あいであのおもちゃばこ   作:のんべんだらり

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千年の銀 (fate)
01


 目的地を言わずに祖父はよく外へ出る。

 気の向くままに歩いて、一週間帰ってこなかったこともあるほどの放浪癖だ。どこで何をしているのか、食料を山ほど抱えて帰ってくることもあれば、泥んこ塗れで衣服を破いて満身創痍で戻ることもあった。

 この日、祖父は黒い服を着込んで、丁寧に靴を磨いていた。壁にはステッキまで立てかけてある。

 革靴をピカピカに磨き終え、祖父がゆっくりと振り向く気配を感じて、慌てて柱時計の後ろに隠れた。

「千」

 観念して時計の影から出ていくと、真っ白い髭で覆われた顔の中にポツンと光る、アイスブルーの眼が笑っていた。千の大好きな色だ。

「一緒にどうだ」

 千はすぐさま祖父に駆け寄って、大きな背中に飛び乗った。

「こら、年寄りを労わらんかい」

 千は、聞こえないふりをした。

 祖父の背中は千を乗せて、立ち上がってよろめくほど柔ではない。未だに駆けっこで勝てないほど、祖父は健脚なのだ。

 それよりも口を出して、祖父の気が変わることの方が心配だった。

 千の期待が伝わったのか、祖父はそれ以上言わずに歩き出し、しばらくしてから尋ねてきた。

「千、バスって知っとるか」

 

 

 

 

 

 洋館の門前で立ち止まり、玉次は背中にいる孫息子を起こすことにした。

「着いたぞ、千」

 初めて山から下りた千が、はしゃぎ疲れるのも無理はない。眠らせてやりたい気持ちはやまやまだが、腕も限界に近い。

 ぐずってばかりの千の鼻先に、玉次は懐に忍ばせていた臭い消しを吹き付けた。

「ぎゃん!」

「ほれ、しゃんとせえ」

 鼻を抑えて目に涙を溜めている孫息子の目元を拭ってやり、玉次はその手を取る。

 好奇心で視線を忙しなく動かす千が、脇道に逸れないようにだけ注意して玉次は歩いていった。

 玄関に着くと、高さのある雨よけ屋根と分厚そうな木の扉が目についた。頑丈そうな扉には誰も寄せ付けないように獅子の像が目を光らせ、その口元に鉄の輪を銜えている。輪っかの下を持ち上げ、二回ほど扉を叩いてみたが応答はなかった。

 そのまま玉次が待っていると、下から期待をこめた目で千が獅子を見上げていた。

 自分も鳴らしたいと思ったに違いない。今にも飛びかかろうとしている。

「待っておれ。今に開く」

 案の定、家の主は既に来訪を察知していたらしく、扉がひとりでに開いた。

「この家生きてるぞ!」

「前見て歩かんか。転ぶぞ」

 瞳をキラキラと輝かせる千を先導し、進む度に開く扉を二つ通り抜けると、大きな広間に出た。今、入ってきたものの他に扉は見当たらない。二階に続く階段があるのみだ。ここで待て、という意味と判断し、玉次は近くのソファーに腰掛けた。

「じい!この地面、赤い毛が生えてる」

「それは敷物じゃ。それで寒さを和らげる」

「じい!こいつやっつけていいか?」

「止めんか。鉄でできた人型の中身は空ぞ」

「じい!」

 山では見ない家具や置物、目に入るもの全てが千にとって新鮮なのだろう。

 千の質問に答えていると、上階からようやく足音が玉次の耳に入ってきた。騒いでいた千も聞き分けたようで、ぴたりと静かになった。

「お待たせいたしました」

 階段を下りて来たのは、千とそう年の頃が変わらない少女だった。幼いながらも、老生の玉次相手に物怖じせず、まっすぐな瞳を向けている。瞬時に、彼女がそうだと思い至った。

「どういった御用でしょうか」

「旧友に会いに来たのだが、どうやら家を間違えたようですな」

 わけのわかっていない千の背中を促し、来た道を戻ろうと玉次はした。器量はあれど、若すぎる。玉次の真意に気づかれる前に、早々に立ち去るべきだ。

 だが、少女は玉次が考えるよりもずっと大人だった。大人にならざるを得ない経験をしたと言い換えてもいい。

「……先代はもういません」

 悼みながらも気丈に前を向く強さが玉次を留まらせた。

「私が現当主、遠坂凛です」

 

 

 

 

1_ 聖杯戦争

 

 

 ずいぶんと懐かしい夢をみた気がする。

 革張りのソファーで丸くなっていた身体を起こし、千はぐるりと視界を一回りさせた。あの日は不思議に思えた装飾品も住み続ければ、もはや興味の欠片もない。

 時刻はまだ5時を回ったばかりだ。同居人が起きてくるまで時間がある。

 ひとまず起き抜けから主張している空腹を満たすため、千はキッチンへ向かった。

 冷蔵庫を開けると未開封の牛乳とかじりかけのハムが入っていた。牛乳パックには手をつけず、ハムを丸ごとくわえ、庭に出る。

 冬の空はまだ暗い。洋館を覆い隠すようにレンガの塀と樹木で囲っているので、さらに薄暗い。これも人払いの役割があると同居人は言っていたが、千にとっても森に近い環境は住みやすく気に入っていた。

 木の枝を掴み、地面を蹴り上げ回転するようにして木に登っていくと、洋館の二階の窓が見えた。位置から考えると、丁度、同居人の部屋だ。

「ガクエンセイには見せられないな」

 閉め忘れたカーテンの奥で、ベッドに突っ伏している人影がある。作業してそのまま眠ったのだろう。部屋着のまま髪も解いていない。あれで歴代の遠坂の中で一番有望だというのだから、見た目だけでは判断できない。

 観察を済ませると千は再び、登り始めた。木の頂上から張り出た屋根端に飛び移った頃には、朝日が顔を出していた。

 洋館の最も高い三角屋根から日に照らされていく街を見ることが、いつからか千の日課となっていた。洋館は周囲の建物よりも高さがあるため、眺めがいい。

 キッチンに戻ると、かすかにツンと鼻をつく香りが漂っていた。薬臭さを消すために同居人が欠かさず飲んでいるハーブティだ。案の定、制服に着替えてソファーで優雅にカップを傾ける姿があった。

「あんた、またここで寝たわね」

「朝会ったらまず挨拶だろ、寝坊すけ」

「おはようございます、白銀くん。本日もご機嫌麗しゅう」

 つくられた笑顔に、思わず身の毛がよだった。

「朝の早い白銀くんは、どうして部屋で寝ないのですか?」

「部屋があるんだから、んなところで寝るかよ」

「あっそう。ならこの銀光の毛はなによ?」

「凛の白髪」

 気温が僅かに下がった。

「まったく、口ばっかり悪くなって」

「身近に手本があったからな」

 おかげで、上品な言葉から罵倒まで幅広く学習することができた。

「まだ慣れない?」

「もう十年だぜ。どれだけ順応力低いんだ、俺は」

「あんたにとっちゃ、時間の問題じゃないでしょ」

 ここまで凛が食い下がってくるとは珍しい。体調でも悪いのだろうか。

「失礼ね、ちょっと聞いただけじゃない」

「お生憎さま、俺は結構気に入ってるんだよ。走り回れないのは窮屈だけどな」

「ふぅん」

 納得はしていないが追及する気もないようで、凛はカップに口をつけた。

「そういえば、さっき教会から電話があったんだけど」

「暗黒麻婆くたばれ」

「前から聞こうと思ってたけど、千って綺礼のことほんと嫌いよね。なんで?」

「いいよな、お前は鼻が鈍くて」

「どういう意味よ」

 凛は即座に眉を吊り上げた。人一倍、女という生き物が匂いに気を遣っていることは千も知っているが、他に言いようがない。神父から死臭がすると正直に伝えても、納豆が臭うように至極当り前のことだと凛は流すだろう。かぐわう臭気の質について議論したところで、時間を無駄にするだけだ。

「で、何だって?」

「事務報告よ。前に説明したでしょ、聖なる盃の奪い合い。あんたには直接関係しないと思うけど、目をつけられないように注意してよね」

「……参加すんの?」

「当然」

 勝ち誇ったように凛は微笑みを浮かべた。鼻歌を口ずさんで、ポットからおかわりを注いでいる様子からは、敗北など微塵と感じられない。事実、彼女は優秀で、その自己イメージは正しい。

「いざとなったら千をこき使うし」

「おい」

 目をつけられるなと言いながら、全く調子のいい女だ。

「冗談よ。私もまだ倫敦から追われる気はないし、今回の件あんたは部外者ってことで。なんだったら山にでも籠っとく?」

「だな。また泣き付かれても鬱陶しい」

「誰がいつ泣き付いたのよ」

「寒ぃからって寝床に引き込んだろうが」

「そんなことあったかしら?」

 凛は素知らぬ顔をしているが、頬が引きつっている。厳密には、あんた体温高いんだから湯たんぽになりなさい、と有無を言わせぬ調子だった。千が遠坂邸に来て一年後くらいの話なので、凛もまだ恥じらいがありつつ命じていて可愛らしかった。が、ヌイグルミ扱いは屈辱だ。

「……期間は?」

「一カ月でいいんじゃない?」

「お前が勝ち抜くには?」

「二週間あれば十分」

「じゃ、それで」

「ちょっと、どこ行く気?」

「まだ話があるのか?」

「ないけど……」

「なら先に行くぜ。遅刻はご免だ」

 時刻は八時。始業時間まで三十分を切っている。

 

 

 

 障害物が多すぎて道路は走りにくいと常々思う。直線距離ならば全速力で走り抜けられるものを、信号や通行人や建物で減速せざるをえない。重量物を背負ってとなれば、余計だ。曲がり角をノーブレーキで右折する。

「ちょっと!」

 背中の荷物がなにやら文句を言っている。

「スピード落ちてるわよ」

「なら自分で走れ」

「私を乗せてもあんたの方が速いんだから仕方ないでしょ」

「お前がいなきゃ、もっと速ぇよ」

「それじゃ私が遅刻するじゃない」

「このままでも、そうなるっての」

 そもそも、男の背中におぶさって通学するのはどうか。社会常識など歯牙にもかけない千とは違い、遠坂凛は学園ではおしとやかな優等生なのだ。誰かに見られでもしたらどうする、と呈した苦言を凛は二言三言ドイツ語を呟いて解決してしまった。優秀すぎるのも問題である。

 悔いても現状は変わらない。このままでは揃って遅刻だ。

「掴まってろ」

「え――きゃっ」

 脚に力を込めて、千は跳躍した。同時に首元に回されていた腕が強く巻き付くが、それを確認するよりはやく千は再び一度目よりも高く跳び、民家の屋根より空へと駆けあがる。走るというより、幅跳びといった方が近いかもしれない。遅刻ギリギリの連中が息をきらして坂道を懸命に走るその横を風のように追い抜く。

 校門を飛び越し、人の目のない弓道場の裏まで来て千はようやく足を止めた。

 周囲を気にせず走るとやはり気持ちがいい。千は凛のような手品は使えないので、普段は人に見られても問題ない速度まで落としている。

 山に籠ったら体のなまりを取るためにも、全力で駆け回ることにしよう。

「ほら、着いたぞ」

 降りやすいようにしゃがんでやるが、凛はぴったりと千の背中に張り付いて降りようとしない。そればかりか、首を絞める勢いだ。

「なにすんだ」

「それはこっちの台詞よ!あれじゃ丸見えじゃない」

「は?不可視の魔術かけてただろ」

「見える見えないの問題じゃないわ!」

「……なに言ってんの、お前」

 背中から降りてはくれたものの、凛の感情はおさまらないようだ。だが、千にはその理由がさっぱりわからない。

 千はぶつぶつ呟きながらスカートの折り目を直している凛を置いて校舎へ向かうことにした。

 学校に着いたら赤の他人として振舞うことが、凛との約束だった。血縁でもないのに、同居が知られたら説明が面倒だと彼女が言った。

 生徒玄関で靴を履きかえ、二階に上がると、挨拶を交わす生徒や、話し込んでいる生徒が廊下にちらほらといた。まだわずかに予鈴まで時間があるらしい。

 三つ並んだ教室の真ん中、B組に入ろうとして、扉近くに立っていた生徒に行く手を阻まれた。

「白銀くん、遅刻ですよ」

 B組のクラス委員長、粕谷万理だ。

 白いブラウスも膝下スカートも皺ひとつなく模範的な学生の着こなしといえる。度の強い黒ぶち眼鏡のせいで不自然に大きく見える目が、千を見上げてくる。

「予鈴前だ。遅れちゃいないぜ」

「白銀くんは日直です。これから学級日誌や配布プリントを受け取りに職員室を往復するのですから、遅刻です」

「……悪い、忘れてた」

「今回は私が代わりに取ってきましたので、教壇にあるプリントを配ってください」

 黒板の前に積まれている紙束を目視し、千は頷いた。

「それと、非を認めたからって反省とは言えませんからね」

 と、万理は背筋をピンと伸ばし、自分の席に戻っていった。

「あれ、めっさ不機嫌やん」

 千の右手、廊下側の一番後ろの席にいる松原彦一が興味深々といった様子で、千と万理を見比べていた。

「そうか?女ってあんなもんだろ」

 凛がはっきり言う性格だからか、千は松原が言うほどきついとは感じなかった。

「おお、大人やなぁ」

「別に、身近なヤツがいつもあんな感じだし」

「しろがねん、どないな女とつきおうてん」

 松原の言葉は聞きなれない抑揚をついていて、意味がわからないときがある。

「じゃあな。そろそろ粕谷の目がヤバい」

 最前列に座る万理は、一向に減ることのない紙の束を凝視している。

「こりゃあ修羅場るで」

 松原のつぶやきは、チャイムにかき消されて聞こえなかった。

 

 

 

 

「白銀、ちょっとこい」

 朝のホームルームが終わり、学級日誌を書いていると、ジャージ姿の担任、習志野美玲が廊下から手招きしていた。女性でありながら格闘技の選手だったせいか、大柄な体格通り、腕っぷしが強い。担任になった初日には、クラスの全男子を腕相撲で打ち負かすことで有名だ。無論、千は力を加減してほどよいところで負けたのだが、耐久時間が歴代最高だったらしく、妙に認められてしまった。ことあるごとに雑用を頼まれたり、こうして呼び出されたりする。

「卒業後の進路、どうするつもりだ?」

「それ、今する話っすか?」

「お前は三者面談がないからな、いつ聞いたっていいだろうよ」

 千が配ったプリントが、三者面談の日程だった。その中に、確かに千の名前はない。育ての親は行方不明であり、現在の保護者は隣のクラスの女子生徒だ。凛は去年、言峰が出席したらしいが千はまっぴらごめんだ。

「もう受験勉強を始めている生徒もいる。進学するなら決断は早いに越したことがないぞ」

「うっす」

「と言っても、仮面お嬢のような海外留学となれば、話は別だがな」

 習志野は一部の生徒を独特の呼称で呼ぶことがある。餡無しどら息子、オトメ武士など、名付けられた方は不名誉だが、習志野本人は愛称のつもりらしかった。ついでに、仮面お嬢とは凛のことだ。

「どう違うんすか?」

「諦めろ。お前では手が届かん」

「……ま、俺は品行方正じゃねぇし」

「バカ者、届かないのは金だ。頭脳ならお前だって勝ち目はある。そうだな、あと三年あれば、マサチューセッツにだって受かるぞ」

「それ留年か浪人してんだろ」

「とにかく、学校側に提出しなきゃならんのだ、進学か就職か適当に言いたまえ」

「……んなの、わかんねぇよ」

 ヒトの社会で生きる将来なんて考えたこともなかった。

「仕方がないな、月末まで待ってやる。それを過ぎたら私が書いておいてやろう」

「今そうしてくれて構わねぇんすけど」

「バカ者、こういうものは己で考える時間が大切なのさ。存分に悩めよ」

 習志野は言うだけ言って、さっさと去った。

 

 

 

 学校は、檻に似ている。

 全く自由に行動できず、決められた時間で一定の活動を、大人数が一度にこなしていく。中学、高校と通ってきたが、千は山や森の方が学ぶものが多いと思う。

 唯一の自由時間である昼食も、限られた場所でしか食べられない。

 屋上の端に腰かけ、干し肉をかじりながら、千はフェンスに外側から寄りかかり、ぼんやり過ごす。空は曇っていて、雪でも降るような寒さだった。これくらいの方が心地いい。

 こんなところを粕谷万理に見られたら怒りで卒倒するだろう。冬季は出入禁止なので、規則厳守の彼女が来るはずもないが。

「ん……?」

 校庭のボール置き場から体操着の生徒が、ひょっこり出て来た。四限に体育があったのは、確かC組だ。赤茶の短い髪の男子生徒は、きびきびと歩いて校舎に戻っていく。

「何してんだ、あいつ」

 もう昼休憩は半分も残っていない。着替えて終わるのが関の山だ。

「片付けでも押し付けられたんじゃない?」

「人間社会ってのはめんどくせぇな」

 聞きなれた声の主、凛に素っ気なく返すと、不服そうなため息をつかれた。

「せっかく気配消して近づいたのに、淡泊な反応ね」

「どーせなら臭いも消せよ」

「アンタからもらった臭い消しなら使ってるわよ?」

「たしかにお前の匂いはねぇな」

 だが、自分の臭いくらいわかる。密着した分、半日過ぎても臭い消しでは消せないくらい濃厚に残っている。指摘してやると、凛はおもむろに懐から取り出した小瓶をフェンス越しの千の鼻先に噴射した。

「なにしやがる!」

「香水よ。良い香りでしょ」

「自分にかけろよ」

「嗅ぎわけられない他人より、アンタの鼻を封じないと意味ないわ」

「くそ、頭いてぇ……」

「失礼ねぇ。いつも私がつけてるやつよ、これ」

「はぁ? お前の匂いはこんなクセェだけの紛いもんじゃねぇよ。もっとこう鮮やかな……うぎゃ!」

 今度は目に吹き付けてきた。

「コノアマ、ヒキサイテヤルッ!」

 金網が音を立てて揺れた。聴覚は無事な分、耳障りで仕方がない。

「やだこの子、涙目じゃない」

「このッ!」

 フェンスから離れた気配がケラケラ笑っている。顔色は判断できないが、いじめっこの女のことだ、意地の悪い顔をしているに違いない。

 授業を受ける気が失せた千は、凛に背を向けて居座り直した。どちらにせよ視力と嗅覚が回復するまでは動けない。

 粕谷に文句を言われるだろうが、今の気性では敵意に条件反射で咬みつきそうだ。

「……何しに来たんだよ。遠坂凛とは学校では交流がない一、男子生徒に」

「私だって同級生に挨拶くらいはするわよ」

 挨拶ねぇ、と呟いてみたものの空言の響きを蔓延させただけだった。追求したところではぐらかすだろうよ、と千が思考していると再びもたれかかっていたフェンスが揺れ、背中に温い負荷がかかった。

「おい。また臭いがつくぞ」

「いいの」

 随分殊勝な態度に、視線を後ろにやると、凛は抱えた膝に頭をもたせていた。

「そうしたらまた千に香水かけるもの」

「……お前とは一度、力関係をはっきりさせなきゃならねぇな」

 背後に殺気を飛ばすが、動くつもりはないようだった。

「予鈴鳴ってんぞ」

「千こそ」

「俺はしばらく、風を聞いてからいく」

「日直でしょ?」

「今更、素行は問題にならねぇだろ」

 それよりもこの同居人だ。朝別れるまでは普段通りの自信家であったはずだが、誰もいないとはいえ学び舎で仮面を外すほど、どうにもしおらしくなっている。「ねぇ、千」

 呼ばれたまま無言でいると、ぐっと微弱な身体の強張りを背中伝手に感じ取った。

 なにかを言いかける息遣いと押し止める緊張を凛は繰り返している。なんとも面倒な生き物だな、と周囲の気配を探った千は意識を切り替えた。

 腹の芯の奥に、沈んでいる意識へ。骨格がきしみ、肉が隆起し、またたくまに肌色の皮膚を白銀の体毛が覆いつくす。

 銀狐に姿を変えると、揚々とフェンスを飛び越え、呆れかえった凛の正面に着地した。

「こんな場所でなにやってんのよ、バカ」

「こっちの方があったけぇんだよ」

 ふん、と顔を背け、われ関せず居場所を確保する。力の蓄えた毛並みに添えられた手が、慣れた力加減でなでつけてくるのを感じ、千は静かに丸くなることにした。

 




登場人物

・ 白銀(しろがね)千(せん)
冬木の山奥に住みついていた人狐。
人狐族と魔術師における取決めにより、土地の管理者と契約する。

・ 白銀(しろがね)玉次(たまじ)
千の祖父。
遠坂家を訪れた後、消息不明。

・ 遠坂(とおさか)凛(りん)
遠坂家当主。両親の死後、訪れた玉次から千を託される。
魔術師として実戦経験はないが、能力は一流。
素直になれないお年頃。

・粕谷(かすや)万理(まり)
二年B組のクラス委員長。黒ぶちめがね。

・習志野(ならしの)美玲(みれい)
二年B組担任。大柄で筋肉質だが美人。

・松原(まつばら)彦一(ひこいち)
省略。

・赤茶の短髪男子
原作主人公。ブラウニー。
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