書きたいもの詰め合わせた闇鍋話   作:オニヤンマンマ

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 双子の姉は、終始固い表情だった。

 マーレも同じだ。

 外の探索部隊に組み込まれた姉とモンスターたちを見送り、マーレは泣きそうになりながら、一人でとぼとぼと六階層の確認に回っていた。

 至高の方々のお役に立てることは、シモベとしてとても嬉しい。

 全霊を持ってその命令に応えなければならない。

 

「ぶくぶく、ちゃがまさま……」

 

 領域守護者たちにも確認し、自分の目でもしっかりと全容を見る。

 周る、歩く、立ち止まる、見る。

 いろんな場所に、創造主との思い出がある。

 もう、過去になってしまう思い出がある。

 ずっとずっと、重ねていけると信じていたのに、これ以上増やすことが不可能となってしまった、思い出だけがある。

 

 四肢に十分に力がはいらない。

 こんなことではいけない。

 ぎゅっと大事な杖を握りなおした。

 

「ボ、ボクにもっと力があれば、ぶくぶく茶釜様の代わりに、なれたのかな……」

 

 至高の存在の足元にも及ばないシモベの存在では、代わりになれるはずもない。だが、代わりになりたかった。

 

 至高の存在が自分たちに未来を託すために集められた玉座の間。そこには双子の創造主たる御方の姿が欠如していた。

 二人は、大切な御方がいない理由を知っていた。

 世界の終焉からナザリックを、アウラやマーレたちを救うための大秘術――その礎として既に尊い御身を投じていたからだ。

 

 終焉そのものが防がれ、ナザリックはユグドラシルに在るままなのか。それとも転移は行われたのか。

 どちらにせよ、自分たちシモベは、助けられてしまったのだ。尊い御方を犠牲にして、おめおめと生き残っている。

 

 ぽつり、ぽつりと至高の存在が御隠れになってしまっていったとき、二度と帰ってきてくださらないかもしれないと、でも、もしかしたら帰ってきてくださるかもしれないと、わずかな希望にすがっていた。

 不安で寂しくて、怖くて……たったお二方の気配しかしないナザリックでずっと待ち続けた。

 

 今になって、それは幸せな時間だったのだと、マーレは知った。

 もしかしたらと、夢を抱くことができた。そして、再会してまた一緒にすごすことが出来たのだから。

 

 けれども、今回の別離はそんな夢すら打ち砕く。

 マーレたちシモベの力不足のせいで、もう、二度と会うことは叶わない。絶対に。

 

「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」

 

 届くことはないと知っていても、リアルに居られるという半身になってしまったぶくぶく茶釜に謝罪した。

 

 アウラから聞いたと言うアルベドが報告を聞きがてら口止めにきた。

 残ってくださった方々の御心を煩わす必要がないように、時期が来るまで口外は禁止する。

 この事実を知ってしまったからには、シモベたちは平静ではいられないだろう、と。

 本当に、そうだ。

 この事実は残されてしまったシモベたちの心を揺さぶる。

 

 残ってくださった方々――あるいはぶくぶく茶釜らがなんらかの策を講じ、自分たちのために残してくださったのでは、と思う――にこれ以上心労をかけてはならないのだ。今は御身がこのナザリックに在るとはいえ、大秘術の行使による弊害がないとは言い切れない。

 偉大な方達が、命の一つを犠牲にえらぶほどシモベを大事に思ってくださっていることを知った。その恩義に報いないのは、シモベとして怠慢だ。命を賭してくださった方々に胸を張れるよう、より一層の忠義を、より一層の栄光を、捧げねばならない。

 

「あ……」

 

 マーレは立ち止まる。

 畏敬と崇拝の対象である、自分たちの全てである尊い気配を自分の守護する階層で感じた。

 

「ご、ご挨拶に向かわないと!」

 

 マーレは駆け出した。

 姉ほどに早く走れない体がもどかしい。

 

 円形劇場の貴賓席から、至高の方達が見えた。

 マーレの胸の内に、罪悪感が広がる。

 さきほどまであった罪悪感は、ぶくぶく茶釜へのもの。

 今、マーレの胸に広がり迫ってくるのは、彼らから尊い同胞を奪ってしまった罪悪感だ。

 

 至高の方を害してしまった迂遠な理由は、きっと自分たちなのだ。

 

 大好きで大切な方々の、かけがえのない存在を奪ってしまった、途方も無い罪。

 マーレは自分は裁かれるべきなのだ、と自らを責めた。

 

 アルベドの言葉も忘れ、一目散に主人たちに向かって行く。

 

「モモンガ様! たっち・みー様! ヘロヘロ様! リーザ様、ミーシャ様!」

 

 

 

 

 

 モモンガと合流したあと、すぐにでも円形闘技場に行こうかと言う話になったが、アイテムの確認と補充をするべきと考え直し、しばらく宝物殿にいた。

 アイテムボックスの仕様を確認しなおし、安全を確認した円卓の間と宝物殿をリーザとミーシャに移動させて使用感を確かめてもらう。

 モモンガはひとりでレメゲトンの悪魔たちの確認をしに行ったりと、なかなか慌ただしかった。

 そうこうしてから、やっと来たのが六階層だ。

 

 森の匂い――

 

 自然が破壊尽くされた現代において、それはどんな大量の金を積んでも嗅ぐことが難しいとても贅沢なもの。

 そこそこの上流階級が、それを再現した高級品の香水の匂いを、自然をイメージした家具に纏わせたり、一室に上品に纏わせているくらいなのだ。

 この匂いは、そんな偽物とは一線を画した本物を感じさせる。

 本物の匂いなど嗅いだことなどないはずなのに、本能がこれは森の匂いだと知っている。

 

 格子戸の先を行くと、娘のために通いなれた円形闘技場――円形劇場と名前がつけられたそこは、子供には到底見せられないような殺戮の舞台――があった。

 だが、嗅覚につよく訴えかける変化に、今までとの変容を強く確信する。

 

「猫ちゃんたちはいるかなー」

 

 いつもであれば、ここにくる一番の目的である農場の方に勝手に向かいそうになったので、たっちは慌てて娘の手を掴んだ。今は何が起こるのかわからないのだから、目を離すわけにはいかない。

 

「雪丸にはいつでも会いに行けるから、今日はパパとママと一緒にいような、美沙。体を動かして、おかしいところがないか確認するんだ」

 

 時間も時間だから、そろそろミーシャのことを休ませてあげたい親心もあるが、それ以上に安全の確保が重要だった。些細なことには目をつむる。大丈夫だ、と安心してからひとところでゆっくり休んでもらえればいい。

 

「はーい。でも、いつものミーシャと変わらないよ?」

 

 軽快にラジオ体操の動きをして、異常はないとアピールする。

 

「それ以外にも、魔法やスキルを使えるか、確認しような」

 

 ミーシャはその時に興味が湧いたものを、強さなど全く関係なく好きなように取得していた。ファーマー、ハイ・ファーマー、テイマー、レンジャー、コック、ウィザード、ビーストサモナー、ドルイド、ハイ・ドルイド、フォレスト・メイジ、フォレスト・メイジ・アライヴァルなど直接戦闘系のクラスはなく、魔法も魔力系召喚術と信仰系森祭司術をそれぞれ第四階位までしか使えない。仮にゲームと同じ力が扱えたとしても、戦闘となったら一番の弱点がミーシャになるだろう。

 

「うん、わかった!」

 

 昼寝をしていたとはいえ、全く疲れた様子を見せずに返事をする娘にたっちは、おやと首を傾げる。

 いつもとは違い夜中まで起きている興奮状態のせいかと思っていたが、ゲームの体になったことも関係しているのだろうか。

  

「どうかしましたか、たっちさん」

 

 闘技場の中央に五人で進んでいると訝しげなモモンガに問われる。

 

「ミーシャが全く疲れた様子を見せないので、おかしいなと思ったんです。時間的にももう眠くなってもいいのに、まだとっても元気なので」

 

 それを聞いて、邪悪に見えるが内実は実直で素直な骸骨はう〜んと首をひねる。

 

「ミーシャちゃんの種族は疲労無効の効果はないので、装備品の効果じゃないでしょうか。リング・オブ・サステナンスを皆さんつけていらっしゃいましたよね? もしかしたら、それのせいかも」

 

「……本当に、それが理由ならゲームのアイテムがそこまで現実の肉体に影響を与えているって、すごいですよね」

 

 たっちはしみじみと感心した。

 

「うわあ! 本当に溶けたわ、巽さん見て見て!」

 

 子供のようにはしゃぐリーザの声に、モモンガとふたり声のほうに向く。

 

 そこにはクズドロップ装備品をヘロヘロに突っ込んで遊んでいるリーザの姿があった。

 

「ヘロヘロさんすごい! ドロドロだ! ドロドロさんだ!」

 

 ミーシャも一緒になって楽しんでいる。

 

常時発動型特殊技術(パッシブスキル)もちゃんと発動できるみたいですねー。切ることも可能みたいです」

 

 粘体に触れるとドロドロと氷のように溶けていた金属製の装備。ミーシャがアイテムボックスから取り出したであろう装備品を手に持って押し付けても、コールタールのような黒い粘液が弾き返すだけで溶けることはなかった。

 

「……なんていうか、すごいな。本当にゲームの世界に入り込んでしまったみたいだ」

 

 現実味の薄い光景に、モモンガは見入る。

 

「そうですね。……もう、全く。理沙は、子供じゃあないのに……」

 

 たっちは困ったように、しかし愛しげにそうこぼすと妻のもとへ歩をすすめた。

 

 その時、彼は強い視線を感じる。

 敵意はない――第六感のようなものがそれを察して過剰な警戒を抑える。

 

「モモンガ様! たっち・みー様! ヘロヘロ様! リーザ様、ミーシャ様!」

 

 そしてすぐに悲鳴のような叫びが届いた。

 最上位値にある貴賓席、そこにダークエルフの幼い少年がいた。

 只人であればためらうような高さのある場所から、ためらいなく飛び降りる。

 危うげな足取りで着地する。よろめくようにするから、一瞬、怪我でもしたのかと心配してしまった。

 衝撃は肉体能力に緩和されたらしく、ダメージを一切受けていない様子でこちらに向かって走ってくる。

 可愛らしい擬音が似合いそうな足取りで、だが本人としてはかなり必死そうだった。

 見ているこちらが可哀想になるくらいに。

 

 マーレ・ベロ・フィオーレ。

 

 ぶくぶく茶釜が徹底的にこだわって作った双子の片割れ。

 男の子だが少女の服装を可憐に着こなす、NPCの中でも有数の実力を持つ10歳ほどの少年。 

 そんなマーレは目にいっぱいの涙をためて、転びそうな勢いでモモンガたちに向かって跪いた。 

 

「も、申し訳ありません!」

 

「ふえ!?」

 

 気の抜けた声は、一体誰のものであったのか。

 いきなり謝られた理由が皆わからず、混乱する。

 

「ボクたちに力が足りないばっかりに、至高の方々が犠牲になるだなんてっ。御方がたのために存在するのがボクたちシモベなのに、それなのに、それなのにっ」

 

 真っ先に察することが出来たのは、パンドラと同じようなやりとりをしたモモンガだった。

 

「あの、ボクたちなんかのために、失われていい存在であらせられないのに。皆様がいないと、シモベであるボクが生きる意味なんてないのに。なのに、なのに……ぶくぶく茶釜様が、ボクたちのために大秘術の礎になると、贄となって未来を託してくださると……」

 

 次いで、未来を託すロールプレイに立ち会ったたっちも、ようやく得心がいった。

 

「ぶくぶく茶釜様が本当にお隠れになってしまうなんて、いやで、とってもいやで、怖くて、至高の方の決定を覆すことが不忠となってもいいから、見限られてしまってもいいから、生きていらっしゃって欲しかった。だから、ぶくぶく茶釜様の代わりにボクたちの命の全てを捧げるからやめてほしいと、必死になってお願いしたんです。でも、あの御方はボクたちを愛しているから仕方がないのって仰ったんです」

 

 この世の全ての絶望を背負っているかのような、悔恨の叫びだった。

 

 たっちはあの時のことを思い出す。

『セリフの合間に沈黙時間をいれますけど、それはアウラとマーレと会話してるんだって脳内補完してくださいねー』

 あの軽い遊びの範囲に収まる行為が、こんな重い結果につながるなんて誰が想像しただろうか。

 まともな大人なら想像なんてするはずないのは理性ではわかっているが、渦中にいるたっちはひどく後悔した。

 

(恨みますよ、茶釜さん)

 

 遊びに便乗した共犯者でもあるのだが、たっちはそれを棚に上げて心中で呻いた。

 

「ぶくぶく茶釜様の、大切な半身が失われてしまったのは、ボクの無力のせいなんです」

 

 ぽと、ぽと、と床に雫がおちる。溢れた涙がこぼれおちていた。

 さげられた顔の下、悲壮感で身を震わせて泣いている。

 

 それは違う、違うのだ。自分たちにとってゲームで、遊びだった。あの話も遊びの延長戦で、こんな幼い子供が罪悪感を持つ必要なんてないのだ。

 ゲームが終わってしまって、いなくなってしまう自分たちにそれらしい理由をつけただけで、この子のせいではないのは明白なのだ。

 

「それは違うよ、マーレ。残された半身の身で、君たちの幸せをずっと祈っていると茶釜さんは言っていただろう? そんな風に悲しげにしているのは茶釜さんがのぞんでいたことではないんだ」

 

 たっちは歩み寄り、マーレの前で片膝をついた。

 

「ほら、マーレ。顔を上げてごらん」

 

 たっちが優しく言っても、マーレは顔をあげなかった。半ば強引に顔を上げさせて、涙を籠手のまま拭ってやる。装備を外したらかえってマーレを傷つけそうだから仕方ない。装備を解かなくても、人間の感覚ではなく節足の神経が繋がっていることを理解していた。

 

 涙にぐちゃぐちゃになっていた。小さな子供にこんな顔をさせるのは、人の子の親として心が痛む。

 

「君たちと二度と会えなくなってもいいから、自分たちの肉体を使って君たちを消滅から救ったのは私たちの我が儘なんだ。それに巻き込まれてしまったマーレに謝らなければならないのは、むしろ私たちのほうだ」

 

「そ、そんなことないですっ。すべてはボクが不甲斐ないせいなんです」

 

 拭いても、拭いても涙はとまらない。

 

「ど、どうか、ボクに、罰を、御与えください」

 

 それは、いっそ殺してほしいと願っているように聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 ナザリックへと還ってきてくれたぶくぶく茶釜の、大切なNPC。

 たっちと同じく、そんな彼が泣いたままでいるのを放っておくことなんてできなかった。

 泣いている子供をなぐさめた経験なんてないのに、すこしでも何かしてあげたくてモモンガはたっちと隣に片膝をつく。

 

「なあ、マーレ」

 

 頭をなでながら、茶釜さんの想いを少しでも代わりに伝えようとしたその時、

 

「いたっ」

 

 少年の小さな悲鳴があがった。

 モモンガは反射的に手のひらを引っ込めた。

 

「あー、もしかしてネガティブタッチじゃあ……」

 

 ヘロヘロのつぶやきが聞こえる。

 

(ネガティブタッチ? でも、ゲームではフレンドリーファイアはなかったはず……現実になって同士討ち禁止が解除された? しまった! よりによってこのタイミングで気づくのかよ!)

 

 は、と隣を慌ててみる。

 

(あ、やっばい。たっちさんの視線が痛い。突き刺さってる!)

 

 フルフェイス越しでもわかってしまう視線。

 モモンガは慌ててこの場を上手く切り抜けるよう頭を働かせる。

 

「いいか、よく聞けマーレ。今のが罰だ。痛かったろう?」

 

(よし、ネガティブタッチを切る。ヘロヘロさんだってすぐに切り替えてたし、簡単にできるはず……)

 

 意識すると、呼吸のように自然と行うことができた。

 

「い、今のが、ですか?」

 

 到底足りないと子供の目が訴えてくる。

 

「そうだ。そして罰はあれだけではないぞ」

 

 モモンガが付け加えるとそれを待ち望む顔をするが、マーレの想像するようなことをするつもりはない。

 

 ぐりぐりと乱暴なくらい頭をなでる。

 

「う、あ。モモンガ様っ」

 

 涙で目もとを赤くしていたが、頬も紅色に染まる。いやそうにしている訳ではなく、びっくりして照れているようだった。

 

「お前はまだ子供なのだからな。こうやってたくさん撫でられて、みんなに可愛がられるのが罰だ。だいたいな、ぶくぶく茶釜さんにとって宝物であるお前たちに罰なんて与えたら、私があの人に怒られてしまうだろう? あの人は怒るととても怖いんだ、マーレは知らないか?」

 

「あ、あの。知らないです。ぶくぶく茶釜様はとてもお優しかったから……」

 

「そうか。それはきっとマーレがとてもいい子で大事だったからなのだろうな。そして私にとっても、みんなにとっても大事なのだ。今までも、これからも、それは変わらない。だから、どれだけ自分のことが許せなくても、自分の無力が罪だと思っていても、誰にもその罪を裁かせたりしない。……茶釜さんがいなくてもみんなに愛されて、幸せになりなさい。それがきっと、お前にとって一番の罰となるのだろうな」

 

 ぶくぶく茶釜がいなくても、その言葉にマーレはびくりと身体を震わせて、また大粒の涙をこぼした。

 

「ふ、っう、ん」 

 

 嗚咽をこらえようとしたマーレを、モモンガとたっちの間に割ってはいった存在が抱きしめた。

 

「泣くのを無理に我慢する必要なんてないのよ」

 

 労わりにあふれたやわらかな声がマーレを包む。

 リーザだった。

 すべてを許容するような慈愛にあふれる母親という存在感、それが少年の琴線にふれる。

 至高の方に対する不敬を考える余裕もなく、限界は決壊する。

 

「あ、ああ。ぶくぶく茶釜さま、ぶくぶくちゃがましゃ、ま、うう」

 

 円形劇場に、小さな子供の大きな泣き声が響いた。

 

 

◆◆◆◆

 

 ナザリックの頂点に立つモモンガの命令を完遂し、至高の方々の胸の内にある憂いを少しでもいいから取り除く。いや、自身の持てる力を十二分に発揮し、心身共に十全になっていただくよう励まなければならない。デミウルゴスは、そのための力を偉大な創造主からいただいているのだから。

 本来であれば英気に身を漲らせ、主のために働けること、主に使っていただく幸福に酔っていただろう。

 だが、今のデミウルゴスの気分は晴れない。無論、それで仕事を疎かにすることはないのだが。

 

 デミウルゴスの中にある懸念は、創造主である至高の方――ウルベルトの身だ。

 

 圧倒的な気配を見失ってしまったとき、他の至高の方々が未だナザリックに居てくださる安堵と感謝も抜け落ち、デミウルゴスはイリニのように悲鳴をあげたくなった。

 かの偉大な方に与えられた役職にあるまじき失態は見せられないとそれを飲み込んだが、頭の中はウルベルトの安否でいっぱいだった。

 

 世界の終わり――そして、それを避けるためのナザリックを転移するための大秘術の行使。その術にはどんな代償をどれだけ必要とするのか。

 

 尊い宝であるイリニの後継決定の儀も、シモベとしての忠義に疑いを向けられても仕方ないくらいに身が入らなかった。主の御子が至高の次の座に選ばれることは誇らしいはずなのに、視線は人の身となってしまったウルベルトに固定される。

 シモベに向けてモモンガが発した大いなる命を、転移した先でも完遂すべく固い誓いを胸に秘めるべきなのに、デミウルゴスは全身の震えが止まらず固唾を飲んでいた。

 

 私たちは共に行けぬ――そう、告げた瞬間にデミウルゴスの中にあった予感めいたものが、決して明確な形にしたくない予測が、俊英な判断力によっていっそ確信に変わる。

 

(その大秘術に使われるものとは一体なんなのか?)

 

 考えられる可能性が、無数に脳内を巡った。

 本来なら乾きを覚えるはずのない喉が、幾度も唾をのみこんでしまうほど、痛かった。

 

 彼の推測が正しければ、世界、という大きな次元を超える大秘術に使われるものとは、もしや――

 

 終わるはずの世界が終わっていない、モモンガが不可思議そうにこぼした言葉に、デミウルゴスは歓喜した。

 

 周囲のシモベたちは、世界が終わろうと、転移しようとどちらでもよく、モモンガたちがいなくならないことに歓喜していたが、デミウルゴスは違った。

 たとえナザリックに御方がたが帰ってくることがなくても、その御身が無事でありさえすればよかった。

 デミウルゴスの一番の願いは、世界の終焉は避けられ、大秘術は行われず、だれ一人とて至高の存在が欠けていないこと。

 

「七階層はどうなっているのかしら? あなたのことだから不足はないのでしょうけど」

 

 アルベドが淑やかな女の顔で七階層に訪れた。

 

「警備に関して問題はありません。トラップも通常通り作動、七階層にどこにも破損した地点はなく、配置されたモンスターにも変化はありません。異常は見当たりませんよ」

 

「そう、それならば良かったわ。ここは次期ナザリックの主人となられるイリニ様が居られる場所。至高の方が生活される九階層と同じように、他の階層よりも安全性に関しては万全でなければならないもの」

 

「抜かりはありません。ご心配なく――ところで、アルベド。ひとつ聞いておきたいことが」

 

「なにかしら」

 

「モモンガ様が仰った大秘術の行使には、一体何が使われているのか知っていますか」

 

 デミウルゴスがぶつけた質問は端的だった。

 

「……貴方なら前情報なしで、その結論に辿りつくと思っていたわ。聞かなくても分かっているのでしょう? これはアウラとマーレ、そしてパンドラズ・アクターが直接創造主たる至高の方から聞かされたことよ。他のシモベたちは知らないから、ナザリックの混乱を避けるためにまだこのことは黙秘していてちょうだい。

 大秘術の代償は、我々の知るお姿の至高の方の半身。今、ナザリックに居られる方々以外は、リアルの世界にある半身に魂を完全に宿されているらしいわ。

 ……デミウルゴス?」

 

 デミウルゴスが常に浮かべている余裕のある笑みが消えた。

 

「いえ、なんでもありません」

 

 なんでもないとごまかせる表情ではなかった。アルベドは追求する。

 

「貴方が何か知っているのであれば、教えてほしいのだけれど。今は些細な情報でもかき集めなければならないの」

 

 守護者統括としての厳しい眼差しをデミウルゴスに向けた。

 

「不敬に値するような愚かでおぞましい最悪の想像をしてしまっただけです。口に上らせるものではありません」

 

 平静を保とうとして失敗したかのように、わずかに声が震えた。

 それにアルベドが痛ましいものを見る目を向ける。

 

 玉座の間に居た至高の存在の中で、彼の創造主だけが欠けてしまったのだ。

 ウルベルトだけが突如として消えたのは、彼だけが大秘術に正常に巻き込まれたからだと考えたのだろう――そう、アルベドは察した。

 

「安心なさい、デミウルゴス。ウルベルト様ならば、無事だわ」

 

 安請け合いのような慰めでもなく、期待をかけるような曖昧なものでもなく、アルベドは確信を持って断言した。

 

「二グレドから何か情報があったのですか!?」

 

「いいえ。でも、私には分かるの。

 ウルベルト様がいないと気づいた瞬間、とても動揺して苦しそうにしていられたけれど、すぐに落ち着いておられたわ。

 ウルベルト様はモモンガ様とずっと共に在らせられた言わば盟友のようなもの。至高の方々が次々と御隠れになったときも、あのお二方だけが長い間ナザリックに残ってくださった。そのせいなのでしょうね、他の御方がたとは一線を画した絆で結ばれておられる。

 デミウルゴス、貴方はわからないでしょうけれど、モモンガ様は貴方が想像する以上に、ウルベルト様のことを思っていらっしゃるの。もし、二度と会えないのだとしたらもっとお嘆きになり、失った原因に憎悪を見せるはずだわ。

 私たちシモベに支配者としてのお顔を見せ続けられる余裕があるだけの、なにか確信があるはずなのよ」

 

 アルベドの説明に、デミウルゴスの中にあった最悪の想像がやっと否定された。

 そうだ、そうだった。不確定の最悪の可能性に振り回されて、シモベとして最も大事なことを忘れていた。

 至高の存在に比べたら、はるかに矮小な身でどれほど思い悩んでも無駄なのだ。どれほど高い確率の可能性を羅列したところで、それは至高の前にはすべて無意味。自分たちの絶対唯一の最高の主人を信じればいいのだ。

 

「ええ、本当にそうです。貴方の言う通りですね、ありがとうございます。あの時、あんなにも取り乱していた方が、我々の前にいるとはいえ先ほどはとても冷静だった。モモンガ様は私にはおよびもしない明晰な頭脳をお持ちのお方だ。例え不測の事態に陥ろうと、ウルベルト様の無事を確信できていても不思議はありません」

 

 モモンガの激しい怒りと覚悟を見たのは、つい最近の出来事だ。

 ナザリックから外出するとき、いつもなら七階層にイリニを送りとどけるのは父親であるウルベルトであった。しかし、その日はモモンガが七階層に訪れた。

 酷く暗い顔をしたイリニを連れたモモンガは、ウルベルトの不在に怪訝に思ったりイリニを案じたりする余裕をデミウルゴスから奪うほど、何者かに対する敵意に満ちていた。

 デミウルゴスや十二宮の悪魔、魔将たちの存在など目もくれず、シモベへの慈悲として下々に与えてくださる支配者然とした雰囲気をかなぐり捨て、ただの男としてそこにた。

 

『取り返す、絶対に取り返す。あの人は俺の大切な仲間なんだ。一緒にいられるのは、あと、たった数日しかないんだぞ!? それを、奪いやがって! 糞、糞、糞!』

 

 尋常ではない憤怒は、七階層の空気すらも揺らすものであった。

 さしものデミウルゴスすらそのお姿には背筋が冷えるような恐怖が沸く。

 口を挟むことは許されない圧倒的な憎悪を放出し続けて、やがて収まった。

 傍にいる小さなイリニは怯えたように身を竦ませて固まり、デミウルゴスも呼吸ひとつもできずに硬直していた。

 自分たちに向けられているわけではないのに、モモンガの発するものは嵐のように暴力的で彼らの呼吸を奪った。

 

「イリニ、お前の父親はちゃんと取り返してくるから安心するといい」

 

 激しさから一転した穏やかさで告げると、モモンガは去っていった。

 ウルベルトの喪失を理解できたのは、それからだ。 

 

 世界の管理者が恐れるほどの力を発揮したが故に、存在を奪われた。

 

「モモンガ様は、世界そのものから奪われたウルベルト様を取り戻した大いなる力と知恵を持つ御方だ。私たちは再び、ウルベルト様の無事なお姿を拝見できる。私もそれを確信することができました。そのためにも私は力を尽くさなければなりませんね。

 手を拱いていては再会した後にウルベルト様に失望されてしまうーーそれはとても恐ろしいことですから。私が、結果を必ず出すと知っている。そうまで仰った方の信頼にそむく訳にはいきません」

 

 いつもの余裕がデミウルゴスの中に戻ってきた。

 

「理解してもらえたようで嬉しいわ。私たちはモモンガ様という偉大な方を主人として頂いているのよ。なにひとつ間違いなど起こるはずがないわ。

 ウルベルト様を取り返したという話、あの方が人間の姿に変わってしまったこととなにか関係あるのかしら? 今は時間がないから、後ほど落ち着いたら聞かせてもらっても良いかしら。

 それと、デミウルゴス。守護者統括として、そしてモモンガ様にそうあれと定められたイリニ様の母の代わりとして、あの方にお会いしていきたいのだけれど、どこにいらっしゃるの?」

 

「貴方がイリニ様の母代わりですか?」

 

「あら、デミウルゴス、もしかして不服なの? モモンガ様がそうあれと定めたことに反意をするつもりならば謀反とみなし、守護者統括として黙ってはいないわよ」

 

「いえ、モモンガ様がそう決められたことに反対するつもりはありません。あの御方のなさることです。何か深い考えがあってのことなのでしょう。

 イリニ様の私室はこちらです」

 

 デミウルゴスはアルベドを案内する。

 神殿各所に配置されている彼の私用スペースもそうだが、イリニの部屋も入り組んだところに配置されている。

 灼熱神殿という場所になれていなければ、確実に辿りつけない場所だ。

 

 案内のためにアルベドに背を向けたデミウルゴスは、ひどくほっとしていた。

 

 気がかりが解消されて、デミウルゴスの胸の内は晴れやかであった。

 

 もっともデミウルゴスが恐れていた、ウルベルトが完全(・・)に失われてしまったという最悪の可能性は否定された。

 むしろ、ウルベルトとはいずれ再会できるだろう。可能性が高い、などという曖昧なものではなく、確実に。至高たるモモンガの振る舞いでそれが容易に理解できてしまう。

 叡智が集結された結晶ともいうべきモモンガのもとにいれば、決して間違いはない。

 モモンガの傍に立って彼を支えるたっち・みーたちには遠く及ばないかもしれないが、その麾下で尽力しよう。それだけで、ウルベルトとの再会は約束されたものとなるのだから。デミウルゴスの恐れていた推測はただの塵芥となった。

 

 デミウルゴスが最も恐れていた可能性。

 それは、ウルベルトと二度と会えなくなることではない。

 もし、彼が大秘術によって『こちら』側だけの体を失い、リアルというもう一つの世界にのみ囚われ、ナザリックに戻れなくなっただけなのならば、おおいに嘆き悲しみながらも、創造主が残してくださった御子に誠心誠意仕えていただろう。そして残ってくださった至高の存在の手足となり、シモベとして御方のお役に立てる力を授けてくださった創造主に感謝し、今は共におられない御方の幸運を祈る毎日を送っていただろう。

 会えなくなることは、絶対の喪失ではない。

 デミウルゴスが最もそうであってくれるなと願い、だが最も確率が高いと睨んでいた可能性。

 一つの魂に対して二つある肉体、そのどちらもウルベルトから失われてしまうこと。

 

 ――世界の管理者が恐れるほどの力を発揮したが故に、存在を奪われた。ナザリックの最高位につくモモンガが尽力し、やっと取り戻したウルベルトは、かつての力を失いただの人間となり果てていた――

 

 アルベドには語らなかった、そしてこれからも絶対に語るつもりのないこと。

 

 デミウルゴスは、至高の方達が帰る”リアル”というもうひとつの体に対して、あるひとつの推論を立てていた。

 不敬であることは承知している。あまりにも馬鹿げていることも。

 

 至高の存在であるウルベルトの半身とは、人の身なのでは、ということ。

 

 純粋なる悪魔であるデミウルゴスだからわかるのだ。人の弱いこころに滑り込み、利用する術に長けた彼だからこそ気づくことができた。

 

 時折、ウルベルトは雰囲気を変えるときがあった。

 絶対者たる優雅なものから、おざなりでいささか乱暴な口調にかえる。

 デミウルゴスにとって、そのどちらも大切なものだった。

 

 下位である自分たちが落ち着く上位者としての話し方は、こんなにも素晴らしい御方に仕えていられるのだと優越感をくすぐり、いいようのない多幸感を満たしてくれる。段上から下々を見下ろし、下知してくださる優しさを持ち、存在意義を満たしてくれる力強さがあった。

 

 後者は違う。真逆だ。親しみがあり、壁一枚どころか、何枚も隔てているような至高との心理的な距離が、ぎょっとするほどに狭まる。

 自分は本当は賢くないのだと自嘲する。臆病で、寂しがり屋で本当は無力なのだと。だからこそ、デミウルゴスという存在を作り出したのだと。

 大変苦労した、と。学がないから、理想を形にするのも人の何倍もかかった。頭がいいふりをして生きてきた嘘つきの愚か者だから、空っぽの知識しかなかった。完全な『今のデミウルゴス』を生み出すために、一度形になりかけたものを完全に破壊した。納得のいくものを作り上げるために、漠然としたものを、全ての理想を、ウルベルトの中にある夢と救済を何時間もかけて、自分という存在に注ぎ込んだのだと。

 

 ウルベルトは語る、本当に壊したい物、壊したい世界、デミウルゴスに壊してほしい世界、願い、悪魔の楽園という夢を……

 創造主たる彼がそう願うのならば、デミウルゴスはそれを何をしてでも叶えたかった。だが、それには世界という壁があった。己の無力が、ひどく悔しかった。これでは見限られても仕方ないのに、本当にやさしいウルベルトは無能なシモベを簡単に許してくださる。その優しさに、いつも胸が詰まる。

 

 ウルベルトがその時にみせる人間への憎悪は、人間だからこそ生まれる類のものであった。

 

 気づいてしまった時の動揺は、言葉にならないものだった。

 まさか、と今までのウルベルトの悪魔としての生き方がそれを否定するが、それを頭の中から一度取り払ってしまえば、ウルベルトの悪魔としての姿や振る舞いは仮のもので、もう人間であるとしか思えなかった。

 

 後者こそ本当のウルベルトの姿だとするならば……

 

 裏切られた、などとは思わない。仮に、彼が人間と知ったシモベたちがウルベルトを否定するようなことを発言したら、仲間に見せる優しさなどかなぐり捨て、悪魔の残忍さと知恵をもってそれ相応の報復をするであろう。

 デミウルゴスの忠誠は絶対だった。ウルベルトが悪魔であるとか人間であるとか、関係ないのだ。そんなもので翻るような半端で脆弱なものではないのだ。

 

 ただ、怖かった。リアルというもうひとつの世界での彼が、言葉の通り無力なのだとすれば、側に控え御身を守ることのできない焦燥に駆られる。何かがあってからでは遅いのだ。世界という壁が忌々しい、ウルベルトの宿願をやり遂げられないと理解したとき以上の、無力感がデミウルゴスを襲った。

 臆病だというのならその懸念を振り払うためにも力を尽くしたい、寂しさを感じないように共にいたい。足りないものを自分という存在で補いたい。ウルベルトが辛そうに自虐などせずともすむように、全て、全て、全てを、彼の足先から髪の毛一本までデミウルゴスという存在の行いの全てで満たして、幸せであれるようにしてさしあげたい。彼を苦しめるものを退けて守りたい。作っていただいた恩を返したい。シモベとして、当然の願いだった。

 ウルベルトの優しさだけで存在できるシモベでいたくなかった。もっと必要とされたかった。彼がデミウルゴスに求めてくる欲求はこちらがもどかしくなるくらいに薄く、それだけでは足りない。デミウルゴスがいるだけでいい――その言葉と思いに嘘がないのは知っているし、これ以上願いを抱くなど不遜であるとわきまえているが、本音を言えば、足りない、足りない、ちっとも足りないのだ。本来なら悪魔が抱くはずのない飢え、というものを理解できるくらいに、足りない。

 

 デミウルゴスは我儘な自分を自覚している。

 ウルベルトはデミウルゴスがいるだけでいいというが、デミルゴスはウルベルトがいるだけでは満足できない。

 帰ってこられない至高の方々の被造物を思えば、とてつもなく幸せであることがわかって居るのにも関わらず、だ。

 

『今の私は、お前にはどのように見えるのだろうね』

 

 デミウルゴスはウルベルトからの問いかけを思い出す。

 

 悪魔の姿ではなく、人の姿となって帰ってきたウルベルト。

 その姿こそが真のお姿なのだとデミウルゴスは直感的に悟った。

 強大な力を持つ肉体こそ取り戻せなかったものの、モモンガ様はウルベルト様の魂を世界から取り返し、リアルの世界のお姿で会いにきてくださったのだ、と。

 

 核となる至高の気配は変わらないものの、強者としての力を失った脆弱なもの。

 これが、これが、この下位モンスターにでもすぐに命を奪われてしまいそうな御方が……

 

 ぞっとした。

 いつまた再び彼を失ってしまうかもしれない恐ろしさで。

 無力とは聞いていたが、このような弱々しい御方が外に出て行かれるなど信じられない。

 このナザリックにずっといていただけなければ! お守りしなければならない!

 デミウルゴスは誓いを新たにしたのだ。 

 

 この、こんなにも弱い御方が、本当は臆病な御心を隠していらっしゃる御方が、下々であるシモベたちが望む姿を見せようと、虚勢を張った姿を見せているだけなのならば……

 

 そんな、無理をしてまで強者であろうとするのか。

 嘘つきなのだと自棄になった嘆きをこぼすほどに偽りの姿に違和感を抱いているのに、さらに嘘を積み重ね続けていたことを思うと、無性に、いとおしさが生まれた。

 

 自分だけが知っている、ウルベルト・アレイン・オードル様の、真実。

 その優越感に、骨の髄まで喜びで痺れた。

 

 問いには結局答えられなかった。

 再会の喜びと、生まれてしまった感情に混乱していた。

 

 畏怖と畏敬の念を持って接するべき至高の存在に、抱くべき想いではない。

 必死に蓋をして、閉ざした。

 

 喪失の瞬間、忘れようとした感情がまた揺り動かされたが、今のデミウルゴスの心はとても凪いでいる。

 シモベとしての当然の心構えが、ちゃんとできている。

 逸脱した感情は、最初からなかったように落ち着いている。

 

 こちら側の世界の体がないウルベルト、ではその人の身の半身まで秘術の礎として使ったらどうなるのか? 

 その疑問は氷解した。 

 デミウルゴスはひとりごちる。

 

 モモンガ様が、ウルベルト様を損なわれるようなことなどするはずがないのに、なにをいらない心配をしていたのでしょう。

 

 あるいは、最初からモモンガの掌の上だったのかもしれない。

 ウルベルトがナザリックにいないのは、大秘術に巻き込まないようにモモンガがなんらかの手を打ったのだろう。

 その上で、ウルベルトが再びナザリックに戻れるように手段を講じているはずだ。

 

 ウルベルトは帰ってくる。

 モモンガが、ウルベルトを手放すはずないのだ。

 

 デミルゴスは、よく知っている。

 

『ウルベルトさんは、俺の、大切な仲間なんだ。奪われたままになんてしておくものか、絶対に、絶対に! あの人は、俺の! 俺のっ』

 

 とても、よく知っているのだ。

 

 

◆◆◆◆

 

 ネイア・バラハは今回の任務の困難さと無謀さ、そして横柄さに舌打ちしたい気持ちでいっぱいだった。気持ちだけで、実際はしないけれど。物音ひとつたてることすら恐ろしいのだ。たったすこしの身じろぎが、自身の死に直結する――そんな追い詰められた予感があった。

 雨水でぐしょぐしょに濡れた大地に死んだ蛙のように這いつくばり、背の高い草木に紛れ身をひそめる。

 専門の野伏の技術を、もっと父から習っておくべきだったと痛感する。

 呼吸の音すらも殺すくらいに気配を消す。

 これで本当に自分の存在を薄めていられるのか、不安に駆られるがこれが今のネイアの精一杯だった。

 他者と比べて優れている感覚の鋭さを十二分に発揮し、動いてもいい、その瞬間を見極める。

 聖騎士魔法によってかけられた夜目(ダーク・アイ)の効果が切れないことを切に祈りながら、彼女は待った。ただ、ひたすら。

 

 彼女は犯罪者のような目つきをしている以外、どこにでもいる少女であり、聖王国にならどこにでもいる変哲のない凡庸な従者だ。

 ただ、彼女は少し、否かなり不幸であった。

 

 ネイアが所属している隊の今回の任務は、亜人の侵攻を防ぐ長大な城壁の外に出ての偵察任務――人間などよりも遥かに優れた肉体能力や魔的能力に優れた種族がいる亜人の一隊とはち会おうものなら、死んでもおかしくはないとても危険な任務だ。

 命を対価にしてでも行わなければならない、重要な任務でもあった。

 国防を担う城壁の防御は、その内側に住むものにとって受け入れがたいが、絶対ではない。

 内側に引きこもり続けて維持できる安全ではないのだ。

 スラーシュによる悲劇は長く語り継がれるものであり、人間の能力では思いもかけない奇襲をかけられて二度目の悲劇が起こりそうになったのは、一度や二度ではない。

 ほかにも、丘陵の種族間の抗争で土地を失った者たちが、今度は自分達人間の土地を手に入れようと攻めてくる。

 強敵の接近をあらかじめ察知するための索敵や、丘陵の――とくに国に近い位置にある地帯の――情勢変更の偵察。それらは誰かが命をかけなければならない任務なのだ。

 

 この任務自体は、正規の定められた範囲であれば、必ずや完遂しなければならない。

 ネイアはその任務のためなら、命を落とす覚悟だってある。

 だが、今現在ネイアひとりに課されたものは違う。

 

(生きて帰って、お父さんには絶対恨み言を言わなきゃ。お父さんへの逆恨みで娘の私を無駄に死地にやるなんて……これが本当に必要なことなら、潔く……ううん、ちょっと怖いかもしれないけど、当然のことだって受け入れられるのに。でも、これはそうじゃない。騎士にあるまじき私情で命令するなんて、そんなの絶対に聖騎士に相応しくない)

 

 悪いのは父親ではなく、ネイアにバフォルクの領土をひとりで斥候に行ってこいと命じた聖騎士の隊長だ。だが、無事生きて家に帰れたならば、八つ当たりくらい許されるだろう。

 

(バフォルクの領地を見てこいなんて、無理に決まってるじゃない。山岳地帯までどれだけ時間がかかると思っているの)

 

 偵察予定地になく、情勢の変化に対応するための早急の案件というわけでもない。

 しかし隊長はこじつけのように絶対に必要なことなのだと断言した。副隊長が諌め、ネイアがその任務の無意味さを訴えても、「聖騎士としてあるまじき臆病風に吹かれるなど、懲罰に値する!」「それでも誉れ高き聖騎士を目指す者なのか!?」「重要な任務であることが理解できない無能を、軍が育てる理由などない!」と密偵任務の最中でありながら喚き、結局ネイアは厳命により部隊を追い出されたのだ。

 

 本来であれば、聖騎士の従者であるネイアが門外漢である密偵(スカウト)野伏(レンジャー)そのものの仕事をするなんて、ありえない。だいたい、隊長の話は最初からおかしいのだ。本当に情報が必要ならば、専門の者が仕事をしたほうがよりよい情報を得られる。

 

(ああ、早く、行って。お願いだから気づかずに通り過ぎて)

 

 山岳にたどり着くまでの丘陵地帯を縄張りとする亜人の縄張りに、ネイアは入り込んでしまっていた。

 生きた心地などしなかった。

 すぐそばに、自分のような駆け出しの従者などあっけなく殺せる亜人がいる。

 その足の向かう先ひとつひとつの変化に、うるさいくらいに心臓が鳴った。

 

(こっちに来るなよ)

 

 経過した時間がわからなくなるくらいの執念が、やっと身を結ぶ瞬間がやってきた。

 気配が遠ざかる。

 ほかの亜人が近づいて来ている気配はない。

 今しかない。

 ネイアは姿勢を低くし警戒を強めながら、できるだけ音を殺して先を急いだ。

 

(なに、あれ……)

 

 やがて、身を潜めて進むネイアの目に、想像もしなかった建物が飛び込んで来る。

 遠目には分からなかったが、警戒しつつ進むとその全容がつかめてきた。

 小高い丘部分からそれを見下ろす。

 ネイアは呼吸をできるだけ音をたてずにしていたことも忘れて、ごくりと唾を飲む。

 夜目(ダーク・アイ)で暗闇の中でもはっきりと物を見ることができるようになっている目に、ぞっと背筋が凍るような光景が飛び込んでくる。

 墓だ。

 とても広い墓地地帯だった。

 死者を祀る厳かさや静けさよりも、恐ろしげな雰囲気を纏う混沌とした空気を感じ取った。

 乱立するのはもう、弔うものもいなくなったような墓標。

 高い壁に囲まれた敷地に、東西南北に霊廟であろうあろう建物が四棟。その中央には巨大な霊廟が構えてある。

 

 頭の中に叩き込んだ地図が正しいならば、ここは亜人たちのはっきりとした領地ではなく、まだ緩衝地帯のはず――。

 丘陵の亜人たちのどれかが、ここを新たなる領地にしたと考えられれば、話は早いのだが絶対にそうではない。ここは昔からいずれかの種族の領地であったのだろう。そして、かなり高度な文化を持っているはずだ。

 この丘陵に住む亜人たちの住処はほとんどが天幕だ。中には移動式の木製簡易コテージのような建物で暮らしている種族もあるらしいが、聖王国のようにしっかりとした建造物を建てた生活をしない。縄張り争いが激しく、種族ごとの建物の文化など簡単に破壊されるので、丘陵の亜人たちは簡易な天幕で生活をしていると聞く。

 建物が放つ空気の禍々しさは別物として、その定説を覆すような非常に立派な建物に、ネイアは丘陵の勢力図を頭の中で描き直した。

 

(天幕やコテージならまだ分かるけど、あんな霊廟なんてすぐに建てられるものじゃない。亜人の中には、こんなにも立派な建物を建てて、群雄割拠の丘陵でも、それを守っていける強い者たちがいるんだ)

 

 遥か昔からそこにあったかのように、その地に佇む霊廟。

 

(調査をしたほうがいいのかな。バフォルクよりも、こちらの情報のほうが重要じゃないか)

 

 ネイアの勝手な判断だが、それでも隊長の判断のほうがよほど自分勝手で誰の益にもならないことだ。

 ネイアは、山岳に向かうのではなく墓地地帯に向かうことに決めた。

 それでも完全に近寄るのではなく、ここよりも少し近いところから観察する程度にとどめるつもりだが。亜人のすみかに接近などとてもではないができない。

 

 

 

 

 その決断が少女の運命を変えた。

 

 

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