お時間のある時にどうぞ。
観客もガラガラ、おまけに真面目に試合を見ている客なんていやしない。
皆退屈そうに欠伸をしたり、試合そっちのけでビールを飲んだり、談笑したりしている。
そんな場末の小さな会場で今、一人の女がリングに上がり、対戦相手と対峙している。
その両手には赤いボクシンググローブ。薄い水色の長い髪は、ポニーテールで一つにまとめられている。
「……ッ! ……ッッ!!」
相手選手が鋭いジャブを放つ度に、彼女の頭が小さく跳ね上がる。繰り返し繰り返し、会場にパンチの打撃音が響く。
それに対し彼女の動きは精彩を欠き、疲労から腕はだらりと下がっている。まさに打たれるがまま、なすがままといった状況だ。
時折大振りのパンチを繰り出すも、それは間合いもタイミングも掴めていない破れかぶれな物に過ぎない。相手選手は慌てる事もなく、少し身体を傾けるだけで楽々と対処していった。
「……ッ!?!?」
会場に、ひと際重い打撃音が響く。
それと同時に彼女のアゴは大きく跳ね上がり、身体は前のめりに倒れていこうとする。しかしその変わりに、必死に相手選手の身体へとしがみついた。
倒れる事を拒否すると言えば聞こえは良い。しかしそれは勝てる見込みもなく、実力もない者がただダラダラとあがいている様にしか見えない。
顔は腫れあがり、口で大きく息をし、見苦しく相手にしがみつく。そんな光景が試合が始まって以来何度も何度も繰り返され、対戦相手は元より観客までもが辟易としている。
こんなみじめで無様なボクサーと、そんな相手すら仕留められないボクサー。
もういいから、はやく終われ。さっさと倒れてくれ。
それが今、この場にいる人間達の総意であるかのように、会場の空気は完全に白け切っていた。
やがて甲高い鐘の音が鳴り、両選手が自陣のコーナーへと下がって行く。すぐに終わるかと思われた試合も、これで第3ラウンドが終了するに至る。
次のラウンドが始まるまでの1分の間、彼女は椅子に座って必死で呼吸を整える。その顔は次を戦うまでもなく、もう今にも死んでしまいそうに見えた。
「…………ほら、口あけて」
何かアドバイスをするでもなく、ただ役目を機械的にこなすように、セコンドが彼女のマウスピースを外す。それを嫌そうな顔で軽く洗う。
「さっさと終わらせろ。いつまでもダラダラやってるんじゃない」
勝てとも、また頑張れとも言わない。ただ“終わらせろ“とセコンドは言う。早く終わらせてさっさと帰りたいのだと、そんな気持ちが透けて見えている。
「みっ……水を……!」
「………………ほらよ」
今までコーナーにもたれかかり、ゼェゼェと肩を上下させるばかりだった彼女。しかし自分から言い出さなければ、セコンド達は水すら満足に用意してはくれない。協力してはくれない。
「ほら、さっさと行ってこい」
セコンドアウトを告げる声が響き、フラフラしながら彼女が立ち上がる。そしてセコンドの男はダルそうに椅子を外に下げた。
『 ラウンド4…………ファイトッ!! 』
やがてレフリーの声と共に、ラウンド開始のゴングが鳴った。白け切った会場の雰囲気、やる気のないセコンド達の中、その二つだけが浮いているように元気よく感じる。
「…………ッ!! ……ッ!!」
そしてまた始まる、先ほどまでの焼き直しの展開。対戦相手の拳に晒され、その度に彼女の頭がゴスンと後ろにずれる。
「……ッ!! …………ッッッ!!」
いや、浮いているのは決して、その二つだけではなかった。
たった今、破れかぶれのような大振りパンチをあっさりと躱されてしまい、バランスを崩した所を滅多打ちにされている彼女。
そしてまたしても見苦しくクリンチを繰り返す彼女もまた、この会場の空気から浮いた存在。
この会場で、たった一人だけ、諦めていない。
この場でたった一人だけ、目から燃えるような光を放っている。
「――――シッ!!!!」
もういい加減にしろとばかりに、面倒くさそうにクリンチを振り払おうとする相手。その右わき腹に今、初めて彼女のボディブローが突き刺さる。
耳を疑うような、とんでもなく重い音。それが静かだった会場に響く――――
「シッ!! …………シッ!!!!」
目を見開き、今度は逆に彼女へとしがみつこうとする相手選手。その腹に向かって、彼女が執拗にボディを放つ。
その度に、耳を覆いたくなるような音が鳴る。相手の身体がくの字に折れる。
「 ――――シッッッ!!!! 」
渾身の一撃。傍から見れば素人丸出しの大振りの右が、相手選手の腹を大きく突き上げた。
それと同時に会場に響く、内蔵がひしゃげたかのような打撃音。まったく慣性に逆らう事なく、足が突然無くなってしまったようにマットへ倒れ込む相手選手。
静まり返ったこの会場では、キャンパスでのたうち回っているうめき声がよく聞こえてきた。
「…………ハァーーッ!! …………ハァーーーッッ!!!!」
ロープにしがみつくようにもたれ、天井を見上げる。そして犬のように口を開き、必死で肩を上下させている彼女。ライトの光は眩しいが、今は何よりもまず酸素が欲しいと。
極限まで疲労し、ボロボロの姿。これでは一体どちらが倒したんだかまったく分からない有様。
そんな彼女がニュートラルコーナーに誘導され、ヨタヨタとそちらに歩いていく。暫くして、実況席からゴングが乱打された。
『――――勝者、葛木メディア!』
レフリーに高く掲げられる右腕。興味の無いまばらな拍手の音。そして未だボロボロの姿のまま、ゼィゼィと息をするばかりの彼女。
女子プロボクサー、葛木メディア。
彼女は過去に“キャスター“と呼ばれた英霊。あの冬木の聖杯戦争に参加し、そして受肉を果たした存在だった。
………………………………………………
夜の道をひとり歩く。
自宅までの帰り道。心地よい疲労感を感じながらゆっくりと歩いていく。
頭上を見上げればまん丸のお月様。自分が過去に生きていた時代とは違いあまり星は見えないが、それでもこの冬木の夜空を眺めながら。
自分の住むこの街、この世界の風景を楽しみながら歩いた。
昔とった杵柄で、今日の試合の怪我だの打ち身だのはすっかり治してある。メディアはいつも通りの美しい顔だ。
だが流石にこの疲労までは何ともし難い。しかしそれすらも今は、愛おしく感じる。この身体の疲れこそが、自分が今日頑張ってきた証であるのだ。
「あらジョン、お元気?」
やがて歩いていく内、メディアはご近所さん家の前を通りすがる。ジョンという名のこの大きな犬も、メディアをみて嬉しそうに尻尾を振っている。
「今日の試合、よかったのよ? お前も観にくれば良かったのに」
そんな事を言いながら、ヨシヨシと頭を撫でてやった。
………………………………………………
「メディアさん、こんな遅くまでどこに行っていたんです?
もう宗一郎兄さんも、皆も、食事を済ませてしまいましたよ?」
自宅である柳洞寺まで帰って来たメディア。玄関で彼女を待っていたのは、夫の弟分である一成だった。
「……あ、ごめんなさい一成くん。今日は試合の日だったの。
言ってはおいたのだけれど、ちゃんと伝わっていなかったかしら……」
腕を組み、険しい顔で見つめてくる一成。そんな彼にメディアは申し訳なさそうな表情を見せる。
「あぁ、例のボクシングというヤツですか。
自分はあまり事情に詳しくありませんが、いくら兄さんが何も言わないとはいえ、
女性がこんな遅くまで出歩いているのはどうかと思います」
やれやれと言った様子で、踵を返して去っていく一成。その後ろ姿をメディアは俯きがちに見送る。見えなくなる時まで。
………………………………………………
「ただいま帰りました、宗一郎」
洗濯物をカゴに放り込み、鏡で軽く自分の姿を確認した後、メディアは夫である葛木総一郎の部屋を訪れた。
「そうか、大事は無かったか? メディア」
「はい、今日もつつがなく。
長い時間留守にしてしまい、申し訳ありませんでした。」
「構わない。お前が無事であれば」
この1年と数か月ほど、メディアはここ柳洞寺とボクシングジムを往復する生活を続けている。試合はだいたい1月に一度くらいのペースで行っている。
以前、買い物の店先で見かけた【ボクシングジム、会員募集中】の張り紙を見てジムの門を叩いて以来、メディアはボクシングに夢中だ。
最初、本当はフィットネス目的であるボクササイズの方をやろうかと思っていたのだが、楽しそうにサンドバッグを叩く練習生の姿を見て、思い切って選手としてやってみる事にしたのだった。
「今は何をなさっていたのですか?」
「なに、暇潰しだ。本を読んでいた」
「まぁ。面白いですか?」
「特に興味を惹かれる部分は無い。ただ何と無しに読んでいたに過ぎんよ。
また何か良い本が欲しい。メディア、付き合ってもらえるか?」
「はい、では早速明日にでも。冬木の書店巡りを致しましょう」
二人でいる時、宗一郎もメディアもボクシングを話題にする事は無い。こうして毎日メディアの身体を気に掛ける言葉をくれるものの、それ以外の事を宗一郎が話す事は無かった。
ボクシングジムに通いたいと話をした時も、ただ一言「そうか」とだけ。特に良いとも悪いとも言わなかった。やりたい事があるのならばと、妻の意志を尊重するスタンスを取っている。
メディアがボクシングという物に興味を持ったのは、ずばり宗一郎が理由だ。
彼の“蛇“と呼ばれる戦闘術はいわゆるボクシングと酷似する部分があり、そこから興味を持ち、自分も一度やってみようと考えた経緯がある。
純粋な殺人技術である宗一郎の物とは違うが、同じ“腕“を使う格闘術。以前から魔術や策謀で戦うばかりだったメディアだが、彼の事を少しでも理解したいという気持ちから始めた部分もあった。
……実を言うと、ボクシングをやれば何かアドバイスを貰えたり、夫婦の共通の話題なんかが増えるかな~と期待したりもしたのだが、そういった事はまったくと言って良い程に無かった。
妻やボクシングに興味が無いというよりも、これは彼の本質的な部分。実に寡黙な男なのだ。
しかしいつも自分を尊重してくれ、こうして少ない言葉ながらも凄く気遣ってくれているのが分かる。その事にメディアは心から感謝をしている。
「疲れているようなら、今日は早めに休むといい。私もじきに寝室へ行こう」
「そうですね……。でももう少しだけ、このままで」
静かで、優しく、暖かな時間。
二人でこうしている時、メディアはなによりも幸せを感じるのだった。
………………………………………………
「こんにちわ桜さん、儲かってる?」
「あ、こんにちわですメディアさん。
わたしアルバイトだから……儲かるトカはないかも」
冬木商店街にあるパン屋さん。ここで現在、桜はアルバイトをしていた。
第五次からの顔なじみであり、魔術師としての大先輩でもあるメディアは、あれからも何かと桜の事を気にかけている。
パンを買うがてら、こうしてちょくちょく桜の顔を見に来るのだ。
「どう? アルバイトにはもう慣れた?
私から見たら、すっかり店員さんが板についてきたように思うけれど」
「そうですね、皆さんとても良くして下さっているので、
楽しく働かせてもらってます♪」
最初こそミスも多く、結構凹む事もあったようなのだが、そこは生来がんばり屋な桜。今ではすっかりこの店の看板娘として、町内でも愛される存在となっている。
メディアも、そして宗一郎もこの店のファンだったりもするのだ。
「いつも言ってるけど、もし変なお客さんに絡まれたら
ちゃんと言うのよ? いつでも私がぶっ飛ばしてあげるから」
「だ、だいじょうぶですってメディアさん!
みなさん良い人ばかりですから! 心配ないですっ!」
「そう……? 貴方って愛らしいし、押しに弱そうに見える所あるから。
変な人に付きまとわれないか心配なのよ私。遠慮しなくて良いのよ?」
「あはは……」
いいこと? パンチを打つ時はね? こうおもいっきり腰を入れて……。
そんな事を店内でレクチャーしだすメディア。桜も苦笑いである。
「確かにわたしはちょっと頼りないかもしれないけど……。
でも心配いらないかも。…………だって…………」
『 おい桜ッ! このチョココロネってもう無いのかよ!?
僕が好きなヤツは多めに作ってもらえって、いつも言ってるだろ!! 』
そうなのだ。ここには最近、しょっちゅう兄である慎二が入り浸っているのだ。
何をそんなに来る事があるのかという位、頻繁にこの店にやってくる慎二だ。
「いいか? 僕が検討した所、この店で三指に入る位に美味いのが
チョココロネだ! 生地や店長さんの腕が良いから全部美味いけど、
しっかり売れ筋を把握しとかないと無駄な廃棄も出るし、
売り上げだって奮って来ないんだぞ!」
「あはは……。という事で、心配いらないかもしれません」
「……そ、そうみたいね……」
最近、彼の食事は2食、下手したら3食がパンだ。ここに来る度に何かしら買って行くので売り上げに貢献しているのは間違いない。
桜がこの店で働き始めて、もう2か月ほどになる。
実の姉である遠坂凛、そして衛宮士郎がそれに着いていく形でロンドンへと行ってしまってから、桜は目に見える形で落ち込んでしまっていた。そんな時に不器用な優しさで彼女を支えていたのが慎二だ。
今では以前のように笑顔を見せるようになり、そして一念発起してアルバイトを始めてからも、こうして陰から(?)桜の事を見守っているのだ。
もう一緒にここに務めてしまえば良いのにとか、メディアはちょっと思わなくもない。
「お、なんだよ。来てたのかよキャスター」
「こんにちわ坊や。今日も元気そうね貴方」
「別に不機嫌になる理由がないからね。
アンタも最近ボクシングの方は、上手くいってんのかよ?」
「ええ、お陰様でね。……まぁ毎日ヒーコラ言ってはいるけれど」
桜を気にかけている内、自然と慎二とも顔なじみとなったメディア。ぶっきらぼうな口調ではあるけれど、慎二もメディアにはそれなりに心を開いてくれているようだ。
「言ってもさ? 受肉したとはいえ元はサーヴァントだろ?
ただの人間よりは出来る事も多いんじゃないの?」
「……まぁ、そうだったら良かったんだけどね……。
隠匿というルールから身体強化なんかの魔術は使えないし、
そもそも受肉をした時点で、私はただの人間の女よ。
以前は15分歩いただけで息切れしてたものよ……」
「マジかよ……なんだよその夢のない話。
いくらキャスター(魔術師)だって言ってもさ」
まぁランサーやアーチャーだったなら話は違ってくるのだろうが、メディアは今、一般的な範囲の身体能力しか持ち合わせていない。そもそもサーヴァントだった時にも、遠坂凛に拳で打倒されかかった事があった位だ。生粋のインドア派だったのだ。
「けどさ、やるんだったらただの人間なんかには負けないで欲しいね。
僕達にとって、英霊ってのは一種の憧れでもあるんだ。
元とはいえ、アンタが一般人に負けてる所なんか見たくないんだよ」
「…………」
慎二は過去に魔術師という物に固執し、沢山の過ちを犯してきた過去がある。今では自分なりに沢山の事を吹っ切り、そして桜にとってまごう事無く良い兄となってはいる。しかし彼にとって未だに魔術師、そしてあの第五次の戦いには特別な思入れがあるのかもしれない。
「応援ぐらいしてやるし、なんだったら試合だって観に行ってやるさ。
だからさ、負けんなよ。桜の姉貴分なら、強い所見せてやってくれよ」
ジト目で、少し不機嫌そうに。しかし真剣な目で慎二が見つめる。
なんとかメディアは肯定の返事をした。だが、その瞳を真っすぐに見返す事は出来ない。
………………………………………………
「おはようございます」
今日もジムを訪れ、更衣室へと入ったメディア。上品な笑みを浮かべて仲間達へ挨拶する。たった今まで仲良く談笑していた者達は会話を止め、気だるそうにメディアの方に目を向ける。そして一瞥した後、軽い会釈だけをして会話を再開した。
「おはよう、木下さん」
そしてそれは、他の面子も同じ。目も合わせる事なく、面倒くさそうに会釈だけを返して戻っていく。誰一人として、自分から言葉をかけに来る者は居ない。
そんな中、メディアは自分のロッカーへと向かい、黙々と準備を行っていく。着替えを済ませ、髪を後ろで一つにまとめる。その間も、やはりメディアを気に留める者は居なかった。
「…………」
やがて一人二人と更衣室から仲間達が消えていき、気が付けばここにはメディア一人となっていた。存在を無視するかのように、まるで関わる事自体を拒んでいるように、メディアが来た途端にそそくさと練習場へ消えていく。
「……ふぅ」
ため息などをついてみるも、それで気分が晴れる事はない。
いつからだろう。気が付けばメディアを取り巻くジムの状況は、すでにこうなっていた。
最初、ここでボクシングを始めたての頃は、自分はなんやかんやと周りにちやほやとされていたように思う。
物珍しさもあってか沢山声もかけてくれたし、慣れない自分を皆が気にかけてくれた。とても親切にしてくれていたように思う。
しかし、明らかに日本人とは違う見た目のせいなのか、社交的で朗らかとは言い難い自分の性格の為か。はたまた自分の年齢や人妻である事が面白おかしく伝わった為なのか、容姿の割にはどんくさく物事を上手くこなせない事に愛想をつかされたのか。
何が原因だったのかは分からない。あるいは全てが複合的に受け入れられなかったのかもしれない。いつしかメディアは、このジム内でハッキリと浮いた存在となっていた。
「今日もいつも通りのメニューだ。終わるまで声をかけるな」
それだけを告げ、トレーナーの男は再び新人の指導に戻る。メディアは指示に従い、ストレッチや縄跳び、バッグ打ちなどを一人で黙々とこなしていく。
それがひと段落つけばタオルを首にひっかけ、一旦ジムを出てロードワークへと向かう。河川敷を超え、やがて商店街の大通りへ。幾人かの顔見知りとすれ違い、その度に会釈をしていった。
「……あら? 奥さん、アレ……」
「あぁ~。あの人、葛木さんトコの……」
メディアを怪訝な目で見つめ、遠くからヒソヒソと話をする主婦達。そんな姿が目に入らなかったかのように、無心でランニングに打ち込む。
「……主婦だっていうのに……ボクシングだなんて……」
「野蛮ね……いったいなに考えてるんだか……。
やっぱり外人さんって、私達とは違って……」
そんな声も聞こえなかったかのように、ひたすら前だけを見て走った。
「いいぞ、そのまま足を使っていけ。相手はウスノロだ、翻弄してやれ」
ジムへと戻り、スパーリング中のインターバル。トレーナーが選手にアドバイスをしている。
対してその対戦相手であるメディアに声をかける者は居ない。一人コーナーにもたれかかり、ゼィゼィとひたすら回復に努める。
やがて1分間のインターバルが過ぎ、再び両者が中央で拳を合わせる。相手選手は指示通りに足を使い、小刻みに左を放ってメディアを寄せ付けない。前に出ようともヒラリと横に躱され、懐に入ろうにも出鼻を迎撃される。もう長い間、メディアは亀のように丸くなり打たれるがままとなっている。
そんなメディアに声をかける事なく、トレーナーはひたすらに相手選手を激励するばかり。いいぞやってしまえと、熱の籠った声を上げる。
結局スパーリングの3Rの間、ただ良いように打たれるだけだったメディア。トレーナーが相手選手を労っている様を見る余裕もなく、一人息を切らせてその場にへたり込んでいる。
「いいサンドバッグね。トロいし頑丈だし、調整相手には持ってこいだわ」
メディアの前を通り過ぎ、相手選手がリングを降りて行った。
………………………………………………
「デトロイトスタイル?
あれだろ、フリッカージャブとかの。
元世界王者のフロイド・メイウェザーがやってたヤツだろ?」
向かいに座っている慎二が、煎餅を齧りながら言う。
メディアは今日、間桐家へとお邪魔している。たまにこうして桜と共に料理の研究会を行っているのだ。現在は慎二も含めた三人で、居間でお茶している最中である。
「というか、アレって凄くテクニカルな戦法なんじゃないの?
アンタ不器用そうな印象あるけど……ホントに出来るのかよ?」
「……うぐっ!」
慎二にそう言われ、クッキーを喉に詰まらせるメディア。それを見た桜がアワアワと背中をさすってくれる。
「どうせ“葛木先生の戦い方と似てる“とか思って、
それで真似したがってるんじゃないの?
僕そういうの、どうかと思うけど……」
「う、うるさいわねッ! いいじゃない思うくらいッ!」
お茶を飲ませてもらって復活し、ガーっと吠えたてるメディア。人の心は自由、何人たりとも想いを止める事など出来ない。そんな事を熱弁するも慎二は白けた表情だ。なしのつぶてである。
実はジムに通い出した当初、メディアは見様見真似で宗一郎ちっくな構えをし、ミットを叩こうとした事がある。ジムで教わったオーソドックスな構えではなく、宗一郎のように左腕を腰の位置で低く構えてだ。
そして言うまでもない事だが、メディアはその場で、トレーナーに怒られた。
「基本も身に付かない内から変な事をするな」と至極真っ当な事を言われ、スゴスゴと引き下がった思い出がある。
あれからメディアは言われた通り、真面目に基本に取り組んでいる。
しかし、そもそもボクシングを始めたきっかけが“宗一郎のように戦ってみたい“という物。どうしてもその憧れを消す事は出来ない。
まがりなりにも一年以上ボクシングをし、そしてその奥深さに触れた今なら、宗一郎がどれだけ高度で凄い戦士だったのかが身に染みて分かる。
メチャメチャ惚れ直しもしたし、更に尊敬が増していく毎日だ。そして同時に憧れも募っていった。
今は猪のように突っ込み、泥臭く戦う事しか出来ない自分。でもひたすらに努力を重ねて、いつかはあんな風に戦ってやるのだ。
変幻自在の左で相手を釘付けにし、そして狙いすました右で顎を撃ち抜く。そんな華麗で合理的で、知性に溢れた戦い方を……うひひ。
彼方を見つめ、気持ち悪い顔で想いにふけっているメディア。
その様に呆れはするも、男である慎二には、気持ちが分からなくもないのだ。
「まぁ身の丈に合ったスタイルが一番だとは思うけど、
“好きこそ物の上手なれ“とも言うからね。
ある程度地力が付いてきたら、一度やってみたら良いんじゃない?」
「そうです! わたし応援してますメディアさん♪」
「……あ、貴方たち……」
素っ気ないながらも優しい慎二、そして心からの声援をくれる桜。そんな二人の心に触れて、思わず涙がちょちょ切れそうになるメディア。
私も随分年を取ってしまったものだわ、なんて事を思う。
「お、そういやこの人もデトロイトスタイルだったんじゃない?
思えば身近な所にお手本が居たもんだね」
慎二は何気なしに付けていたテレビの方を指さす。するとそこには何やら記者会見のような映像。沢山の記者達に囲まれ、一人の見知った女性がインタビューを受けている所。
『チャンピオン、1月に冬木市で試合を行うとの事ですが、
今の自信のほどは?』
『――――問題ありません。ベストを尽くす事をお約束します』
眩しいフラッシュに照らされ、自身に溢れた表情で受け答えをする赤い髪の女性。
『冬木は、私にとって思い出深い街でもあります。
冬木にいる友人達に、最高の試合をお見せしたいと思います』
第五次の戦い、そしてあの“繰り返される4日間“を終えた後、彼女はプロボクサーとなった。
デビューから10戦もせぬ内に頂点へと駆けあがり、すでに“絶対王者“の名を欲しいままにする最強の女子プロボクサー。
バゼット・フラガ・マクレミッツ。
テレビ越しに見た彼女の姿が、メディアにはとても眩しく映った――――
………………………………………………
「どういう事ですか。
今頃になって『試合をキャンセルしたい』などと言ってくるとは」
「仕方ねぇだろうがよ?
相手さん、練習中に拳をやっちまったって言うんだからよ」
ここは某事務所の一室。現在バゼットはマネージャーであるランサーに対して、静かに声を荒げている。
「すでに冬木で行う試合には、沢山の人手をかけて宣伝をうっている。
楽しみにしてくれている人達もいるというのに、
今更中止など出来るハズがない」
「……そうは言ってもよ? もう当日まで2か月かそこらしかねぇぜ?
ただでさえお前は他のヤツらから『やりたくねぇ』って
逃げ回られてんだ。今から相手なんざ見つかるかね?」
お手上げだと、ランサーが肩をすくめる。
「中途半端な相手とやっても、おめぇも客も満足しねぇだろ?
良い試合を見せてぇってんなら、
やっこさんが治るのを待つしかねぇが……」
「治ればまた試合を受けるとは限りません。
恐らくなんだかんだと理由をつけ、体よく私から逃げたのだ。
そんな臆病者とやったところで意味はない。
冬木の皆には、最高の私を観て貰いたいのです」
「……ったく。まぁお前のそういうトコ、俺は買ってるけどな」
気が強く、真っすぐに自分の意思を伝える女。今もランサーがバゼットを支えている理由は、その強さに惹かれたからに他ならない。
「……ん、待てよ? そういや冬木にはアイツが……。
オイちょっと待ってろ。確認を入れてくる!」
そう言い残し、いったん退室していくランサー。懐から携帯を取り出す仕草が見えたが、どこかに電話でもかけに行ったのだろう。バゼットはしばらくの間、ブスッとしながら時間を潰していた。
「おいバゼット! キャスターだ! 冬木にはキャスターがいる!
アイツも今ボクシングやってやがんだ!
アーチャーの野郎が言ってたのを、ふと思い出してよ!」
「キャスター? あのメディアさんが……ボクシングを?」
怪訝な顔をし、意外そうな声を返すバゼット。ボクシングと彼女のイメージがどうしても結びつかないのだ。
「今回、おめぇさんの望む“良い戦い“ってのは正直無理だ。
だがおめぇは、冬木の連中にただ喜んで貰いてぇんだろ?
立派にやってるって所を、アイツらに見せてやりてぇんだろ?
だったらキャスターと戦りゃあいい。
アイツも冬木の住人だ、連中もこぞって観に来るぜ」
「……し、しかし。メディアさんはその……ボクシングはどうなのです?
魔術戦ならいざ知らず、私と打ち合える技量があるとは……とても……」
「んな事は良いんだよ、胸貸してやりゃあ。
チャリティー試合って事にすりゃ、冬木の連中にも恩返しが出来る。
地元民のキャスターと戦るんだ、下手な試合より話題性だってあんだろ。
それによ? 世界王者であるお前と戦れる……、
これはボクサーにとって最高の名誉だぞ。それをお前が与えてやんだよ」
「…………」
少しだけ思い悩んだ後、静かに顔を上げるバゼット。
信頼を称えた瞳でランサーを見つめ、柔らかな微笑みを返した。
………………………………………………
「はぁいジョン、お元気?
今日は桜さんと一緒にグラタンを作ったのよ?
美味しく出来たんだから♪ お前も食べられたら良かったのに♪」
その頃メディアはそんな事を言いつつ、ジョンの背中をワシャワシャと撫でていた。
………………………………………………
今朝は、一成君に沢山お小言を頂いた。
掃除の仕方が拙い、アイロンが下手だ、作業のスピードが遅い、などなど。
昼に買い物に出掛ければ、一部の顔見知りの主婦たちからヒソヒソと陰口を叩かれる。野菜や魚を真剣に目利きする事で、嫌でも耳に届くそれを聞き流した。
そしてやるべき家事を全て終えた今、メディアはこうしてジムで汗を流している。
縄跳びをしている時、筋力トレーニングをしている時、そして今のようにサンドバッグと向き合っている時。メディアは他の一切を考える事無く、自分自身と向き合える。
すべき事、こなすべき事を一つづつ消化し、次々に痛みや苦しみに立ち向かう。自身の弱気をねじ伏せる。
少しだけ未来の、成長した自分の姿を思い描きながら練習に打ち込む。そうしている時の充実感こそが、メディアが今もっとも愛する物のひとつだ。
たとえ今、自分の周りに誰も居なくとも、声を掛けられる事がなくとも。まるで自分の存在など無いかのように振る舞われていても。
走り、鍛え、サンドバッグを叩く。この時だけは、自分が自分らしく居られる気がしていた。
「ちょっとぉ、そこ変わってもらえる?
この子の練習を見てあげたいの。いつまでも使ってないでよ」
「……あ、ああ。ごめんなさい木下さん」
無我夢中でサンドバッグを打っていた時、唐突に背中から声を掛けられた。振り向くとそこには、先日のスパーの相手であった木下という女性の姿がある。傍には新人さんであろう少女もいる。
軽く謝罪をし、メディアはその場を離れていく。次はロードワークにでも行こうと、不器用にグローブを外しながら。
「 ここはアンタの来る所じゃないわ。
ダイエットなら余所でやりなさいよ、外人さん 」
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。それが自分に言われた言葉だと認識するまでに、メディアは随分と時間がかかった。
「 お綺麗な貴方には、殴り合いなんて似合わないんじゃない?
家で旦那さまとイチャついてたらいいのに。目障りなのよアンタ 」
ドカンとサンドバッグを打つ大きな音が聞こえた。それからは言葉を掛けられる事無く、ただ打撃音だけが後ろから聞こえてくる。
やがてその場に立ち止まっていたメディアが、振り返る事無く出入り口へと消えていく。ロードーワークをするためにと、上着を更衣室へ取りに行った。
………………………………………………
河川敷を走る。キラキラと光る水面を眺めながら――――
ダッシュと通常のランニングを交互に繰り返し、ひたすら足腰を苛め抜いていく。
汗を流せば流す程、疲労感が身体を包む程に、自分の心から良くない物が抜けていく感じがする。その心地よさだけを、メディアは感じている。
今日はランニング中、3組も散歩中の犬と通りすがった。
笑顔で飼い主さんと会釈を交わし、フリフリと犬に手を振ってから別れていく。ワンワンという元気な鳴き声が、まるで自分にエールをくれているように思える。
それを、とても幸運だと。
今日はとても幸せな日だと、メディアは思うのだ――――
………………………………………………
その後、汗だくでヒーヒー言いながらジムへと帰って来たメディア。すると彼女に声を掛ける者の姿があった。
「あぁメディアさん、さっきトレーナーが探してたよ?
なんか話があるとかなんとか。行ってみてね」
そう教えてくれた練習生に礼を告げてから、メディアは言われた通りトレーナーを探す。ジム内でリングに向かって激を飛ばしている姿を見つける事が出来た。
「あぁ帰って来たか。さっきお前に電話があってな。
あのバゼット・フラガのマネージャー様だとよ。
お前明日にでもここに行って、話を聞いてこい」
トレーナーは、メディアに地図と時間などか書かれたメモを手渡す。それっきりリングの方へと向き直り、こちらを見る事は無い。
「…………え、えっと。スパーリングパートナーのご依頼かしら?」
「話は向こうで訊け。走り終わったんなら筋トレでもしてろ」
そう言い捨てられ、メディアはスゴスゴとトレーニング器具の所へと向かって行く。
トレーナーとではなく一人で行かされる事に、文句もなかった。
…………そして翌日、メディアはとある大きなビルの一室を訪れていた。
入口で受付のお嬢さんに名を告げて、奥の豪華な部屋へと通される。元王女であった彼女だが、久しく見る事のなかった調度品などに少し気後れ気味だ。ビクビクとしながら相手が来るのを待つ。
「――――よぉキャスター、久しいな。
2年ぶりになんのか? まさかこんな形で会うとはよ」
「……!? あ、貴方……」
そこに現れたのはランサー。第五次の戦いで覇を競った槍の英霊。
あれからお互いに受肉し、そしてランサーが冬木の街を離れて行ってから、会うのは此度が初めてとなる。
「紅茶か? それともコーヒーにすっか?
あれから随分と作法ってのを仕込まれてよ。
今では我が主より、よっぽど美味く淹れられる」
目を見開いているメディアをよそに、慣れた手つきで用意していくランサー。その姿をメディアは黙って見守るばかり。
「ほいよっと。どうだ? クーフーリン様が淹れた茶なんぞ、
なかなか飲む機会はねぇぞ? まぁ気負わず楽にしとけよ。
いっちょ思い出話に花でも咲かせとくか?」
「……いえ、あのお気遣いなく。
そんな事より、貴方がバゼットさんのマネージャーを……?」
「おうよ、まぁ大して役にも立っちゃいねぇが。
たまに喝入れたり、適当に応援してくれりゃーそれで良いんだと」
まぁたまにスパーの相手くらいはしてるさ。俺ぁボクシングなんぞ知らねぇが、殴る分には頑丈で良いんだとよ。
そんな事をカラカラ笑いながら話すランサー。
「でよ? 今回お前さんを呼んだのは他でもねぇ。
ボクシングやってんだってな? ちょっと頼みてぇ事があってよ」
「……スパーリングのご依頼かしら?
構わないわ。王者のお相手が出来るなんて光栄な事よ。
私などで良ろしければ、よろこんでお引き受けしますわ」
身を固くし、じっと睨みつけるメディア。受肉したとはいえ、目の前の男から感じる威圧感は健在だ。それに飲まれないよう、必死で身体に気を張る。
しかしそれが取るに足らないかのように、ランサーは朗らかに笑っている。以前の英霊としての力関係、そして今のボクサーとしての立場の差。メディアはそれを感じざるを得ない。
「オイオイ、早合点すんなよ。
確かにアイツの相手にゃ不足してっけど、今回はそうじゃねぇさ。
――――試合だキャスター。 おめぇ、バゼットと戦ってみる気はねぇか?」
そう言い放ち、ランサーがニヤリと口元を歪める。
「実は1月の興行の相手がばっくれちまってな。困ってんだよ正直。
……だが、そこでお前だキャスター。エキジビションにはなっけど、
ひとつやってみる気はねぇか?
結構な額の金も出すし、見事お前が勝ってみせたなら、
そん時は正式なタイトルマッチだって用意してやる。
どうだ? お前もボクサーなら、悪かねぇ話だろうが」
……目を見開き、時が止まったかのように制止するメディア。
今目の前の男に言われた言葉を消化し切るまで、数秒ほどの時間がかかった。
しかし、しばしの時を置いて、ため息と共にメディアは語り出す。
その提案は承服しかねる。そもそもそれは、成立さえしていないのだと。
「何を思って私に声を掛けたかのは知らない。でも、お断わりするわ。
マネージャーと言っても、何も分かっていないのね貴方。
ボクサーには“格“という物がある。
特別試合とはいえ、私が彼女と同じ場所に立てるハズも無い。
そもそも私のような下位のボクサーが『やる』などと言えば、
それは王者に対して非礼に当たる。身の程知らずだとね」
「……おっろ?」
心底意外そうな顔をするランサー。それを捨て置き、メディアは椅子から立ち上がる。もうここに用は無いと。
「声を掛けて下さった事には感謝致しますわ、クーフーリン。
そのお気持ちだけ、有難く頂いておき……」
「あっれ、おっかしいな……。
一も二もなく乗ってくると思ったんだが……」
言葉を無視するように声を出し、ポリポリと頭をかくランサー。その後メディアへと向き直り、先ほどまでとは違う真剣な目で彼女を見据える。
「格だの非礼だのは知ったこっちゃねぇが……、
らしくねぇなキャスター。……いや、女王メディアさんよ?」
「…………」
「こちとら今でいう“ジャイアントキリング“なんざ、
腐るほど成してきた。だからこその英霊だ。
たかが戦(いくさ)ひとつ、いまさら怖気づく事かよ」
心底くだらないとでも言うように、ランサーが鼻を鳴らす。その場で足を止め、メディアはただ言葉に耳を傾ける
「2年前、あんだけ散々暴れといて何だよ?
セイバーやアーチャーに『二度とやり合いたくない』と
言わしめたおめぇはどこへ行った?
あの坊主や遠坂の嬢ちゃんを味方に付けたのは、確かにデカかった。
だが第五次の勝者は、実質おめぇだろうがよ?」
「……………」
「あの葛木とかいうお前の旦那? の為だったんだろうがよ?
あん時のおめぇにゃ正直、勝てる気がしなかった。
たかがキャスターと侮ってた俺が、お前相手にゃ尻尾巻くしか無かった」
苦い思い出を脳裏に浮かべながら、ランサーが言葉を続けていく。
「あん時のおめぇは死に物狂いで、そりゃ手段を選ばねぇマネもした。
だが一人も民間人を殺さなかったし、最後まで意地を張り通した」
「聖杯を解析し、仲間の願いもまとめて叶えるなんて離れ業……、
キャスターにしか、いや他の誰にも出来やしねぇよ。
そこだきゃあ心底、おめぇを認めてる。
その生前はどうあれ、お前は確かに“英雄“だった」
まぁ無理強いはしねぇ、気が変わったら早めに連絡しろや。ランサーはそう言って先に部屋を出ていく。
だがあの頃の戦士の貌で、最後に言い放つ。
「受肉しようが俺達は英雄で、その本質は変わらねぇ。
時に一般人、時に英雄なんて、ラジオのスイッチみてぇに
切り替える事は出来ねぇんだ。
俺達は“成す“者で、今やるべき時がやって来た。
そいつに挑み、立ち向かう事が無くなりゃ、俺達は死んだも同然だ」
「言っちゃ悪ぃが、魔術師風情が今ボクサーなんぞをやってるんだ。
あの頃とは違い、主の為でもねぇのに戦ってる。
おめぇにも、何か思う所があるんじゃねぇのか?」
……………………
………………………………………………
メディアは、暗闇を見ている。
地下鉄に乗り、ただ窓の外を見つめ続けている。
流れていく、光と闇。
そして、ガラスに映る自分自身の姿を。
……今日言われた事を、何度もなんども頭の中で反芻する。
ジムのチラシを見かけたのは、ただの偶然。
始めたきっかけは、ただの憧憬だった。
しかし……。
――――おめぇにも、何か思う所があるんじゃねぇのか?
自分が今も、ボクシングを続けている理由。
それをずっと、メディアは考え続けている――――
……………………
………………………………………………
「あのバゼットとやるんだってなメディアさん!
スゲェよ! 俺ぜったい応援に行くから!」
「私達も行きますよメディアさん!
みんなで横断幕とか作りますから!」
……ジムの仲間達に囲まれ、メディアはポカンと目を丸くする。
昨日までの状況がウソだったかのように、現在メディアは皆に囲まれ、質問攻めにあっていた。
「私バゼットの試合のDVD持ってますから、明日持ってきますね!
それ見て研究すると良いですよ! ぜひお役に立ててください!」
「というかバゼットと知り合いだったなんて知らなかったスよ俺!
サインとか貰えないスか? 一度頼んでみて下さいよ!」
やいのやいのと盛り上がる仲間達を前に、メディアはたら~っと汗を流す。
なんなのだこの状況は。……いや、応援して貰えるのは有難いのだけれど。
「…………フンッ!」
遠くの方で、あの木下という女性が鼻を鳴らしたのが聞こえた。それから彼女はこちらを見る事もなく、黙々とサンドバックと向かい合っている。
しかしそれを気にする余裕もなく、延々と質問攻めに合うメディアだった。
………………………………………………
「…………辞退……ですか?」
「そうだ。ウチの木下ならともかく、お前程度じゃ役者が不足してる。
勝手にOKなんぞ出しやがって……。
土下座でもなんでもして、すぐに取り下げて来い」
練習中、突然部屋に呼ばれたかと思えば、唐突にそう告げられた。
話は終わりだとばかりに、顎で出口の方を指すトレーナーの男。しかしメディアはその場から動かない。決して動く事は出来ない。
「――――待って下さい。これは私が自分で決めた事です。
役者不足は百も承知。それでも私は、やってみたいんです」
「…………なにぃ?」
イラつきを感じさせる声色。トレーナーはゆっくりとメディアに向かい直る。
「俺の言う事が、聞けないのか?
うだつの上がらない三流が、随分と偉そうな口を叩くんだな?」
「気に障ったのなら謝ります。でもどうか、どうかお願いします」
静かに頭を下げるメディア。今はただ、誠意をもって頼む事しか出来ない。
「……言ってやろうか、葛木?
目障りなんだよお前。どんくさいお前を見て、いつもイライラしてたよ」
頭上から、自分を罵る声が聞こえる。それでも頭を下げ続ける事しか出来ない。
「せっかく目をかけてやろうとしたのに、お高くとまったお前は
身体に触らせもしなかった。
人に教えをこうヤツの態度じゃないだろう、葛木。
どれだけ無視してやろうが、お前は少しも媚びて来なかった」
醜悪――――
その声色だけで、男が今どんな表情をしているのか分かった。
「お前がのされて来るのは勝手だが、ジムの恥だ。迷惑なんだよ。
たとえこの一年半、ろくに指導なんかされていなくともな」
「そんなにやりたきゃ、一人でやってこい。
…………破門だ。二度とそのツラを見せるな」
そう言い残し、男が部屋から立ち去っていく。
長い時間、メディアはその場から動けずにいた――――
………………………………………………
「辞めるのね? あーほんと、せいせいするわ」
その後、ロッカーの整理をしていたメディアに、木下選手が声を掛けてきた。
「向いてなかったんじゃない? このジム。
まぁ元気出せば? これからどうするのかは知らないけど」
それに言葉を返す事無く、ただ黙々と手を動かしていく。そんなメディアの様子を気にする事もなく、木下が言葉を続けていく。
「“噛ませ犬“……意味は分かるよね? アンタの事よ葛木さん」
「今までアンタが戦った相手は、みんな売り出し中の格上。
ようは潰れてしまえって事よ。よほど憎まれてたのねぇアイツに」
クスクスと木下が笑う。だがそれは決して愉快そうな物では無く、どこかひとりで呟いているような声色だった。
「それでもアンタが“逆に噛み殺す“もんだから、
最後はムキになってランカーとやらされてた。
まぁよくやったモンだわ実際。ろくに指導も受けずにさ?
……それで結局、一度も負けなかったっていうんだから……」
最後の荷物をバッグに入れ、メディアはロッカーの戸を締める。
その音を聴くと同時に、木下が踵を返し、メディアに背中を向けた。
「またリングで会う事があれば、今度こそ証明したげる。
……私の方が……アンタより上だって事をね」
…………………
………………………………………………
いつもとは違い、まだ日の高い時間帯の帰り道。
通常であれば今頃はジムで汗を流し、そしてロードワークへと出かける頃だったろう。しかし、もうメディアがここに通う事は無い。練習で痛めた身体に鞭打ち、脚を引きずってこの道を歩く事も無い。
――――喪失感はある。今はどこか、空虚な気持ちでいる。
しかし、自分でも不思議なほどに、感情が波打つ事は無かった。
自分がこれからすべき事、準備すべき事を考えながら歩く。
別段今日の出来事にショックを受けていない事を、メディアは自覚していた。
特に反骨心のある方じゃない。「なにくそ」「負けるか」などと、そんな暑苦しいのとは無縁の人生を生きてきた自負がある。
ただ、これからの事をどうするか。
そんな事を理性的に考えている、自分がいる。
……こういう時、ドラマや映画に出てくるような乙女であれば泣き叫んだり、悲しみにくれたりするのだろう。だがつくづく自分は、そういった物とは程遠いのだと感じる。
愛らしく打ちのめされて見せなければ、物語も進まないし、王子様だって助けに来ないでしょうに。
けれど、経験則として。たとえ泣こうが縋ろうが、自分の元にそんな物が来てくれた事など、一度もなかったから――――
「あらジョン。お元気?」
そしていつものように、メディアはご近所さんの家までたどり着く。
普段よりずいぶんと早い時間ではあったが、そんな事は構わずにジョンは尻尾を振って喜んでくれる。メディアもそれに答え、ワシャワシャと背中を撫でてやる。
「今度一緒にロードワークに行きましょうか?
高田の奥さまにお願いして、お前と散歩させて貰えるよう頼んでみるわ」
それを知ってか知らずか、ジョンは更に尻尾をブンブン振って、喜びを表している。
「楽しみにしててねジョン。
お前は殿方なのだから、ちゃんとエスコートするのよ?」
……………………
………………………………………………
「メディアさん!? 聞きましたよ!
今度世界王者と対戦なさるのだとか!」
「……あっ」
自宅に戻り、玄関を開けた途端、そこには一成の姿があった。
「あぁ……何と言う事か。こういう時に衛宮が居てくれさえすれば、
栄養ある食事や、格闘技の事で知恵を貸してくれるというに!」
「……あの、えっと……一成くん?」
頭を抱え、オーマイゴッドとばかりに天を仰ぐ一成。彼は仏教徒ではあるが。
「この事は、宗一郎兄さんにはお話をしたのですか?」
「いえ……。これから話そうと思っているけれど……」
「……そうですか。いや自分は門外漢ではありますが、
今回の事が、メディアさんにとって
とても大きな挑戦だと言うのは分かるつもりです。
家事は確かに大切ですが、しばらくはボクシングの方に集中なさると
良いでしょう。自分も協力しますし、寺の者達にも頼んでおきますので」
おぉ衛宮、何故行った。やはりお前が居ないと……。
そう呟きながら、ヨロヨロと一成くんが去っていく。
「…………えっと、ただいま……一成くん……」
その背中に向けて、メディアも呟いた。
………………………………………………
「今日、あのジムを退会してきました。
先ほどランサーへ連絡を入れ、『今度の試合には問題無い』
との返答を頂きました。何かあれば、協力をするとも」
メディアは今、宗一郎に報告を行っている。
彼の自室にて向かい合って座り、お互い真剣な表情で相手を見据える。
「新たなジムを探す事も考えましたが、次の試合までは時間もなく、
今は極力煩わしい想いをしたくはありません。
ですのでジム探しは試合の後にし、
今は自分なりにやってみようと思います」
此度の試合の事、そして今日の出来事を簡潔に伝えるメディア。
それに対して宗一郎は、ただ一言「そうか」とだけ。いつものように、言葉少なく返答する。
「知っての通り、バゼット・フラガ・マクレミッツは強敵だ。
だがお前の思う通りに、やってみると良い」
そう伝え、宗一郎は強く頷いてくれた。
「……あっ、あの。
宗一郎は……私を応援して、くれますか……?」
思わず、メディアの口をついて出た言葉。言うつもりなど、更々無かった言葉。
しかし、弱さが溢れ出てしまった。彼の親愛を称えた瞳に照らされ、気持ちが外へと溢れてしまった。
それに対し、至極当然といったように答える、宗一郎。
「――――無論だ。お前の力を、私は信じている」
…………自分で求めておいて、なんだけれど。
いったいこの人は……、どこまで私に幸せをくれたら、気が済むのだろう。
どれだけ幸せにしてくれたら、気が済むのだろう。
その言葉だけで、戦える。
いつだって、誰とだって、戦える――――
今も、昔も。その言葉だけで。
ランサーはああ言ったが、自分のしている事に、今も大差はないのかもしれない。
“自分磨き“、みたいな言葉が現代にはあるが……。
もし自分が頑張る事で、少しでも彼に見合う女となれると言うのなら……。そういうのも今は、悪くない気がしている。
随分と、意識の高い系の話だけれど……。
自分のボクシングにそんな高尚な理由など、ありはしないのだけれど……。
でもそんな風にあれたなら……、それもきっと嬉しい事だと、メディアは思うのだ。
おもわずガバッと抱き着いてしまい、その後はジェットコースターのように、流れに身を任せてしまった。
でも試合が近づいてきたら、こういう事も控えなくちゃいけなくなるのだし……。だから今日くらいは良いんじゃないかな~とか、メディアは言い訳した。
……………………
………………………………………………
まだ辺りが薄暗い、日の出の時間。メディアはいつもの練習着に身を包み、入念にストレッチを行う。
朝の空気はとても澄んでいて、胸いっぱいに吸い込めば澄み渡る心地がする。
そして準備運動を終えたメディアが、誰も居ない寺の山門から駆け出していく。
日課である、朝のロードワーク。次第に身体が目覚めていく感覚を、メディアは感じていた。
山門を下り、橋を渡り、住宅地を抜けて、冬木の商店街へ。
未だ大半の店はシャッターが閉まっているが、お魚屋さんなど一部の店は既に準備にかかっている様が見て取れる。
そしてメディアのお目当ては、いつものパン屋さんだ。朝にあのパン屋さんの傍を通りかかれば、とても良い香りがするのだ。非常に楽しみな事だ。
空、景色、草花、パンの香り。そんな小さな幸せを集めて走る事が、メディアは好きだった。
「……待ってたよ。
悪いんだけどさ……、ちょっと顔貸してもらえるかな?」
そろそろパンの香りがしてきたかという頃……。いつもの店の前で、間桐慎二がメディアを待っていた。
………………………………………………
「 アンタ何考えてんだよ! バゼットだぞ!?
この前僕らの家で、凄いよなって話してたトコじゃないか!! 」
朝の公園。誰も居ないブランコや滑り台に囲まれた中で、慎二がメディアを問い詰める。
「それが何でアイツと勝負する事になるんだよ!
勝てるワケない!! 世界王者だぞ!?
アンタもボクサーなら、それくらいわかるだろ!!」
慎二の怒声が辺りに響く。いつも桜にするようなの声ではなく、どこか怒りと共に狼狽えのような感情が混じっている。
「……耳が早いのね坊や。
宗一郎にだって、昨日言ったばかりなのに」
「そんなのもう、街中に知れ渡ってるんだよ!
僕だけじゃない……、桜だってアンタを心配してる!!
怪我でもするんじゃないかって、ずっとオロオロしてる!!」
それに対し、落ち着いた声で返答をするメディア。
この少年はシニカルなようで、意外とウェットな所もあるのだなと、そんな事を考えていた。
「ボクサーなんだ……そりゃ怪我したりするのは、仕方ないよ。
でも何の為に怪我するんだよ! 勝てもしない相手じゃないか!!
あんなヤツと戦おうなんて、どうかしてる!!」
真面目に話を聞いてはいるものの……、さっき“どうかしてる“という言葉にすごく既視感を感じたのは何でだろう?
私の知り合いにそんな口癖の人物いたかしら? メディアは頭の片隅で考える。
「なぁ、馬鹿らしいよ……。誰かにやらされてたりするのか?
もしそうなら、どうでもいいじゃないかそんなの。辞めちゃえよ……」
「………………」
「言っとくけど……、恥かいて終わりだぞ。
痛い思いして、みんなに笑われて……それで終わりなんだよ。
TV中継も、大きな舞台も、かく恥が増えるってだけさ。
芸能人じゃないんだ。名声なんてそんなの……、欲しくないだろ?」
慎二の声が、だんだんと萎んでいく。それはまるでメディアではなく、自分自身が皆に笑われているかのように。
アンタが馬鹿にされるのが嫌で堪らない……、それが痛い程に伝わってくる。
「他人が何を考えているかを気にするのは、とっくの昔にやめたわ。
自分で、物事を考える」
だが、メディアがそれに頷く事は無い。
もう決めたから。後はそれに向かい、走るだけだから。
「そんな事言ったって……アンタの事だけじゃないだろ……?
桜だって悲しむ……、アンタに何かあれば、アンタを大好きな桜だって!!」
「………………」
「そりゃアンタは英霊で、第五次だって今までだって、
ずっと勝ってきたのかもしれない。知らないのかもしれないよ。
……でも、惨めだぞ。負けるのは。
お前なんか要らないって……、世界中から言われてる気がするんだ。
無価値だって、必要ないんだって……全部ぜんぶ! 否定されるんだ!!」
慎二の瞳から、涙が零れていく。
頑張って、必死に努力して、でも土俵にすら立てなくて。
それでも必死にあがいて、無様を晒し、迷惑をかけ、ついには叩きのめされて。
そんな彼の想いが、伝わってくる。
「…………やめろよ、試合なんて。
ピエロだ……。ピエロになるだけだよ……」
男の子が、ポロポロと涙を流している。
人前でそんな事、きっとしたくないだろうに。それでも自分の事を想い、必死に語り掛けてくれている。
メディアはその気持ちを、ひしひしと感じている。
……少しだけ俯いた後、メディアは顔を上げる。
そして真っすぐに、慎二の顔を見据えた。
「……桜さん、本当に良く笑うようになった。貴方のお陰ね」
「…………えっ」
「最初会った頃は、消し飛ばしてやろうかと思ってたのに……。
良いお兄さんになったじゃないの、慎二くん」
「…………あ………」
柔らかな微笑みが、慎二を照らしている。
何も言う事も出来ず、ただ黙ってその笑顔を見ていた。
「劣等感にさいなまれれば、人にあたり散らしていた。
困難にぶつかれば、それを誰かのせいに、生まれのせいにしていた。
……でも貴方にも、もう分かっているでしょう?
世の中はいつもバラ色じゃない、それなりに厳しく辛いことが待っている」
やがてメディアの表情から、微笑みは消える。
その瞳は真剣さ、そして厳しさを称える。
「魔術の才が無かったから、何? 一度無様に負けてしまったから、何?
貴方はこれまでも必死に努力し、そして抗ってきたわ」
「 自分の価値を信じるなら、迷わず前に進みなさい! 決してパンチを恐れず! 」
「 他人から目を伏せ、脚をすくませて過去に閉じこもるな!
それは臆病者のやる事よ! 貴方は違うッ!!
桜さんの大事なお兄さん! この私の友人よッ!! 」
しばらくの間、言葉もなく見合っていた二人――――
やがてメディアが、その顔に微笑みを取り戻す。そして慎二の傍を通り過ぎ、再び走り出して行く。
「あ、そういえば、いつか言おうと思っていたのだけれど……」
立ち尽くしたままだった慎二が、赤くなった瞳を、メディアの方へと向ける。
「“アンタ“じゃない、メディアよ。 葛木さん家の若奥様、メディアさん♪
これからは貴方も、そう呼んでちょうだいな♪ 慎二くん」
……………………
………………………………………………
「帰ったか、メディア」
ヒーヒーゼィゼィと息を切らせながら山門をくぐると、そこには麗しの夫、葛木宗一郎の姿があった。
「……えっ。あの、宗一郎?」
「すまない、お前が走りに行く事を知っていれば、
私も付き合ったのだが」
そんな事を言いつつ、ウムムと唸る宗一郎。
無表情なのはいつもと変わらないが、その顔はどことなく残念そうに見える。
「い、いえいえ! 貴方は今日もお仕事があるのです!
時間まで、しっかりとお眠り下さいませんと!」
「? 何を言っている。昨日伝えていただろう」
はてな? と、決して可愛らしい物ではないのだけど、宗一郎がわずかに首を傾げる。
そんなレアリティの高い姿を見て、ただただ目を丸くするメディア。
「――――“お前を応援する“と、そう伝えたハズだ。
至らぬ所も多いだろうが、今日からは私がお前を支える。
私が知りうる技術も、全て伝えよう」
――――ドクンッと、鼓動が波打った。
気が付けばメディアは駆け出して、そのまま宗一郎に飛び着いていた。
もう自分が何を言っているのかも分からない。目からは涙が零れ、嗚咽と共に、溢れ出す歓喜が止められない。
「宗一郎っ……、宗一郎っ……! 宗一郎ぉぉーーっっ!!!!」
遊園地のコーヒーカップみたいに、二人の身体がクルクルと回る。
それは尻尾を振っているジョンみたいに、おとぎ話のお姫様みたいに。
私は喜びを表現する。全身で幸せだと伝える――――
幸福。幸福の絶頂だ。
こんな果報者が、他のどこにいるものかっ。
やがて二人が肩を寄せ合い、共に並んで歩き出していく。
今日からの日々に備えるべく、メディアは張り切って朝食のメニューを考える。
気が付けば、身体が全能感に満ち満ちていた。
私の歯車がガチャリとはまり、一気に動き出していくのを感じる――――
……………………
………………………………………………
「よぉメディアさーん! 頑張れよぉーー!!」
「「葛木さーーん!! 素敵ぃーー!!」」
商店街を、駆け抜ける。
八百屋さん、花屋さん、クレープ屋さんが声援をくれる!
「ありがとぉーっ!!」
それに手を振り、私は走る!
投げて貰ったリンゴをキャッチし、とびっきりの笑顔を返す!
「ほらっ! 上げろ上げろ上げろ上げろぉーー!!」
「メディアさぁーーん!」
「ふぅんぎぃぃぃ~~~~っっ!!」
桜さんを背中に乗せて、渾身の力で腕立て伏せをする!
傍ではメガホンを持った慎二くんが、私を応援してくれる!!
「ワンツー! ワンツー!! そこでダック!!」
「シッ! シッシッ!!!!」
一成くんの構えるミット目掛け、ひたすら私は拳を打ち込む!
振るわれた腕をしゃがんで躱し、即座に強烈なフックを打ち込む!!
「はい、いーち!(ドスゥ!)
にぃーい!(ドスッ!)
さぁーん!(ドスゥゥ!!)」
「ん゛っ! ん゛ん゛っ! ん゛~~~~ッッ!!」
ライダーが、私の腹筋にパンチを打ち込む!
嬉しそうな顔しやがって! 楽しそうな顔しやがって!!
でもこれも、腹筋を鍛える為なのよっ!!
「ほら避けろ! 避けろと言っているのだこの戯け! 避けろっ!」
「ひぃっ! ちょ……! あっ、貴方ぁーーッ!!」
アーチャーが、投影したテニスボールを次々と投げてくる!
パンチを躱す訓練だけれど、貴方たまに刃物投げてきてるじゃないの!!
「どうした女狐? もうへばったか?
どうだ、こちらに来て茶でも飲まぬか?」
「お黙りなさい、このでくのぼう! どっか行きなさいな!!」
丸めた布団を、サンドバッグ代わりに殴る!
傍で寝っ転がっているアサシン小次郎が、私を盛大に煽ってくれる!
おぼえてなさいよ後で!!
「引くのよキャスター! 馬車馬のように! 貴方は今お馬さんなのよ!」
「ひぃぃ~~~んっ! ん゛いぃぃぃ~~~~っっ!!」
ソリに乗ったバーサーカーを、馬車馬のように引かされる!
足腰を鍛える、鍛えるの! でもピクリとも動かないのだけれどこの野蛮人は!!
「いってらっしゃいメディアさん~。ジョンも頑張ってくるのよ~」
「いってきます高田の奥さま! ちょっとお借りしますねー!!」
そしてジョンと共に、河川敷をランニングする!
通りすがる奥様方にも、笑顔で挨拶を!!
「――――鞭だ、しなやかに打つ鞭のイメージだ。
腕の力を抜き、当てる瞬間に力を収縮させろ」
「はいっ、宗一郎!!」
そして宗一郎の指導の元、この左腕にフリッカーの動作を叩きこむ!
何百、何千と素振りを繰り返し、憧れだったスタイルで力いっぱい動く!!
フリッカー、フリッカージャブ。
……いや、私の拳は“蛇“だ! 相手に喰らいつき、決して離さない毒蛇だ!!!!
「はっ……! はっ……! はっ……!」
お寺までの階段を、全力で駆け上がる!
いつも登れば息切れしていたそれを、今はダッシュで駆けあがっている!!
「はっ……! はっ……!! はっ……!!!」
身体が軽い、羽のように軽い!
飛ぶように跳ねて、私が前へと進んでいく!!
「はっ……! はっ……!! ――――――ッッッ!!!!」
ラストスパートとばかりに、一気に階段を駆け上がる!!
眩しい方へ、光の差す方向へ! 私は一気に、ゴールへとたどり着いた!!!!
『 バゼットォォーーーーーーーーッッ!!
バァァゼッットォォオオオーーーーーーーーッッッ!!!! 』
太陽に向けて、私は両手を振り上げる――――
そして天を仰ぎ、腹の底から、思いっきり雄たけびを上げる!!!!
『 バァァァゼッッットォォォォオオオオオオオオーーーーーーッッッ!!!!! 』
愛しい敵を。
最高の相手の名前を。
私は叫ぶ――――
私がここにいる事を、彼女に示すように――――
……………………
………………………………………………
「は~い彼女っ! お茶でもしないかしら?」
桜が今日の勤務を終えてパン屋さんから出てみれば、そこにメディアの姿があった。
「お仕事ごくろうさま。
せっかく会えたんだし、私とデートでもしませんこと?
お姉さんがご馳走してあげるわよ♪」
「メディアさん……ありがとうございますっ」
二人並んで大通りを歩いていく。街はクリスマスムード一色、イルミネーションがとても綺麗だ。
「練習帰りですか? 今日はイブなのに」
「ふふ、みんなにとってはクリスマスイブ。私にとってはただの木曜日よ♪
ただ、少しはこうして息抜きもしないと」
そう言って、喫茶店の扉をくぐる。
あーだこーだ言いながら、二人で一緒に、少し早めのケーキを選んだ。
「この前のTV、観ました。
メディアさん、すごくかっこ良かったですっ」
「そう? まぁ元々は反英雄とか言われてた私よ。
あの位は……まぁね?」
そう、先日メディアは、1月1日に冬木で行われる試合の記者会見に出席していた。
まるで世界戦かのような沢山の記者達に囲まれて、バゼットと共に意気込みを語ったりインタビューを受けたりして来たのだ。
『この地で試合をする事が出来、大変嬉しく思います。
冬木の皆さんに、私達のファイトを楽しんで貰えればと』
そんな風に笑顔で質問に答えたバゼット。それに対して、メディアの返答はこうだ。
『何だかやる気が無いみたいだし、今回の試合、私が勝ってしまうかも。
もしそうなったらごめんなさいね?
王者のファンの皆様に、今から申し訳ない気分だわ』
青筋を立てるバゼット、涼しい顔のメディア、爆笑するランサー。それに加えて無表情の宗一郎と、4者4様の何とも言えない絵だったように思う。
「チョロチョロ動かれるよりも、怒って打ち合いをしくれた方が
有難いかな~とか思ったのだけれど……。はしたなかったかしら?」
「あはは……」
口元に指を添え、う~んと考えるメディア。桜は苦笑いを返すしかない。
「すごいと思う……メディアさんは。私だったら、きっと震えてます。
世界チャンピオンどころか、誰かと戦う事だって……」
「そんな大層な事でもないわ。好きでやってる事だもの。
それに私、別に怖くないなんて、言ってないけれど?」
「……えっ」
茶目っ気のある微笑みで、メディアが桜を見つめる。
「怖いなんて、恥ずかしがる事じゃないわ。
恐怖は、ボクサーの親友よ。それが感覚を研ぎ澄ましてくれる」
「どうやってコントロールするかがコツなのよ。
……恐怖は胸の奥で、絶えず燃えている。
その炎に焼きつくされず、うまく使ったものが勝つのよ。きっと」
オレンジジュースをズズズっと飲みながら、なんでもない事のようにメディアは言う。その姿を見て、桜は少しだけ俯く。
「やっぱり……すごい。メディアさんは凄いです。
わたし、いつも『メディアさんみたいになれたら』って。
幸せそうなメディアさんも、かっこ良いメディアさんも、
全部ぜんぶ、わたし憧れてて……」
「ん? 私はむしろ、桜さんに憧れてたりするわよ?」
だって優しくて、愛らしくて、家庭的で……。
女の子らしい魅力を沢山持ってるわ、桜ちゃんは」
「…………」
「私は思った事はズケズケ言うし、可愛げなんてないし、
家庭的とは……残念ながら言えないわ……。
桜さんみたいになれたらって、よく思ったりするもの」
自分の良い所は、自分では見えないように出来ているらしい。
だからこの少女は、いつもどこか自信なさげ。そこも愛らしかったりするのだけれどと、メディアは思う。
「私は意志が強く、行動力はある。けれど誰かを癒せるような力は無い。
貴方は少し怖がりで、シャイな所がある……。
けれど人の痛みが誰よりも分かる、優しい心を持ってるわ」
……なんだか片割れみたいね、私達。
結婚出来たら良かったのになんて、メディアは苦笑した。お互い想い人は居たりするけれど。
「お料理を教えて貰ったり、こうして私に幸せをくれたり……。
お世話になってばかりだな~って、正直思ったりするのよ」
目をまん丸に開き、ぱちくりとしている桜。そんなこの少女の事を、メディアはとても愛おしく想う。
「だから貴方が望むなら、私が貴方の力になる。
…………知ってる? おとぎ話にあるように、
“魔女“というのは、頑張ってる女の子の味方なのよ?
その手を引いて、どこへでも連れ出してあげるわ。私のシンデレラさん?」
………………………………………………
雑貨屋を覗いたり、綺麗な服を見たり、少し勇気を出してゲームセンターに行ったり。
手を繋ぎ、沢山遊んだ。たくさん二人で笑い合った。
途中プリント機で写真を撮ったりしたけれど、まごう事無き乙女と人妻な自分が一緒に撮る事には、さすがに少し躊躇した。
だが心から楽しそうな桜の表情に、えーい行ったれと勇気を出して入った。女は度胸なのである。
少し辺りが暗くなってしまった帰り道も、仲良く手を繋いで歩いた。
慎二に心配されぬよう、メディアは間桐の家まで送りとどけていく。その道中も、二人でたくさんの話をした。
花が咲くような、桜の笑顔を、メディアはその目に焼き付ける。
「試合、来てね。久しぶりに頑張っちゃうから」
「はい……、メディアさん」
別れ際、桜と抱擁を交わす。
万感の想いを込めて、ギュッとお互いを抱きしめた。
……………………
………………………………………………
「さてさて、ついに明日になっちゃったワケだけど……。
どうしたモノかしらね、ジョン? どう思う?」
試合を翌日に控え、今日は完全な休息日。
ただ何気なしに外を出歩き、そしてせっかくだからと、ジョンと散歩に来てしまった。
「お前も手伝ってくれてありがとうね、ジョン。
本当は特等席で観て貰いたいのだけれど……。許して頂戴ね?
お前には私が、後で直接解説してあげるわ」
尻尾をブンブンと振り、機嫌よさげなジョン。その顔は明らかに、笑っているように見える。
「あら? 馬鹿な事したって、私を笑ってるの?
世界王者と戦うなんて、無謀な事をって?
……確かに私もそう思うわ……。今だってそうなのよ、実際」
「……ただね? こればっかりは、もうね……。
仕方ないかな~って、そう思ってる」
ジョンの頭を撫でてやりながら、メディアはここではない、どこか遠くを見つめる。
「――――自分自身に、借りがあるの」
「以前の私は、屑のような女だったわ。
桜ちゃんとは違う……。ただこの身を嘆き、世を呪っているだけの女」
浮かんでくるのは、過去の自分。誰かと笑っていた記憶など、ひとつもありはしない。
「負けるわ。私は勝てない……。あの世界王者には」
「でも負けたっていい。頭をかち割られたっていい。
最後までやるだけよ」
拳を握り、それをじっと見つめる。
今まで数えきれない程、何度も何度も握ってきた拳を――――
「試合に負けようと、そんなのは大したことじゃない。
…………判定に持ち込みたいの。
今までバゼットと戦って、判定まで持ち込んだ者は一人もいない」
「だから私が判定までいって、試合終了のベルが鳴った時、
私がまだ、リングに立っていられたら……。
私がただの哀れな女じゃないって、証明できるの――――」
…………
……………………
………………………………………………
拳をテーピングで固め、その感触を確かめる。
手のひらに拳を打ち付けるパシッという音が、控室に響く。
顔にワセリンを塗り、点鼻薬を差す。医師から軽い診断を受けた後には、腕などにマッサージをしてもらった。
「ん~……。 私このガウン、ちゃんと似合ってるかしら?」
「カッコ良いですよ。衛宮が向こうで仕立てて送ってくれた物ですから。
バッチリ決まってますとも」
鏡の前でポーズをとっているメディアに向かい、一成がウンウンと頷く。さすがは衛宮の仕事だと、彼もどことなく誇らし気だ。
今この場にはメディアを始めとして、本日セコンドを務める宗一郎と慎二、そして一成と桜がいる。
今日この日に至るまで、彼らは独自にボクシングやセコンドの事を勉強し、メディアを支え続けてくれた。
そして桜もこの会場に駆けつけてくれた。ボクシングの試合はとても刺激的だし、メディアが殴られる所を見るのは耐えられないとは言ってはいたものの、この控室で帰りを待っているという。
桜がここで自分を想っていてくれる。それだけでメディアの身体に力が湧いてくる。
「時間だ。行くぞ、メディア」
「はい、宗一郎」
静かに決意を固め、椅子から立ち上がる。そして慎二と宗一郎を伴い出入り口の方へと歩いて行く。
「行ってくるわ桜さん。幸運を祈っててね」
「はい、メディアさん。……幸運を」
最後に後ろを振り返り、メディアが桜に笑顔を見せた。
「……やっぱファンデくらい塗った方が良いかしら? TVに映るのだし」
「ふふっ。……幸運を、メディアさん」
いつもパン屋さんに来てくれる時みたいな、そんな普段通りの姿を見せて、メディアは出かけて行った。
………………………………………………
『皆さんこんばんは。本日はここ“冬木ギルガメッシュアリーナ“より、
王者バゼット・フラガ対、葛木メディアの一戦をお送りします。
解説の言峰綺礼さん、本日はよろしくお願いします』
『よろしくお願いします』
実況席の二人から王者バゼット、そしてメディアの戦績などの情報が語られていく。
やがて満員のギルガメッシュアリーナの会場にアナウンスが流れ、Fate/stay nightのOPに乗って、入場口からメディアの姿が現れる。
観客席では冬木商店街の皆さん、顔見知りの奥様方が声援を上げ、そこにはメディアが所属していたジムの仲間達が横断幕を掲げている姿もあった。
それに対し、メディアが笑顔で拳を掲げて答える。
その後、会場にFate/hollow ataraxiaのテーマ曲が鳴り響き、入場口から王者バゼットの姿が現れる。
以前は冬木でバイトだのティッシュ配りだのをしていた経験がある彼女。その人気はメディアに引けを取らず、大声援を持って観客に迎えられた。
『言峰さん、今日のバゼットの表情が、なにやらいつもより
険しいような感じがするんですが、どう思われますか?』
『そうですね、先日の記者会見での事が、
尾を引いているのかもしれません。
世界戦に勝るとも劣らない気迫を感じます』
リング上、手を振って声援に答えてはいるものの、人を殺せそうな目つきのバゼット。綺礼もニッコリだ。
「えらく豪華なガウンね。彼女あんな派手好きだったかしら?」
「いつもスーツ姿の印象しか無いもんな。
なんか優等生がはっちゃけてるのを見てるみたいで、いたたまれないよ」
そんな事をのほほんと話すメディアと慎二。
そしてバゼットがこちらに拳を向け「魔女狩りだ! 3ラウンド! 3Rで決着だ!」と喚き散らす。恥ずかしいから止めろとランサーに手を引かれ、ズルズルコーナーに下げられいくが、その間もずっとギャーギャー喚いていた。
「確か“精密機械“とか“クレバー“だとか
言われていたように思うのだけれど……彼女」
「食生活も適当だし、カルシウム足りてないんじゃない?」
引き続き、のほほんと話をするメディア陣。食事はなにより大切だという意見には、宗一郎も大いに賛同してくれた。近年メディアの作るご飯は、とても美味しいのだ。
自陣のコーナーに引き上げてからも、バゼットは観客へのアピールに余念がない。なにやら倒すだの殺すだのといった言葉が聞こえてくるが、その姿も彼女がやると、どこか微笑ましい物でしか無い。観客もメディアも、それを生暖かく見守る。
「ほら! 手を出しなさい! 手を!」
「?」
リングの中央、レフリーにルールの確認を受けた後、バゼットがメディアにそう要求する。
「――――フンッ!!」バチーン!
「…………」
そして勢いよくその手にグローブを振り下ろしてから、フンスフンスと自陣へと引き上げて行った。その姿にランサーも頭を抱えている。
「……バゼット、分かってんな?
とりあえず1ラウンド目は様子見だ。軽く左でも打って流してけ」
「分かってますそんな事は! せいぜい遊んでやりますよっ!」
「メディア、お前の思う通りにやると良い。ここで見ている」
「ありがとうございます宗一郎。行って参ります」
『――――ラウーンド、ワーン! ……ファイトッ!!』
メディアとバゼット、両者が一気に中央へと駆け出す。
今、二人の試合開始のゴングが、打ち鳴らされた。
………………………………………………
『さて言峰さん、言峰さんからご覧になって、
両者の立ち上がりはどうですか?』
『そうですね、王者は左を上手く使い、常に円を描いて
葛木選手の左に回っています。
激昂していたかに見えましたが、今は脚を軽く使っての
冷静な立ち上がりだと思います』
『対してメディア選手は、打たれながらもジリジリと前に
進むという、愚直さを感じますね。
時折手を出してはいますが、それを王者は軽く捌いています』
開始直後から、面白いように王者の左が刺さる。蝶のように軽快にステップを踏み、リングに円を描いてジャブを放っていく。
その度にメディアの頭が音を立てて跳ね上がるが、メディアは足を止めずにジリジリと距離を詰めていく。しかし時折放つ反撃の拳は、全てバゼットに軽く躱されてしまう。
即座に左を返され、そのままジャブの固め打ち。お手本のようなアウトボックスでメディアを翻弄していく。
舞うようなステップのバゼットに対して、前傾姿勢のベタ脚で低く構えるメディア。
同じデトロイトスタイルの構えではあるが、その姿は対照的だ。鳥と牛ほどに動きに差が見られた。
腕を上げてガードを固める事なく、成すすべもないまま次々とジャブを刻まれていく。それでもメディアが相手から目を逸らす事は無い。その眼光は常にバゼットへと向けられていた。
こんな物かと、バゼットが薄く笑う。
大口を叩いておいてその程度かと、薄く笑みを浮かべる。
普段のクレバーな彼女であれば、それはあり得ない行動。しかし先の会見での出来事、そしてメディアという良く知った相手であった事が、彼女にそうさせた。
軽く流すように外から左を刻んでいたバゼットは、警戒する必要は無いとして、右の拳を繰り出し始める。
瞬時に間合いを詰め、大砲を一撃。その後即座に間合いの外へと退避し、再び左を刻んでいく。
面白いように直撃していくその繰り返しに、早くも客席に不安の色が浮かぶ。
一方的。あまりにも一方的な試合だ。
バゼット強し、ではなく。これは猫がネズミを嬲っている、そんな光景に見えた。
ほら、どうした? かかって来なさい。
そんな想いが透けて見えるかのようなバゼットの軽く放った拳が、次々にメディアの頭部を捉える。
どうした? どうしたのです? そんな物ですか?
打撃音が響く度、メディアの顔が跳ね上がる度、バゼットの口元が愉悦に歪んでいく。
ほら! どうしたの! しっかりしなさい!
左、左、右、左。メディアが大きくぐらつき、その顔に苦悶の表情が浮かぶ。
ほらっ!!!!
おもわず放ってしまった、渾身の右。愉悦と共に打ってしまった、当たれば終わってしまう破壊力を乗せた拳。
それをかいくぐり、メディアの拳が直撃した――――――
………………………………………………
「 うおぉぉおおおっ!!!! おおおおおっっっ!!!! 」
リングサイドで、慎二が思わず雄たけびを上げる。
「おおっ!! おぉーーっっ!!」
「……っし!!!!」
「やったぁーーー!! メディアぁーーーっ!!!」
テレビを見ていたライダー、アーチャー、そしてイリヤが歓声を上げる。皆そろってガッツポーズする。
今画面には、マットに倒れ伏す王者の姿があった。
『 ワーン! ……トゥー! ……スリー!! 』
ヨロヨロと起き上がり、何が起こったのかが理解出来ない様子のバゼット。目を見開き、信じられないといった表情でキョロキョロ辺りを見回している。
倒れた……? 何故……? 私が……!?!?
レフリーに促されてファイティングポーズを取る。しかしその動揺からは未だに抜け出せない。
「 バカ野郎ッッ! 間合い取れバゼットぉぉッッ!!!! 」
ランサーの声を聞き、ハッとした顔で我に返るバゼット。
クラつく頭。
受けた衝撃の余韻。
倒れる前に聞いた、信じられないような重い打撃音……。
そんな事を今、考えている余裕は無い。
――――メディアが来ている!
――――――メディアが頭を低くし、こちらに突っ込んで来るッ!!
「――――シッッ!!!!」
「ッッ!?!?」
身体ごとロープに押し込まれ、おもいっきり腹を突き上げられる。
「シッッ!! シッッ!!!!」
「!? ……!?!?」
身体が浮く。何度も何度も腹を突き上げられる。その度に視界が白く染まる。自分がどこにいるのかさえ、分からなくなる。
「 あああぁぁぁあああッッ!!!! 」
「!!」
なりふり構わずメディアに組み付き、そのまま力任せに態勢を入れ替える。ロープ際から脱出し、ワケも分からぬまま拳を繰り出す。
やめろ、離れろ、こっちに来るな。
そんな想いが透けて見えるかのように、必死にメディアを打ち据える。突き放す。乱打する。
メディアの頭部が後ろへ吹き飛ぶ。横へ、下へ、左に右に吹き飛ぶ。
だがその度、即座にメディアが打ち返してくる。
腹に、脇腹に、顔面に、バゼットの身体が衝撃でブレる。
メディアが脚を止めない。
激流のように、押し流すように、愚直に前に出る事を止めない!! 止められない!!
「―――ッッ!!!!」
「!?」
メディアの顔を押しのけ、破れかぶれの右を叩きこむ。芯を喰って直撃したそれに、メディアの身体がクルリと後ろに反転し、そのまま沈み込む。
とんでもない音が鳴った。とてつもない感触が拳に残った。それでもメディアがロープにしがみつき、即座に振り向いて! こちらに突進してくる!!
「 あああぁぁぁああああっっ!!! 」
「 おおぉぉぉあああっっ!!!! 」
『……終了ッ! ゴングだ!! 終了だ!! 離れてッッッ!!!!』
「 あああぁぁぁあああ!! あぁぁあああああ!!!! 」
乱打されているゴングの音。ラウンド終了を告げるそれに意を解さず、二人が動く事を止めない。相手に飛び掛かろうとするのを止めない。。
レフリー、そして両陣営のセコンドがリングで入り乱れて選手達を押し止めるが、それでも両選手とも暴れるのを止めない。羽交い絞めにされながらも、獣のように雄たけびを上げる。
「 バゼットッ!! バゼェーーットッッ!!!! 」
「 落ち着けってメディア!! 落ち着けよぉーっ!!!! 」
混乱するリング内。力ずくで選手を引きずっていくセコンド。火がついて止まらない両選手。
そんな光景に、観客は大歓声を上げていた。
……………………
………………………………………………
「テメェふざけてんのか!?
何が“遊んでやる“だ! バチバチじゃねぇかッ!!」
「分かってます……。分かってるんです私はっ! 冷静ですっ!」
「うるせぇんだよバカたれッ!
……そんなにやりてぇってんなら、もういっちまえ!!
やっこさんもやる気だ、ならこっちもその気で行け!
倒せ! 倒しちまえ! 出来るな!?」
「はいっ、やれますっ! 私は出来ますっ!!」
「なら行けッ!! 王者だ! お前は王者だバゼット!!」
「良いぞ、効いている。お前の力は通用している。
やれるぞ、メディア」
「はいっ……! いけます……! いけます宗一郎ッ……!」
「いいかよメディア! ボディだ! ボディ打つんだよ!!
ひたすらくっついて、腹を突き上げろ!!
アイツにもう息なんかさせんなっ!!!!」
「えぇっ……! えぇ慎二くんっ……! えぇッ……!!」
セコンドアウトを知らせる笛の音に、メディアが椅子から立ち上がる。
一度大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出していく。
「行けぇメディア! やっちまえっ!」
「行ってこい、メディア」
「……はいっ、……はいッ!!」
力強く頷いて、バゼットに向かって駆け出していった。
…………………
………………………………………………
一進一退の攻防が続いた。
アウトボックスを捨て、メディアとの打ち合いを選んだバゼット。小刻みに、時に踏み込んで鋭く打ち込んでいく。その度にメディアの身体がブレ、頭が跳ね上がる。
それに対し、メディアがボディで応戦する。
打たれながらも前に進み、打撃をかいくぐって懐に入る。ガードされてもお構いなし。ひたすらボディを打ち込み、腹を突き上げる。その度にバゼットの身体が浮き上がり、時にくの字に曲がった。
そして距離が空けば、火の出るような打ち合い。
お互いの顔面を目掛け、脚を止めて壮絶に打ち合う。
打ち込む度に汗がミストのようにはじけ、観客席まで重い打撃音が届く。それが何度も何度も繰り返される。
バゼットが3つ固めて打ち込めば、それをチャラにするような一撃をメディアが返す。
メディアの顔が腫れ、血が滲んでくれば、バゼットの額に嫌な汗が吹き出し、表情に悶絶の色が浮かぶ。
それでも二人は、決して打つ事を止めない。
「懐に入らせんな! パンチは固めて打て! ヤツに何もさせるな!」
「……はいっ! ……はいランサー!!」
「余裕だ! もう脚にきちゃってるんだよアイツは!!
ちょろいぞ!! ぶっ倒しちゃえよ!!」
「……えぇ! ……えぇ!! やりますとも!!」
4、5、6と、ラウンドが進んでいく――――
「深呼吸しろオラッ! おら大きく吸って……! ……吐けオラ!
オラ繰り返せオラッ!!」
「……っ~~~~~ふぅーーーっっ! ……ふぅーーーっ!!」
「隙を待つな、作れ。ヤツの腕を吹き飛ばすつもりで打ち込め。
パンチが見えんなら、常に身体を振れ。
全てを躱すつもりで動き、懐に飛べ」
「はいっ……! 動く……! ……飛ぶ……ッ!!」
跳ね上げるような右を喰らい、メディアの身体が錐揉みしながら崩れ落ちる。だが即座に身体を起こし、よたつきながらファイティングポーズを取る。
レフリーの方など見もしない。その眼は常に、バゼットへと向いている。
「いいかメディア! アンタは蛇だ!!」
「ヘビ……! 私は蛇ッ……!!」
「そうだ蛇だッ! 喰らい付いたら決して放さない毒蛇だッ!!
噛みついて、締めあげて、獲物を仕留めるっ!!」
「噛みつく……! 締め上げる……! 仕留める……ッ!!」
「そうだメディア!! その毒はもう効いてるッ!
アイツはもうフラフラだ!! やれるぞメディア!! 蛇だッ!!!」
「蛇だ……!」
「 蛇だッ!!! 」
「蛇だ……ッ!!」
「 蛇だッッ!!!! 」
「蛇だ……ッッ!!!!」
「 そうだ蛇だ!! 行ってこいメディア!!!! 」
慎二の目が、涙で滲む。
ふら付きながらコーナーを出ていく背中に、胸が張り裂けそうになる
打たれて、打たれて、醜く腫れ上がってしまった顔を見て、涙が出てくる。
それでも決して、声を出す事を止めない。
出来ると、やれると、そう応援する事は止めない。
8,9、10と、ラウンドが進んでいく――――
バゼットが顔面を打つ。即座にメディアが腹を突き上げる。
バゼットが右を振り抜く。即座にメディアがボディを返す。
両者が拳を交換する。
一撃一撃、力を込めて拳を打ち込む
顔面、ボディ。顔面、ボディ。
――――――右。
――――左。
――顔面。
―ボディ。
―右
腹。
。
………
……………………
………………………………………………
桜が、俯いている。
ただじっと椅子に座り、その身を固くしている。
遠くから、時折歓声が聞こえてくる。その度に、ピクリと身を震わせる。
この声がする度に、メディアさんが傷ついている。
メディアさんが殴られる度に、この声が聞こえてくる……。
耳を、塞いでしまいたかった。
そんな気持ちを抑え、ただここで、じっと座っている。
TVをつける事もなく、何もする事が出来ずに、ここでメディアを待っている。
………………………………………………
第11ラウンドのゴングが鳴る。
メディア、バゼットの両者が、相手の方へ歩み寄って行く。
ランサーの指示通り、次々にバゼットが左を刺していく。その度に会場に打撃音が響き、メディアの血がマットを濡らしていく。
意識が朦朧とし、飛び込もうにも足が言う事を聞かない。それは王者に、ただ成すがままに打たれる事を示している。
「――ッッ!!」
左で顔が明後日の方にずれた瞬間、即座に追撃の右拳が飛んでくる。それに大きくバランスを崩し、メディアはロープにもたれかかる。
腕は下がり、身体は上に仰け反る。そこを目掛けて、バゼットが追撃した。
「フッ!!」
振りかぶった拳が、メディアを捉える。
「フッッ!!」
即座に右腕を引き戻し、再び顔面に打ち込む。仰け反ったメディアは死に体となり、完全に天を仰ぐ。
「――――フッッ!!!!」
メディアの頭が、後ろに吹き飛ぶ。
ロープの反動で身体は前へと投げ出され、バゼットの方を通り過ぎ、そのままドサリと倒れ込んだ。
信じられない程の音が鳴った。
まるで命を刈り取ったような音が、三発目の拳から響いた。
それをかき消すようにして、爆発したような大歓声が会場を包む。
「 よっっし!! よぉおぉぉーーーっし!!!! 」
「バゼットォ!! バゼットォ!!」
勝利を確信し、歓喜したバゼットが両腕を振り上げる。そしてらしくもない雄たけびを上げながらランサーの方へと駆け寄っていく。
やったと、勝ったぞと、そう抱き着かんばかりに喜びながら。親愛なる人の元へ。
『 ――――ワァーーン! トゥーー!! スリィーー!!!! 』
会場にカウントの声が響く。それをかき消さんばかりの大歓声。
素晴らしかったと。凄い試合だったと、そう選手を称えているように。
「 もういいんだって!! ……寝てろっ!! 寝てろってメディアッッ!!!! 」
そんな慎二の、悲痛な声がする。
誰もが終了を確信していた中。
メディアがゆっくりと、その身体を起こしていった。
………………………………………………
桜がビクンと、身体を震わせる。
今、地響きのような大歓声が聞こえる。これまでに無かった、明らかに何かがあったという特別な音が。
気が付けば桜は控室を飛び出し、会場の方へと駆け出していた。
………………………………………………
バゼットが、驚愕の表情を浮かべる。
フラフラになりながら、それでもコーナーにもたれかかって立ち上がったメディア。その姿を、信じられない物を見たように。
目の前にいる相手は、やがてレフリーに促されるままにファイティングポーズを取った。
それを見て、バゼットは愕然とする。
まだなのか、まだやれと言うのかと、絶望に近い感情を味わう。
レフリーの試合再開を告げる声を聞いても、しばらくその場から、身体が動かなかった。
もうため息すら出てこない。目の前の出来事を信じたくない。正にそんな心境だ。
メディアは未だ、向かいのコーナーにもたれかかっている。まったくその場から動いて来ない。ならば、こちらからそこに行ってやるしかない。
気分など乗らない重い足取りで、バゼットはメディアの方へと歩いて行った。
既に死に体。脚はガクガクと震え、ガードすらもう上げていない。
それでもメディアはバゼットを睨みつける。まったく目が死んでいないのだ。
もうやめて。勘弁してくれ。そんな気持ちがバゼットを包む。
そんな目をされたら試合が終わらない。倒れてくれないと、家に帰れない。
仕方なしに、遠くからパンチを打ち込む。足の死んだ相手に対し、惰性のように遠くから打ち込む。
それでも拳はなんの抵抗もされず、メディアに届く。
「――ッ! ――ッ!!」
……信じられない。こいつ私を、挑発してる。
カモンカモンと、手をくいくい動かしてる。
ズタボロの身体で、そんな血まみれの顔をして。もっと打ってこい殴って来いと、私を煽ってきてる。
バゼットはもう、心底あきれ果てていた。
ゴスンと、バゼットの右がメディアを捉える。
ゴスンと、またバゼットの拳が、頭を吹き飛ばす。
ゴスンと、バゼットの大振りのフックで、メディアの身体が横にずれる。
――――――次の瞬間、メディアの拳がバゼットを突き上げた。
「……!?!?」
横にずれた態勢を戻す、その勢いのまま放たれたボディブロー。
「!?!?」
そして続けざまに放たれる、胃が飛び出すようなボディブロー。
「!?!?!?」
連打、連打、連打――――
「―――――シッッ!!!!!」
「……ッッ!?!?!?」
最後に、ゴスンという破壊音が響いた。
バゼットの身体がくの字に曲がった瞬間、同時にラウンド終了のゴングが鳴る。
大歓声に負けぬよう乱打されたそれを聞き、セコンド陣がリングへとなだれ込む。そして脇腹を抑え、倒れ込みそうになるバゼットの身体を支える。
バゼット、そしてメディア。
二人がよたよたとした足取りで、自陣のコーナーへと連れられて行った。
………………………………………………
「……目が見えない、の……。……なんとかして……」
腫れあがった右目を差し、メディアが慎二に懇願する。
「無茶言うなよ……。もう、そんなになってまで……」
「……いいから。…………お願い……見えるようにして……」
腫れあがった患部を切れと。血を抜いて腫れを引かせろと、メディアは頼み込む。
切る事に躊躇するのはもちろん、もう止めようと……もう充分だと慎二は伝えようとする。
「少しじっとしていろ。……………………よし、これでいい」
宗一郎が静かに立ち上がり、専用のナイフでメディアの瞼をカットする。そして溢れ出した血をタオルで拭い取ってやる。
その姿を、慎二が歯を食いしばりながら見ていた。
「…………止めないで、ね…………宗一郎、慎二くん…………」
「分かっている。行ってこい、メディア―――」
「あぁ……。頑張れ、メディア―――」
最終ラウンド。
その開始を告げる笛が鳴り、メディアの背中が、ゆっくりと遠ざかって行った。
………………………………………………
会場へとたどり着いた桜。
今彼女の目の前には、よたよたとリングの中央へと歩いて行くメディアの姿がある。ゆっくりとゆっくりと、メディアがバゼットの元へと歩み寄って行く。
メディアの頭がぶれる。
横へ、後ろへ、打たれる度にはじけ飛んでいく。しかしメディアは倒れる事はない。それを物ともせずに、前へと進んでいく。
バゼットが左を刻んでいく。しかしその動きに以前のような勢いは無い。ただ近づかれる事を拒んでいるだけの、騙し騙しのような左のジャブ。
右腕はもう飛んでこない。それは今、バゼット自身の脇腹に添えられているから。
先ほど、最後のパンチで破壊された脇腹を庇う為、常に守っていなければならなかったから。
「……ッッ!! ッッ!!!!」
それでも王者が動きを止める事は無い。その拳は次々とメディアの頭部へと吸い込まれていく。
それを意に介さぬように、少しずつ追い詰めるようにしてメディアが前へと進んでいく。
耐えて、耐えて、耐えて。
少しずつメディアが、バゼットとの距離を詰めていく。
「…………メディアさん」
その姿を、桜がじっと見守っていた。
………………………………………………
倒れろ、倒れろ。
そんな想いが見て取れるような、決死の形相でバゼットが打ち込んでいく。
倒れろ、倒れて、倒れてくれ……。
もう見る影もない王者の左。それに怯む事無く近寄って来るメディア。
倒れろッッ……!!!!
まるで恐怖に屈したように、怖い物を遠ざけるかのように放たれた大振りの左フック。それを掻い潜り、メディアのボディがバゼットを突き上げる。
「 …………ぐぉっっはぁッッッ!!!! 」
声が漏れる。全ての空気が外に吐き出される。
バゼットの身体が大きくくの字に曲がる。
「 …………ごっっ!! ……ぉおっ…………!!!! 」
二発、三発、四発――――
次々にメディアがボディを打ち込んでいく――――
「 ………………………ぉ…… 」
最後のボディ打ちで、バゼットの身体が大きく後退する。その背中はロープに押し止められ、棒立ちで仰け反る。
「――――シッッ!!!!」
メディアの右が、バゼットの頭を吹き飛ばす。倒れようとした身体がロープに押し戻され、前へと跳ね返る。
「 ――――――シッッッ!!!! 」
再び顔面を捉える、メディアの右。
大きく振りかぶって放たれたそれが、再びバゼットをロープへと跳ね飛ばす。
まるで振り子のように、メトロノームのようにバゼットの身体が揺れる。真っ白になった視界の最後に、拳を振りかぶるメディアの姿が映った。
「 ――――――――――――ッッッッ!!!!! 」
会場中に響く、大きな大きな音。そんな今日一番大きな破壊音と共に、バゼットの顔が真上を向く。
跳ね飛ばされ、
膝の力が消え、
そのまま糸が切れるようにして、身体が前へと倒れていく。
…………そんなバゼットの、崩れ落ちる身体を。
抱きしめるようにして、メディアがしっかりと抱き留めていた――――――
『 ――――――試合終了ッッ!! 試合終了ぉぉおおおーーーッッ!!!! 』
ゴングが打ち鳴らされる。会場に大歓声が響く。
リングの中、抱きしめ合うようにして立ち尽くす二人。それに向け、惜しみない声援が送られていく。
鳴りやまない拍手。指笛の音。腕を振り上げる観客たち。
地鳴りのような音の渦の中、二人はお互いの鼓動、お互いの体温だけを感じていた。
……やがてバゼットが小さく息を吐き、耳元に口を寄せて、メディアにだけ聞こえる声で呟く。
「…………リターンマッチは無しです。……もう二度とゴメンだ……」
「…………えぇ、私もよ……」
やがて二人は両陣営によって引き剥がされ、自陣のコーナーの方へと別れて行った。
…………………
………………………………………………
『ボクシング史に残る大変な死闘でした!
この試合っ、僅差の判定により…………!!』
現在リングアナウンサーが、勝利者の宣言を行っている。
だがメディアは今、それどころではない。
「…………さくら……。桜ちゃん……っ! 桜ちゃあぁぁーーん!!!!」
涙が溢れて止まらない。ガン泣きだ。
近年まれに見る、ガン泣きであった。
……もう自分が何をしているのかも分からない。どうなっているのかも分からん。
ただもう、辛かった! メチャメチャしんどかった! でも精一杯頑張ったのだ!!
桜の顔が、見たかった。
可愛くて、優しくて、大好きなあの子の。
早く、今すぐ! 桜の顔が見たかったのだ!!
「……ちょ……! 落ち着けってメディア! 桜なら今……」
「さくらちゃぁぁあああああんッ!!!!
さっ……さ゛!! さ゛くらちゃぁぁあああああああんッッッ!!!!」
慎二に必死こいてなだめられるも、その手を振り切ってまで叫ぶ。
どこにいる!? どこにいるの!?!? うろうろ! キョロキョロ!
泣き叫びながら会場に向かって叫ぶ。
『………………勝者ッ、バゼット・フラガ・マクレミッツ!!』
「「「 オオオオオオオォォォォォーーーーーーー!!!! 」」」
「……さくらちゃ…………さくっ…………!
さぁぁくらちゃぁぁぁあああああああーーーーーーーんっっっ!!!!」
そんな事知るか! 桜ちゃんに会わせろ!! 桜ちゃんの顔を見せてくれ!!!!
ボロボロの身体で、腫れあがった顔で、ガン泣きしながら桜の名前を呼ぶ。
ウロチョロおろおろと、桜の姿を探し回っている。
桜ちゃん! 桜ちゃん!! 桜ちゃぁぁぁん!!!!
その声は、会場まで鳴り響いていた。
「……メディアさん……。―――――――メディアさんっっ!!」
気が付くと、桜は駆け出していた。
リングの上、自分の名を呼び、子供のように泣いているメディアの元へ。
「 メディアさん! ――――メディアさん! ――――メディアさんっっ!! 」
人にもみくちゃにされ、髪は乱れ、リボンはどこかにいってしまう。それでも泳ぐようにしてメディアの元へと走る。
まるでスヌーピーみたいに上を見上げて泣いている、自分の姉貴分。
あーあービービーと泣き喚いている、親愛なる人に向かって。
「…………兄さんっ!!」
「おぉっ! ほら上がれ上がれ!」
「行ってやってくれ。妻を頼む」
リングサイドまでたどり着き、セコンド達に声を掛ける。
早く行って止めてやれと、放り込むようにして桜をリングへ上げた。
「……さくらちゃ……!! さくドリアァァーーーーn……
「――――――メディアさんっ!!」
その勢いのまま、桜がメディアの胸に飛び込む。
びっくりしつつもガシッと受け止め、メディアは涙も鼻水をダーダー流しながら桜の顔を見つめる。
「…………えっ!? さ゛……っ!
桜ちゃん!? ……あ゛れっ、いつもの可愛いリボンはどこに……!?」
「 メディアさんっっっ!! 」
この場に至って、そんなどうでもいい事を訊くメディア。
それに構う事無く、再び桜がメディアの胸に飛び込んだ。
ガバッと、ギュッと。
飛びつくようにして。
「 ――――――だいすきですっ! メディアさんっっ!! だいすき!! 」
腫れあがった顔。ろくに見えない視界。立っているのもやっとのボロボロの身体。
そんな中で、桜の体温を感じる。抱きしめられた感覚を感じる。
柔らかい。暖かい。愛おしい。
幸せその物みたいな女の子を、メディアもそっと抱きしめ返してみる。
「 だいすき! だいすきですっ! だいすきっっ!! 」
私をギュッと抱きしめながら、桜がピョンピョンと飛び跳ねている。
その様が愛おしい。その声が嬉しい。
その言葉が、幸せだ――――
「 ――――わ……私も! 私も大好きよ桜ちゃん! 大好きよっ!! 」
「 だいすきメディアさんっ! だいすきっっっ!! 」
眩しいほどのライト。
涙で滲む視界。
ダメージでボヤけた頭。ボコボコの身体。
でも、分かる。
桜ちゃんが分かる。
大切な人の、ぬくもりがわかる――――
幸せを、感じる――――――
―――Fin―――