眼前で起きた一連の動きを正確に認識している者は梅雨を含め、生徒の中には居なかった。
まるで子供が駄々をこねて投げたぬいぐるみのように無造作に無機的に空を切る肉体を、ただただ呆然と眺めていた。
それは勢いを保ったまま池の脇にある木立の中へ姿を消し、何本もの枝葉の折れる音の後に大きめの落下音を響かせた。
「津上ちゃん……!」
残響が消え場の空気が静まってようやく、止まっていた梅雨の時計が動き出し、目の前で起きた凄惨な暴力を理解する。
「何だあいつ、脳無じゃなきゃ死んでるぞコレ……完全に人殺しの目だったし、あんなのがヒーロー志望かよ。連れてきた連中よりか全然ヴィランだろ」
胸から右肩に掛けて大きく“抉り取られた”怪物・脳無を見て、主犯格・死柄木がそう言った。
どう見ても致命傷受けているはずの脳無は今しがた、まるで何事もないかのように動き、残った左腕で津上を殴り……飛ばした。
殴った方である脳無の左手も消えており、その威力が尋常ではない事を物語っている。
「何してる、さっさと直せ」
首を掻き毟りながら気だるそうに死柄木が脳無を蹴飛ばすと、抉り取られた胸や腕がぐちぐちと音を立てながら再生を始める。
数秒すると胸や右腕、左手などの失った部位は元の形を取り戻す。それは、十中八九個性によるもの、超再生能力と言ったところだろう。
「やっぱり自分の手で一人くらいやっとかないと、経験値効率悪いからな」
再び向けられた悪意の目の意味を即座に理解した梅雨は、その個性を以て水面を素早く移動し、死柄木からより近い峰田にその舌を伸ばした。
敵の悪意に反応したのは梅雨だけではない、一緒に居た出久もまた死柄木を阻止すべく攻撃を仕掛けていた。
「離れろっ!」
「脳無」
以前訓練で見せたビルすら貫く強力なパンチは間に割り込んだ脳無に阻まれた。
攻撃を真正面から受け止めた脳無は吹き飛ぶどころか後ずさりのひとつもしていない。吹き飛ばされる前に津上も脳無に対して何かを放出し無効化された様子であったことも合わせ、脳無は打撃攻撃を無効化しているのだと梅雨は理解した。
今の攻撃で敵の気が峰田から逸れた。すぐさま舌を使って峰田の体を深瀬へと引っ張た。
もう一度勢いを付けて舌を伸ばす。その先には右手を脳無に突き立てている出久がいる。
出久に届くその直前、大きな黒い手に梅雨の舌は掴み取られた。
「痛ッ…!」
舌先に締め付けられる痛みが走る。なんとか戻そうと暴れてもまるで溶接でもされているかのように舌はびくともしなかった。
伸び切った舌を奇異の目で見る死柄木、その目はとても嫌らしく、おぞましい。
「舌かよ、キッモ……あ、でも舌から崩壊させたことは無かったな、少し我慢して試してみよう」
言葉ははっきり聞こえているのに、その意味や意図の理解を頭が拒否している。梅雨は目の前の男をただただおぞましいと思うだけだった。
「うわああああ!」と声を荒げ暴れる出久の肩を脳無が捕まえ拘束している。
死柄木の手が舌に触れ、梅雨はもうダメだと諦めた。
しかし、崩壊は一向に起こらなかった。
「本っ当かっこいいぜ、イレイザーヘッド」
死柄木達の向こう広場の真ん中に、血まみれの頭をもたげ強く鋭くこちらを睨む相澤の姿が有った。
「……緑谷……やれ……!」
「……ッ!! スマッシュッ!!!」
出久は、相澤の言葉の意味を本能的に理解し即座に第二撃を脳無に対して行った。
密着状態から放たれた上方向へのアッパーカット、その一撃を受けた脳無はこれまでと異なり、数メートル宙に浮き上がった。
衝撃によって解放された舌を使って、
「ショック吸収まで消してたのかイレイザー……お前ら、仕事しろよ」
死柄木が言ったお前らというのは、広場でまごついていた
それを聞いてさっきまでの意趣返しとばかりに意気込み、敵は相澤へと殺到した。
「させない!」
相澤に向けられた敵の攻撃を物陰から飛び出したクラスメイト・尾白猿夫が防いだ。
しかし防げたのは先頭に立っていた数人、敵の集団はすぐさま体勢を整え尾白を標的に加えた。
緊迫した一瞬のにらみ合いの後、巨大な爆発音が訓練場全体に鳴り響いた。
巨大な音の発生源、入り口方向の階段を見ると、そこには平和の象徴・オールマイトが立っていた。
「もう大丈夫、私が来た!」
怒りの表情を顕に、ネクタイを引きちぎりながらそう宣言したオールマイトは、鋭い目で広場を一瞥し地面を蹴った。
そして、そこからは文字通りあっという間だった。
目にも留まらぬ速度で広場に残っていた
2人を抱え、死柄木を睨みつけたと思ったら梅雨たち3人はいつの間にか陸へと移動していた。
「えっ……あれ? 速ぇ」
「みんな入り口へ、相澤君を頼んだ」
梅雨はオールマイトの手で安全な場所まで連れてこられたと理解して、思い至る。圧倒的な暴力に襲われた津上保の安否を。
「私、津上ちゃんを探してくるわ」
「峰田尾白……お前らも……蛙吹を手伝え……俺は大丈夫だ」
力なく床に座り込んだ相澤は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。その姿は誰がどう見ても大丈夫と言える状態ではない。
腕の折れた出久が相澤を支える。無傷の3人はそれを見届け、後ろ髪引かれながら林の方へと足を向けた。
「相澤先生、無理せず横になってください」
「……俺にはまだ仕事がある」
相澤、そしてオールマイトの視線の先、脳無と黒霧、そして未だ名乗らぬ手の男が横並びに立っている。
目的を持った明確な敵意が3人の目から放たれていた。
「クリアして帰ろう。脳無、オールマイトの動きを止めろ」
刹那、目にも留まらぬ速さでオールマイトと脳無が激突する。凄まじい衝撃が広がり、辺りを揺るがした。
ぶつかり合った両者の拳、その圧倒的な威力に脳無の右腕は砕け、血を流していた。
「どうした、自分の力に耐えきれてないぞ?」
「そいつの個性“ショック吸収”を相澤先生が消したんです! でも油断しないで、そいつには再生能力も……!」
「なるほど、相澤君の個性が効いてる間の短期決戦か、負担を掛けるね……だが、私としても好都合だ!」
再び爆発のような衝撃が辺りにほとばしる。衝撃に負けた脳無の体勢が崩れ、オールマイトが更に畳み掛ける。
ここは大丈夫という確信を得て、意識を林の中、その何処かに居る津上へと向ける。
「津上ちゃん、どうか無事で……」
「手分けしよう。俺は向こうに行くから」
「わかった、オイラはあっちを見る」
2人とは別方向を向き、梅雨は地面を蹴る。木々の隙間を飛び跳ね、木に張り付き、その大きな目で津上の姿を探す。
嫌でも思い浮かぶ最悪の状況を振り払いながらすがるような想いで、痕跡を探す。津上の居場所を、生存を示す微かな手がかりを、一心に。
「津上ちゃんっ、返事をして!」
力の限り叫んでいるはずなのに、喉が締まり、声は掠れる。
今は涙よりも少しでも大きな声を出したいのに、そう思えば思うほど、涙ばかりがとめどなく溢れていった。
◇
「…上ちゃんっ……事を……!」
朧気な意識の中に、悲痛な声が響く。その声の主はもとより、いま自身がどうなっているのかも津上は分かっていなかった。
意識を繋ぎ直し、自分に何が起きたか、その記憶を手繰り寄せていく。
(死柄木に襲いかかったとき、後ろからいきなり)
津上がそこまで思い出すと、自身の中にキープされている脳無の肉体の一部がイメージとして浮かび上がった。
浮かぶのは上腕と胸骨、そして左手。吹き飛ばされる直前、視界の端に映ったのはこの左手だったと思い至った。
それは、脳無に殴り飛ばされた時、偶然巻き込まれた左手で脳無の左手をキープしたという証拠他ならない。
津上は霞む目を何とか開き、自分の左手を見る。下腕と手首が折れ骨が飛び出し、親指がおかしな方向を向いている。正確に言えば手首が折れているためそう見えるだけで折れているのは親指以外の手全体だ。
状態を視認すると、左腕の痛みをより激しく感じた。
力の入らない左手は、キープされているものがいつ飛び出してもおかしくない状態で、このまま意識を失えばすぐにでもキープされている全てのモノが飛び出すだろう。
津上が瞼を閉じると、凄まじい力、衝撃のイメージが浮かび上がった。それが脳無の左手から受けた衝撃の一部だと気付くのにさほど時間はかからなかった。
あれだけの攻撃を無防備な状態で顔に受けて、辛うじてながらも今こうして生きているのは、きっとそのお陰だということも。
「何処に居るの!?」
自身の内側へと沈んでいく意識を何処からか届いた女子の声が繋ぎ止めた。その声は掠れ、声の主が涙を流しているのが手に取るように分かる。
(良かった……)
津上はその声を聞いて安堵した。声の主である蛙吹梅雨があの危機を脱したという事実を知ることが出来たからだ。
「津上ちゃん、お願い……返事をして!」
安堵して昏い底へと沈みかけたところに響いた彼女の声は、痛々しい感情に濡れていて、聞いた津上の胸は締め付けられるような感覚に襲われた。
その声に応えてあげたいと思う津上だが、声が出ず、返事が出来ない。全身が痛みと気怠さに支配され、手足の先端を微かに動かすのが精一杯だった。
幾らひねり出しても、喉から出るのは血の混じった咳と、掠れる息の音。
声が出ず、体の動かない津上は、自身に1つの手段が
真上を向いていた左の手のひらに、残る意識を集中させる。
(俺は、ここにいる)
梅雨の顔を瞼の下に浮かべながら、津上は残っている全てを左手から解放した。
◇
――――ドォォン
凄まじい地響きが近くで鳴り、梅雨はその発生源へと飛び出す。
梅雨の声に気付いた津上が送った合図だと信じ、一心不乱にその音の主へと向かった。
「津上ちゃん……!」
衝撃により開いた隙間を光が通り、木立の中の小さな空間が煌々と照らされていた。
その光に導かれたどり着いた梅雨が見たものは、想像を絶する凄惨な状況だった。
「あ…あ……」
辺りに飛び散るおびただしい血しぶき。木や葉っぱにこびりつきゆっくりと地面に落ちる血の滴る肉片。
その中央で動かぬ津上は頭から鮮血を流し、左腕は肘から下が真っ二つに裂けていた。
あまりの光景に目を覆った梅雨は、その場で膝から崩れ落ち爆発するほどに暴れる心臓や呼吸を抑えるので精一杯だった。
一縷の望みはかき消され、ただこの場からこの現実から逃げたいと脳や体が梅雨の意識を強く揺さぶっていた。ここにあるのは、抜け殻だと、ここに津上保はもういないと。
呼吸の仕方も忘れ、湧き上がる吐き気と殴られたような頭痛に耐えていた梅雨の耳が、微かな風の音を捉えた。
その音は、途切れ途切れに一定のテンポを刻んでいる。
目を覆っている手を離し、涙でぼやける視界で再び津上を見る。その胸部は風音と連なって小さく動いていた。
「津上ちゃん! 聞こえる?」
一跳びで血の池を跳び越え津上の真横へ降り立った梅雨は津上へ力の限り声を投げかけた。消えかけの命の灯を絶やさぬように、あちらへ行ってしまわないように。
しかしそれに反応はない。津上はただ痛みにうなされ続けている。
焦りと恐怖でぐちゃぐちゃの思考の渦から、今自分がすべきことを掬い上げる。
「……意識の確認、気道の確保、止血…それから……それから……」
胸に耳を当てか細い鼓動を聞き、同時に呼吸が正常に行われていることを確認する。
正常な拍動を確認した梅雨はすぐさま伸縮性に富んだブーツを片方脱ぎ、震える手で津上の左腕を根本からきつく縛りあげた。
左側頭部から流れる血は、その少し下を手で押さえることで間接的に止血を行う。
(次は、何をすればいいの……?)
ここまで重体の人間を見たことは初めての経験であり。ヒーロー志望とは言え、入学から2週間も経っていない梅雨はこの状況に対し素人同然であった。
命の危機に瀕する友達を前に何も出来ない事実が梅雨の焦りを加速させていく。
「お、おい……なんだよ、この状況」
「酷い……」
別で津上の捜索に当たっていた峰田と尾白が現れると同時に凄惨な状況に絶句する。だが、その2人の登場で袋小路に陥っていた梅雨の思考は再び動き始めた。
「……すぐに、助けを呼んできてちょうだい。早くしないと津上ちゃんが――――」
「俺が行ってくるよ。津上のこと頼む」
梅雨が発しそうになった言葉を遮るように返事をした尾白は、尻尾を使いあっという間に木々の中へと消えていった。
残った峰田は涙目になりながら血溜まりを踏み越え津上の横で地面に手をつき大きな声で声を掛ける。
「津上! 寝るなよ! すぐに助けが来るからな!」
「津上ちゃん、聞こえていたら反応をして!」
呼びかける。現状梅雨に出来ることはそれだけだ。消えてしまわないように、名前を呼び、ここに意識を繋ぎ止める。
投げ出されていた右手を取り、優しく握り締めながら呼びかけを続けた。
「津上ちゃん……!」
梅雨が名を呼ぶと、掴んだ右手が微かに握り返してくるような感覚を覚えた。
「津上ちゃん、津上ちゃん」と呼びかければ二度、微かでは有るが、確かにここにある反応は梅雨にとって大きな希望となった。
「津上、聞こえてんのか?」
「ええ」
左手で繋いだ津上の右手を梅雨が見ると、峰田は納得したように流れていた涙を目にとどめた。
「お前はヤオヨロッパイのレポートをオイラに提出する義務が有るんだからな! 忘れるなよ」
「峰田ちゃん、こんな時くらい……」
「男の生存本能を揺さぶってんだよ!」
こんな時でも変わらない峰田に梅雨はどこか安心を覚えた。そんな言葉に対しても確かに握り返される感触は梅雨の胸に温かい気持ちを。
「待たせたね、もう大丈夫だ!」
突風が3人を揺らすと同時に掛けられたその声の主は、オールマイト。
「オールマイト?
「脳無とか言うのを倒した途端に逃げだしたよ。だから私が来た」
「オールマイト、津上ちゃんを……」
「ああ、後は任せなさい……手当したんだね。こんな状況でよくやったよ、二人共」
オールマイトが梅雨と峰田の肩に手を当てながら言った。梅雨はそれを受け取る事が出来ず、微かに首を横に振るだけだった。
血まみれの津上を抱きかかえたオールマイトは「すぐに先生たちが来るから広場で待っているように」とだけ言い残し目にも留まらないスピードでその場から消えていった。
オールマイトの見えない背中を呆然と眺めていた梅雨は「広場に行こうぜ」と言った峰田の言葉に従って誰も居なくなった血溜まりを後にした。