う箒。

 今、彼女の裸体を包んでいるのはパンティとブラ、紅の水着だ。

 

「……ありがとう、箒。お前の水着姿も───」

 

 そう、「紅」の水着だ。太陽によって一際燃え盛り、箒の白い素肌をもっと白く染める、正に彼女がこの場所で着るべくして着ている水着だ。

 

 昭弘は、誰がその水着に一番相応しいのか知ってしまっている。

 

 

 

───

 

 瞬きの後、既に黒髪を棚引かせる少女は眼前には居らず、箒が元居た場所には「彼女」が同じ体勢で居座っていた。常に昭弘の心に巣くう彼女が。

 

「……夢か?」

 

 人気は自身と彼女だけ、同じ景色なれど暑さも涼しさも疲労すらも感じない世界で、そう問う昭弘。

 

「夢でも現実でもないよ、昭弘」

 

 紅い水着を着たラフタは、いつもの笑顔で淡々とそう返してきた。

 ではやはり昭弘の妄想なのか、それとも阿頼耶識が見せる幻影なのか。そんな事すら考えず、昭弘は時間が止まっているのかも判らないこの状況で、ただ見えた答えだけを言葉にする。

 

「……最初から解りきっていた事だ。結局オレは、ラフタしか愛せない。そのラフタの面影を、箒に重ねてただけなんだ」

 

 そこに理由も説明も要らなかった。今ラフタを見ているこの状況だけで、それこそ十分であった。初めて箒の声を聞いたあの時から、昭弘の記憶に焼き付いたラフタは覚醒したのだ。

 だがラフタは変わらず笑顔のまま、然れど首を横に振った。

 

「…本当に、ただそれだけだと思う?昭弘」

 

 そう静かに問うと、ラフタは昭弘の後ろに回り、彼の首筋を両腕で包み込んだ。

 

「だって昭弘、折角答えが解ったのに…凄く辛そう」

 

「…」

 

 昭弘にとって箒は、一線を画した異性でも恋愛対象でもない。ラフタに似た部分が幾ばくかある、皆と同じ学友でしかない。

 もうそんな答えが出たと、勝手に終わらせようとする昭弘の心をラフタは鋭敏に捉える。

 

「答えなんか気にしないで、言ってみ昭弘。アンタにとって箒ちゃんは、どんな女の子?」

 

「……クールに見えて、内に熱いモノを宿している。いつも迷いながらも、最終的には強引に剣の如く真っ直ぐと己を正しちまう」

「そして…弱い。一見気の強そうに見えるが、心はガラス細工の様に脆弱だ。すぐ泣くし、すぐ悩む。だがそれでも強くなろうと進んで行く。そんな危うい存在だから、見てるこっちもほっとけなくなる」

 

 上手く聞き出せたと、ラフタは笑顔をにやけ顔へと変換する。

 

「なぁんだ、ちゃんと好きじゃん!箒ちゃんの事」

 

 だが尚も、昭弘は歯を食い縛る。自分には愛せないと、ラフタには遠く及ばないと、まるでそう言いたそうに。

 

「…ねぇ昭弘。「好き」に、大きさなんて関係無い。大事なのはね…箒ちゃんはこの世に居て、アタシはこの世に居ないって事」

 

 そう、嘗ての想いがどれだけ大きく高濃度でも、結局は見る事すら出来ない過去でしかないのだ。

 

「それでも…オレの心に空いた傷は…」

 

「…ウン、きっと完全に塞がりはしないと思う。けど大丈夫。アンタが箒ちゃんに抱く愛を信じていれば、いつかきっと“ラフタ”という幻影から解放される」

 

 低く無骨な声を震わせる昭弘に、ラフタは芯から温める様な声でそう説き伏せる。

 心の傷は完治出来なくとも、新たな愛によって痛みを和らげる事くらいは出来る。そうやってラフタの形をした傷が多少なりとも変われば、脳が幻影を見せてくる事も無くなろう。

 

 そんなラフタの言葉に、昭弘は思考を傾け始める。箒に抱く想いを信じれば、本当にラフタから解放されるのかと。今という現実に、それだけの力があるのかと。

 昭弘とて本当なら、いつまでもラフタとこうして居たい。それが無理だから、解放されねばならない。何も感じないこの世界は、生きている人間が居てはならないのだから。

 

 昭弘以上にその事を良く知るラフタは、惜しむ様に昭弘の背中から離れていく。

 最後の激励を与えねばならないのだ。昭弘が箒を愛せるようになる、ラフタにとって最初で最後の魔法を。

 

「解ったらもう一度左を向いて、しっかり箒ちゃんに伝える事!」

 

「ッ!」

 

 昭弘は岩場に来てもう何度目になろうか、勢いよく左を向いた。箒の姿を見るべく、或いは最後にラフタの顔を見るべく。

 

───

 

 

 

「…私の水着姿も?」

 

 振り向いた先には、変わらぬ体勢で箒が座していた。

 そして昭弘の背後に、人の気配はもう無かった。それはまるで、最初からこの世界に居なかったかの様であった。

 

(伝える……か。心の傷を負っていても尚)

 

 それしかない。楯無も言っていた様に、人間の知覚はどこまでも現在進行形だ。

 

 目の前の紅い水着を着こなした彼女は、強く鋭く、それでいて弱く脆い。特段明るい性格な訳でもなく、素直でもない。大人びているがそれは本当に見てくれで、中身は年相応か少し幼いくらいだ。

 ほんの少し似ている部分があるとは言え、ラフタとはまるでベクトルの異なる少女。放っておけない庇護欲かは解らないが、そんな少女に昭弘は惹かれた。

 

 箒とラフタ、もし双方が並んでいれば、昭弘は迷わずラフタを選ぶだろう。だが、そんな事は絶対に有り得ない。思い出を、己が立つ世界に持ち込む事なんて不可能なのだから。

 

 今、この美しくも儚い世界で紅い布を小さく纏っているのは、昭弘が小さな愛を抱いているのは、目の前の『篠ノ之箒』なのだ。

 それは想像でも思い出でもない、確かにそこに居る、昭弘と共に世界を感じている、そして触れる。

 

 そして今現実の箒に対して抱いているこの気持ちは、『ラフタ』という切っ掛けだけでは無い。他ならぬ箒でなければ生まれなかったのだ。

 昭弘があの時、ラフタを愛した様に、現実世界で抱き締め合った様に。

 

 

 昭弘は今になって漸く、真に理解した。それは、彼自ら抱く「箒への愛」を信じたが為に他ならない。

 

 

 ラフタはもう居ない、それが現実なのだと。

 

 

「…フッ」

 

 昭弘はワラった。少しでも愛に触れられた喜びからか、この瞬間まで気付かなかった自身の愚かさにか。

 

 或いは、これから箒に触れるのがただ純粋に楽しみだからか。

 

「…ぅん?」

 

 そんな抜けた声を出す箒に構わず、昭弘は座ったまま箒を抱き寄せる。

 鋼鉄の如き左腕を限界まで弛緩させ、まるで親鳥が卵を羽毛で温める様に、彼女の背中を包む。その先の左手もまた、同様に彼女の左肩を包んでは逃がさない。

 そうして彼女の頭は、丁度昭弘の左頬へ。

 

「お前の水着姿も、怖いくらい良く似合う」

 

 密着する素肌と素肌。箒の耳元で地響きの如く低く震える、昭弘の声。予想の遥か外である前触れ無きそれらは、言うまでもなく彼女の思考回路を焼き溶かした。

 

「………箒?」

 

 箒の柔らかな肌と香り良き艶やかな髪を直に感じていた昭弘は、彼女の異変に少し遅れて気付く。

 

「アハ……アハァアハエハ……アハァ…アハァハァ…」

 

 段々と空も夕焼けに近付いてきた。橙色のそれらに照らされてるからなどと誤魔化し切れないくらい、箒の顔面は全体が赤々と熟成していた。

 張りの無いトロンとした笑いは、これが現実である事への混乱の表れだろうか。

 

「…しっかり聞いてくれたんだろうな」

 

「アハァアハァハァ…」

 

「……オレは言ったからな?」

 

 未だ混乱から戻らない箒に、昭弘はやれやれと小さく笑う。

 ずっと感想を伝えられなかった分をハグで返したつもりだったが、やはり不味かったかと昭弘は己を戒めてみる。

 

 ともあれ、丁度良く太陽も山へと傾いてきた。

 小島が夜闇に包まれる前に、昭弘は未だ意識があやふやな箒の腕を引っ掴んで、岩山というステージを下り始めた。

 

 

 

 今はこれで良かった。昭弘も箒も、互いの気持ちを何の脚色も無しに言葉へ変換出来たのだから。そしてそれは何の間違いも無く、相手に正確に伝わった。

 もう互いに知れたのだ、自分の心も相手の心も。自分は箒の事が好き、自分は昭弘の事が好き。そして、箒は自分の事が好き、昭弘は自分の事が好き、と。

 

 

 だがそれは、告白ではないのだ。否、告白し、共に道を歩んではならないのだ。

 

 2人共、どの器官にも属さない第六感的な何かで理解しているからだ。昭弘は勿論、恐らくは箒も。

 

 そう長くは一緒に居られない、と。

 

 

 

 

 

 今回も、きっと2度と出会えないであろう素晴らしい光景を見させて貰った。

 やはり、人間とはどうしようもなく尊い。肉体、有限、そして性が存在するだけで、これ程までに先への道は広がるのだ。

 昭弘殿と箒殿、2人の監視の任を与えて下さった一夏殿には感謝してもし切れない。

 

 それこそが、先程鈴音殿に半ば言おうとしたものだった。

 私は何も、人間の放つ源を直に感じたい訳ではないのだと。ただ個々が持つ膨大な可能性を、時間の許す限り見届けたいのだと。

 尊いからこそ、干渉したくはないのだと。

 

 そう、考えていた。触れ合う昭弘殿と箒殿を見るまでは。

 

 如何に人間が侵し難い聖なる領域だろうと、私の中にも限りなく人間に似せた「情」が存在する以上、近付かずにはいられない。

 時には拒む事すら出来ない。砂浜にて隣り合い、共に語り合っていた先の様に。

 

 私が人間を眺める際の客観性は、鈴音殿に相対する時どうしようもなく主観性へと変質してしまうのだ。

 

 

 

 

 

 作戦も成功し、アタシは一先ず胸を撫で下ろす。隣の一夏も、一応は喜んでいた。

 ただ「一応」って付け加えた通り、純粋に喜んでいる訳でないのは表情を見れば解る。

 

 一夏は昭弘が好きで、箒の事も好きだ。

 その2人を自分から遠ざけてより親密にさせる心境なんて、アタシに解る筈ないけど少なくとも喜びだけでないのは確か。

 けどそんな事、一夏に訊ける筈ない。もし訊いたら…一夏が壊れちゃう様な気がする。穏やかな笑顔に、冷たい目、そんな顔の一夏を見ていて、そう思わずには居られなかった。

 だからアタシは、黙って一人無意味に考える。

 

 好きな人に好きな人を取られるって、どんな気持ちなんだろ。そうなったら、三角形はどう変わってしまうんだろう。

 

 そして同時に思った。好きな人と好きな人、その内の片方を選んだ箒の心境は…って。

 清々しいのか、苦しいのか、アタシとしては後者であって欲しかった。あの子に、どちらかを捨てて欲しくはなかったから。

 

 だったら最初から一夏に協力しなければ良かったんだけど、そうも行かない。「これが箒の望みだ」って、箒を一番良く知る一夏に言われちゃね。

 それが間違いじゃなかった事は、今の箒と昭弘を見れば良く解る。本当は止めたかったけど、箒の想いも一夏の想いも無下に出来ないもん。

 

 アタシの考える三角関係とは、あくまで3人だけの関係。そこにアタシみたいな無関係な人間が横槍を入れたら、それはもう三角関係じゃなくなる。

 

 まぁけど、今回みたいにサポートするくらいは良いわよね。

 

 

 




・おまけ



───18:00

 浜辺でのあれやこれやが終わっても、彼等彼女等の一日はまだ終わらない。
 次なる舞台はこれから3日間の本拠地でもある旅館「花月荘」、その醍醐味でもある大浴場だ。

 天然物であろう巨大な岩からは湯水が下っており、湯気によってぼやける光景はここが現実である事をも忘れさせる。

「…」

「…」

「ラウラ、髪結び上げてるとエロい」

「さっきから喧しい奴だな」

 しかし、男湯は僅か3人。対してこれ程の大浴場ともなれば、空いた場所によって侘しさも増長するというもの。故にか、一言一言が余計に纏わり付く様に響き渡る。

「だって昭弘の筋肉はさっき嫌って程見たし」

 そんな中またしても、一夏の方からペラペラと話題を振る。

「で、2人ともどう?日本の風呂は」

「ああ、落ち着けて良い。湯は熱いが、不思議とずっと入っていられる」

「気持ちいいが、髪結んだりと色々面倒だ。私的にはシャワーの方が好きだ」

 尚も瞼を閉じながら、力の抜けた声でそう返す昭弘とラウラ。
 そこでもう会話が途切れてしまった為、一夏は直ぐ別の話題を繰り出す。まだまだ話のストックがある様だ。

「女湯覗きに行っちゃ駄目だよ。あ、けどラウラはツインテにすればギリバレないかも」

「分かったからいい加減口を閉じろ一夏。私は疲れてるんだ、肉体的にも精神的にも」

「…悪いが、オレもラウラに同意だ。この気持ち良さは、静かに味わいたい」

「えー…」

 IS学園にも大浴場はあるが、それは女湯のみ。男子は人数が人数であるが故、致し方ないと言えばそれまでだが。
 そんな訳で一夏にとっては、折角の大浴場。黙って過ごすのは勿体無いと感じているのだろう。
 対して昭弘とラウラは、閉口したまま侘しさに身を預けるつもりの様で、一夏の心境と真逆だ。ただ静かに癒されのが、2人の切実な願いだ。

「ハァ…せめて女湯が直ぐ隣なら寂しさも紛れるのに…」

 それこそ覗き覗かれ放題だろうと、思っても面倒だからか言葉には出さない昭弘とラウラ。どれだけ一夏は大浴場で喋りたいのだろうか。

「…もう女湯行かない?」

「「黙れ」」

 流石にそれだけは言葉に出せた昭弘とラウラであった。




 此方の女湯は一変。大人数に任せて華やかな黄色い声が、そこかしこから響き渡る。

「♪」

「騒がしいのにご機嫌ね」

 鼻歌を刻みながら湯を肩にかける箒に、鈴音は愉悦を顔に浮かべながら切り込む。端から見れば鈴音こそご機嫌に見える。

「え!?…いや~…普通…だぞ?」

 相変わらず分かり易い箒だが、全部知った上で訊く鈴音も鈴音だ。
 
 だが箒は、瞼を閉じ頭を振っては浮かれを追いやる。何やら気掛かりなものが浴場内にある様だ。
 互いに意を同じくする箒と鈴音の視線の先には、令嬢さなんて排水溝へ流してしまった様にぐったりと岩の縁に肘を掛けるセシリアが。タオルすら巻いていない、露わな姿だ。
 表情は恍惚というより、やつれている感じだ。

「何かあったのだろうか」

「なんか布仏と色々あって、その後全力遊泳して山田先生に介抱されてたらしいわよ」

「…情報が増えたのにますます分からん」

 続けて心配と疑問の視線をセシリアへ向ける2人。お淑やかを絵に描いた彼女がここまでだらしなくなる等、一体本音と何があったのだろうか。
 すると噂の彼女も、セシリアを心配してか行儀悪く湯の中を泳いでやって来た。どうやら喧嘩をしていた訳でもない様子。

「セッシー大丈夫~?」

「わったらぶきゃしぃッ!!!」

 至近距離まで近づく本音の顔を前にして、意味不明な奇声を上げたセシリアはそのまま逃げる様に箒たちに飛びつく。

「だだだだだ大丈夫です事よぉ!?ホラこの通りピンピンしてますわ!」

「「えぇ…」」

 出汁に使われた箒と鈴音は困惑の声を上げるが、セシリアが元気である事は把握出来たので取り敢えず安心してみる。
 正しくは「元気な振りをしているセシリアに合わせて安心してあげている」だが。

「セッシー、まださっきの事で照れてるの~?」

「てっ、てっ、照れてなど!!」

 変わらずにこやかな本音、湯に浸かっていて良かったと赤くなるセシリア。

 「照れる」と聞いた2人は、セシリアと本音の間に何があったのか軽く推察してみる。単に訊けばいい話なのだが、訊いたらセシリアに全力で阻止される未来が彼女たちには見えるのだ。
 女子同士のアレコレで、肝の座ったセシリアがこれ程に取り乱すとなると───

「いやぁ、温泉って気持ち良さと憂鬱さが入り交じった、複雑な心境になるよね」

 推察の最中、空気の一切を読まずにそんな話題を唐突に振ってきたのはシャルロットだ。不本意そうに、タオルを胴体全体に巻いている。
 始めたばかりの思考を渋々中断し、今度は何の前振りかと面倒臭そうに振り向く箒と鈴音。
 対して、セシリアは話が逸れて嬉しそうだ。

「何で~?」

 そう聞き返してあげる本音は本当に純粋で優しい子だなと、箒と鈴音は思わずには居られなかった。

「だってさ…」

 シャルロット、一呼吸置く。

「男装出来ないんだもん!」

「あ~!ホントだね~!」

 納得する本音。「は?」と威圧を込める箒たち3人。
 そんな都合の悪い3人の反応はまるで視界にも耳にも入らず、尚もシャルロットは強く瞼を閉じながら熱弁を続ける。

「さっきの水着は塩塗れだし、こんな事ならもう一着買っとくべきだったよね。いやッ、けど大浴場でああいう水着はないよね」
「どんなに美男子でも、女湯に居たら変質者ってる事さ。だからこそ歯痒いよね、こんなにも視線が集まる状況で何も出来ないだなんて。こんな絶好の機会で、ただ歯噛みしながら普通の女の子してる自身が腹立たしいよ。全くジレンマさ…男装が完璧であればある程、こういう状況ではますます変態扱いされてしまう。けどっ…やっぱり僕には耐えられない、男姿を変態と呼ばれるその苦痛にだけは」
「それ以前に僕は女の子なんだから男装して女湯入っても変態じゃないって意見はあるんだろうけど、それもそれで納得出来ないよ。だってそれって要するにさ、「所詮紛い物」って思われてる訳じゃん?男装を極めようとしている僕的には、看過出来ないんだよねそういうの。いや、だからって性転換したい訳でもないんだよ。ただ僕は「僕が女である」という皆の認識を、この大浴場で薄れさせたいだけなんだ」
「要は裸体に近くてしかも変質者にならない様な男装が、浴場における僕の最も理想とする所かな。ねぇ皆はどう思───」

 意見を求め瞼を開けるシャルロットの眼前に、4人の姿は無かった。
 近くではチロチロと、湯船に流れ着く小滝の水音だけが響いていた。

「……最近、みんな僕の扱い雑じゃない?」




───19:00 大宴会場

 生徒全員を一遍に収容するとなると、並の会場では中々に手狭だ。
 その点、花月荘の宴会場は流石だ。端から端まで、駆けても尚時間が掛かりそうな程。こうまで広大だと、寧ろ友との語らいが大変そうだ。

 存分に語らう生徒たち。
 壁に描かれた猿は黄色い団欒を聞き、角に飾られてる木彫りの鶴は破顔を目に焼き付け、会場全体を覆う和洋の極上は礼儀も何も無い奇声ですら優しく包み込む。


 その中に身を置く昭弘は今、等しく整った生魚の切身を見つめていた。だが所詮は切身、魚が丸々乗ってる様なグロテスクさは無いので、気にする程でもない。
 正確には、それの脇に置いてある黄緑色の小山を昭弘は見ていた。食べ物なのは何となく解るが、それしか解らない。

「…」

 考えが済んだ昭弘は、斜め向かいに同じく座するセシリアへ声を掛ける。

「オルコット。その黄緑色のヤツ、丸ごと食べると美容に良いらしいぞ」

「アラそうですの?美しい色合いなので先程から気にはなっておりましたが…では早速」

 セシリアは、未だ慣れない箸をその黄緑色の塊へ伸ばした。

「あ、セッシーそれ───」

 本音が何かを言おうとした時には遅く、セシリアは塊を丸ごと掬い上げるとそのまま口内へ運んだ。
 そして、舌が塊に触れた瞬間───

「ん゛ッッッ!?」

 辛味が舌を震わせ、刺激が口内から鼻孔へと到達し、瞼からは恐怖からでも喜怒哀楽からでもない滴がその姿を覗かせる。

「何ですの!?この貫く様な辛さはッ!!?」

 尚も悶絶するセシリア、しかも丁度グラスに水が残ってない。
 見たねた隣席の本音が、ケタケタ笑いながらもセシリアに水とペーパータオルを分けた。

「成程、辛いのか。気をつけんとな」

「おのれアルトランド!知らないのなら近くの日本人にでも訊けばよかろうに…!覚えてなさいな!!」

「いや、すまん。どこまで詳しく日本の事調べてきたのか、試そうと思ってな(旅館に着いた時のお返しだ、ざまぁないぜ)」

 だが、まさかこれ程とは思わなかったのだろう。少しの戦慄に支配された昭弘は、恐る恐る自分のわさびを見下ろす。一見宝石の様に美しく甘そうにも見えるのだが、見掛けによらないとはこの事か。
 そうして新たな知識を得、セシリアへの仕返しも済んだ昭弘は、まるでわさびから逃げる様に鰤の味噌汁を啜る。
 
「昭弘が悪いとは言え、調査の詰めが甘かったねセシリア」

「すまないなセシリア、私たちも止めるのが遅れた」

 昭弘の両隣にいる一夏と箒は、憐憫なる視線をセシリアに送る。まだ鼻を押さえているセシリアの様子からして、回復までにはもう少し時間が掛かりそうだ。


「しかし、セシリアの気持ちも解らなくはない。日本食は確かに美味だが、どうにも食い辛い」

 話を戻すかの様に、ラウラも伊勢海老を箸でつつきながらそう言葉にする。

「作法だけじゃない。箸は面倒だし、ソレで巻貝だの焼魚だの海老だのいちいち分解するのも億劫だ」

「それは確かにな。食であれ何であれ、「和」というのは色々と礼式がややこしい気がする」

 従業員には聞こえない程度の声量で、そうボソリと同意する昭弘。学食の定食程度しか日本の文化に触れていない彼等にとって、浴衣も本格和食も取っ付き辛い様だ。

「食わせて貰いながら何様のつもりなのアンタたちは。グダグダ言わずにさっさと慣れる、以上」

「そうだぞ」

 昭弘たちを叱責する一夏に、箒も便乗する。人様が丹精込めて作った料理だ、その反応も当然だろう。

「ああ…すまない。ただオレが一番言いたいのは、そんなガチガチの礼式を当然の嗜みとして身に付けているあの人たちが、凄いし格好良いって事だ」

 長きに渡り精錬された礼儀作法は、その動きそのものが一つの美に到達する。
 今も尚この広い宴会場を乱れぬ歩行で行き来し、追加の品を次々と座席に配ろうと笑顔も動作も崩れず、注文や要望に対して瞬時に最適解を見い出す彼女たちは、紛れもない接客者の頂きだ。
 それ即ち対人コミュニケーションの極みだとするなら、昭弘でも誰でも敬服は生まれよう。


「何か「格好良い」って単語が聞こえてきたけど僕の事?」

「ちげぇよ」

 他クラスとの擬似ハーレムから一旦抜け出し、昭弘と箒の間からひょこっと顔を出してきたシャルロット。それなりに席が離れていたというのに、そこだけ聞き取れるのは流石である。地獄耳の真逆みたいな小娘だ。

「じゃあ誰が格好良いのさ?」

「デュノア以外の誰かだ」

「チッ、じゃあ一夏か」

 勝手に混ざっては話をどんどん有らぬ方向へ曲げていくシャルロットに、昭弘と箒は疲れからか押し黙る。

「ま、男装ナルシのデュノアには余り関係ない話よね」

「そうですわね。デュノアさんが他国の文化をどうのこうの言う光景は、私も想像出来ませんわ」

 鈴音とセシリアがそう言い終えると、シャルロットは真顔で2人を見詰める。昭弘と箒の間からはみ出る目をギョロリと丸くしたその顔は、控え目に言って不気味だ。

 そうして今度は目を細めた後、探る様に口を開く。

「………すんごい今更なんだけど、何故にみんな僕だけ苗字呼び?」

 対し、「あ」とまるで今気付かされた様に心中で呟いた彼等彼女等は、二呼吸程沈黙する。

「オレは名前呼びだ」

「オレもちゃんとシャルって呼んでるじゃない」

「そげな事は分かっとらい!僕は女性陣とラウラくんに聞いてんの!」

 段々と興奮してきたシャルロット。何やら嫌な予感に精神を削られている様だ。

 困惑、後ろめたさ、無関心、各々が違う表情を浮かべながら互いに向き合う女性陣そしてラウラ。

「おーい、何集まってんだよ君たち」

 シャルロットの言葉が示す通り、4人は何かを打ち合わせる様に、輪になって固まり始めた。

「どう致しましょうか…「貴女とはそこまで親密でない」等と申し辛いですし…」

「だが事実だ。私なんて未だ苗字どころか、まともに話した事すら無いぞ」

「アタシは呼び易いからそう呼んでるだけなんだけど…」

「ここは当たり障りのない理由を考えよう。セシリアの通り伝えたら、絶対泣くぞ彼女」

「アタシまで巻き込まないでよ!」

「じゃかしい。貴様も苗字呼びである事に変わりは無かろう鈴音」

「鈴の通り、呼び易いからで良いのではなくって?親密とまでは行きませんが、友人でない訳でもありませんし」

「いや、それもどうなのだろうか。デュノアももうすぐ苗字が変わる訳だし、それでは却って地雷になる様な…」

 ヒソヒソと、風が吹く様な声で懸命に話し合う箒たち。
 だが時間が経てば経つ程、シャルロットの引き攣った笑顔に青筋が枝を伸ばしていく。彼女たちが何を話しているのか、大体は想像出来ているのだろう。

 だが少し経って結論が出たのか、4人は小さな円を解く。
 釈明の声を上げたのは箒だった。

「いやー…実はだな、我々もそろそろ下の名で呼ぼうと思ってたんだが、最近ではお前の男装が余りに完成され過ぎててな。それでつい苗字呼びを…」

 ぎこちなく理由を述べる箒を見ては、固唾を飲む鈴音とセシリア。ラウラも、上手くいくのか半信半疑の視線を向ける。
 だが彼女たちの緊張も杞憂だったかの様に、シャルロットは納得した様に笑う。

「なぁんだそうだったのかぁ!ハハハハハ!!…で、本心は?」

 いや、言いくるめは無理だった様だ。
 笑顔を解き、目を大きく見開くシャルロットを前にして、箒たち4人は冷や汗で顔面をテカらせながら目を背ける。

 そんな無声の答えを食らい、シャルロットは口をあんぐり開けて泣き叫ぶ。

「ダァ゛ァ゛ァ゛ァァァァァ!!!どぉうぅせ僕は友達以下だよぉぉぉ!!そう思ってるなら最初から言ってくれもっと惨めになるじゃんかぁぁぁぁぁ!!」

 宴会場に響き行く絶叫を聞いて、箒と鈴音はどうにか彼女を宥めようと立ち上がる。「友達じゃないでもない」と、セシリアの言葉を脳内で復唱しながら。
 が、昭弘と一夏が先に言葉を割り込ませる。

「まぁ落ち着け。少なくともオレと一夏は…多分お前の友達だ」

「そうよ。それに、呼び名が全てじゃないでしょ。苗字で呼び合う友達だって…居るよ、きっと、恐らく」

「曖昧すぎて慰めになってないよねソレ!?」

 興奮が留まる事を知らず、突っ込みが冴え渡るシャルロット。

「ああそうか…最近扱いが雑だなとか思ってたけど、そもそも友達じゃないんだから雑もクソもないかー。ワーハハハ何を勘違いしてたんだー僕はー」

「違うぞ!アレは折角湯船に浸かっている時、自己陶酔の入った小難しい戯言を聞きたくなかっただけだ!友だ他人だ関係無く、誰だって心と身体を休めている時にそんな話をされたら嫌だろう?」

(あ、止め刺したわね箒)

 鈴音の予想をそのままに、シャルロットはまるで心臓を抉られた様に白目を剥いては仰向けにドテーンと倒れ込む。
 知人に過ぎないから雑に扱ったのではない、シャルロット自身の言動が招いた結果に過ぎなかった。そんな箒の、励ますつもりで言い放ったしかして余りに正論過ぎる本心を聞いて、シャルロットはショックと自身の至らなさとに挟まれ潰された。
 同情を誘うのには成功したが、結果として自らの首を絞める羽目になってしまったシャルロットであった。

(…こういう所なんだろうな)

 そう結論付ける昭弘。
 相川たちの様に男装やそれに付随したナルシズムを強く好んでいるのならまだしも、箒たち的には「またか」とうんざりするだけなのだ。少なくとも箒たちは、格好付けるシャルロットを格好良いとは思っていない。
 何なら距離を置かれないだけ大いにマシだ。

 それを含めた大元の要因を、昭弘はゆるりと口にする。

「そんなに女子から名前で呼ばれたいなら、格好良いと思われる様な事をせんとな」

 それを聞いて白目から一旦は覚めたシャルロットだが、眉は頭の上に疑問符が乗ってる様な形となる。

「僕、十分格好良いよ?」

「だからそういう所なんだっつの」

 これは存外、と言っても昭弘にとっては予想の範疇だが、時間が掛かるかもしれない。
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