鏡に映る己の姿を、
一年とちょっと前、ちょっとしたことがキッカケでそれまでより少し短くした髪は、今でもその長さを保っていた。
リボン付きのカチューシャは、自分にとってはトレードマークみたいなものだ。リボンの大きさが少しずつ小さくなっていくのは、それと反比例して自分が大人になっていくのを表しているみたいだった。いつの日か、これを付けなくなる時が来るのだろう。そんな考えがじわりと心に滲みを生む。
今日の装いは淡いレモン色をしたノースリーブのサマーニットに、仄かなシックさを感じさせるキャメルのワイドパンツ。飾り気の少ない組み合わせは、自分がもう既に高校生ではないという空気を醸し出してくれるだろうか。そんなことを思ってみたりする。
特に気になるところもないし、今日の恰好はこれでいいだろう。全身のチェックを一通り終えた優子はそこで、よし、と頷いた。
「それじゃ、行きますか」
天高くから容赦なく降り注ぐ日の光が、自分達を焼き焦がしている。そう言い切れるぐらい、本日は強烈な日差しの照り付ける実に真夏らしい晴れ模様だった。
気分的なものもあったかも知れないが、京都に比べてこちらは随分気温が高まっているような気がする。などと考えつつ、もくもくと発達を続ける入道雲を見上げていたその時、額からだらりと大粒の汗が滑り落ちていく。そのまま地面に広がった黒い染みは瞬く間に蒸発を始め、半分くらいのサイズに縮んでしまった。もしも今ここで転んでしまったら、怪我のついでに火傷まで負ってしまいそうだ。
「かなり暑いわね。大丈夫? みぞれ」
「平気。問題ない」
片手をうちわのようにしてヒラヒラとあおぐ優子に、
二人がこうして行動を共にするのも高校卒業以来だ。今は音大に通うみぞれは優子にとって高校時代の大切な友達であり、もっと言えば中学の頃から同じ吹奏楽部の仲間でもあった。
高校の頃と比べて、みぞれの容貌はそれほど変わりないように見える。黒く深い艶を持つ長髪がきちんと梳かし切れていないのも相変わらずで、優子はその事を勿体ないと思うことが度々あった。
もしもみぞれが自分の身だしなみにもっと気を遣うようになったら、そしたらきっと、みぞれはもっと魅力的な子になるだろう。いつか彼女のそんな姿を見る日が来るのかも。そんな未来に想像を巡らせる一方、それはそれでちょっと寂しいな、という思いが胸の内に去来する。
そんなみぞれも流石に今日は暑くなることを見越してか、涼しげな青白いワンピース姿にその身を包んでいた。この炎天下の中、まるで淡雪のようなその白さは彼女自身の持つ儚げな雰囲気とも相まって、見る者の心に清涼さをもたらしてくれる事だろう。
そんなみぞれから視線を外し、優子は肩に掛けていたバッグから携帯電話を取り出して、周辺の地図情報を調べ始めた。目指す場所は、ここからそう遠くないはずだ。
「えっと、ここを真っすぐ行って、途中で左に曲がって……だいたい五分くらいかな」
その場所には何度か訪れたことがある。最後に訪れたのはちょうど一年前だ。けれど自分の足で来たことは、これまで一度も無かった。
今まではずっと、用意されたバスに乗って運ばれてくるだけだったから。
こうやって公共機関を利用して来るのはこれが初めてであり、その事に優子は自分の立場が昨年までとはまるで変わってしまった現実を、改めて実感するのだった。
「見えた。あそこ」
みぞれがぼそりと呟く。地図情報の案内通りに立体の遊歩道をしばらく歩いた先、目の前に大きな赤茶色の建物が姿を現した時、優子の胸はずきりと疼いた。
ちょうど一年前、自分達はあそこに、あの中に居た。
観客としてではなく奏者として。北宇治高校吹奏楽部の部長として。
そしてその日、自分達に出来る最高の演奏をした。
結果はついてくる。そう思っていた。
努力は必ず報われる、と。
――けれど、実らなかった。
吹奏楽コンクール関西大会。その会場であったこのホール。
『全国大会金賞』を目標に掲げた自分達の夢は一年前、まさにこの場所で、打ち砕かれた。
「優子?」
その声に反応して隣を見やると、みぞれが怪訝な顔つきでこちらを覗き込んでいた。急にその場に立ち止まってしまった自分をみぞれは心配してくれたのだろう。優子はかぶりを振り、それから笑顔を作ってみせる。
「ゴメン、何でもない」
「そう」
「さ、行こう。モタモタしてたら応援どころじゃなくなっちゃうし」
再び足を踏み出しながら、優子は考える。もしも一年前に戻れたら。あの日をもう一度はじめからやり直せるなら、そしたら自分はどうするのだろう?
いや、きっと何も出来ないに違いない。
例えやり直せたところで、やはり自分は部長として毅然と振る舞い、部員達に発破を掛け激励し、本番に臨み、表彰の場に立ち、そしてまた、通路の隅で泣くのだろう。あの日と同じように。
何度やり直したところであの日起こることは変わらない。だからこそ今、何度振り返ってみたところで、この胸の痛みを掻き消すことも出来やしないのだ。
身体に走るむず痒さを誤魔化すように、優子は服の裾を引っ張る。ぱつん、と間の抜けた音を立てて、裾はすぐに元の位置へと戻った。
「優子ー、こっちこっち」
目的地であるホール付近まで来た時、どこからか自分達を呼ぶ声が聞こえて来る。それが誰であるかを確認する必要は無かった。隣に居たみぞれが、彼女らしからぬ俊敏な動きでそちらを向いたからだ。まずはおもむろに相手へ一瞥をくれ、それから優子はツカツカと靴音を鳴らして声の主へと近付いていく。
「おはよ。来るの早いじゃん、希美」
「おはようーって、そんな時間帯? もうお昼近いよ」
そこに居たのは
優子にとって希美は友人の一人だ。その事実は変わらない。ただ彼女に対して抱く感情には少しばかり、他人には理解しがたい複雑さも入り混じっていた。そんな優子の気持ちを知ってか知らずか、希美はいつも通りの快活さでその笑顔に白い歯を覗かせる。
「いやー参ったよホント。遅れないようにって思って朝早めに家出たんだけど、そしたら思ったより早く着いちゃってさぁ。先にホール入って他の団体の演奏聴いてようかなって思ったけど、その割に時間も微妙だったからずっとここでヒマしてたとこ」
「そうだったんならアンタも、私達と一緒に来てれば良かったのに」
「んー。まあ、そうだね」
微妙に歯切れの悪い返事をする希美に、優子はやれやれと溜め息をつく。
「希美」
とその時、みぞれの声がその名を呼ぶ。途端、希美の笑顔が僅かに軋んだのを、優子は見逃さなかった。
「みぞれ」
普段と何も変わらないとでも言うかのように、希美はみぞれに顔を向け、やはり愛想を振りまく。
「久しぶり」
「そうだね、卒業旅行以来かなー。元気してた?」
「うん」
一見して仲の良い旧友同士に見える二人のやり取り。
けれど、その空気はどこか空々しい。
そう感じるのは、自分が二人の間に横たわっている事情を知っているからなのだろうか。優子はうっかり眉間に皺が寄らぬよう意識を凝らす。そうしないと、表情からみぞれや希美に違和感を悟られてしまいそうだったから。
「それにしてもさ、あれからもう一年経っちゃったんだね」
「そうね」
希美から向けられた言葉に優子は再度、赤茶色のタイルで覆われたホールの外壁を見上げる。ちょうど一年前の夏、高校生最後のコンクールに挑んだのも、もう随分前の事のような気がする。今日この舞台に立つのは自分達ではない。母校の、北宇治吹奏楽部の後輩達だ。自分達はそれを応援しに来た。いや、その表現ももしかしたら正確ではないのかも知れない。
あえて本音を言うならば、自分が果たせなかった夢を、頼もしい後輩達が今度こそ果たしてくれる瞬間を、見届けに来た。
その事を今一度認識した時、胸がジンと熱くなるのを優子は感じ取っていた。
皆で後輩達の応援をしに行こう。
初めにそう言い出したのは、元部長である自分だった。他のOB達も何人かは夏休みを利用してここに来る手筈になっている。希美も勿論それに賛成したし、最初は優子達と一緒にここまで来る予定だった。
ところが話の途中から、希美は自分一人だけ別の手段で行くと言い出した。その理由を本人は『交通費を浮かせる為』などと説明していたのだが、そもそもここに来る手段に料金の違いなど大して出るわけもない。希美が別行動を取ろうとした本当の理由。それを優子はとっくに見抜いていた。
みぞれが今日、ここに来る。その事実を希美が知ったから。
音大生としてのみぞれの生活は日々多忙を極めているようだったが、そんな彼女にも幾許かは後輩達を思いやる気持ちがあったのかも知れない。はたまた、今日この場所に来ることで希美に会えると考えたのかも。滅多に自分語りをすることの無いみぞれの思惑について、優子にはそれを類推することは出来ても、これだという明確な答えを見出す事は出来なかった。
ただ、みぞれにとって希美という存在が極めて特別なものであることは、優子にも分かっていた。どんな理由であっても構わない。みぞれがここに来たいと言うのなら、自分が連れて行ってあげよう。そう思い、優子は京都からみぞれと二人、電車を乗り継ぎながらはるばるここまでやって来たのだった。
そして希美はこうなる事を予測した上で、あえてみぞれと同じ道中を過ごすのを避けたに違いない。周囲に気付かれぬように捻り出したであろう彼女の言い訳を聞いた時、舌の裏にべっとりとまとわりつくような苦々しさが生じたのを、優子は今でも昨日のことのように覚えている。
「でさー、その日のバイトで同僚の子がいきなり連絡無しに休んじゃって。もー大変だったんだよねえ」
目の前では希美が日常生活のよもやま話を次々と繰り広げている。優子はそれに曖昧な返事をしながら、希美の眼の動きをずっと観察していた。
いかにも楽しげに語り散らかす希美と、その一つずつに真摯な瞳で頷きを返すみぞれ。傍目には二人が仲良く会話をしているように見えるかも知れない。けれど希美は、みぞれに向けて喋っているわけじゃない。希美はただ間を持たせているだけ。頭の中から適当な話題を引っ張り出して、それを次々と放り投げることで、みぞれと過ごす針のむしろみたいなこの時間をどうにか穏便にやり過ごそうとしているだけなのだ。
それが証拠にさっきからずっと、希美はみぞれと視線を合わせていない。希美が話題に合わせて大仰にコロコロと表情を変えるのはきっと、そうすることでみぞれを直視出来ない自分を匿えると思っているからなのだろう。
賑やかで、痛々しい時間。優子は二人に気付かれぬよう、そっと奥歯を噛み締める。堪えた憤懣とアスファルトから立ち上る熱気に呼吸を遮られ、思わず噎せてしまいそうだった。
「そう言えば優子、連絡あった? もう約束の時間なのに、まだ来てないみたいだけど」
「えっ?」
唐突に話を振られ、優子の思考は中断を余儀なくされる。
「
ああ、と優子は希美の会話の主語を把握した。と同時にふつふつと、怒りにも似た感情が腹の底から込み上げてくる。
「さあね。最近アイツ、こっちから連絡しても全然返信よこさないし、今日だってまだ何にも連絡ないし。ホント、自分が副部長だって自覚あんのかしら」
「『元』副部長でしょ、今は」
いつまで現役気分? とばかりにカラカラと希美は笑った。優子は腹立ち紛れに、未だ真っ黒な画面のままの携帯電話を強く握り締める。
「もう、思い出したら腹立ってきた。そもそもアイツったらねえ、私の欲しかったコロッケサンドを、」
「分かった分かった。その話はもう百回は聞いたってば」
希美になだめられても、一度沸き上がった怒気はそう簡単には収まらない。もう、と優子は頬を膨らませる。
「あー、ホンットマジでアイツ、意味わかんない」
思い切って携帯電話の電源を押し、画面を開く。夏紀とのダイレクトメッセージに『今どこにいるのよ』と叩き込もうとしたその時、携帯がブルブルと強く振動した。
『駅着いた、急いでそっち行く』
ポコン、と画面に表示された追加のメッセージ。ふう、と鋭く息を吐いて、優子は携帯の画面を閉じる。
「今駅に着いたって」
「そっか。夏紀にしては珍しいね、遅刻なんて」
「そう? アイツ結構ルーズなとこあると思うけど」
「んー、そうかなあ。少なくとも副部長になってからは、理由も無しに部活に遅刻して来た事は一回も無かったと思うけど?」
「そうだっけ」
毒づいてはみせたものの、本当は優子だってちゃんと分かっている。ただ、この状況ではそれを素直に認めるのが腹立たしかっただけだ。
「まあ夏紀もアルバイトしてるし、他にも色々あって忙しかったのかもね」
「どうだか。大方うっかり忘れてて、ついさっきまでグーグーいびき掻いてたんじゃない?」
「ホント優子は、夏紀にだけは辛辣だなぁ」
「辛辣」
苦笑する希美にみぞれまでもが同調する。何よもう、と優子が声を荒げているところに、息せき切ってこちらに駆け寄る靴音が聞こえてきた。それが自分の近くで立ち止まったのを、優子は気配で察する。
「ごめん、お待たせ」
「遅い!」
振り向きざまに優子は一喝する。言われた側の夏紀はと言えば、別に気に留める素振りも見せず、いつものへらりとした笑顔と共に片手を挙げていた。
彼女もまた優子らと同じ中学、そして高校出身の同窓生だ。けれど優子にとって彼女の存在は、希美やみぞれとは少し違う。
夏紀は中学時代、吹奏楽部には在籍していなかった。彼女が吹奏楽を始めたのは高校になってからであり、その時まで同じ中学出身であるにも拘わらず、互いにその存在を知らなかった。
そして出会った当初から、二人は互いにいがみ合っていた。以来ずっと険悪な関係だった筈の二人に、一体どこで誰が言い始めたのやら、「中川」と「
こんな具合に犬猿の仲だった夏紀は二年近く前、何の間違いか吹部の副部長という要職に抜擢され、北宇治吹奏楽部を彼女と部長である優子の二人で動かしていく立場となった。最初はその事に多大なる不安もあったものだが、いざ業務が回り出してみると夏紀は要所要所で優子のサポートを的確にこなしてくれた。元々自分が暴走しがちな人間であることは自分でも分かっていた。夏紀はそれにきちんとブレーキを掛けてくれる。部内に度々危うさが漂い始めた時、それを上手に収めてくれたのはいつも、他でもない夏紀だった。
次第に優子も、そんな夏紀のことを頼もしく思うようにもなっていた。
「けど、それとこれとは話が別!」
「いきなり何の話?」
「アンタが遅れてきた話をしてんの。大体何してたのよ、こんな時間まで」
「そうだよ。丁度さっきまで、夏紀が遅刻なんて珍しいーって言ってたとこだったんだから」
希美が横から割って入り、場を取りなそうとする。夏紀はあからさまにこちらを無視して希美へと向き直った。
「やー。昨日の夜、家に帰るのちょっと遅くてさ。ギリギリまで寝とこうって思ったら、家出るの遅れちゃって」
「やっぱり寝坊じゃない。普通はね、元幹部はOBの代表らしく、こういう時には率先して先乗りするもんでしょ。それなのにアンタと来たら」
「ハイハイ分かりました。部長様が相も変わらずお元気そうで、ワタクシは何よりですよ」
「ムッカつく。約束の時間に遅れたんだから、悪態つく前にちゃんと謝りなさいよ」
「うわ、さっきちゃんと謝ったの聞いてなかった? それにまだ北宇治の皆が来てないなら、セーフはセーフじゃん」
「セーフとかそういう問題じゃないから。アンタのせいで待たされた私達のことはどうでもいいってワケ?」
「もうやめなよ、優子も夏紀も。周りの人達こっち見てるって」
希美が小声で二人をたしなめる。見渡すと、周囲の人達はこぞって奇異の目でこちらを凝視していた。急激に恥ずかしさを覚え、優子の顔がカアッと熱くなる。
「もうっ、これも全部アンタのせいだからね。罰として今日のお昼、アンタの奢り!」
「へいへい。じゃあお詫びにデザート一品で。優子以外にはね」
本当にこいつは相変わらずだ。むくれる優子を尻目に、夏紀はそれまでの事などゴミ箱に投げ捨てたみたいにカラリとした態度で背を向けた。
「さあ、そろそろあの子達も着く頃でしょ。声掛けに行くよ」
そんな夏紀の憎たらしい後ろ姿を睨みつけながら、優子は黙って後をついていった。
「みぞせんぱ~い」
ホール脇の広場にぞろぞろと、見慣れた制服の一団が入って来る。そのうちの一人からやけに緊張感のない声が上がり、優子達はそちらを向いた。
我らが母校、北宇治高校の吹奏楽部員。あの人波を見る限り、今年も去年と変わらぬほどの部員数を保持する事には成功したらしい。先ほど声を上げた子が人の輪から離れ、テクテクとこちらへ近付いてくる。自分達の中で誰よりも先に、
明るい色味でウェーブのかかった長い髪を、無造作に後ろへまとめたようなヘアスタイル。その二つ下の女子部員の事を、優子は良く覚えていた。あの子は去年一年生だったオーボエの子。つまりみぞれにとって、直属の後輩に当たる子だ。
「見に来て下さってありがとうございまーす。私、すーごくすーごく嬉しいです。今日はいつもの120%ぐらい頑張れそうでーす!」
独特な口調で喜びを表現する梨々花に、みぞれはふるりと微かに笑みを漏らした、ように見える。
「ゆー先輩、なつ先輩、それにのぞ先輩。お久しぶりですー」
「ああ、うん。久しぶり。どう、調子は?」
曖昧な笑みを浮かべながら、希美が梨々花とやり取りをし始めた。何となくだが二人の距離感がほんの少しだけ近いような、そんな印象を優子は受ける。ひょっとしてこの二人、以前にもどこかで関わったことがあったのだろうか? もっとも梨々花がみぞれと関わりの深い人物である以上、去年の希美であれば何かしらの接点があっても不思議は無いのだが。……そう、去年の希美であれば
「夏紀先輩、お元気そうで何よりです。ご卒業から先輩のお顔が見られなくて私、とても寂しく思ってました」
「そっちこそ、猫かぶりは相変わらず上手みたいじゃん」
「酷いですね。私、今日という日を一日千秋の思いで待ってたんですよ? それに可愛い可愛い後輩の晴れの舞台なんですから、もう少し優しい言葉を掛けていただいても結構ですのに」
隣を見やると、そこでは夏紀がユーフォニアムの後輩とやや不穏げな空気を繰り広げていた。そんな諸々の騒がしさのせいで、やがて他の部員達もこちらに気付いたのだろう。次第に自分達を取り巻く後輩達の波が増え始める。
「のぞ先輩! 応援に来て下さってありがとうございます!」
「夏紀先輩、後藤先輩と梨子先輩は今日はいらっしゃるんですか?」
「優子先輩~、もう緊張しすぎて私、どうにかなりそうです~」
そんな声を方々から掛けられ、希美達はすっかりあたふたしてしまう。もうすぐ本番だと言うのにこんな調子で本当に大丈夫なのか、この子達は。元部長としてこの状況に一つ喝を入れるつもりで優子が大きく息を吸った瞬間、
「はい、全員注目!」
大音声と共にパン、と一発、強く響く
「もうすぐ本番です。皆、懐かしい先輩達に会えて嬉しいのは分かるけど、ここで騒いでたら周りの人達にも迷惑になります。きちんと列を維持してここに並んでください。そして先輩達にしっかり応援していただきましょう」
「ハイ!」
毅然とした声。現在部長を務めている彼女の顔つきは、一年前よりも随分頼もしくなったように見える。部員達もまた彼女の事を十分に信頼しているらしく、真摯な眼差しで返事をしていた。そんな後輩達の様子を見て、ふう、と優子は溜めていた息を吐き出す。
「あの様子だと、順調に部長やってるみたいだね」
隣の夏紀がクツクツと笑みをこぼす。
「当たり前でしょ。そうなってもらわなくちゃ困るわよ」
そう返した自分の声色も、不思議と柔らかくなっている。きっと夏紀が感じていることは自分と同じだ。優子はそう思っていた。
「あの子は私達が、部長に相応しいって思った人間なんだから」
「それにしても良かったねー、北宇治の演奏」
「だね。曲も良かったし、その辺は流石滝先生ってとこかな」
「一人ひとりの音も去年よりずっと磨かれてたし。まあうちのトランペットは、最初っから全然心配なんかしてなかったけど」
「お? 身内びいきって奴ですか、優子さん?」
「何よ。ひいきしちゃいけないっての?」
「別にいけないなんて一言も言ってないけど、それにしてもあからさまですこと」
「まあでも、優子の言いたいことも分かるかな。ラッパはパートリーダーがあの子だし、流石にねえ」
ついさっきまで天高く煌々と燃え盛っていた太陽も、今はもう西の空に遠く沈みゆこうとしている。真っ赤な夕暮れに染められた街並みを、優子は希美と夏紀に挟まれるようにして歩いていた。
「それにしても、どうせならみぞれも私みたいに、今日ぐらいは実家に帰ったら良かったのに」
「しょうがないよ。みぞれ、明日は朝からサークルの練習って言ってたし」
そう述べる希美の口調は、全然しょうがなくなさそうにしか聞こえなかった。渋面を希美から背けるように、はあ、と優子は溜め息を脇へ洩らす。
今しがたの話通り、みぞれはここには居なかった。彼女は優子達の降車駅からそのまま一人電車を乗り継ぎ、音大の近くに借りている一人暮らし用のアパートへと向かったのだ。帰りの車中でみぞれに今日の感想を尋ねた時、普段滅多に見せることのない柔らかな表情を浮かべていたのが、優子達にはとても印象的だった。
『いつも通りで、良かった。安心した』
みぞれの言ういつも通りとは、一体どの時と比較しているのか。そもそも何に向けての言葉だったのか。優子には何となく察しがついている。だからあえてその事には触れず、別れの際はただ笑顔でみぞれを見送った。
みぞれにとっての大事な後輩達。その存在はきっと、みぞれ自身にも少なからぬ影響を与えている。そういう存在がみぞれの中に在る事を、優子は純粋に喜ばしく思っていた。
もう既に自分達の元から飛んで行ったみぞれの事を考えると、不安に思う時もある。
けれど、今のみぞれならきっと大丈夫。
優子は自分の手のひらに視線を落とす。卒業式の日、この手はそっとみぞれの背中に触れた。この手が彼女を確かに押したのだ。みぞれがその事に全然気付かなくても、後はあの子なりに歩いていってくれれば、私はそれでいい。
そんな思いを抱き締めるように、優子は手のひらをぎゅっと握る。あの日の感触は今も確かに、ここに宿っていた。
「そう言えばさ」
やにわに希美が話題を振ってきた。何よ、と顔を上げた優子を、しかし希美は見ていなかった。彼女の視線は自分を通り越して、その先の夏紀へと向けられている。何となくバツが悪くなって、優子はつられたフリをしつつ夏紀を見やった。
「夏紀、ゆうべ遅かったって言ってたけど、何かあったの? バイトでもないんでしょ?」
希美のその問いは決して夏紀を詰るような色合いを帯びたものではなかった。夏紀もその事を分かったらしく、申し訳なさそうに頭をぼりぼりと掻く。
「ごめんね、朝は心配掛けちゃって。さっきはバタバタしてたから言えなかったんだけどさ」
夏紀は懐から一枚の紙を取り出し、それを優子達の目の前に広げてみせる。A4用紙ほどのサイズの紙には、何やら白黒の写真などがプリントされていた。印刷が粗くていまいち良く解らないが、どうやらそれはドラムを叩く人の姿を描き出しているみたいだった。
「来月、学祭あるじゃん? そんでこのバンド、学祭の日にライブやるんだけど、あたし今このバンドに入ってるんだよね」
え、と優子は瞠目する。そんなのは初耳だ。そう思って希美を見やったが、意に反して彼女はさほど驚いてはいないようだった。
「やっぱりかー。実はそれ、噂になってたんだよね」
「そうなの、希美?」
驚いて尋ねると、希美は何でもないような顔でこくりと頷く。
「うちの科の子がこないだちょっと話題にしててさ、そん時に夏紀も入ってるっぽい、って話を聞いてたの。最初は半信半疑だったけどホントだったんだね」
「別に、隠すつもりは無かったんだけどね」
夏紀が照れ笑いを浮かべる。彼女のその表情が何故か、この時の優子にはひどく大人びて見えた。
「それに夏紀、前にバンドやろうかなって言ってたし。その割には大学入ってからこっち、バンドやる素振りなんてちっとも見せなかったけど」
「春のうちは割と微妙だったんだけど、夏休み前に同じ科の友達からちょっとヘルプ頼まれてさ。んで一回合わせてみたら、それじゃ学祭もって事になって」
間に挟まれた自分を飛び越えて、二人の会話は続く。その間ずっと、優子は押し黙ったままだった。この流れに上手く絡みつく取っ掛かりを見出す事が、この時の優子には、出来なかった。
「そんなわけで、そっちのオケサークルは午前の出番でしょ? こっちの出番は午後だから、良かったら見においでよ」
ほれ、とばかりに夏紀から突き出されたその紙を、優子はおずおずと受け取る。
犬猿の仲だった夏紀。
頼もしい相棒だった夏紀。
何だかんだで高校三年間、多くの時間を一緒に過ごした夏紀。
その夏紀が、今、自分の知らないフィールドに立っている。
同じ大学に通っているとは言え、彼女とは今はもう学科も、サークルも、アルバイト先も、住んでいる地域も、何もかもが違っていた。だから今は、自分の知らない夏紀がそこに居たっておかしくない。そう頭では分かっているのに。
自分の胸に突き刺さったその感情が何なのか。どうしてそんな感情を抱いてしまったのか。この日の優子はまだ理解出来ていなかった。
夏紀のこんな姿に内心、自分がショックを受けていたのだという事を。
〈続く〉