書きたいもの詰め合わせた闇鍋話 作:オニヤンマンマ
そのとき世界に揺らぎが起きた。
地を揺らす物理的なものではない。
目に見える力とは別の力、魔法の持つ理にも似た世界とは表裏一体にある次元に干渉する力。
地上に住む生き物すべてがその揺らぎを観測できなくても、確かに起こった揺らぎーー
なにも、だれも気づかないはずだった。
破滅の竜王と呼ばれた災の存在がいた。
大きな力を持ち、力の限り大地を荒らし、幾多もの命を散らした。
それが故に封じられたもの。
揺らぎは、その封印にほころびを生じさせた。
だれも気づかないはずの揺らぎにより、その存在は目を覚ます
◆◆◆◆
周囲によもや恋をしているのでは、と誤解されてしまうくらいに自分に執着してくるモモンガには本当に困ったものだった。
それがなければ、彼の気を楽にしてあげることをもう少し言えたのだと思う。
もうちょっとこう、抑えるべきでは? うん、モモンガさん、俺はいなくならないし、むしろあんたがいなくなったら困るのは俺のほうだし、もうちょっと落ち着こう、な? 昔は辞めるつもりはありましたけど、イリニを放っておけないから辞められないし、ナザリックにいるデミウルゴスのためにも辞められないんですよ。俺の傑作に消えてほしくありませんから。だから、こう……
二人だけでナザリックにいたときは、かけるべき言葉に相当苦慮した。
下手なことを告げたら地雷でも踏み抜きそうで……孤独感を拗らせまくって告白の一歩手前の空気になるという難易度ウルトラEの離れ業をやってのけるモモンガに、ウルベルトは匙を投げた。余計なことは何も言わないほうがいい。そう判断した。
同性同士で、互いが特別な存在であることを確認しあうとか、作り話でもあるまいし、勘弁してくれよ。モモンガさん。
だいたい察してくれ。声にしなくても分かるだろうに。
無理矢理ことばという形にしたところで、陳腐になるだけのものだ。虚しくもある。
貧民層出身で、子供の頃に両親を失ったという共通点から、それが原因で精神的にいろいろ拗れ、歪み、少しだけ、他人の持つ『当たり前』というものの箍がお互い緩んでしまっていた。
自分たち二人はそれぞれ違う方向にいびつで、何かが圧倒的に足りない。
だからこそ、作られただけの世界から離れられないでいた。
向けられているのが恋愛感情の類ではないのが救いだろう。
遠慮しがちで人のふところの深いところにはいった経験がないひとで、人との距離の詰め方だ下手なだけなのは知っていたから、それ故にそうなってしまっただけなのだ。
わかっていたがその時期のウルベルトは乾いた笑いが胸中を占めていた。
男二人きりが維持するギルドで、恋愛感情のもつれっぽいのが発生するとかどんな地獄絵図だそれは。
たっちが帰って来たことにモモンガはとても感謝していた。
ウルベルトはプライドもあって表面上はそれを見せなかったが、それ以上に感謝していた。
ミーシャが来て、リーザが来て、メンバーの何人かが戻って来てくれた……
モモンガも落ち着くかと思ったが……そうはならなかった。
モモンガは全方向にギルドメンバーが変な意味でなく大好きだった。みんなが辞めていくから、均等に分配されてたその好きという気持ちが、全部ウルベルトへと向かった。
重量などないのに、向けられるそれは気圧されて息苦しくなるようなもの。
モモンガに似た者同士の同胞意識を持っていなければ、裸足で逃げ出したくなるくらいのいろいろと誤解しそうになる圧倒的好意だった。
それはどうやら、二人だけでナザリックを維持していた間に、ウルベルトにまでいなくなって欲しくないという執着や恐怖心で、ぐちゃぐちゃになり、どうにも一般のギルドメンバーに向けられるものとは一段違うものとなってしまったらしい。再分配されるようなものではなく、ウルベルトにのみ向けられるものとなっていた。
彼らが帰ってきたところで、好意の質量、のようなものは減らず、むしろ独占欲で悪化したような気がする……
ペロロンチーノなど、割と一番被害にあったのではないだろうか。
言うなればモモンガが欲しいのはウルベルトの親友という位置。恋人ではない。
例えばウルベルトが恋人を作ったとしても、ちゃんとユグドラシルに顔をだしていれば、態度は何も変わらないはずだ。
やまいこやぶくぶく茶釜がウルベルトと一緒に居ようと全く気にしてなかったのに、ペロロンチーノと一緒にいるとやけに嫌がった。かつては無課金同盟として仲良くしていたペロロンチーノに、最も親しい男友達としての座を奪われるのが嫌だったらしい。
たっちとウルベルトは、好意的に解釈するとしたら喧嘩友達で、親友というくくりに最もふさわしくない二人である。
武人健御雷さんと二式炎雷は既にツーカーの仲で親友が成立しているので、ウルベルトの親友という位置は掻っ攫わないから安心ーーという心理が無意識のうちに働いるらしい。
たっち・みーは、モモンガがウルベルトに無自覚の恋愛感情を抱いていると思っていた。妻であるリーザもそうだ。
察しのいい女性陣も「あー」となんとも言えない声を出し、応援しにくい恋にどうしようかと頭を抱えていた。
子供のミーシャすら「モモンガさんはウルベルトおじさんのこととっても好きなんだねー」と、気付いてしまうくらいだ。
一番遅く気づいた男性陣も、真面目すぎるギルドマスターのことを茶化すこともできず、困惑していた。
誤解を解くのに、どれだけウルベルトが頑張ったことだろう。
モモンガ本人に忠告すると、本人が目に見えて反省して気まずくなりそうなので何も言えず、孤軍奮闘でノーマル主張に励んだ。
それも、いい思い出ということにしておこう。
三十年に満たなかった人生で、自分を一番大事に思ってくれたのがネット上で知り合った同性というのは、他人に聞かれたらあれかもしれないが、ひとの評価など関係ない。他人の目を気にしていたら重度の厨二病に罹患してはいられない。ウルベルトは大事なかけがえのない友人を作れたことがとても誇らしかった。
困ったこともあるひとだが、とても優しい周囲の和を重んじる最高の友達だった。
こうやって、最高のプレゼントももらえたのだ。
気配り上手なギルドマスターに頬が緩む。
心残りは、モモンガに何も返せなかったことだろう。
こんなにもウルベルトを思ってくれているのに、ウルベルト自身はモモンガに何も言えていない。
モモンガの確信を得たいがゆえの天然暴走は、ちょっとどころかかなり照れ臭いものであったが、ウルベルトも最後くらいはなにか言葉にしたいと思っていた。
(モモンガさんには悪いことしたなー。ユグドラシルが終わっても、俺とまたこうやって遊びたい、って感じのこと言いたいのは分かってたけどさ。うん、分かるんだけどさ、言葉としての確約が欲しいっていうか、あの人自分に自信がなくて遠慮しがちだから、俺に何か言って負担になるのを遠慮してるの……俺から何かアクション欲しかったのも察してたけどさー。俺はあなたのこと、一番の親友だと思ってますよ。そう、言ってあげれば良かったんだけど、俺、すぐに死ぬしなあ。言えねーよ)
親友宣言したウルベルトが、再び会うことも叶わないまま死んだら、あの優しい男はどう思うだろうか。
そう、考えるとウルベルトは下手のことを言えなかった。
とにかく、最後の最後まで楽しもう。
ウルベルト・アレイン・オードルは、ギルドマスターモモンガにとって良き友であった。それだけでいい。
玉座の間で、たっち・みーに負けてなるものかとむきになって声を張り上げた。
たっち・みーはウルベルトの負けん気に気づいたのだろう。向こうも張り合って、大声を出していた。
三十を目前に控えたいい歳した男が、何をやっているんだと思わないでもないが……
いいだろう、どうせ最後なのだ。
ゲームの最後という意味ではなく、こうやって馬鹿をやることが、ウルベルトの人生において最後となる。
だから、いいのだ。
心残りだった、イリニも消えてしまう。
いや、親である自分の手を離れ、別の世界に旅立つのだ。
モモンガもサプライズで粋な計らいをしてくれる。
ウルベルトは感謝でいっぱいだった。
我が子がナザリックの主人とは……光栄ですよ、ギルド長。
時間が来て、周囲の音が途切れた。
ああ、終わったのだ。そう思って目を瞑る。
この目を開けば、がらんどうの部屋に帰るのだろう。
余韻にひたりたいがために、現実を目の当たりするのは少しあと回しにした。
ウルベルトは目をつぶったまま深呼吸をする。
なぜだろう、心が清々しいせいだろうか妙に空気が美味く感じる。カビだらけの居心地の悪い安普請のアパート住まいにいるとはとても思えない。なんとも言えないような、初めて嗅ぐのにとても落ち着く心地よい匂いがする。
最後に、最高に良い気分を味わえた。ウルベルトは目を閉じたまま微笑む。
明日からのために、しっかりと身辺整理をしてきた。
近いうちに、ウルベルトと名乗っていた男は死ぬ。
間違いだらけの社会体制に少しでも一石を投じるために、この命を捧げるのだ。
ベルリバーが文字通り命を賭して伝えてくれたあの情報は、ゲームをしながらもなんとか秘密裏に関係を築いて来た反巨大複合企業の組織に既に渡してある。あとは、この身の残りの人生全てをーー命ごとくれてやるだけだ。
腹芸は得意なほうではなかったが、モモンガたちは何も気付いていないのが幸いだった。
仲間の死を隠されていい気はしないだろうが、みんなとまた会えるかもしれないと楽しみにしているモモンガにはどうしても伝えられなかった。
(たっちさんがミーシャちゃんのために出世を捨てて、窓際のおまわりになってたのは本当に良かった。下手したら友人同士で殺しあうことになってたもんな)
仲良くなれない男、だが結局最後はなあなあなままの関係を築き、友人と言えるまでの仲になってしまった男。かつての自分たちならばいざ知らず、たっちを害したいとはとてもではないが、思えない。このまま、世界の闇とは関係なく、家族で幸せになってほしいものだ。
それとなく探りをいれたが、ベルリバーの死はたっちに伝わっていないようだ。企業の闇と関わる出世コースでもあるがきな臭くもある事件とは、幸いなことに縁遠いところにいるらしい。
「さーて、元気に死んでくるとするか!」
ウルベルトはヘルメットを外そうとした。
だが、はたと気付く。
ない。ヘルメットがない。
首につなげるコードの感覚の類もない
というか、むしろなんで自分は突っ立っているんだ?
ゲームをするために、椅子に座ってダイブしていたはずなのに?
ウルベルトは目を開く。
そしておかしい理由に合点がいった。
ヘルメットを被っていないはずだ。
「は?」
気の抜けた呆けた声が漏れる。
ウルベルトは終わったはずのゲームの世界に未だ取り残されていた。
目を開くと、そこは見知らぬ夜の森の中であった。
玉座の騒々しさから一変、しんとした息をひそめるかのような静寂に包まれている。
星と月の明かりが、木々の合間から注いでいた。
装飾品の効果のおかげか、はたまた完全な暗闇でなかったためか、目が慣れて来るとその姿がより正確に捉えられるようになる。
記憶にある、不規則を装ってはいてもデータ表示の連続により何処か整然としたユグドラシル森ではない。少し先にはユグドラシルの世界樹ほどではないが、非現実的な大きさの巨木の影。すぐ近くにある木々は、規則性などなく雑然と、そして生き生きとしている。もっと小さく近くを見ると葉脈ひとつひとつ、水滴のひとつひとつが丁寧に表現され、あたかも本当に存在しているかのような狂気の沙汰の作り込みだ。製作者の魂がこもったとも言える第六層の森林であっても、比べ物にならない。
ヴァーチャルリアリティの粋を極めた、かつて至るところにあったという自然の森をそのまま再現してあるかのようだった。
ウルベルトは手近にあった葉にそっとふれる。
水滴で指先が濡れ、子供のころ学校の教科書でしか見たことのないような小さな羽虫がウルベルトの手をかすめながらふらふらと飛んで行った。
よく見れば、虫はそこかしこにいる。
見かけだけかと思ったが、こんな小さな虫にも質量が再現されているらしく、手を伸ばすとしっかりと感触があった。
ユグドラシルでは、容量の削減のためか、このような小さな虫はグラフィックの一部でしかなかった。
臨場感が、ありすぎる。
ふ、と吐いていた息を止めた。
目を見開き、背筋に冷汗が這うほど悪い予感がしたのを、首を降ってその場しのぎに振り払う。
(あんな虫なら、データでなんとか表現可能なはず……無駄に作り込んであるだけで……もしかして、実装予定のユグドラシル2にでも迷い込んだか?)
水滴で濡れた指を服でぬぐう。かつてのユグドラシルであれば、こんな細かで煩雑な動作など必要なかった。作り込みすぎだ。こんなもの実装したところで、容量を喰うだけで誰も徳しないだろうに。
クソ製作は最後までクソである。
こんなバグにユーザーを巻き込むなんて、余韻のある最高の気分が台無しではないか。
そう、罵って終わることができれば、ウルベルトはまだ平静を保てたであろう。
ゲームの体に冷や汗が流れるという可笑しさを無理矢理無視して、ウルベルトはコンソールを開こうとした。
心拍数が跳ね上がり、己の脈拍の音が耳に届いている。
「なんで、だよ」
使い慣れたコンソールが出現しない。
「強制終了、チャット、GMコール、強制アクセス! ああ、なんだよこれ」
コンソールを使用しないシステムを使おうとするが手応えは一切なく、全て空振りに終わった。
(サーバーにバグが発生した? 容量を無駄に喰うそのうち実装予定のユグドラ2を同じサーバーで動かしていたせいで、なんらかの不具合が起きてユーザーがゲームの中に取り残されてしまった? 俺だけか、みんなは?)
周りを確認しても、近くにいる様子はない。
ここにいるのは自分ひとりだけだ。
(クラス取得のイベント用NPCをそのまま流用したんだっけ。プレイヤーキャラとは違うんだもんな。無理矢理PCにしたせいで、サーバー終了時のプログラミングがおかしくなって俺だけバグに巻き込まれたか? まさかこのまま放置はないよな)
命を捨てる覚悟はあったが、ゲームのバグでログアウトできず電脳世界で死亡という、ふざけた死因は我慢できない。
(営利誘拐、あるいは監禁の犯罪だぞ、これは……)
どうにか解決してくれることを願ったが、願うだけでは一秒一秒無駄に時間が経過していくだけだ。
こめかみに伝う汗を拭いた。暑くもないのに、焦燥のせいで脂汗が流れる。
おかしい、おかしいだろう、と内なる声が響く。
だが、ウルベルトはその声を無視した。
「
装備変更のときにざっと確認したステータス画面に、取得した魔法は表示されていなかった。ヘラルディストが必ず取得する
(スクロールは、……
1日に決められた回数のみ任意の魔法をスクロールがわりにできる便利なワールドアイテムを腰に巻いていることに今更思い至り、ウルベルトは藁にすがる思いで、使おうとする。
(コンソールが開かないから、無理かもしれないが)
不安になりながらも、先ほどよりもやたら絢爛で目に見えない力のようなものを感じるワールドアイテムに、
(視覚に現れるコンソールじゃなくて、神経から直接電気信号が流れて任意の行動が取れる、のか)
ワンアクションを省けるのは便利といば便利だが。
恐る恐る
「嘘だろ……」
頼みの綱の連絡手段が断たれてしまった。
使えるような気がしたために、落胆が大きい。
連絡先が白紙になった理由はいろいろと思いつく。ゲームが終了したことで今までの連絡先データのみがリセットされた、魔法を失ったことで今まで蓄積された連絡先データも一緒に失った、など。あるいは強引なアバター変更が原因かもしれない。
他に何か手段は、通信手段は……いや、そもそもこのまるで仮想現実が現実になってしまったようなこの場所から出て行く方法はないのか。
「畜生!」
ウルベルトは八つ当たりのように声を荒げた。
ゲームだと思い込みたいのに、非現実的な空想が脳裏をかすめる。
さっきから濃厚に香るこの匂いはなんなんだ。電脳法で禁止されているはずの嗅覚がはっきりと知覚できてしまうのは何故だ? 鈍くなっているはずの触覚が、現実と変わらずに働いているのは何故だ。口に入ってしまった汗に、しょっぱさを感じたのは何故だ。
己の耳に、心音が絶えず響く。偽物の体であるはずなのに、まるで、この体が生きていて本物の心臓が動いているかのようではないか。恐る恐る、右手を心臓にあてた。
動いている。
データでしかないはずの体が、生きているように脈打っている。
「一体、なんだっていうんだ」
泣き言のように声が漏れた。
こんなにも興奮状態に陥ったら、ニューナノインターフェイスが肉体の異常状態を察知して強制ログアウトが行われるのが普通だ。それすらも実行されないのだ。
ウルベルトはじっと自分の手を見る。現実の自分の手ではない。傷やタコ、長年の過酷な労働でこびりついた汚れもなく、つるりとしていて綺麗なものだ。胸から下をぐるっと見る。先ほど使ったワールドアイテムもそのまま、ゲームのままの格好だった。おそらく、顔も若かりしころの自分が少し細くなったような見た目をしているのだろう。
衝動的な怒りも去り、混乱も通り過ぎて行く。どうすればいいのか、という建設的な思考も思い浮かばずただひたすら途方に暮れていると、どん、とそこそこにほど近いところから大きな音が聞こえた。
その直後に、地震のように微細に大地が揺れた。同時に、森の中で獣が唸るように威圧を感じた。立ちすくむような揺れでもないに関わらず、ウルベルトは息を飲み棒立ちになった。足がすくむ、訳もなくせり上がってくる恐怖感で息もできなくなる。
小刻みに体が震える。
混乱と動揺とは全く種類を別とする理由で胸が跳ねる。心臓がうるさい、潮騒のような鼓動が鼓膜をがんがんと叩く。
体が言うことを効かない!
梢枝がしなる、枝が払われ、背の低い草木が乱暴に踏みにじられ、何かから逃げるように小動物や小鳥がウルベルトの脇や上空を通り過ぎて行く。
その後を追うように、破壊音が迫ってくる。いつだったか、昔、映像で聞いたことがある音。樹木が機械で伐採される、悲鳴のような。
絶望を生み出す咆哮が聞こえる、鞭のようなというにはあまりにも巨大な触手がしなる、少し先にあったはずの巨木が、木々を薙ぎ払いながらこちらに向かってくる。
本能が逃げなければと叫んでいるのに、ウルベルトの足はぴくりとも動かない。
(死にたくない、こんなところで、死にたくない。死ぬなら、死ぬなら、すこしでもあの世界を変えて死ぬんだよ!)
決意とは裏腹に、歯の根が合わない。思考がバラバラになって、残されたわずかな時間を使ってまともなことも考えられない。
一瞬頭の中をよぎった、虚栄感と執着で混沌とした過去の日々は、走馬灯というやつだろうか。
ウルベルトは、視界の端をかすめるように通り過ぎて行った紋章の影にはっとする。
(ギルドの指輪を……!)
ワールドアイテムが使用できるのならば、外部からナザリックへ直接移動できる指輪も使えるかもしれない。残されたほんのわずかな可能性にかけ、指輪をはめてある逆の手で、握り込むようにして指輪を使おうとした。魔法の力がこめられた、ギルドサインが刻まれた仲間の証。
このわずかな間にも、この世の邪悪さを体現したかのような巨木は、ウルベルトの目前に迫っていた。
ウルベルトは、ひとつ判断ミスをおかしていた。
そのミスは、彼を責められるような類のものではない。
彼がヘラルディストというクラスについていなければ、起きなかったミスであり、ヘラルディストのクラスについてしまったのはウルベルトの意思ではない。
そして、ゲームで設定された力が、実際に自分の体に宿っているなどという馬鹿げた自覚をすぐに持てるほど、彼は子供ではない。なおかつ、その力はゲームですら使ったことのない、持っていたという意識など歯牙にもないほど些細なものであった。
けれども、本人の自覚のない要因が絡み合って、指輪の力を発生するための起点が、ずれる。
彼は指輪を使うとき、帰還の意思を持って使おうとするべきであったのだ。
決して、ギルドサインに意識を持って使うべきではなかった。
ヘラルディストの持つ
ユグドラシルの内部に蔓延したアインズ・ウール・ゴウンというギルドの人々の身勝手なイメージ。
ゲーム内に蓄積された行動や言動のログ。
そこに所属するものたちの思考、思想をコンピュータが読み取った秘密裏の記録。
それらが混沌と混ぜ合わさったものが、ギルドサインから力として引き出される。
アインズ・ウール・ゴウンのギルドサイン。
その紋章の持つ力が、疾くこの世に放たれる。
ウルベルトは指輪を包み込んだ手の中で、何かが膨張するのを感じ取った。生きているかのような無数の脈動が、手のひらのうちに感じ取れる。それは決して、暖かいものではない。死に誘う、どこまでも暗く冷たく恐ろしいものであった。
目の前の巨木をも遥かに上回る禍々しさが、ウルベルトの手の内から生まれようとしている。
恐怖に震えていた体は、もはや生きる気力を完全に失う。
正気を手放し、いっそ狂気の世界に落ち込み廃人にでもなったほうが幸せなのではと錯覚するほどの、夜の闇よりも尚も深く濃い夥しい黒が、生まれ出ずる。
押しのける力で、手が弾き飛ばされた。
指輪の宝玉から犇めくように、異形の影が躍り出る。
殺意、殺意、殺意、殺意ーーひしめくような殺気が爆発して、周囲を揺るがした。
ウルベルトにすんでのところにまで迫った触手が、目に見えない威圧でしかないものに四散させられる。
それにほっとするような精神状態ではなかった。むしろ、生という絶望から救ってくれる最後の慈悲を失ってしまったのだと、ウルベルトは意味のわからぬ獣のような絶叫をほとばしらせる。
生まれてきたことを後悔するほどの、圧倒的な悲観。
相手をいかに残酷に殺してやるか、策にはめて貶めてやるか、いかに楽しんでやるか、悲鳴を聞いてやろう、悲痛を笑ってやろう、助命を踏みにじろう。そんな嗤い声が聞こえてくるかのようだ。見覚えのある異形たちに、きっと躊躇いはない。
この世の生きとし生きる者のことごとく刈り尽くすような、邪悪な宴を楽しむために顕現したと言わんばかりに、ひたすら恐ろしい。自身もその獲物の一人なのではないか、今は脆弱な人間にすぎず、異形が遊びのために殺してきたものでしかない。
悪魔の生み出す絶望に、己もろとも焦がし尽くされたのならば、そう願望を抱いたこともあった。所詮、夢物語にすぎないと自嘲していたものが現実化しようとしているのに、ウルベルトの胸中に広がるのは満足感ではなかった。
心を手放して茫洋とするウルベルトに、指輪をはめた骨だけの指が伸ばされる。片頬をなぞり、触れただけのそれに、焼け付く痛みを覚えた。
皮膚が溶け、肉が焼ける強烈な臭いが鼻をつく。
「絶対に逃がさないから」
優しげな青年の声であるはずなのに、相手の意思を一切無視した一方的な感情が剥き出しのまま叩きつけられる。
動かないはずの骨の顔が笑った気がした。眼窩に灯る火が妖しく揺れる。
終着点なき執着。肥大していくだけの欲求がウルベルトの肉体に呪いとなって刻み込まれた。
このまま、殺されるのかな。
ギルドアインズ・ウール・ゴウンの悪意のみを凝縮して具現したかのような者どもは、そんなウルベルトの懸念とは裏腹に動き出す。真っ先に一撃を下したのは、巨大なイビルツリーに対してであった。
闇色の衣をまとったオーバーロードがウルベルトに背を向けて先陣を切ると、次々と異形たちの容赦ない攻撃が巨木に襲いかかる。
「はあ、うわぁ……」
頬の火傷めいた痛みも忘れ、感嘆した。
ギルド全盛期メンバーで哀れな巨大なだけのレイドボスを虐めているだけにしか見えない光景に、ウルベルトはやっと僅かに冷静さを取り戻した。
脅威は自分にはなく、敵意は山のような巨木にのみ向かっている。
魔法を繰り出す骸骨の死者の王、颯爽と天空を駆け凶悪無比の遠距離攻撃で触手を次々と撃ち落とすバードマン、邪悪さとは全くかけ離れた存在感で燦然と輝く聖騎士。黒い粘体が樹皮を溶かして、ピンク色のぬらりとした肉の塊が盾のようにウルベルトの前に立ちはだかる。
懐かしさすら覚える、前衛役の面々がほんの僅かの漏らしもなくウルベルトを悠々と守る。
草木が集まって出来た人形のような姿をしたものがひとたび号令のごとき指令を出せば、殲滅力がいや増した。
ハーフゴーレムの忍者が舞う。醜悪な巨体の侍の一撃が容赦なく炸裂する。ネフィリムのモンクが前線を支える。悍ましい姿をした精霊や、肉体の一部分だけを抜き出して人型を取っているだけの異様な姿の者共の笑い声が今にも聞こえてきそうだった。実際にウルベルトの耳に届くのは、巨木に対して容赦なく叩き込まれる破壊音だけだ。けれども、ウルベルトの耳にはメンバーの声が聞こえた気がした。
弱い! なんて弱い!
バカにするように、物足りないと叫ぶように、遊び相手にもならない木偶の坊を笑っている。
この光景を見ていると、ウルベルトがアレに怯えて声も失くしていたことが、なんとも馬鹿馬鹿しくなる。からからになった喉から、呆れを滲ませて笑い声が小さく漏れた。その時、
「いって!」
背後から何者かに蹴られた。
慌てて振り向くと、見知った姿がそこにあった。
最強装備に身を包んだ山羊頭の悪魔。
ウルベルト・アレイン・オードルが、青年を咎めるような冷淡な眼差しで立っている。
情けない、格好悪い、ありえない、そんな責め句が酷薄に歪められた口から今にも飛び出してきそうだった。
悪魔はウルベルトを一瞥すると興味を失ったかの態度で優雅に通り過ぎていく。
(あれを、使うんだな)
蹴られた怒りも湧かず、呆然としたまままともに見たことのない後ろ姿を見送った。
きっとあの悪魔は、自分の代名詞となったあのスキルを使うのだろう。
はるか彼方の昔に作られた無言映画を見ている心地で、ウルベルトはその光景を視界に焼き付ける。
この世の全ての災いを集積した渦が、名前も知らないイビルツリーに降りかかった。