Lostorage restrained WIXOSS【完結】 作:ジマリス
記憶を取り戻してから、あの路地裏でずっと膝を抱えていた僕が家に着いたのは、日が変わろうかという時間だった。
扉を開けた瞬間、母が玄関まで来て腰に手を当てる。
「もう、遅くなるなら連絡しなさい!」
それは至極まっとうな正論だった。語気は少し荒いものの、怒っているわけではないとわかる。
けど、僕はびくりと肩を震わせ、俯いた。
「ごめん……」
蚊の鳴くような声で返事して、部屋に向かう。
胸に刃を突きたてられた気分のまま着替えて、リビングに戻ると、すでに食卓に一人分の料理が並んでいた。
母さんはすでに食べたものの片付けはまだで、シンクには皿が重ねられてあった。
「いただきます」
これまた小さな声で言うと、箸で次々と料理を掴む。
何を掴んでいるのか、何を口に放り込んでいるのか、味もわからない。
けど何かをしていないと、動いていないと記憶が追いかけてくる。
「どうしたの?」
僕は口を膨らませながら頭を振った。
あの言葉は嘘だと母は言った。それに偽りはないのだろう。
だけど少なくともあの時だけは本気の言葉に思えた。だから、僕は自分でも罪を思うようになったのだろう。
「ごちそうさま」
味も分からないご飯をかきこんだ僕は、母の顔を見られずに急いで部屋に戻った。
扉に鍵をかけて、そのままへたりこむ。
瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。嗚咽も漏れてしまって、袖で顔を隠す。
一人になるのが怖かった僕は、一人になるべき人間だったのだ。
コインが一枚になるまで失ったとき、『このままのほうがいいかもしれない』と僕は言って、リィンは苦い顔をしながらも同意した。偶然にも、辛い記憶のほとんどを消し屑にされた状態の僕が、生きているに適していると。
青色デッキのセレクター、水嶋清衣とそのルリグにも見透かされた。僕がずっと騙してきた自分の心は、その日会った少女に見抜かれるくらいに浅ましい。
だが、開き直って、僕は悪くないと人生を謳歌して何になる? 愛し愛される価値のない僕が愛を求めても、結局誰かを傷つけるだけしか出来ないのに。そっちのほうがよっぽど醜くて浅ましい。
動悸も涙も収まることを知らず、目を閉じても眠ることはできなかった。
翌朝、着替えもせずにリビングに現れた僕に、母は何も言わなかった。いつもなら家を出る時間になっても準備しようとせず、動こうともしない僕に、やはり何も言わなかった。
仕事に行く母を見送り、僕はそのまま家に残る。
部屋に篭って、ベッドの上にだらりと横たわる。けどやっぱり眠気は感じられなかった。カチ、カチと時計の秒針が動く音だけが聞こえる。
どれくらいぼうっとしていたかわからないけれど、とにかく動きたくなかった。
そうやって何も考えないようにして、何日経っただろうか。
スマートフォンには、奏太だけでなく、すず子からも、他何人からも何度か連絡があったが、出もせず返しもせずに放り投げた。
気が滅入ることばかりだ。死にたくないと思って取り戻した記憶は、しかし僕が死にたいと思ったときのことだった。
バトルに負けて記憶(コイン)を失ったときに焦りも絶望も生まれなかったのは、その記憶が捨てたかったものだったからだ。できるなら消したい、過去の遺物だからだ。
僕には生きる意味があるのか? 生きていい理由は?
ここにいて、誰かに迷惑をかけるだけなら、それは不必要な存在じゃないのか。
ぐるぐるとネガティブな思考が駆け巡る。よくない。よくないが、事実だ。
このセレクターバトルは僕の終着点だ。このままコインが消えるまで待ち、伊吹肇は消えて、リィンが僕として生きる。
僕はもう、消えたほうがいい。
「本当に?」
不意に、机の上に置かれたカードが話しかけてくる。
そこに置いた記憶はないのだが、他のカードも机に散乱しているところを見ると、昨夜デッキをぶちまけたらしい。
「本当に、あなたは消えるだけでいいと思ってるの?」
僕の心を見透かしたかのようにリィンが言う。
鬱陶しい。
これが他の誰かだったら、苛つきもしなかっただろう。
リィンだから、僕の分身だから煩わしく感じる。消えたくないんだろうと、まるで僕自身に言われているような気がして、嫌な気分が増す。
辿りついた答えを否定しないでくれ。
僕はもう決めたんだ。
「リィン、一つ訊きたいことがあるんだけど」
彼女の問いを無視して、僕は質問した。
「なに?」
「勝ち抜いた場合の報酬のうち、『記憶の改竄』ってあったよな」
「そうね。あった記憶を失くすことも、ないはずの記憶を作ることだってできるわ」
「それって、他人の記憶も操作できる?」
バトルに勝つたび、蓋をしていた記憶が蘇る。何日も、あるいは何年もかけて沈めてきた感情が一瞬にして迸る。
あと二枚のコインの中にはいったい、どんな記憶が残っているのだろう。
しょうもない記憶か、あるいはさらに僕を追い詰めるものか。
だが、それを取り戻さないと僕は罪に向き合っているとは言えない。少しでも僕による被害を減らせるなら、それに越したことはない。
決心した瞬間、部屋の隅に放り投げたスマートフォンがまた震えた。ぐったりとした身体を引きずって、それを取る。
電話だ。発信者の欄には『穂村すず子』と書かれていた。
▲
もうすっかり夕方になってしまった。
朝から何も食べていないが、腹はそれほど減ってないし、昼食にしては遅すぎるし、夕食にしても微妙な時間だ。
コンビ二で栄養バーとスポーツドリンクを買うまでに留める。
すず子が待ち合わせ場所に指定したのは、御影からウィクロスを教わっていたあの公園だった。
僕が着くよりも早く、すず子はベンチに座っていた。
「肇くん」
彼女は僕を認めると、手を振ってきた。
制服だ。そりゃそうか。今日は普通に平日だし、今は放課後になってすぐだ。
「こんにちは」
ペットボトルに残っていたのを飲み干し、彼女の隣にどかりと座る。
「あ、あの……」
何を言うか、決めあぐねている。
しばらくの沈黙の後、すず子は僕の顔をちらちらと見ながら言葉を発した。
「その、大丈夫? 学校に来ないし、電話も出てくれないから、もしかしてって思ったんだけど……」
そうか。かえでというセレクターと戦っている時点で、僕のコインは二枚。コインベットして負ければ、ペナルティを受けることになる。
すず子としては、僕が消えてしまったかと心配だったのだ。今目の前にいる男が、本当に伊吹肇かどうかも疑っているに違いない。
「ごめん、ちょっと疲れてただけなんだ」
リィンのカードを持ってくればよかった。そうすれば信じてもらえたはずなのに。
またしても沈黙。
「御影はどうしたんだ?」
「勝ったよ。コイン五枚を手に入れて、記憶も取り戻したはず。でもすごく苦しんでた」
バトルに勝ち、望んだとおり記憶のピースを手に入れた。だが次の瞬間、御影は外聞も気にせずに泣き叫び、謝り、血が出るほどに地面を掻き毟ったそうだ。
失われた記憶へ必死に手を伸ばす。それが必ずしも希望だとは限らない。御影にとってはむしろ、絶望がゴールだった。それを忘れたくても、もう彼女はセレクターじゃない。忘れるか引きずるか、その選択肢は彼女に残っていない。
「はんなちゃんも、あれから学校に来てないんだ」
御影は何度も『ごめんなさい』と叫んだらしい。
そのことと弟が死んだことを重ねると、つまり御影は、弟を死なせてしまった原因は自分だと思っているのだろう。
真実はどうかわからない。だが、そう感じてしまったのなら、引き篭もるには十分すぎる理由だ。
このままでは、おそらくずっと出てこないだろう。一人で抱えるには、あまりにも重すぎる。
▲
自分のことで精一杯なのに、僕はなぜここまで来たんだろう。
身体は重たいまま、だけども動かずにはいられなかった。穂村に案内を頼み、御影の家へと連れて行ってもらった。
大きなマンションの一室。
チャイムを鳴らすと、御影によく似たすらりとした女性が現れた。御影の姉だ。
突然の訪問にも関わらず、怪訝な顔もせずに、僕たちを招き入れてくれた彼女の顔は、少しやつれているように見えた。
リビングに案内され、椅子に座る。僕は部屋を見渡した。
収納たんすの上に置かれた車やロボットのおもちゃが目を引く。明らかに御影や姉の趣味ではない。これが弟のものだろう。
他の物は処分したのだろうか。それらだけがこれみよがしに置かれていて、なんだか執着じみたものを感じる。
忘れてはいけない。捨ててはいけない。
前に進むことは、過去にけじめをつけること。それは決して過去を捨てるということではない。犯した罪に縛られ、背負うことを決め、その重さを感じながら生きるということだ。
だけどその罪が自分を押しつぶしてしまうほどに重かったら、どれだけ報いても取り戻せないと知ったなら……
「男の友達もいたなんて驚き。はんなちゃんはずっと一人だったから」
御影の姉さんが紅茶を淹れてきてくれた。
友達。
そういえば、僕と御影の関係はどういうものだろう。セレクター同士。理不尽なバトルに巻き込まれた被害者。師匠と弟子。
協力したことはあったが、彼女が僕に心を開いてくれたことはあっただろうか。
「そう言われたことはないから、どうですかね」
わからなくなって、そんなことを言ってしまう。
ここは友達だと言い張って、少しでも姉を安心させてやるところなのに。
促されて、椅子に座る。御影姉は対面に座って、僕に紅茶を差し出してきた。
「少なくとも、私よりは信用されてるわよ」
御影は、姉にすら話せていなかった。求めるものも、自分自身を縛りあげるものも、取り戻したものも。
話せるわけがない。昔の話を掘り返して、もう一度姉の心を傷つけるわけにもいかない。
誰かに責めたてられるのが怖くて、相談もできない。そして、たった一人でずっと自分を責め続けるのだろう。
「辛いと感じたとき、一人だと感じたとき、いつだって味方であるべきなのは家族です」
考えるよりも先に、口から言葉が出た。そうであるべき、そうあってほしいと願った。
友達も退けてしまった御影に必要なのは、家族だ。
そして家族には、御影のことを守ってほしい。彼女が潰されてしまう前に。
「ありがとう」
姉からの話によると、御影はご飯は食べているものの、部屋からはまったく出ないらしい。
御影姉とすず子に、一対一で話させてくれと頼んで、僕は一人で御影の部屋の前に立った。彼女の部屋の扉からは、なにか陰鬱な雰囲気を感じる。
こんこんとノックする。予想通り返答はなかった。
「御影」
名前を呼んでも、やはり返事はない。
「聞いてるかどうかわからないから、とりあえず喋るよ。すず子が心配してた。すず子が作ったお菓子は食べてるみたいだね。お姉さんから聞いた」
ドアの前で説得するなんて、姉もすず子も散々やっただろう。
それでも僕は、何もしないという選択ができなかった。一人で抱え込む様子に自分を重ねてしまったのだろう。せめて彼女には、僕と同じ間違いを犯してほしくない。
誰にも何も明かさず、一人で答えを出すことをしてほしくなかった。
そして彼女もまた、抱えたままでいたくはないはずだ。だから僕たちに弟を亡くしたことを話した。
身内に言えるはずのないことを、ようやく吐き出せたのは、僕たちのことを少しは信用してくれていたからじゃないのか。なら、僕たちはそれに応える義務はなくとも、権利はあっていい。
「御影。たぶん君はすごく怖いことか、嫌なことか、とにかく辛いことを思い出したはずだ」
僕もそうだ、とは言わずに続ける。
「それでも、君を見捨てられない人がいる。見捨てたくないと思う人がいる」
何かが動いた気配がした。
「君にもすず子にも、友達が必要だと思う。お互いのことを知っていて、事情を知っている誰かが」
人間は一人では生きていけない。昔から腐るほど聞いてきたフレーズだけど、今はよく分かる。
生きている限り、人は罪を犯して、十字架を背負う。それを赦して、赦されて、支え合える誰かが必要なのだ。
あるいは仲間か、あるいは友達か、あるいは家族か。
「君がすず子を友達だと思ってくれるなら、もしくは少しでも先に進みたいと思うなら、すず子と話してほしい」
すず子と、と限定したのは、僕が御影にかけるべき言葉を持ち合わせていないからだ。
御影を先に進ませることは、僕にはできない。僕ができなかったから。
苦い想いを共有したのは、すず子と御影だ。僕は心の内をさらけ出すことができず、罪を持ったまま。
間違いだとはわかっている。いつかは、僕は僕自身に押し潰されてしまうだろう。だけども彼女たちは自分のことだけでも精一杯だ。そこに、僕のことまで背負わせたくない。
だから僕は御影の支えになれない。その資格がない。
返事はなかった。これ以上話すこともない。
僕はドアの隙間から、紙を入れた封筒を差し込んで、その場を去った。
「はんな、どうだった?」
リビングに戻るなり、御影姉はそう訊いてきた。待っていた穂村も期待のまなざしを向けてくる。
一言も話してくれませんでした。そう言うと、彼女たちは肩を落とす。
僕は御影姉の正面に座った。
「妹さんは、たぶん、とっても重いものを一人で抱えています。そんな彼女に、知った顔で知ったふうなことは言えませんけど……」
彼女たちはゆっくり顔を上げた。
「きっと、たった一言欲しいだけなんですよ」
自分のことを考えてくれている本心を、素直に受け止めることができたなら、御影は立ち直ることができる。
僕にはそれができなかった。
一人で抱え込んで、膝を抱えて、塞ぎこんで、引き籠って、一人だけで答えを出した。
その有様がこれだ。前へ進むこともできず、過去に囚われ、未来への扉を開けることを拒んだ。浮き沈みのある人生を嫌って、怖がって、避けてきた。
停滞と後退を繰り返す人間の末路は、誰を愛することも許されず、誰かからの憎しみに潰されることを恐れて、ただそこで腐っていくだけの形骸だ。
セレクターバトルの真実を知って、死にたくない、消えたくないと願った。本能が死への恐怖へ叫びをあげた。だけど、存在していて何になるのだろう。
未来に恐怖して、過去に縋って、頼る過去にすら不必要だと言われた僕の生きる意味は……僕の生きる意味は……僕の……生きる意味は……
▲
まだ陽が沈む前なのに、やたらと寒く感じた。上着のポケットに手を突っ込んで、肩を縮める。
御影の家からの帰路。すず子と僕はほとんど喋らずに歩を進めていた。
「どうかしたの?」
会話のない陰鬱な空気に耐えられなくなったのか、すず子が口を開いた。
「なんだか今日は元気ないように見えて……」
だんだんと尻すぼみになる。
森川からは絶交を言い渡された。御影は顔も見せてくれない。セレクターバトルに関して、すず子が話せる相手は、もう僕しかいないのかもしれない。
それでも僕は……
「肇くん?」
僕は歩を止めた。すず子も足を止めて、こちらに向き直る。
「すず子、もう僕に話しかけないでくれ」
「え?」
何かの聞き間違いか、硬直してしまったすず子は、あの時森川に残酷なことを告げられたときと一緒の顔をした。
「今から、僕と君はなんでもない関係だ。共闘する仲間でも、友達でもない」
「な、なんでそんなこと言うの?」
すず子が僕の肩を掴んで揺らす。手は震えていて、声も震えていた。目の端には涙さえ浮かべていた。
「何かあったの? 誰かに何か言われた?」
「僕のことはもう放っておいてくれないか」
彼女の問いには答えずに、僕は淡々と述べたつもりだった。冷徹な男を演じきれたつもりだった。
自分の顔が熱くなり、目が潤んでいることに気づいて、歯を食いしばって抑える。
「もしこれ以上纏わりついてくるなら、僕は君を敵として見る。君にバトルを仕掛ける」
「放っておけないよ。だって、肇くんは私の大切な友達だもん」
ぐっと胸が締めつけられる。
大切だと言ってくれるのが嬉しかった。
けどその記憶が、すず子の枷になる。彼女が自身を、もしくは誰かを守るときの枷になる。
ようやくここまでなれた僕たちの関係は、しかし呪いだった。僕の存在が、すず子の足を引っ張る、判断を鈍らせる。すず子が本当に守りたいものの邪魔をする。
彼女がいてほしいと言った『僕』という存在が、彼女を縛りつける鎖になっている。
そんなこと、僕は望んじゃいなかったのに。
すず子は森川千夏を守るために戦うことを選択した。だから、僕も選択しなければいけない。僕がこれからどうするかを。
彼女に触れようとして、やっぱり手を引っ込める。もし触れたなら、触れることができたなら、僕の決意はろうそくの火のように掻き消えてしまうだろう。
代わりに、僕の肩を掴む手を、下がることで振りほどく。
「肇くん、どこに行くの?」
僕は答えずに、振り向かずにすず子から離れた。
はっと僕を見る彼女の頬を、涙が伝う。
笑顔が素敵なはずの彼女の目から、とめどなく涙が溢れ出る。
きゅうっと心臓が締め付けられる。
自分で首に傷をつけたときよりも、母に殴られたときよりも、生まれてこなければよかったと言われたときよりも、痛くて痛くて仕方がない。
全て気の迷いだと謝って、先ほどまでの会話をないものにしたかった。
それももうできない。許されない。
すず子を泣かせたのは僕なんだから。
目を背けて、踵を返して、僕はその場から離れる。一歩一歩、離れるたびに足が重くなる。
「本当にいいの?」
すず子の姿が見えなったとき、リィンが問うた。
「いいかどうかは知らない。けど決めたことだ」