01
こんなはずではなかった。
まさか行き着く先が、こうなるとは知らなかった。
己の罪を、
ぼさぼさの髪、目の下の濃い隈、無精ひげも伸びている。手垢のついた眼鏡レンズの奥から、モニター画面を睨みつける眼は血走り狂気に満ちていた。
もっと早く知っていたならば――。
考えて、草加は吐き気を覚えた。
機会ならばいくらでもあった。強固に守られた社内情報へのアクセス権限を草加は与えられている。求めれば手に入ったものを、開発しか考えてこなかった草加は見ようともしなかった。
草加は『夢』に陶酔し、溺れてしまった。もはや追い続ける道も、戻る道も残されていない。
もうすぐ、警備員がやってくる。不正アクセスに気づいた『彼』が呼んだのだろう。
越権行為であり反逆への対処としては真っ当であった。もとより負うべき責任から逃れる気はない。
暗証番号を攪乱させておいた扉が解除された。想定より早い。草加のデスクに近づいてくる足音は二人分あった。
「遅くまで残業かね、草加主任」
「報告を聞こう」
「お恥ずかしいですが、誤作動だったようで。異常ありません」
バックアップ作業用に起動しているコンピュータモニターを覗き込み、直接『彼』は確認した。
「……そのようだ」
警備員のもらしたため息がそばで聞こえた。草加の出方によっては拘束する手はずだったのだろう。
「どうもすみませんね、無事に明日――いや、もう今日ですが、迎えられるか気が気でないんですよ。自分の子供のようなものですから。貴方ならわかるでしょう?」
呼吸がわずかに乱れる。人の動く気配に草加はすぐさま、手を上げた。
「無駄足だったからって、手荒なことはやめてくださいよ」
「でしたら、ご自身で取り外してはいかがですか」
「ああ、これはご無礼を。慣れ親しんだ重さでしたので、気付きませんでしたよ」
緩慢な動きで、蛍光灯の下に草加の素顔がさらされる。
「……その顔色では仕事に差し障る。もう帰りたまえ、あとのことは私がやっておく」
草加はおとなしく従うことにした。既に済んでいた帰り支度に、開発を共にしてきた《世界》をしまい込む。
「キミ、主任を下まで送ってあげたまえ。私はマシンルームの戸締りをしている」
警備員の返事を聞く前に『彼』は既に背中を向けていた。仕事を共にする中で、何度も目にした素っ気なさだった。
草加は彼の名前を呼んだ。
「またあとで」
届いた声に、かけた眼鏡をわずかに上げるだけの『彼』らしさに、草加は笑って別れた。
この後、『アーガス』プログラム開発副主任――草加茂之は失踪した。
【ようこそ、剣と戦闘の世界、ソードアート・オンラインへ】
歓迎のアナウンスが流れると一気に視界が開けた。
マス目が引かれただけのフロアは、ポリゴンで構築された広くて何もない空間だ。
【あなたの名前を教えてください】
女性の機械的な声に促され、発音と同じ文面のウィンドウが目の前に浮かんだ。
宙に浮かんだ画面にはキーボードが見当たらない。少しばかり逡巡し、声に出してみた。
【ありがとうございます。あなたの性別は、どちらですか?】
アナウンスと画面表示に加え、男性プレイヤーと女性プレイヤーのデフォルメされたモデルが浮かび上がった。仮選択されている状態であるとアバターが回るようだ。
剣を構えた勇敢な顔つきのデフォルメに手をかざし、切り替わったウィンドウの最終確認に了承を返す。タッチパネル式の回答はスマートフォンの延長として考えれば操作は簡単だ。
【では、続いて貴方の姿を作成します。初期設定として、等身大の貴方を作成しますので、誘導に従って体に触れてください】
つま先、膝、腰、胸、首、顎、頭と体の部位に触れていく。
【ただ今、キャリブレーションを行っています。少々お待ちください】
触れただけでどれほど精確な距離を測れるのか、不安がよぎる。もともと平凡な顔立ちが更にひどくならないことを祈るばかりだ。
説明書に記載されていた解説によると、身体を動かした際に反応する脳の信号を拾い、構築するシステムらしい。このシステムの特許だけでゲーム開発費が賄えたと発表当初は噂があった。
【お待たせしました。データ作成が終了しました】
発光の後に性別選択でデフォルメキャラクターが着ていた服を身につけた、吊り目の少年が現れた。髪はデフォルトのまま、黒の短髪だ。細部は補正されているものの、気持ち悪いくらいに自分と違和感はない。
【体格、顔、髪型が変更できます。変更しますか?】
顔はともかく、体格を変えるのは脳を直接弄るようで気が引ける。長時間プレイすればするほど、現実との差は必ず感覚を狂わせる。いかにも主人公っぽいデフォルトから髪型だけを、現状に近い刈上げが入った短髪を選択し直しておく。
【アバター情報を保存しています。しばらくお待ちください】
することもないので、もう一人の自分に指を向けてくるりと回転させてみた。自分を真後ろから観察する機会など、これを逃したらないかもしれないのだ。心置きなく見ておくつもりで、右に左にくるくるとまわしてみる。
【以上で設定ガイダンスを終了します。どうぞ、心置きなく剣の世界をお楽しみください】
事務的なアナウンスの後、いつの間にか視界が光に包まれていた。
既に正午から二回りほど、時計の長針は遅れている。
はじまりの街にいるプレイヤーは少なくない。ごった返すほどではないが、どこを向いても似たような装備を下げたプレイヤーが視界に入る。
チュートリアルはないのだろうか。キャラクター作成のガイダンス中に、プレイに関する情報は一切なかった。初のフルダイブ式にしては不親切極まりない。早くも「死にゲー」の予感がする。
街の近辺にいるモンスターにイチコロにされるようなレベルバランスではないと思うが、先にゲームシステムの特徴を調べた方がよさそうだ。ガイダンスで覚えた操作通り、ディスプレイとして浮かんでいるマップに指をスライドさせてタップすると拡大表示された。【はじまりの街・広場】からは東西に外へ出る道があるようだ。その手前にはショップだろうアイテム袋のアイコンが印字されている建物がある。他にも宿屋のマークや、複数の黄色い斑点が分布していた。そのうちの一つが、中心にある自身の位置めがけて近寄ってきていた。
「ようこそ、旅人さん。お花はいかがですか」
茶色いケープ被った少女が赤い花を差し出していた。話しかけられたことで名前が名札のように少女の頭上に浮かんだ。【花売りのマーヤ】。……NPCか。
彼女の丁度肩くらいの位置に、新しいウィンドウが展開していた。
【マーヤの花】10コル。アイテム欄に表示された所持金の50分の一とはいえ、開始直後の出費は控えるべきだろう。
少女に断りをいれ、マップと睨めっこを再開する。所持品は【旅人の剣】と【旅人の盾】、初期装備だけでダンジョンに繰り出していいものなのか。つらつらと考えていると、横から声をかけられた。
「ようこそ、旅人さん。お花はいかがですか」
彼女は先ほどのやり取りなどなかったように、にこにこと話しかけてくる。
一定の時間を空けてめげずに販促する商魂に負け、一つ購入することにした。
「この花は街の東にある森でとれる、旅の無事を祈る花なんです」
どうか旅人さんの道中が無事でありますように、胸を温める言葉と共に少女から手渡された瞬間、開いていたままだったアイテム欄に「!」と花のアイコンが追加された。四つの白い花弁を広げ、中央からおしべが髭のように長く伸びている。
「えへへ、実はこのお花と私、名前がお揃いなんですよ」
花にばかり注目していたせいか気づかなかったが、彼女の頭上にはいつの間にか「!」マークが点滅していた。事前に目を通していた説明書によれば、こういったマークはイベントやクエストの発生の合図だったはずだ。
「そうだ!もしよかったら街を案内させてください」
幼さを残す少女とはいえ、現実でだって異性とこんな風ににこやかに話をしたことはない。人間のように表情豊かに、だが決められた台詞以外話すことのできないNPCにたじろいでいる間も、少女は笑顔で待っている。
しっかりしろ、どうせゲームなのだからと己を説得し、【花売りのマーヤ】の申し出を了承する。ステータスのタブ横に「!」が新たに点灯し、まっさらだったクエスト欄に【チュートリアル】と記された。
【花売りのマーヤ】に案内されるまま、一通りの施設をめぐり、街の出口や近くでとれる薬草や木の実の話をたくさん聞いた。一時間ほどかかったが、道具屋では主人とマーヤが顔見知りの設定らしく、オマケをもらうなど初心者にとって有意義な情報が得られた。再び広場に戻ってくると【チュートリアル】の文字は文字色が消えグレーになっており、その後マーヤに話しかけても花を売ってくれる気配がなかった。一度きりのイベント、ということだろう。それまでの親しかった態度から、初対面の店子と客になってしまったあからさまな差に若干、やるせなさを覚えつつ、街の出口を目指した。
武具店のNPC主人から簡単な戦闘のレクチャーは受けた。従来のコンシューマーゲームに比べれば、ダイブは視界が狭まったように感じ、隅に表示されているマップや省略アイコンが正直邪魔だった。HPバーやアイテム操作など戦いながら処理できるか不安は残る。設定を変えれば隠せるのかもしれないが、残りHPが確認できないのも落ち着かない。ある程度戦闘に慣れるまで、このままの方がいいだろう。
他のプレイヤーが競うように戦っている場所から離れ、マーヤの花が咲いている東の森に入る。ひやりとした空気をむき出しの腕に感じ、現実のような感覚がこそばゆく、それゆえに異質を感じずにはいられない。不可思議な頭と体感のギャップも、プレイ時間が長くなれば自然と消えていくものだろうが。
――ぐるるるるっ
前方向かって二時の方角で、腰近くまで生えた草むらがざわついていた。
装備設定をした短剣を抜き、構えると、見越したように、牙を生やしたイノシシのような獣が飛び出してきた。まっすぐに突進してくる線上から身体をずらす、すれ違いざまに腕を振るったが掠るだけでヒット判定にはならなかったようだ。余裕を見て距離を取り過ぎてしまったが、イノシシ同様どうやら直進しかできないようで、数メートル後方で急停止すると向きを変え、再び突撃してくる。落ち着いて、走行線上に身体が入らない位置で腰を低くして待つ。要はスイングではなくバントの要領だ。短剣を溜めるように剣を出せば、「ぷぎゅ!」と意外と可愛らしい鳴き声を上げて、イノシシモンスターは複数の図形グラフックに分解され消えた。
視界左上の辺りに、【ボアLv.1撃破】、【獲得経験値+15】、【アイテム:ボアのかじった肉】と表示され、数秒でフェードアウトしていった。同時にアップテンポの曲が止まり、そこで初めて戦闘中に音楽が流れていたと知った。タイミングに集中していたせいで、ちっとも耳に入ってこなかった。やはり、コントローラーを操作する前時代のプレイと比べると、認識や知覚はリアルでありながら、判断力は狭義的だ。
幸い、この森には他のプレイヤーはいない。獲物の奪い合いを気にすることなく、感覚を掴めるまで狩り続けられそうだ。プレイを初めておおよそ二時間。パートに向かった母が帰ってくるまであと一時間は余裕があるだろう。
――ぐるるるるっ
後方から聞こえた唸り声のあと、流れ始めた戦闘BGMを耳にしながら、さきほどより馴染むような短剣の重みを握りしめた。
※チュートリアル発現条件
➀はじまりの街、広場で一定の時間、動かずにいること。
②【花売りのマーヤ】の花を購入すること。
内容:【花売りのマーヤ】と武具店、道具店、宿泊所、教会などを巡る。
戦闘チュートリアルを武具店で、初期レベルに必要な回復薬を道具店でもらえる。
成果:隠しステータス付加 名声 +1
◇今回の入手アイテム◇
【マーヤの花】 白い花 白い花弁のように見える4枚は萼片
某開発者によると現実世界の「仙人草」がモチーフ 実は有毒植物
【回復ポーション】 ポピュラーな回復アイテム 道具屋の主人からの餞別
【ボアのかじった肉】 ボアの歯形がついたなにかの肉 売買価格1コル