IS~筋肉青年の学園奮闘録~   作:いんの

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今回から少し時間が遡ります。時系列的には「水着購入回」の後くらいと思って貰えれば。
あと、こちらは水着購入より前の時系列になりますが、千冬とデリーの面談?も宣言通り描きます。

臨海学校に行くまでの、各々の心模様についてがメインになります。







第65話 未来への道筋 ①

─────7月10日(日)

 

 レゾナンスの帰り、既に日が真横に位置する空は、流水から溶岩へとその様相を変えていた。

 

「ハァ…」

 

 先に昭弘たちと別れた鈴音は、そんな空の下を溜息混じりに歩いていた。ただ行く宛も無く彷徨う様に歩くそれは、厳しくそして虚しい現実からの逃避を思わせる。

 事実、それに近かった。彼女は気分転換ですらない「何となく」で、一人ただブラブラと学園内を歩いていたのだ。

 

《鈴音殿》

 

 格納庫の近くで自身の名を呼ぶ機械音声を拾った鈴音は、その方向へと視線を動かす。

 

「ジロ」

 

 格納庫近くを通る度、会っては他愛もない話をするツインテール少女と白い無人IS。最近では見慣れた光景である。

 そんないつもなら快活な鈴音の声が、今回は低く濁っている。

 

《酷ク疲レテイル御様子》

 

「…まぁちょっとね。アンタは何してんの?」

 

《本日ノ検査ガ一段落シタノデ、格納庫周辺ノパトロールデモト》

 

 途端、鈴音の纏う雰囲気が変わる。一つの期待の先に、歓喜と落胆を同時に内包している様な、そんなものに。

 

「…アンタも、何もやりたい事とか無い感じ?」

 

《ハイ。我々ニ“欲”ハ存在シマセンノデ》

 

 返答を聞いた鈴音の心境は、何かの同類に巡り会えた時のそれに似ていた。

 

「…ありかと、ジロ」

 

《感謝ヲ述ベラレル所以ガ見当タリマセンガ》

 

「アタシにも良くわかんない」

 

 だがそんな言葉をジロに伝えても、鈴音全体を覆う重い気は余り変わらなかった。

 ならばと、今度はジロが音声の波を揺らす。

 

《私モ、貴女ニハ日々感謝ノ思イヲ抱イテオリマス。誰ヨリモ人間ラシイ貴女ト言葉ヲ交ワスノハ、私ニトッテ掛ケ替エノナイ有意義デス》

 

 ジロの言葉に、誇張はなかった。

 が、鈴音の雰囲気は軽くなる所か、まるで地中に引かれるが如く更に重々しくなってしまう。

 

「……人間らしくなんてないわ」

 

 鈴音が人間である事は一目瞭然だ。

 それでもジロは「人間らしくない」と言い切る彼女に、何の反論も出来なかった。それはそうだろう、人間でない彼が「人間らしい」と言った所で、何の説得力があろうか。

 

「……ゴメン、アタシそろそろ行くわ」

 

《ハ。道中オ気ヲ付ケヲ》

 

 感謝の言葉を述べ返しただけのジロだが、鈴音の様子は寧ろ悪化してしまった。

 故に、人間の心情とはやはり複雑怪奇なものだと、ジロは反省と共にまた一つ人間への興味関心を深める。

 

 そしてそう思わせる鈴音はやはりより人間らしいと、機械音声の届かない程鈴音が離れてからになってジロは思い至った。

 

 

 

 

 

 

 

─────7月11日(月) 16:16 アリーナC

 

 「生身の様に」では最早足りなかった。

 

 生身であり生身以上。

 それが何を意味しているのか、どんな肉体の状況を示しているのかは、今グシオンリベイクと“準一体化”している昭弘にしか真には理解出来ない。

 

 シャルロットの操るラファールが、高速旋回しながら放つ無数且つ多種多様な実弾。

 鈴音の乗る甲龍が、大小のバレルロールを駆使しながら広範囲に連続的に放つ不可視の衝撃。

 

 全身の筋肉を余す事無く連動させながら身体をあらゆる方向へと捻り、コアはそれを100%グシオンの動きに反映させる。生身には無い筈の各部スラスター・バーニアも、今やコアとなっている昭弘の意思通りに角度を変えてはエネルギーを噴射する。

 そうやってまるで大海を泳ぐ鯱の如く実弾不可視入り乱れる弾幕を躱し、何処かのタイミングで弾幕が薄まれば破裂した様に目標へと突っ込む。

 

 弾幕へと突き進み然れど全弾躱そうとするそれは、まるで自ら不利な状況に足を踏み入れて行く様であった。

 

 いや或いは、殺意蔓延る憎悪燻る絶望地獄混在する本当の戦場を、求めているのだろうか。

 

 

 

 

 フルマラソンを完走したかの様な過呼吸を繰り返しながら、ピットの床に無造作にへたり込む昭弘たち3人。

 すると頭からタオルを被った鈴音が、疲労を振り払う様に第一声を発す。

 

「ハァ…なんか…ハァ…勝った気しないわ…ハァ」

 

 鈴音とシャルロットのタッグは、昭弘の無謀な戦法もあって勝ちを拾えた。が、2対1で更には昭弘のどう見てもわざとな戦術ミスともなれば、鈴音の不満もあからさまに浮き出よう。

 

「だが骨のある特訓になったろう?」

 

「まぁ…ハァ…そこは…ハァ…同意だけど…」

 

 バトルを昭弘に上手い事誘導された感が気に食わない鈴音だが、特訓の面では大いに満足している様だ。

 

 対してグロッキーなシャルロットは、俯せのまま先程感じた恐怖を口からタラタラ垂れ流す。

 

「もうヤダ昭弘怖い二度と戦いたくない本気で死ぬかと思った顔面潰されるかと思った…」

 

 ブレないシャルロットに呆れ返る昭弘だが、鈴音は僅かに同情の余地があるのかシャルロット側に気持ちを傾ける。

 丁度、昭弘に訊きたい事もあった。

 

「…今更だけどさぁ、何でアンタそんなに強くなりたいの?ただセシリアに負けたくないから…ってだけじゃないんでしょ?」

 

 鈴音の疑問を聞いて、絨毯に出来たシミの様に伏せているシャルロットも顔を僅かに上げる。単純に気になるからか、若しくはハンサムの更なる秘訣を抽出する為か。

 

 2人分の視線を浴びた昭弘は、顔は俯けたまま射返す様に視線だけを彼女たちに向ける。

 

「…いざって時、強いに越した事は無い。ただそれだけだ」

 

 はぐらかされた様な核心を突いた様な昭弘の回答に対し、鈴音は更に問い詰める事も出来ずに渋い顔をする。

 だが少なくとも、昭弘のソレは鈴音が求めていた答えではなかった。

 

「鈴には強くなる“目的”があんのか?」

 

 逆に繰り出された昭弘の質問によって、鈴音はまるで自身の中にある蟠りを晒し出された様な気分になった。

 

 彼女にも目的はあった。

 強くなって代表候補生になって最終的には国家代表になって、病弱な父を医療面でも金銭面でも助けてあげたい。

 目的はそれだけに留まらなかった。世界の誰よりも強い女になって、幼馴染の隣をいつまでも独占出来る様になりたいなんて馬鹿みたいな野望まで生まれた。

 

 だが父の中華屋は鈴音が手を差し伸べるまでもなく盛り返し、当の父もISTTで会った限りでは健康そのもの。

 一夏も今や嘗ての異性として見ていない以上、女として彼を独占する彼に意識して貰うだなんて劣情は一滴分も湧かない。

 

 つまりは───

 

「………無いわ、だからアンタの“強さへの意欲”が気になったの。どんな「最終目的」があるんだろうって」

「アタシもアンタと同じ。弱いよりは強い方がマシに決まっている、それだけの理由で日々訓練を重ねてる。ISが好きだから、持続出来ているだけ」

 

 そんな、日々を無意味に消費している自分の何処に人間らしさなどあろうか。そう、昨日感じていた事を心の中に再現する鈴音。

 

「昭弘には悪いけど、アタシもアンタもそんなんじゃ駄目よね。…イヤ、駄目なのは割り切れずに中途半端なアタシか」

 

 ISが好きなだけでは、何処にも辿り着けない。

 ISが好きで、それを何に活かしたいのか、どうなりたいのか。或いはセシリアの様に、純粋にIS操縦者としての頂点を目指すのか。鈴音にはそのどれもが無かった。

 

 焦っているのは昭弘よりも寧ろ、鈴音の方であったのだ。

 

 

「僕はそれで良いと思うけどなぁ」

 

 いつの間にか仰向けへと体勢を変えているシャルロットは、あくまで気楽そうに言い放つ。

 

「その為の学校でしょ?日々知識と経験を地道に蓄えて、そこから目標・目的を定めていくというかさぁ」

 

「…そんな普通な感じで良い訳?卒業までに目的が見つからなかったらどうすんのよ」

 

「普通に頑張ってれば、IS学園は新鮮で面白い“何か”を与えてくれるさ。それに卒業まであと2年半以上あるし、絶対見つかるって」

 

 楽観的でどこか受け身思考の強いシャルロットに、鈴音は呆れの混じった顰め面をする。

 加えて鈴音は「普通」という言葉に抵抗感を持っていた。彼女にとっては凡庸、曖昧、何も無い、同じ事の繰り返しと、それら負のイメージが強い言葉だ。

 つまり鈴音にとって「普通」とは、「目的」の対義語に等しい言葉なのだ。

 

 だが昭弘は、シャルロットの言う通りである様に感じた。

 目的も無しに成長する。それは断じて悪い事ではなく、目的を見つけた時の為に備えているだけなのだ。

 確かにいずれは見つけねばならないのだろうが、今は未だ見つからないなら、無理に探すよりも将来の選択肢を増やす為に力を蓄えるべきだろう。

 

 昭弘がそんな事を思っていると、らしくない己に気付いたのか鈴音が溜息を吐く。

 

「ハァ…アタシってこんなネガティブだったっけ」

 

「偶にはいいじゃねぇか。ずっと元気ハツラツでも、見ているこっちが却って不安になる」

 

「あーそれ僕も分かるかも」

 

「そういうこった。誰にも言わずにずっと悩みを閉じ込めとくのが、一番不味いもんさ」

 

 昭弘にまで励まされてしまった鈴音は、口から吐き出す北風に湿気を纏わせ更に重たい溜息へと変える。

 

 彼女は色々な助言をくれる昭弘を良き友人として頼りにしているが、それと同じくらい気に食わなかったりもする。

 ただでさえ子供扱いされるのが嫌な鈴音としては、年上みたいに諭してくる昭弘が時々癇に障るのだ。まるで年齢差を見せ付けられてる様で、子供である以前に一人の女なのにそう見なされていない様で。

 

 鈴音の為を思って言ってくれている昭弘に、そんな身勝手な不平不満吐き捨てられる筈も無く。

 その不満も長い付き合いを経れば、「友の一部」として緩い日常での一場面へと勝手に浸透していく。

 

 そんなやり取りの賜物かは知らないが、鈴音は感情の制御が上手くなっていた。以前なら癇癪を起こしていた出来事も、後のデメリットを冷静に予想する事で抑えられる様になったのだ。

 

 

 この学園に来てから、鈴音は変わった。

 

 最初はどんなに環境が変わっても、自身は何一つ不変であると思っていた。自分は此処でもきっと変わらず一夏を愛し、そして同じく一夏を狙う無数の女と火花を散らすのだろうと。

 

 だがそうはならず、箒ともセシリアとも良好な交友関係を築けた。

 鈴音とは違い、彼女たちは意識の殆どを一夏に向けていた訳ではなかった。箒にはもう一人想いを馳せる異性が居て、セシリアは恋愛とは別に超えねばならない相手が居た。

 ごく当たり前の事だが、誰しも一夏が全てと、恋愛が全てと、決してそうなる訳では無い。

 そんな彼女たちと学園生活を共にすれば、鈴音の恋愛観も変わるし性格も丸くなる。

 

 だがそれでも見つからなかった。一夏以外のもう一つ、新しい「目的」と呼べるモノが。

 

 そうして“その時”が訪れてしまった。一夏が本来の自分自身を、見つけてしまったその時が。

 それこそが真実であると気付いた鈴音は、遂には何故強くなるのかその目的を見失ってしまった。

 

 

 思考が変わり、愛しい人も幻想に消え、目指すべき自分すらも崩れて散る。

 それら全てにおける大元の因子である昭弘は、未だげんなりとしている鈴音を見兼ねてか追加の言葉を贈る。

 

「気を楽に構えるのもナーバスになるのも、どっちも捨ててはならない心構えだ。急ぐ必要なんて無いが、一日でも早く目的を見つけたいのならそれらの配分を上手くコントロールしないとな。考え過ぎるとオレみたいになるし、気楽過ぎるとシャルロットみたいになっちまう」

 

「サラッと馬鹿にされたね僕」

 

「来週は丁度臨海学校だが、そんな中気楽に、一歩引いた所から全体的に物事を捉えてみたらどうだ?何か気になる事が見つかるかもしれんぞ?」

 

 『織斑一夏』という何にも比較し難く大きな目的の一つ。それを奪って行った青年の言葉を、それでも鈴音は縋る様に聞き入っていた。

 

 目的も無しに生きていくのも、目的を持たない相手を見てホッとするのも真っ平だから。一夏と同等とも呼べる新しい目的が、どんなものなのか知りたいから。

 そして、新しい目的を見つけた新しい自分に早く出会いたいから。

 

「大前提に訓練があるんだがな。てな訳でもう一戦だ、そろそろ機体のエネルギーも溜まったろう」

 

「…うん」

 

「えぇ……………ハイ」

 

 

 

 

 

 

───同日 夜 中国

 

 閉店後間もないとある中華料理屋、シャレた照明によって淡い黄色に染まっている店主の部屋。

 窓を開けども蒸し暑い室内で、紫色の携帯を片手に口を動かしているのは、当然ながら当店の店主だ。

 

「成程ねぇ、そんな事が」

 

 愛娘から一通りの話を聞き終えた楽音は、いつも通り明るくも真摯な声調で言葉を返す。

 

「全く人生、解らんものよなぁ。一夏くんがどう変わったのかは知らんが、あんだけベタ惚れだった鈴ちゃんがなぁ…」

 

《もーそれ言わないでよ。アタシが一番ショック大きいんだから…》

 

 意中の相手がいなくなってしまった心の空白は、やはりそう直ぐには埋まらない。今彼女には、女としての刺激が無かった。こういう機会を使って、愚痴を零したくもなるのだろう。

 それはまた、昭弘たちに励まされるのとは別だ。

 

「……これ言ったら鈴ちゃんは怒るかもしれんが、正直オレは少し嬉しいぜ」

 

《はぁ?何よそれ?》

 

 いきなりとんでもない事を言い出す父親に対し、案の定鈴音は声に威圧を込める。

 

「まぁ聞けって、確かに一夏くんの事はオレも残念さ。けどなぁ、「誰かの為に」ってのはどうなんだってオレは思う訳よ」

「勿論、人を助けたい人の役に立ちたい、どれも美しく素晴らしいもんだ。だがそれらを成したとして、自分じゃない全く別の人間が称賛されたり、見返りを貰ったら…鈴ちゃんどう思う?」

 

《っ…》

 

 そんなの嫌に決まっている。鈴音はそう思ってしまったが、意地になってるのか言葉には出せなかった。

 楽音はそんな娘の思いなんてとうに見越している。人間である以上、避けられない欲求だからだ。

 

「鈴ちゃんがいくら一夏くんの為に国家代表になろうと料理の腕を上げようと、一夏くんが別の女を選べば…それは目的を達成したとは言えんだろう。その後……鈴ちゃんどうすんのよ」

「目的ってのは、詰まる所「自分の為」にしか存在しないのさ。人の役に立ったのは自分だ、他の誰でも無い自分が世界を変えていきたい。そういうのが目的って奴さ」

「昭弘くん…だっけ?彼の言っていた目的も、要はそういうヤツなんじゃないかなぁ」

 

 恋愛そのものを最終目的にしてはならない。鈴音には、父の言葉からそんな真意がありありと見て取れた。

 

《……恋愛なんてそのついでで良い、とでも父さんは言いたいの?》

 

「もっと言うなら「誰か一人の為だけに生きる」…ってのは、間違っていると父さんは思う。その人を助けたとしても自己満足にしかならないし、感謝されても依存度が増すだけ、捨てられたら…その人を憎む様になる」

 

 それが楽音の考えであった。大切な一人の為に生きるというのは、要するに自身の存在意義を相手に押し付けているに近い。それは相手からすれば、「自分のせいで縛られてる」という重荷にすらなる。

 

《…じゃあアタシは、女として満たされないまま歳を取れっての?》

 

「一夏くんを意中の男として見れないんなら、少なくとも在学中はそうなるな。けど「やりたい事」さえ見つかれば、ポッカリ空いた心もそれなりに満たされるもんよ」

 

 女尊男卑という世の風潮に逆らって“女”として生涯尽くす男を探し続けるのか、それとも新たな目的を見つけてそれに続く道を歩んでいくのか。

 だがIS学園に来た時点で、鈴音の道は半ば決定付けられた。一夏だけを追い求め、他の異性を眼中の外へと追い出してしまった。まさかあんな結末になるとも知らずに。

 もう、何が何でも「自分の道」を見つけるしかないのだ。

 

 それでも、鈴音に後悔は無かった。真実を知れたのだから、新たな世界に入れたのだから、そこで皆に出会えたのだから。

 目的を欲する様になれたのだから。

 

《…分かった、もう覚悟決める》

 

「悪ぃな、こんな助言しか出来なくて」

 

《ううん、ありがとう父さん。完全に頭も心も切り替わったわ。それと…》

 

 少しの間を置く鈴音。その「間」の中では、言うまでも無いお節介と一応言った方が良いという心配とが鬩ぎ合っていた。

 結果、打ち勝ったのは「心配」であった。

 

《…もう大丈夫みたいだけど、身体にはくれぐれも気を付けてね?》

 

 らしくも無く弱々しい娘の声を聞いて、楽音は陰鬱さを吹き飛ばす様に笑って見せた。

 

「ガッハッハッハ!!鈴ちゃんはホント優しいんだからもう!…ほんじゃ、お互い明日もある事だし、そろそろ切りますかい」

 

《あ、うん…じゃあまたね父さん》

 

「あいよ!バイバイ鈴ちゃん!!」

 

 そうして楽音の方から、プツリと通話を切った。

 

 

 そうして漸く、男の部屋に静寂が訪れた。誰も見ていない、誰も聞いていない静寂が。

 

 

 

ゲフォッ!!!ゲホッ!!ゲホッ!エ゛フォ!

 

 

 

 楽音は近くのスタンドに掛けられてたタオルを急いで引っ掴むと、それを口に当てながら激しく咳き込む。

 それはよく耳にする普通の咳ではなく、嗚咽に似たものだった。

 

 やっと咳が止まり白い手拭き様のタオルを見てみると、赤い飛沫によって軽い水玉模様が出来上がっていた。

 

「ハァ゛…ハァ゛…あっぶねぇあぶねぇ。バレるとこだった」

 

 何もかも空元気であった。

 楽音は癌だったのだ。それももう、治療でどうにかなる段階をとうに越えた。

 

「あ゛ーもう、あと一年持たんなこりゃ…」

 

 彼はもう、とうに死を受け入れていた。

 

 彼だけではない、別居中の妻ももう夫の死を覚悟していた。

 手遅れと知り、何度も泣き、夫の耳に胼胝ができる程延命の話を持ち掛けた妻。それでも、夫の決意が変わる事はなかった。

 

 何も知らされていないのは、鈴音だけであった。

 

「…フッ」

 

 だが楽音は笑った、これで良いのだと。

 

 鈴音は優しい、危うい程に。優し過ぎて、自分の全てを大切な相手に捧げてしまう。

 そんな愛娘が父親の病を知ってしまったら、それを治す為だけに人生の全てを費やすだろう。それを目的にしてしまうだろう。

 

 どうしてそんな事が出来ようか。娘には、鈴音には、無限の未来が広がっているのに。

 

「もうこれで…悔いは無い…」

 

 楽音ももう、これ以上無理に生きようとは思わなかった。

 彼はもう十分人生を謳歌した。愛する人と出会い、優しく元気な娘を授かり、そして念願の中華料理屋も建てれた。家族離れ離れになってしまったのは、とても残念だろうが。

 そして今も、こうして大好きな中華屋を営む事が出来ている。別居中の妻も、自分の道を順調に突き進めている。

 

 

 だから猶更、鈴音にも人生を謳歌して欲しいのだ。

 誰かの為ではなく、自分の為だけに生きて欲しいのだ。

 

 父と母が、そうである様に。

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