「太刀風」「太刀風 A」をお読みになっていなくても大歓迎ですが、目次から「太刀風」「太刀風 A」をお読み頂ければ幸いです。
2.【移動する】
仕方が無い、移動するか。雷には少々辛い思いをさせてしまう事になるが、敵に襲撃されるよりはマシだろう。
「よし、聞いてくれ。」
俺は立ち上がって言った。
「恐らく、このままここに居るのは危険だろう。とりあえず別の場所に移動しようと思う。」
響が俺を見上げながら言った。
「行くあてはあるのかい?」
「いや、現時点ではない。だがここにいるよりはマシだ。」
すると電が言った。
「そうと決まれば早速準備なのです。」
暁も続く。
「そうね。荷物をまとめましょ。」
立ち上がって背嚢に荷物を入れ始めた二人を見て、俺は響に言った。
「響も荷物をまとめてくれ。できるだけ早く移動したい。」
「…分かったよ。」
響も背嚢を漁り始めた。雷は一人、担架の上で座ったまま申し訳なさそうな顔をしていた。
「どうした?具合悪いか?」
「ううん、違うわ。…自分のせいで皆に大変な思いをさせちゃう事になっちゃったから…。」
そう弱々しく呟いて俯く雷。いつも元気そうにしている彼女だけに、ひどく落ち込んでいるように見えた。
「気に病むな。なってしまった事はしょうがない。この先の事を考えろ。」
「…うん。」
彼女は静かに頷いた。
「隊長、準備完了したわ。」
「大丈夫なのです。」
「いつでも出発できるよ。」
三人が各々準備を完了させて背嚢を背負った。
「よし。機関銃は放棄、小銃は各自持ってくれ。担架は電と暁で頼む。響は殿で警戒してくれ。」
「了解。」
「行くぞ、出発だ!」
俺達は洞窟を出ると、北を目指して密林へと入って行った。
担架を担ぎながらの移動は思い通りには行かず、足場の悪さも手伝って大した距離を進む事はできなかった。付近に洞窟などを発見できなかった為、その日の夜は密林の中で露営となった。
深夜。俺は足音で目を覚ました。泥を踏むグチャグチャという音が近くで聞こえた。それも一人がたてるような音ではない。多人数が移動するような音だ。小銃を手繰り寄せ、寝ている四人をそっと起こす。
「おい、何か来てるぞ。」
「敵?」
響が小銃を手にしながら言った。
「分からない。」
俺は答えながら周囲の様子を窺った。その時、木々の間に月明かりを浴びて光る物を見つけた。
「あれ、何だ…?」
「何かいた?」
「敵なのですか?」
暁と電が小銃を構えながら言う。
「あの光ってるやつ。」
俺はその物体を指さした。その瞬間、物体が動き、更にもう一つ同じ物体が現れた。俺は更に目を凝らした。時々動く物体。数十秒凝視し、俺は物体の正体を確認した。
「敵の鉄兜だ…。」
いつの間にか米兵の集団が近くに来ていたのだ。こちらの速度が遅過ぎたせいで追いつかれたのだろう。
「どうするの?」
響の問に、はやる心臓を抑えながら答える。
「バレなきゃこのままやり過ごせるかも知れない。そこに賭けよう。」
そう言った矢先だった。ガサリと大きな音がした。驚いて見てみると、目の前に野生の水牛がいた。
「なんだ、ビビらせやがって…。」
だが、この音は敵の注意をこちらに向けるには十分だった。
敵から声が上がったと思うと、強烈な機関銃の掃射が飛んできた。たちまち水牛が血飛沫と肉片を撒き散らして吹き飛ばされた。
「うわああぁぁぁぁぁ!」
ダンッ!
暁が焦って発砲。
「あっ、ごめ―」
「馬鹿!伏せろ!」
言うや否や銃弾が雨霰と飛来し、木の葉を散らしながらチュンチュンと音をたてる。
「応戦しながら後退するぞ!」
「了解!」
響が発砲。向こうから悲鳴が上がった。
「雷、這いつくばりながら逃げろ!急げ!」
「了解よ!」
雷が担架から這い出て、必死に敵と距離をとっていく。俺は手榴弾を掴んで言った。
「手榴弾を投げる。敵が怯んだ隙に走るぞ。」
全員が頷いた。
「いくぞ!3、2、1、それっ!」
手榴弾を力いっぱい投げた。望みを託した手榴弾は敵陣のすぐ前で炸裂した。
「行け!走れ!」
俺は雷の手を掴んで叫んだ。三人が猛然と走る。俺も雷の手を引きながら全力で駆け出した。が。
「うはぁっ!」
暁の悲鳴。目を向けると彼女が倒れるのが見えた。
「雷、自力で走れるな?」
「うん、大丈夫よ!」
「よし行け行け行け!」
雷が俺の手から離れ、駆け出していく。俺はすぐさま暁の元へ駆け寄った。
「暁ぃ!おら、しっかりしろ!」
「あうっ、いだいよぉ!」
月明かりで彼女の腹が血でぐしょぐしょに濡れているのが分かった。
「立て!肩貸してやるから、逃げるぞ!」
暁を無理矢理立たせて肩を貸し、急いで敵から離れていく。無慈悲に追撃の銃弾が飛んできたが、幸いにも当たる事はなかった。
無事に後退した三人と合流したのは明け方になってからだった。
「隊長、こっち。」
密林の中から響が現れ、俺を呼んだ。
「響!無事だったか!」
「死ぬ時は隊長と一緒じゃなきゃ嫌だよ。」
そう言って微笑む彼女に導かれ、俺と暁は小さな洞窟に入った。そこには雷と電も身を潜めていた。
「電、暁を頼む!」
「えっ、了解なのです!」
撃たれた暁を見て、電はすぐに応急処置を始めた。
「痛いと思うけど我慢するのです。」
「あぐぅ…うぅ…。」
歯を食いしばって耐える暁。あまりに可哀想で、つい目を逸らした。逸らした先には雷がいた。
「お前は大丈夫そうか?」
雷はキョトンとした顔をした。
「私?私は大丈夫よ。片腕が無くなっただけだもの。」
普通は「無くなっただけ」で済ませられるような事ではないのだが。
「どこか痛いとかは?」
「無いわ。心配しすぎよ。」
「しないのは問題だが、しすぎる分にはいいだろ。」
ふと視線を感じて振り返ると、座った響がこっちを見ていた。
「響、どうした?」
俺が声を掛けると、響はあからさまに不快な顔をした。
「私は放置?」
「そういう訳じゃない。見るからに具合の悪そうな人を優先するのは当然だろ?」
「それじゃあ私は後回し?」
「まぁそういう事だ。」
俺がそう言うと響はおもむろに銃剣を取り出し、その切っ先を手首に当てた。
「おい、何やってんだ。」
「手首を少し切ろうと思ってね。」
「はぁ?」
俺の頭は彼女の行動を理解できなかった。
「何でわざわざ傷つけるんだ?」
「そうすれば、隊長は私を見てくれるだろう?」
質問を質問で返された。
「じゃあ、何で俺が見ると思ったんだ?」
「さっき言ったから。具合の悪そうな人を優先するって。」
俺は内心、驚愕した。たかが気を引きたいが為にそこまでしようとする彼女の思考は、とても理解できそうになかった。
「そんな事はやめてくれ。」
「じゃあ隊長は私を、私だけを見て。他の人の方を見ないで。」
必死に訴えかける響。その時、電が俺に言った。
「隊長、暁の処置が完了したのです。」
俺は電の方を見て言った。
「ご苦労。大丈夫そうか?」
「腹に二発受けてたのです。正直、病院で治療を受けられないと…。」
表情を曇らせる電。当たりどころが悪かったか。
「病院か。病院となると…。」
「米軍基地、なのです。」
「つまり投降、という事か。」
投降。もっとも避けるべき選択肢。教練を受けていた頃に「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられたものだ。しかし現状を見れば、潜伏を続ける事になんの意味も無いのは明白だった。更に目の前で消えようとしている命があるのだ。助けられるなら、あらゆる手段を尽くしたい。
「皆、提案がある。」
俺は話を切り出した。
「このまま潜伏を続けても、正直意味が無い。それに暁も病院での治療が受けられないとまずいようだ。そして病院は米軍基地にしかない。」
雷が恐る恐る呟いた。
「つまり、それって…。」
俺は頷いて答えた。
「あぁ。…投降しようと思う。」
その場の空気が凍りついた。誰も、何も言わない。
「俺は暁を助けたい。雷にもちゃんと治療を受けて欲しい。…無理にとは言わない。望まない者はハッキリ言ってくれ。」
しばしの沈黙。再び俺は口を開いた。
「言い出し辛いか?ならば直接訊くぞ。暁、どうだ?」
寝かされている暁は荒い息をしながら答えた。
「まだ、死にたく、ない…。」
「なら病院送りだな。雷は?」
座って壁にもたれかかっている雷は俺を見てハッキリ言った。
「私は隊長の言うことを聞くわ。」
「そうか。じゃあお前も病院行きだな。電は?」
電は地面に正座したまま答えた。
「私は隊長に付いて行くのです。」
「分かった。響、お前は?」
俺が言うと響は立ち上がった。
「他の人を見ないでって言ったのに。」
「は?」
「どうして?私の事が嫌いなのかい?」
「誰もそうとは言ってない。それよりお前はどうするんだ?」
「それより?私にとっては隊長が全てなんだ。隊長が私をどう思っているかが一番大切なんだ。」
俺を真っ直ぐに見つめながらまくし立てる響。いつになく必死な態度の彼女に俺は気圧された。
「いや、その、嫌いなんかじゃないぞ?むしろ信頼のおける優秀な部下だと思っている。」
俺の言葉を聞いた響はまだ何か言いたそうな顔をした。慌てて遮る。
「で、どうなんだ?」
「…隊長と一緒に行動する。死んだらすぐに後を追うよ。」
後半は余計だが、あえて何も言わずにおいた。
「そうか。じゃあ全員投降だな。」
俺はほっとした。誰かが残ると言ったら俺はどうしただろうか。敵から逃げながら生き抜くのは容易ではない。置いていったら見殺しも同然なのだから。
しかし全員投降と決まったものの、どうやって米軍と接触するかが問題だ。暁があの状態では移動も難しい。誰かを軍使として派遣し、米兵を連れてきてもらうのが理想的だ。早い話、自分が行けばいい。
「では、俺が軍使として米軍に接触してくる。そしたら米兵を連れてくるからな。」
「待って!」
雷が声を上げた。
「もしかしたら撃たれるかも知れないじゃない!見るからに負傷してる私ならちゃんと受け入れてもらえるかもしれないわ!」
俺はハッと息を飲んだ。必ずしも助けてくれるとは限らないのだ。相手は敵なのだから。
「だが、お前が行っても受け入れてもらえる保証はないぞ。」
「確かにないわ。でも、隊長を失う訳にはいかないの。」
「俺だってお前を失いたくない。自分の身ならどうなっても構わん。」
途端に雷が立ち上がり、俺に詰め寄って来た。
「…そんな事、言わないで。」
「えっ?」
雷は俺の軍服を掴んで言った。
「隊長が居なくなったら、誰がこの隊の指揮をするの?」
「うっ…それは…。」
俺は口ごもった。その時、突然響が口を開いた。
「隊長から離れて。」
見れば、響が雷を睨みつけている。その眼差しは本気だ。
「何よ。」
雷は響に向き直ると、ぶっきらぼうに言い放った。
「私が何か気に入らないの?」
「あぁ、とても気に入らない。私の隊長に触らないでくれ。」
「私のってどういう意味よ?」
「そのままの意味だよ。」
ツカツカと足音を立て、雷が響の目の前に出る。そして響の顔を指さして言い放った。
「隊長はあなたなんかに渡さないわ。」
「…へぇ。」
雷の発言に無表情で答える響。負けじと雷は続けた。
「私には覚悟があるのよ。隊長の為なら、死んだっていい!」
「そっか。なら、その覚悟を見せてよ。」
響が冷ややかな笑みを浮かべ、挑発する様に言った。これが決定打となった。
「言われなくても見せてやるわ。だから今から米軍に接触しに行くのよ。電、包帯を頂戴。白旗の代わりよ。」
雷はくるりと響に背を向け、電の方へと歩き出した。電は包帯を切って手渡した。
「気を付けるのです。」
「分かったわ。」
包帯を受け取った雷は俺の目の前まで来て言った。
「隊長、安心して待っててね。必ず戻るから。何にも心配することはないわ!」
「…すまない。頼んだ。」
俺の一言に大きく頷いた彼女は、最後に響を一瞥すると足早に洞窟から出ていった。
「…きっと無駄に終わるよ。」
響がボソリと言った。その言葉は俺の心に影を投じた。
「やめろ。今は信じて待つしかないんだ。」
そう言いつつ、俺はため息を吐いた。
私は急ぎ足で米軍基地へ歩いた。道中、何度も不安な気持ちに襲われたが、その度に隊長の言葉を心の中で繰り返した。「頼んだ」。その一言が私に勇気をくれた。暁が負傷してもなお私を気遣ってくれる優しい隊長の頼み。今は全力で彼の期待に応えたい。
しかし気がかりなのは響の存在だ。何が「私の隊長」だ。あんな奴が隊長の側にいると考えるだけで虫唾が走る。できることなら私の手で排除したいところだが、片腕では分が悪い。まぁ焦らずとも良い。米軍に降伏した後に、昨日の遭遇戦で米兵を殺傷した事を告発すれば奴もただでは済まないはずだ。とにかく、奴が消えてくれればとりあえず安心だ。暁と電は今の所、隊長を狙う気配は無い。手を出しさえしなければ、私も始末するつもりはない。彼女達が私の手を煩わせる事がない事を祈るばかりだ。
そんな事を考えながら歩いていると、昨夜戦った場所に出た。遠目に数人の米兵がいるのが見えた。わざわざ基地に行くまでもない。彼らに投降しよう。そう考えた私は包帯を高く掲げて彼らに向かって歩き出した。
「降参よ!降参ー!」
私が叫ぶと、彼らは一斉に銃口を私に向けた。一瞬の緊張。しかし彼らは撃たなかった。するとその内の一人が手招きした。受け入れてもらえた。私は安堵の息を漏らし、手を高く上げたまま彼に歩み寄る。
その時だった。突如彼は発砲し、私は腹部に強い衝撃を受けて仰け反った。機関銃の類なのか、断続的に吐き出される大量の銃弾が私の腹を次々に貫いていく。不思議と痛みは感じなかった。被弾の衝撃に揉まれ、風に舞う木の葉のようになる自分。次の瞬間、フッと体が軽くなった気がしたと思うと、地面に仰向けに倒れた。同時に銃声が途切れる。撃たれた腹を触ろうと手を伸ばすと、グニャリとした物に手が触れた。首をもたげて見ると、足がいつもより遠くに見えた。勿論、急に背が伸びた訳ではない。下半身がちぎれて離れているのだ。さっき手が触れたのは自分の腸だった訳だ。
「あれ…?どうして…?」
米兵達は私を指さして談笑している。私は頭を地面に倒した。既に高く登った太陽が木々に遮られながらも私を真上から照らしている。日光浴のような心地良さが私を包み、眠気を誘う。ふと隊長の顔が頭に浮かんだ。私は彼の頼みをやり遂げられなかったのだ。無力感と罪悪感が押し寄せ、渦を巻いて心を呑み込んでいく。
「ごめんね…ごめんね…。」
涙が溢れて視界がぼやけ、口からは繰り返し謝罪の言葉が漏れ出た。彼に届かないと分かっていても、言わずにはいられなかった。意識の続く限り、謝罪の言葉を口にする私。だが、それも時を追うごとに強くなっていく眠気に押し潰され、そして意識が途切れて二度と覚めない眠りへと落ちていった。
「な?言ったろ?BARをマガジン一つブチ込めばちぎれるって。」
「でもアレまだガキだぜ?大人のジャップじゃどうか分からんよ?」
「じゃあ今度ジャップが出た時に試すか。」
「大人はキツいんじゃねーか?まぁ何でもいいけど、要は殺せれば良いんだ。」
「HAHAHA!よし、じゃあ賭けようぜ。俺は大人でもちぎれる方だ。お前はちぎれない方。」
「よし乗った!負けたら酒奢れよ。」
「いいだろう。見てろよ、絶対ちぎれるって!」
俺達は雷の帰りを二日間待った。しかし彼女は帰って来なかった。
「おかしい。何かあったか…?」
思わず口から出してしまった疑問に響が答えた。
「どこかで殺されたか、それとも一人だけで逃げたかな。」
「やめろ。」
つい言ってしまった俺だが、脳裏には響が言った可能性が浮上していた。逃げた可能性も排除し切れないが、出発する時の様子から見るにそのようには考えられない。殺害されたとは思いたくないが、これも否定出来ない。とにかく雷が戻らない以上、彼女の消息を把握すると共に自分達で米軍の元へ行かなければならない。俺は決意して口を開いた。
「よし、明日になったらまず雷を捜索しよう。」
「一人で?」
響が不安そうに言った。
「いや、雷が負傷したりしていた場合に備えて電に付いてきてもらいたい。」
言われた電は素っ頓狂な声を上げた。
「えっ?私が、なのですか?」
「まずいか?」
「暁が心配なのです…。」
電はそう言って暁を見た。寝かされて虚ろに洞窟の天井を見ている彼女はまるで生気が無かった。
「確かに心配だが、できるだけの事はしただろう?」
「したのです。」
「ならば後はどうしようもない。それに、雷が負傷していたら大変だろ?」
「まぁ、そうなのですが…。」
そう呟きながら暁をまたチラリと見る電。どうも目を離すと心配らしい。そこで響が言った。
「なら、私がついて行くよ。」
彼女の申し出も悪くないのだが。
「出来れば響にはここを守っていてもらいたい。」
「どうして?そんなに電がいいのかい?」
不機嫌そうに言う響。
「そういう訳じゃない。雷が負傷して生きている可能性を考慮してだ。」
俺がそう言った瞬間、響の雰囲気が変わった。
「…どうして?」
不機嫌じゃない。これは、怒り。
「…どうしてそんなに他の人の事ばかり心配するの?」
俺は慌てて言った。
「いや待て、落ち着け。」
「無理。」
キッパリ言い切った彼女は俺に近づいてきた。
「私は、隊長に私だけを見て欲しいんだ。分からないなら…正直に言うよ。」
そう言いながら俺の目の前で立ち止まり、俺を見上げた。
「貴方を愛しています。」
「へ?」
突然の告白に硬直する俺に、彼女は背伸びをして軽く口づけをした。
「んっ…。流石に、恥ずかしいな。」
頬を赤らめる響。これには電も、具合の悪い暁も驚いた。二人とも目を見開いて瞬きもせずにこっちを見ている。
「…え?」
未だに状況を呑み込めない俺。そんな俺をよそに、響は元いた場所に戻ると再び口を開いた。
「これで隊長も分かってくれただろう?だから今回は許すよ。それに、私が留守番をするのも我慢するよ。」
俺は一度、先程の彼女の言動を頭の隅に追いやり、とりあえず予定を立てることに集中する事にした。
「お、おぅ。じゃあ俺と電で捜索、響と暁は留守番だ。えと、良いよな?」
念のため確認すると響は満足そうに、電と暁はぎこちなく頷いた。
翌日、朝から俺と電は念のため小銃を持って密林へと捜索の為に出発した。暫くすると電が言いづらそうにボソリと言った。
「あの…昨日の響…。」
俺は足を止め、ため息を吐いた。
「俺も、何だかよく分からん。」
響の突然の行動が未だに信じられない。
「あいつがそんな感情を持っていたとは…思いもよらないよ。」
「その、隊長は…響を受け入れるのですか?」
おどおどしながら訊いてくる電。その点に関しては俺は既に決めていた。
「まさか。俺はあくまでも小隊長に過ぎないし、君達は部下だ。そんな目で見る事は無いよ。」
「あぁ!…そう、なのですか。」
一瞬嬉しそうな声。しかし一転、元の調子に戻る電。
「…?どうした?」
「なんでもないのです。早くお姉ちゃんを探すのです。」
「おぉ、そうだな。」
電に言われて再び歩き出す。
密林を進むうちに、酷い腐臭が鼻を刺激し始めた。確認の為に腐臭のする方向へ進むと、三日前に夜戦をした場所に出た。
「警戒しろ。」
「了解なのです。」
小銃を構えながらゆっくりと進んでいく。米兵の姿は見えない。代わりに物凄い数の蝿が飛び回り始めた。そしていい加減に蝿がうっとおしくなってきた頃、電がボソリと言った。
「…隊長、あれ…。」
彼女が指さした方を見ると、草に隠れて分かりづらいが、木の根本に人の足のようなものがあった。ゴクリと生唾を飲み込み、銃口をそれに向けながら近づいていく。距離を詰めていくと、違和感を覚えた。やたらに足が小さいのだ。まるで子供のような…。そこまで思い当たったところで俺は構えを解き、それに駆け寄った。間近に見ると、確かにそれは足であり人の下半身だった。だが、本来あるはずの上半身が無く、グチャグチャの切断面からはみ出した内臓には無数の蝿と蛆が湧いていた。
「なんだ…これは…!」
呆然と立ち尽くす俺。その時、突然頭上から何かが目の前に落下し、べシャッと音を立てた。飛び上がって驚き、上を見た電。
「…え?あ、うそ…?」
彼女はそう呟くと、ガシャリと小銃を落とした。
「何だ?」
そう言って上を向いた俺は、信じ難い物を見た。単刀直入に言うとそれは雷だった。問題は彼女が上半身だけの姿である上に、持たせた包帯で首吊りの様に木の枝から吊るされていた事だ。彼女の見開かれた光のない瞳が俺達を見下ろしている。よく見れば目尻から頬にかけて、涙を流したような痕があった。そして時折思い出したように切断面から小さな肉塊をボトリと落とすのであった。
「…あの糞アメ公がぁ…白旗揚げた相手にこれか…!」
小銃を握りしめる手が震える。
「…うぇっ。」
横で電が戻し始めた。いつまでもここにいる訳にはいかない。降伏は不可能であり、雷の安否がハッキリした以上、別の策を考えねばならない。それに、じきに米兵が戻ってくるかも分からない。
「…戻ろう。」
「うっ…分かったのです。」
電は小銃を拾ってから、もう一度無惨な姿になった雷を見上げた。
「…さよなら、なのです。」
そう小さく呟いた彼女の手を引いて、俺は元来た道を戻り始めた。俺の手を強く握る小さな手は、震えていた。
朝早くに隊長は出かけてしまった。寝かされている暁をチラリと見る。考え無しに留守番を引き受けた訳では無い。直に隊長に想いを伝えるのを見て、周りが諦めてくれればいいのだが、問題は当の隊長だ。他の人がいる限り私だけを見てくれることはなさそうである以上、周りの人を消してしまえば良い訳だ。そこでまずは身動きの取れない暁を始末する事に決めた。しかし私が直に手を下すのは簡単だが、犯人とバレてしまった時が怖い。ここは自決でもしてもらうのが得策か。
「暁、辛くはないかい?」
まず私は優しく声を掛けた。
「うん…でも、痛いわ。」
頭を動かして暁がこっちを向いた。表情から見るに確かに痛そうだ。
「楽に、なりたい?」
「…できるの?」
「できるよ。」
そう言って私は拳銃を取り出した。
「これで自分の頭を撃てばいい。」
暁は驚いたらしく唖然としていたが、少し間が空いてから声を絞り出すように言った。
「…自決は禁止よ。」
私は心の中で舌打ちした。面倒だ。
「そうだね。隊長は自決を禁止した。」
ふぅ、とため息をして一度区切る。
「でも、君がその状態である限りは隊の行動は制限される。移動速度の低下は追撃を受ける原因、即ち死に直結する。」
暁が声を荒らげた。
「それは分かってるわ!でも、隊長が…。」
咄嗟に遮る。
「そこまでして生きたいの?君の身勝手が、その隊長の命を奪う事になるかも知れないんだよ?」
「でも、降伏すれば…。」
「雷は死んでるよ。」
私は言い切った。暁が怪訝な顔をする。
「何で分かるのよ?」
「それじゃあ君は大切な戦友を殺した相手が目の前に無防備で出て来たら、黙って許して終わりかい?」
三日前の夜戦で米兵を少なくとも一人は倒した。彼らも気が立っているだろう。そこに無防備で行ったのだから結果は見え透いている。
「…分かってて行かせたの?」
「行かせてはないよ。勝手に雷が一人で言い出して行ってしまっただけ。降伏に成功していれば良いけど、失敗していた時にどうするか考えておいた方がいいよ。」
「そんな…。」
暁は半ば絶望したような顔をした。あともう一押し。
「君の独りよがりで生き続けて隊を危険に晒すか、自決して隊を救うか。」
私は少し微笑んで続けた。
「大丈夫。命令違反は銃殺だ。自決と大して変わらないよ。」
暁は完全に黙りこんだ。彼女もそこまで愚かではないはず。後は彼女自身に選んでもらうだけだ。私はただ静かに隊長の帰りを待つとしよう。
洞窟に帰り着く頃には日が西に傾いており、耳ざとく足音を聞きつけた響が出迎えてくれた。
「お帰り、隊長。…何をしてるんだい?」
言われて気づいた。電と手を繋いだままだった。慌てて放す。
「あー、その…説明する。」
俺はぎこちなく対応しながら中へ入った。小銃を置き、座って一息つきながら考えを巡らす。辛い事実を伝えなければならないのだ。特に暁は命が懸かっているのだから話しづらい。だが、伝えない訳にもいかない。意を決した俺は話し始めた。
「…すまない。雷は殺されていた。降伏は不可能だ。」
ビクッと暁が動いた。無理もない。
「暁、許してくれ。…俺の指揮が悪かったんだ…本当にすまない。」
見て分かるほどに彼女は震えだした。俺とて、死ぬのは怖い。
「暁があれじゃあ移動も難しいだろう?これからどうするんだい?」
響が心配そうに言った。そこが一番の問題なのは分かっている。
「まだ分からない。これから考える。」
そう答えるのが精一杯だった。暁を置いていく訳にもいかないし、かと言ってここに居続けてもいずれ米兵に発見されて雷と同じ運命を辿るだろう。移動するにも速度は遅くなる。途中で捕捉されればこれまた命は無いだろう。
いや待て。必ずしも見つかるとは限らない。どの道死ぬのならば試さない手は無いだろう。
「…決めた。明日から移動を開始しよう。見つかりさえしなければ大丈夫だ。そこに賭けよう。皆、構わないか?」
念のため確認をとる。
「隊長がそうするなら従うまで。」
「了解なのです。」
響と電が答えた。暁は一人、黙っている。
「暁、心配するな。きっと大丈夫だから。…それとも嫌なら言ってくれ。」
暁は声を震わせて言った。
「…大丈夫。いいわ。」
俺は頷いた。
「よし、今日は休んでくれ。明日から大変だからな。以上だ。」
言い終わると、洞窟は重い沈黙に包まれた。沈黙も、この息苦しさも全て自分が招いてしまった物だ。ならば最期まで責任を負わねばなるまい。
しばらくすると響が声を掛けてきた。
「…隊長、電の件の説明は?」
すっかり忘れていた。
「あぁ、雷の遺体を見て可哀想だったから、少しは慰めになるかと思ってな。」
「…そう。」
伏し目がちに言う響。すると彼女は俺の隣に来て腰を下ろし、片手を差し出して来た。
「ん。」
「え?何だ?」
戸惑う俺に彼女は泣きそうな顔をして言った。
「私だってさっき隊長が居なくて辛かったんだよ?だから、私とも手を。」
「…そうか。」
差し出された小さな手を握る。すると彼女は手を引いて自身の体を俺に寄せ、腕に抱きついた。
「…隊長、私はずっと貴方と共にある。どこにも行かない。だから、どこにも行かないで。」
ボソボソと言う響。そんな彼女が可愛くて、俺は頭を撫でてやった。
深夜。
私は腹の傷の痛みで寝られずにいた。いや、それは単なる言い訳。本当は響の言葉が頭の中で何度も蘇るからだ。―君の独りよがりで生き続けて隊を危険に晒すか、自決して隊を救うか―ちらりと皆の様子を窺う。全員寝ている。眠れない原因を作った当の本人は隊長に抱きついたまま寝ている。隊長は明日から移動すると言っていた。これ以上、皆に迷惑はかけられない。死ぬのは自分だけでいい。
私の心は決した。やるなら、今だ。
痛みを堪えつつ、ゆっくりと立ち上がる。壁に手をつきながら一歩、また一歩と洞窟の出口へと向かう。この中で自決する訳にはいかない。私の血を撒き散らすことになるだろうから。ふらつきながら外に出て、倒れ込むように木にもたれ掛かった。何とか体を反転させ、木を背にしてズルズルと座り込む。そっと腰に手を伸ばし、拳銃を握って取り出した。
「これで、いいのよね…。」
不思議と涙が出てきた。自分は何をしに来たのだろう。親の仇を取らんと故郷を飛び出し、無理を言って入営。訓練の果てに配属されたのは孤立した離島。敵を目の前にしても役に立てず、味方に迷惑ばかりかけて…。それでも私を捨てないでくれた隊長に私は好意を持った。でも、響が隊長を奪っていった。響は私から、私の全てを奪っていった。喪失感に浸る私を月が無慈悲に見下ろしていた。
「…綺麗。」
安全装置を外し、拳銃をこめかみに当てた。私が隊長にできるせめてもの恩返し。私が死んで隊長が助かるかも知れないなら、それでいい。引き金に指を掛け、深呼吸をする。
「…ごめんなさい。」
一気に引き金を引いた。
パン!
俺は銃声で飛び起き、側に置いていた小銃を引き寄せた。同時に響と電が目を覚ます。
「今のは…あ、暁がいないのです!」
素っ頓狂な声を上げる電。見れば暁が寝かされていた場所には誰もいなかった。外からは獣が唸るような音が聞こえてくる。
「私が見て来る。隊長は待ってて。」
「頼む。」
拳銃を手に響が外へ出ていく。俺は小銃を構えて備える。程なくして外から響の声がした。
「隊長、来て。」
「分かった。電、ここにいろ。」
「了解なのです。」
電に指示を出し、外に出た。
洞窟のすぐ近くの木の根元。そこには暁がいた。頭部、前頭葉を吹き飛ばされた暁がグチャグチャになった自らの頭を両手で押さえながら唸っている。足元には拳銃が落ちていた。
「自決だね。失敗したみたいだ。」
響はそうサラリと言った。
「何を…何をしてくれたんだ。…禁止と言ったのに…!」
絶句する俺に響は言った。
「命令違反は銃殺。暁の為にも執行を。」
ハッとして手にしている小銃に目を落とし、再び暁に目線を戻す。そうだ、いつまでも苦しい思いをさせる訳にはいかない。こうなってしまっている以上、早く彼女を楽にしてやるのが今の俺の務め。そう腹を括って小銃を構え、暁の頭に狙いを定めたその時、唸り声に混じって言葉が聞こえた。
「うぅー…ごめ、なさい…ごめん…うぅ…。」
手が震えた。彼女は謝罪していた。この期に及んでも、いや、この期だからなのかも知れない。
「ごめん…なさい…うぅー、ごめんなさうぅー…。」
いつまでも続く謝罪。涙が込み上げ、照門越しのその姿が霞む。
「…もういいんだ。何も言うな。俺が悪かったんだ。」
引き金に指を掛け、力を込めた。
「許してくれ…!」
「…うん。」
「!」
ダンッ!
銃弾が暁の脳幹を貫き、木に肉片が飛び散った。俺は小銃を取り落とし、膝をついた。彼女は最期に確かに返事をした。あんなになっていても、俺の声を聞いていたのだ。その事が驚きで、申し訳なくて。
「…許してくれて、ありがとう。」
俺は深々と頭を下げた。涙が溢れ、ポタポタと地面へ落ちていく。
「本当に、本当に…ありがとう。」
嗚咽混じりの俺の言葉に、彼女が返事をする事はもう二度と無かった。小銃の銃口からは、まるで暁の魂が天へ昇るかのように、うっすらと白煙が立ち上っていた。
洞窟へ戻った俺と響は、電に事の顛末を語った。彼女は俺の制止を振り切って暁の遺体と対面し、膝を折って静かに手を合わせた。これで暁はきっと楽になれた、と話す彼女の目尻には涙が浮かんでいた。
夜が開けると、俺達は暁の遺体をそのままに出発した。ひたすら北へと密林の中を縫うように歩き続け、昼頃に小休止をとった時に響が思い出したように俺に話し掛けてきた。
「隊長。私の気持ち、分かってくれたかい?」
汗を拭おうと上げた腕が一瞬止まった。
「…何の話だ?」
もちろん忘れた訳ではなかった。だが、思い出すと気恥ずかしくて誤魔化したかった。
「分かっている癖に。」
響は不機嫌そうに言った。俺は助けが欲しくて電を見たが、彼女はそっぽを向いてあからさまに聞いてないフリをしていた。観念した俺は、響の方に向き直ると口を開いた。
「俺は君達の上官に過ぎないし、君は俺の部下に過ぎない。だから、君達をそういう目で見る事は無い。」
響は俺の言葉に一瞬目を細めたが、すぐに普段通りに戻って残念そうに言った。
「そっか。…それじゃあ仕方が無いね。」
彼女のその言葉を最後に、沈黙が流れた。しばらく小銃を弄ったりしていたが、とうとう沈黙に耐えられなくなった俺はボソリと漏らした。
「…その、部下としては信頼しているぞ。」
響はふと顔を上げ、少しはにかんだ。
「それは、嬉しいな。」
良かった、少し機嫌が治ったかと安堵した矢先、今度は電がおずおずと口を開いた。
「あの…私は、どうなのですか?」
慌てて言った。
「当然信頼している。君は衛生兵だ。君がいなければ助かる命も助からない。」
ぱあっと表情を輝かせる電。するとまたもや響が不機嫌そうになった。
「隊長は私と電、どっちを一番信頼しているんだい?」
これには迷わない。
「どちらも同じように信頼している。」
俺の言葉に互いに顔を見合わせる響と電。すぐに顔を逸らすと、二人とも不機嫌そうな顔をした。何か不味い事を言ってしまったかと今一度考えてみたものの、特に引っ掛からない。
「行こう。」
どことなく険悪な雰囲気が我慢ならなかった俺はまた歩き始めた。二人は無言で付いてきた。
北部への道中、私は苛立っていた。隊長には私だけを見て欲しいのに、気持ちを伝えても応えてくれなかった。それにあの電の嬉しそうな表情。私には分かる。あの女も隊長を狙っている。早い話が奴を消してしまえば済む事だが、何かある度に対策を打つのではキリが無い。そこで私は閃いた。隊長を、もう二度と誰の手も届かない様にしてしまえば良いと。永久に私と一緒に、文字通り一心同体にしてしまえば良いと。もうその時が待ちきれない私は今夜にもそれを実行する事を決意し、前を行く隊長を見て一人にやついた。
待っててね。私の、私だけの隊長。
日が落ちて辺りが闇に包まれた頃、島の北端近くまで進んだ俺達は木の根元にできていた穴に身を寄せあって一夜を過ごす事にした。日中歩いた疲れもあってすぐに眠りについた俺だったが、誰かに揺さぶられて目を覚ました。
「…隊長、悪いね。」
淡い月明かりを背に、響が俺を覗き込むようにしていた。
「どうした?」
俺が眠い目をこすりながら問うと、彼女は眠っている電をチラリと見て言った。
「話があるんだ。電には聞かれたくない。」
「…?まぁ、分かった。」
少々訝しんだものの、先に外に出た響に続いて外に出る。彼女は俺が出てくるのを見ると、足早に歩き始めた。
「おい、どこに行くんだ?」
「絶対に聞かれない場所。」
彼女はただそう答えた。
響をしばらく追い続けると、彼女は見つけた木の根元の穴に入り、後に続いて俺が入ると満足気に頷いた。
「ここなら誰にも聞かれない。」
「そんなに大事な話なのか?」
「もちろんだよ。」
そう嬉しそうに言うやいなや、響は俺にそっと抱きついてきた。どうすればいいのか分からない俺は、とりあえず彼女の背に手を回した。―温かい。響の体温が服越しに伝わってくる。ふと兵舎で抱きつかれた時の事を思い出した。確か、あの時彼女は寂しくなったと言っていたか。あの頃は皆が元気だった。だが今は、響と電だけになってしまった。泣いても叫んでも、暁と雷は帰ってこない。
「…本当に申し訳ない。」
「何?」
「暁と雷の事だ。お前の大切な友人を、俺は殺してしまった。」
響が俺から離れ、悲しそうな表情を見せた。
「過ぎた事は悔やんでも変わらない。それより、私の話を聞いて欲しい。」
感傷に浸って忘れていた。彼女は大切な話をするためにここまで来たのだった。
「…何だ?」
「本音を教えて欲しい。私と電、どっちを本当に信頼しているんだい?」
俺は少々拍子抜けした。どんな話かと思えば昼間に答えた事ではないか。
「どっちもだ。」
即答すると、響は俯いた。
「…それじゃあ、私だけを見てはくれないんだね。」
心底残念そうな呟き。俺はただ、冷静に返した。
「そうだ。」
「…分かったよ。」
その瞬間、俺は彼女の中で何かが変わったのを感じた。
「…もう、こうするしかないんだ。」
ゆっくりと顔を上げる響。深淵の闇をたたえたその双眸は真っ直ぐに俺を見ていた。
「最終手段。できればやりたくはなかったけど…。」
彼女はするすると腰に手を伸ばして銃剣を抜くと、その切っ先を俺に向けた。鈍く輝く銃剣。背筋に冷たいものが走り、鳥肌が立つ。遂には腰を抜かして後退りをした俺を響は見下ろしながら言った。
「隊長。ずーっと一緒になろう?」
私が勢いをつけてのしかかるように隊長の首目がけて銃剣を振り下ろすと、狙い違わず銃剣は首を捉え、深々と突き刺さった。隊長の声にならない悲鳴がヒュウッという音となって漏れる。銃剣の周りに血が滲んだと思うと、すぐに流れはじめた。
「勿体無い…。」
私は銃剣を引き抜くと、滝のようにドクドクと流れ出る隊長の血を吸う為に首に吸い付いた。みるみる間に口腔に彼の血が流れ込み、鉄のような、しかしどこか甘美なそれが味覚を激しく刺激する。そして口の中で十分に味わった後、私は一気にそれを飲み込んだ。まさに待ちわびた瞬間。全身の細胞が震え、彼を歓迎する。水などでは決して潤う事はない心の渇きを、彼の血がいとも簡単に潤し、満たしていく。―足りない。そう思った私はそのまま首に歯を立てた。ゴムのような皮膚に歯が食い込むが、なかなかそれ以上先へと進めない。渾身の力を込めて噛み付く事で、ようやく私の歯は彼の内側への侵入を果たした。そのまま顔を引き、彼の首の皮を引き千切る。そしてゆっくりと、しっかりと何度も咀嚼し、彼の味を味わう。
「ひ…ひび、き…。」
首を中心に朱に彩られた隊長が擦れた声を漏らした。限界まで開かれた瞳が私を見つめていた。ゴクリと皮を飲み込むと、私は隊長に顔を近付けた。
「もういいんだ。全部許すよ。隊長はこれから私と永遠に、少なくとも私が死ぬまで、言わば第二の人生を一緒に生きていくんだ。」
目を閉じ、隊長の唇に自らの唇を押し当てた。舌を伸ばして彼の口腔内を蹂躙し、彼の唾液を一滴たりとも逃すまいと掻き集めてはこちらに移す。しばらく続いたその作業が終わる頃には、彼はもう動かなくなっていた。
「まだ、もっと貴方が欲しい…。」
私は銃剣を手に取り、隊長の指を切断して口に運んだ。噛む度に甘美な血が溢れ出るそれは、私が今までに食べたどんなものよりも美味しく感じられた。骨も飲み込めるものは飲み込み、爪はポケットに入れた。全ての手の指を同様に食し終えたところで、再び銃剣を手に取って隊長の腹部を切り開いた。顔を覗かせた内臓に私の神経は昂った。手や体表と違い、恐らくまだ誰も触れた事の無いであろう場所に私が初めて触れるのだ。興奮しない訳が無い。そっと手を差し入れると、彼はグニャリとした感覚と温かさでもって私を迎えてくれた。私はそこに顔を近付け、接吻して応える。そのまま口を開いて幾度も喰らいつき、咀嚼しては胃に送る。胃は胃液をもってして彼を溶かし、腸はいち早く彼を取り込まんとその働きを活性化させた。そして分解された彼が血管を、或いはリンパ管を通って私の隅々にまで行き渡り、文字通り一心同体となるのだ。私は満腹感と筆舌に尽くし難い幸福感に包まれながら隊長の隣に横になり、彼を抱きしめた。
「隊長、お疲れ様。これからは私が、この身体を通して貴方を世話するよ。…もう何もしなくていい。貴方は私の中に居てくれれば、それでいいんだ。」
私の囁きは夜の闇に消えていった。
朝、私は雨の音で目を覚ましました。外は大雨が降っています。起き上がってみると、隣にいたはずの隊長と響の姿がありませんでした。夜中に二人でどこかに行ったのでしょうか。二人きりの時間を楽しんでいるのでしょうか…?ずるい。私はそう思いました。隊長は私達をそういう目で見る事は無いと言い、どちらも同じように信頼していると言いました。あの時私は安堵と絶望を同時に味わいました。隊長の心が響に傾く事が無いと保証されると同時に、私に傾く事も無いと分かってしまったのですから。でも、あれは嘘だったのでしょうか…?もしそうならば、私は隊長に見事に騙されていたという事になるのです。良い意味と、悪い意味の両方で。
「はぁ…。」
何だかむしゃくしゃした気分になった私は外に出ました。途端に大粒の雨が私を打ち据えます。―冷たい。ふと、手に隊長の手の感覚が蘇りました。大きくて、無骨で、でもどこか優しくて温かいあの手。でも今は、握ろうとしてぎゅっと曲げた指は虚空を掻いて自分の掌に触れるのみ。もう一度触れたくて、そして触れる事ができたらもう二度と離したくなくて。
「…響には、渡さないのです。」
二人が帰ってきたら、隊長にはっきり決めてもらうのです。そして、もし、万が一響を選んだ時は、その選択肢を消してしまえばいいのです。
決意を固めて不敵に笑ったその時、私はスコールに霞む密林の中に人影を認めました。最初朧気だったそれは距離が詰められていくにつれ、はっきりと長い白髪の少女の姿になりました。
「…響?」
確かに彼女は響でした。しかしそれは私の知っている響ではなく、何とも幸せそうな表情を浮かべた彼女は全身の至る所を赤黒く染め、服は血が滲んだような色をしていました。嫌な予感がしましたが、問い詰めない訳にもいきません。何よりもまずは隊長が心配です。私の寝ている間に二人とも消えていたのですから、響が何か知っているに違いありません。
「その格好は…いや、隊長はどうしたのですか?」
響は私にあと五歩という辺りで立ち止まり、きょとんとした顔をしました。
「どうしたって…何を言ってるんだい?」
「隊長はどこにいるのかと訊いているのです!」
私は怒気を含め、重ねて問いました。きっと隊長を連れ出してどこかに隠しているに違いありません。答えによってはと腰の拳銃に手を伸ばしかけたその時、響が言いました。
「ここにいるよ。」
「へ?」
思わず手が止まり、聞き返してしまいました。どう考えてもここには私と響の二人しかいません。必死にその意味を考える私に響はもう一度言いました。
「ここに、いるよ。」
言ったのは同じ言葉。しかし前回と違って今回は手の動きがありました。彼女は「ここ」と言う時に、自分を指さしたのです。
その瞬間、私は全てを理解しました。血が滲んだような色をしている服は、本当に血が滲んでいる事を。そしてその血が誰の物かを。更にはどうして付着したのかを。
「君も隊長を狙っていたんだろう?…でも、もう遅い。」
雷に打たれたような衝撃を受けて呆然と佇む私を見て、響は嬉しそうに少し笑いました。
「隊長は私だけのものになったんだよ。」
嘘だ、そんなの。
「もう誰にも絶対に取られない。」
違う、違う。
「私と一生を共に生きるんだ。」
黙れ…!
「何故なら…。」
「うるさいのですっ!」
腰から拳銃を抜き、響に向けて撃ちました。しかし彼女は私の行動を予期していたのか横に飛んで避け、銃弾は一瞬前まで響がいた空間を貫き、お返しとばかりに響が撃ち出した拳銃弾を腹に受けた私はその場に崩れ落ちました。
「正当防衛。これで君を問題なく殺せるね。」
激しい痛みに涙を浮かべつつ、それでも一矢報いようと拳銃を構えた両手はいとも簡単にボキリという嫌な音と共に蹴り飛ばされ、拳銃は宙を舞って遠くに落ちました。
「何もしてこなければ野放しにしておこうと思ってたのに…愚かだね。」
響はそう言うと、手にしていた拳銃で私の顔を殴りました。背中が地面に叩き付けられ、息が詰まると同時に口の中に鉄の味が広がりました。
「何を…うっ!」
響は私の上に馬乗りになると、先程開けられたばかりの銃創に指を突っ込み、まさぐりました。
「うあ、いやぁ…いやぁ…!」
浅く、しかしながら激しく掻き回される腹部。腹を下した時と比較すれば何万倍、いや、それ以上の形容し難い激痛が走ります。幾度も意識を失っては激痛に呼び戻される事を繰り返し、耐え難い、しかし死ぬ事を許さない響の執拗な攻撃が続きました。
どれ程経った頃か、不意にまさぐられる感覚が止まりました。
「あ、ふえ…?」
やっと終わった。そう思った私の考えは浅はかでした。首をもたげて見れば、あろう事か響は拳銃を私の腹に捩じ込もうとしていました。
「ちょっと、やめっ…!」
「え?何だい?」
私の懇願は意図的に無視され、無慈悲に文明の利器が挿入されました。
「うぐぅぅぅぅぅっ!」
指とは違い、多少の筋肉などものともしない鉄の侵略を歯を食いしばって力を込め、全力で拒みます。しかし上手く力が入りません。もっとも、力が入ったとしても阻止できるか分かりませんが。
気がつけば横倒しになった拳銃の銃口の方が、頭に向けて、ちょうど注射器を肌に対して鋭角に刺したように深く差し込まれていました。
「ひっ…何を、するのです…!?」
「君は銃の用途を知らないの?銃は弾を撃つ道具だよ。」
呆れたように言った彼女の言葉に、雨の冷たさより更に冷たいものが背筋を走ります。
「ま、まさか…。」
「そうだね。撃っ!」
響が引き金を引いた途端に火薬の爆発で弾が撃ち出されました。激しい衝撃、ブチブチと肉を引き裂く音、新たな激痛。一秒にも満たない時間にこれら全てが襲いかかり、たまらず悲鳴を上げようと息を吸い込むと咳込んでしまい、口から血が跳ね飛ぶのが見えました。
「少し逸れて肺に行ったかな?まぁ二つあるから大丈夫だよね。…あれ?弾は抜けてないね。肩の骨かどこかで止まったかな?」
興味深そうに言う響。彼女が楽しんでいるのは明白です。
「なん、で…?」
「あの人の傍に居ていいのは私だけ。あの人に触れていいのは私だけ。なのに、なのに君はあの人に触れた!あの人を奪おうとした!」
グッと左手で私の胸ぐらを掴んだ響は更に声を荒らげました。
「だから邪魔者は消す!」
響は右手を振りかぶり、何の遠慮も無しに私の頬を思い切り殴りました。
「許さない!」
二発目。
「許さないっ!」
三発目。
衝撃と痛みで朦朧とする意識の中、口の中で何か硬いものが二、三転がりました。舌で触れ、それが自分の歯である事を認識するのに数十秒を要しました。しかしそれについてそれ以外考える事はありませんでした。満身創痍の私が息絶えるのは殆ど確実であろうと自身の状態を冷静に判断し、せめて奴に一矢報いんと行動を起こしたのでした。
「あなたは、隊長を…殺した…っ!」
私は最期の力を振り絞って響を睨みました。しかし響は意に介さず、それどころか私の首に両手を掛けました。
「何を言ってるんだい?隊長は生きてる。私の中に、私と共に生きている。私は私であり、隊長でもあるんだ。…さぁ、終わりにしてあげるよ。残念だけど、隊長が君を長く苦しめたくはないって言ってるから。」
響は手に力を込め、私の首を絞めました。目を剥き、何とか意識を保とうという試みは徒労に帰し。
「ちがっ…たいちょ、じゃ、な…。」
意識が闇に消える直前、私ははっきりと認識しました。私の首を絞める手に、隊長の優しさ、温かさは微塵も無いと。
数ヶ月に渡る放浪の末、私は米軍に発見されて捕虜として収容された。既に戦争は帝国の降伏という形で終わっていたらしいが、そんな事は限りなくどうでもよかった。
日本に復員した私は北海道の田舎町に移り住んだ。ただでさえ人の訪れる事が少なく、冬には豪雪に閉ざされるこの地は私にとってこの上ない安息の地だった。
稀に訪ねてくる村の人は言う。一人じゃ大変じゃないか、寂しくないか、と。しかし私は全く何とも思わなかった。主人と一緒に暮らしてますから平気です、と返すと決まって彼らは怪訝な顔をして帰って行くのだった。頭がおかしいと思われたのかもしれない。それでも構わなかった。確かにここに人は私一人しか居ない。しかし愛しい主人が文字通り一心同体となって私と共にある事を彼らは知らないのだろうから。
「…ね、隊長?」
村人が帰った後、私は静かに小さなタンスの引き出しを開いて言った。そこには幾つかの小さな骨と爪、それから写真が入っている。満足感に浸り、自分の、また彼でもある体を抱き締めた。目に見える彼と、心で感じる彼と。贅沢は言わない。私にはこれで十分。
「また変な顔されちゃったね。」
「でも、私達はずっと一緒。少なくとも、私が死んでしまうまでは。」
「貴方が一緒なら、私は死ぬのも怖くない。」
「…ふふ。主人って言うの、少し恥ずかしかったよ。」
「あまり気にしてはいないよ。当たり前の事を言っただけだからね。」
「…さて隊長、今日の晩御飯は何が良いかな。」
しんとした部屋に私の声が響いた。
日の薄い雪山に、今日も静かに雪は降り積もる。
― ADルート・完 ―
最後までお読みいただきありがとうございます。
響生還ルートとなりました。これ実質主人公も帰れてますよね(違う)
宜しければ他のルートもお楽しみ頂けると幸いです。ご意見ご感想、お待ちしております。