【お題の文章】
「そうか。……ここまでだな、俺達」
そう呟くと男は女を残し扉を開けた。
その場に残された女の眼から滴が一つ、また一つと頬を伝わっていったことに気付かず。
(どうしてこんな事になったんだ……)
その言葉だけが男の脳裏を駆け巡る。
駆け巡る言葉を振り払うように男は杯を重ねる。
『溝内さん、もうお止めになったほうが』
何軒目かで馴染みのマスターに言われた言葉。
その言葉を背中で振り払い扉を開き外に出る。
店に入る前に降り始めた雨はますます強まって、心と身体を打ちのめす。
傘は持っているが、差す心境にはなれなかった。
降り続く雨が男の顔を、身体を、全身を容赦なく濡らしていく。
ふと我に返った男が顔を上げる。
そこにある一軒の店。
古めかしい木製の扉には、何の表示もなかった。
「どこだ、ここは……?」
ふむ……このお題の主眼は恐らく『突然現れたこの店は何なのか?』になって来ますナ!
これはいったい何屋さんなのか。それをみんなで考えよう! みたいなテーマなのでしょう。
――――それでは行ってみましょう! ここから私のターン!
雨は毛布のように
新三は考える。
この見覚えのない店、そして見覚えのない風景は、いったい何なのかと。
「……駄目だ、分からん」
しかしどれだけ考えても分からなかったので、新三は諦めて、家に帰る事にした。
「うん、分からん物は分からん。
扉に何の表記も無いんじゃ、お手上げだ」
新三は「やれやれ」と首を振りながら、背を向けて帰路につく。
確かにそこが何かの店なのは分かるが、何の表記も無いとか客を舐めているにも程がある。商売する気あるのか。
それに知らないお店に入るのって……なんだか怖いし……。
勝手に入ったら「コラ!」って怒られないとも限らないし。多大なリスクを伴う。
別に今はお腹空いて無いし、酒だってさっきまでたらふく飲んでいたのだから、よくよく考えたらどこかに入る必要なんて無い。お金だって持ってない。
突然現れた見知らぬ店――――そんな所に入る理由など、微塵も無いのだ。
「帰ろう。早く帰って鉄腕DASHを観なければ」
雨が降りしきる中、新三は「おーさぶさぶ♪」と肩をさすりながら、イソイソと帰路に着いていく。
まるでさっき見つけた店など、無かったかのように。
『――――キエェェェエエエエエイ!!!!』
その時! 突然この場に、狂気を纏った女の声が木霊する!
『新三さぁぁぁん!! キエェェェエエエエエイ!!!!』
あれは、先ほど別れた女!
先ほど酒場で「そうか。ここまでだな俺達……」と、なんか昭和の歌謡曲みたいな雰囲気でカッコよく別れたハズの女が!
いま新三に向かって!
『貴方を殺して私も死ぬぅ!! キエェェェエエエエエイ!!!!』
ああ、なんという事か!
あの女はちょっと騙されたくらいで! ちょっと結婚詐欺にひっかかって400万円ほど騙し取られたくらいで、新三を殺そうとしているのだ! なんと酷い!!
女は今も奇声を上げながら、見る見る内にこちらへと近づいてくる!!
ちなみに女は知る由も無いが、もちろんこの“新三”という名も偽名だ! 結婚詐欺の為に使っている、自分で適当に付けた名前なのだ!
「まっ、待て! 待つんだのり子! 話せばわかるッ!!」
『キエェェェエエエエエイ!!!!』
綺麗だった長い髪を振り乱し、美しかった琥珀のような瞳は真っ赤に充血し、そしてしま〇らで買った安い婦人服を雨に濡らしながら、のり子と呼ばれた女が突進してくる。
新三(仮)の命を奪わんが為! そのどてっ腹にザクッと包丁を突き刺さんが為に!
「あ、そーれ♪」
「ぎぃやぁぁぁあああ!!」
新三の繰り出す合気投げにより、のり子は〈ドッボーン!〉と川に落ちる。
「ぎゃあああ! 新三さぁーーん! ぎゃあああぁぁぁ!!」
凄い勢いで流されていくのり子。雨によって増水した川は、凄まじい勢いで彼女を押し流していく。
ちなみにのり子は知る由もないが、新三は護身術として合気道を習得している。
結婚詐欺師たるもの、いつ如何なる事態でも身を守れるようにしておかなければならない。こういう場合を想定し、しっかりと備えていたのだ!
それがのり子にとっての誤算であった!
「うぉぉおおお! のり子ぉぉぉ! のり子ぉぉぉーー!!」
あなやっ! だがなんという事だろう!?
突然新三がのり子を追うようにして、勢い良く川へ飛び込んだではないか!
「のり子ッ! いま行くぞのり子ぉぉーー! のり子ぉぉぉおおおーーーーっ!!」
先ほど殺されかけたというのに! 包丁で刺されそうになったというのに! 新三は迷う事なく川へと飛び込み、ザブザブとのり子の元へと向かっていく! その姿はまさにイルカの如し!
命――――そう、命なのだ。
彼はのり子という人命を救うべく、自らを顧みる事無く川へ飛び込んだのだ。
確かに自分は、結婚詐欺をしたかもしれない――――400万ほど騙し取った上に、この女の住む家の権利書まで奪い取ったかもしれない。
だがそんな事、この“命”という物の前には無に等しい! そんな些細でつまらない事を気にしている場合じゃないのだ! 命がかかっているのだから!
新三は全てを振り切り、目の前の命を救うべく、バサロ泳法で必死に泳ぐ。
のり子! あぁのり子! 我が愛する者よ!
偽りとはいえ愛を結び! 偽名とはいえ共に婚姻届を書いた女よ! お前を決して死なせはしないと!
「あーよっこいしょっと♪」
「え゛っ?!?!」
その時! 一生懸命に泳いでいた新三を余所に、のり子が「よいしょ!」っと陸へ上がる!
新三に構う事無く、ひとり川から生還を果たしたのだ! 誰の手も借りる事なく!
「うおぉぉのり子ぉーー! ぬおぉぉぉーーっっ!!」
「……あら? 新三さん!? 新三さぁぁぁーーん!!」
凄まじい勢いを持ってバサロで流されていく新三を、のり子が声を上げて見守る。
降りしきる雨の中……のり子はその身を濡らしながら、いつまでもいつまでも、彼が流されて消えていった方を見つめ続ける――――
「なんで!? なんで飛び込んだの新三さん?! 貴方バカなの!?!?」
しかものり子には、なぜ新三が命を賭してまで川に飛び込んだのか、その理由すら分かっていなかった。
雨に打たれておかしくなったのか……はたまた風邪でもひいてテンションがおかしくなったのかと、彼がひとりでに川に飛び込んだ理由を、どうしても理解できずにいた。
だってこんなにも雨ふってるのに。川が氾濫してるのに。バカじゃないのと。
まさか自分を騙した結婚詐欺師が、自分を助けようとしたなど……彼女には思い至ろう筈も無い。
のり子の中では、新三はまごう事無き悪党。自分の貯金と住む家を奪った、にっくき悪人であったのだから。
これはそんな――――悲しいすれ違いの恋物語。
悲劇の浪花節であったのだ。
「でも安心して新三さん……。
この川、けっこう浅かったわ――――」
上がれる陸地も腐るほどあるし、川も浅いし死ぬ事なんて無い。
調子こいてバサロ泳法なんかするから気が付いてないだけで、この川は決して人が死ぬような川では無いのだ。
「そして、海に続いているわ。
きっと海に出れるわよ新三さん。海が見られるわ――――」
この川は、見渡す限りの大海原へと繋がる、そんな河川であったのだ。
新三はきっと海に辿り着き、そこから夢いっぱいの冒険の旅に出る事だって出来るだろう。胸が躍るような美しい光景が見られるハズだ。
まぁそれがいったい何の慰めになるのかは知らないが……なんか“海”というそこはかとなく良い感じの言葉が出てきた事によって、のり子の心は青空のように晴れていった。
さっきまでの怒りを忘れ、心穏やかに。
のり子は本来の人間性と、その優しさを取り戻したのであった。
………………
………………………………
「……ん? 何かしらここ?」
そしてのり子が帰路に着き、「おーさぶさぶ」と肩をさすりながら歩いていた時……突然目の前に、何かの店らしき見知らぬ建物が現れる。
「古めかしい木製の扉……表記もない……。何の店なのかしら?」
自身の住む街の、良く知っているハズの道。そこに突然出てきた見知らぬ店を前に、のり子は眉をひそめる。
「まぁ今はお腹空いてないし、入る必要はないわね――――」
のり子は店を後にし、スタスタと帰路を歩いて行く。
やがて遠くから「へっくちょい!」という、愛らしいクシャミの音が響いた。