ホールを出た優子は何も考えられぬまま、前を歩く夏紀の背中に引っ張られるようにして通路を歩いていた。
自分の腕にはとても大きなトロフィーが抱えられている。全日本吹奏楽コンクール、関西支部大会、金賞。そこに記された、いかにも華やかな成績。夏紀の持つ盾にも恐らくは、同じことが書かれてあるのだろう。
これは彼女達、いや北宇治吹部の全員が練習に明け暮れた日々の、その結晶。誇るべき殊勲であり、優子達は胸を張って皆のところへ帰るべき、筈だ。
なのに、その証を手にした二人の表情は全く凍り付いたままだった。
――二十二番、京都府代表、龍聖学園高等部。
スピーカーを通じて高らかに告げられたその言葉。続けざまにホール中に響き渡った雄叫び。そして、悲鳴。それら全てが耳にこびりついて離れない。
意味は、勿論分かっていた。全国大会に出場する為の残り一つの代表枠。そこで自分達の名が読み上げられなかった。それはつまり、自分達三年生が全国の舞台で演奏できる最後のチャンスを掴み取れなかった、という事だ。けれど優子は、ただただ、その現実を受け止めることが出来ていなかった。
視界が揺れる。足元がぐらぐらする。何が起こったのか、今どこを歩いているのか。それすらも分からぬまま、どこまでも続くような気がする通路の中で、優子はただ機械のように足を動かし続けるばかりだった。
「優子」
どこからか夏紀の声がする。ヘンだな、ついさっきまで前に居た筈なのに。
そう思っていた優子の肩がドン、と壁にぶつかる。いつの間にかホールの外へと向かう順路から外れてしまっていたらしい。そのまま壁に張り付くように、優子は立ちすくんだ。もう、足を動かす事すら、億劫だった。
「嘘でしょ」
ぼろりと口から漏れ出た言葉。それは誰かに向けたものではなかった。
「あんなに頑張ったのに。今日だって、みんな、最高の演奏だったのに」
声が震えているのが自分でも分かる。けれど不思議な事に、涙が出て来ることはなかった。さっきまで凍り付いていた感情にヒビが入り、内側から強烈な衝動が暴れ出そうとしている。それを解き放ってしまったらきっと、自分は自分ではいられなくなる。そう思えるほど、その衝動は激しく狂おしいものだった。
「何が、いけなかったんだろ。私達、どこがダメだったの?」
振り返れば、そこにはきっと夏紀が居る。そう思っても、優子は振り返ることが出来なかった。
足に力が入らない。
自分の肩がズルズルと壁をなぞり、その場にうずくまることしか出来なくなってしまう。
夏紀が一歩、近付く音。他の音は何も聞こえなかった。
「こんなの、納得なんて、出来るわけ、ない。ねえ、教えてよ。私達が、何を間違えたっていうのよ」
しばらくの沈黙。やがて夏紀が緩やかに息を吸う音が、優子の耳に届く。
「アンタの言う通り、あたし達みんな頑張ったよ。全力を出し切った。最高の演奏だった。間違いなんてあるワケない」
「だったら、どうして」
口を突いて出た言葉は、それがそのまま自分へのトドメとなった。
唇がわなないて、瞳の奥が燃えるように熱い。頬をぽろりと何かが伝い落ちる。それを引き金に、それまで溜め込んでいたものが目頭からボロボロ溢れ出し、瞬く間もなく視界を搔き乱していく。喉の奥から嗚咽が洩れ出し、ギリギリのところで踏みとどまっていた自分の心は、ついにガシャンと打ち砕かれた。
「嘘よ、こんなの。嘘だって、誰か、言ってよ……」
もう、堪えることなど不可能だった。感情に任せた自分の叫びがどんなだったか、それすらも優子は良く覚えていない。
腕の中のトロフィーを抱えたまま、人目を憚ることも無く、震えの収まらない自分自身にしがみつくようにして。
優子はひたすらに抑え込んでいた感情を、爆発させるしかなかった。
その時、自分を見守っていた筈の夏紀がどんな顔をしていたのかは、分からない。
けれど視界の端に映った夏紀の手は、今にも血が噴き出そうなほどに、ぎりりと固く握り締められているみたいだった。
それは優子にとっては何もかも、初めて見る光景だった。
大学の学園祭。いつものキャンパス内にごった返す人の波は、普段のそれと比べても明らかに多い。恐らく外部から来ている人も沢山居るのだろう。あちらこちらで賑々しい声が飛び交い、時折火薬の爆ぜるような大きな音が鳴る度に体がぎょっとする。当初は高校までの学校祭に毛が生えた程度のもの、ぐらいにしか思っていなかったのだが、いざこうして設営された数々の屋台や出し物やらを眺めていると、本物の祭りみたいだという気分さえする。
「いやー、それにしても今日は絶好の日本晴れで、良かったよねー」
隣を歩く希美が額に手をかざし、眩しそうに空を眺める。彼女が手にする棒の先では、今しがた屋台で買ったホットドッグがほかほかと湯気を立てていた。
「さっきお昼食べたばっかで、良くそんなの入るわね。太るよ」
「だってメチャクチャ美味しそうだったんだもん。それに日頃バイトで汗水垂らしてるから、このぐらいじゃ太りませーん」
にへら、と口角を上げる希美に呆れてみせたものの、その気持ちは分からなくも無い。辺りに漂う焦げたソースの匂いに加え、クレープやらわた飴やらの甘ったるい香りは、既に満腹だったはずの自分の食欲をも大いに刺激していた。あっちのお店で売ってるチュロスぐらいなら食べても平気かしらん。そんな事を考えつつ、優子も手を
既に夏休みは終わり、暦の上でも秋は只中にあった。それでも今年の夏はまだまだ終わる気がないようで、今日も予想最高気温は真夏日付近まで高まる見込みだ。いわゆる異常気象というやつだろう。最近の日本は何かがおかしい。
「さっさと涼しくなってくれた方が、秋らしくてありがたいんですけど」
「急に何の話?」
「何でも。ただの独り言よ」
こうして学園祭の空気を存分に堪能しつつ、優子と希美は目的の場所へと歩みを進める。自分達が所属するオーケストラサークルの出番は既に終わり、役目から解放された二人は先日の約束通り、夏紀が出演する予定のライブが行われる会場へと向かっているところだった。
と、二人の目の前を突然何かが遮った。鼻を突く強烈なフレグランスの臭いに、うげ、と優子の口から呻きが洩れる。
「ねえねえ、キミ達これからどこ行くの? 良かったら俺らと一緒に遊ばね?」
足を止め、優子は声を掛けてきたその人物たちにジト目をくれる。
見た目からして、自分達とさほど変わらぬ年頃の男子が二名。不似合いなジャケットを羽織り、奇抜な色に染められたバサバサの髪。彼らの風体はいかにも大学生活満喫中、といった雰囲気に満ち満ちていた。
一言で言えば、チャラい。優子にとって、あまり好きではない類の男性だ。
「せっかくの学祭だしさー、一緒に楽しもうよ」
そう言って男の一人がこちらに手を伸ばしてくる。なんだコイツ、蹴っ飛ばしたろか。そう思った次の瞬間、ぺちり、と男の手が何かに跳ね飛ばされた。希美の手に握られていたホットドッグの包み。それが男の手を退かしたのだ。希美は笑顔を保ったまま悪びれもせず、滑らかな動作で謝罪のポーズを作る。
「ゴメンねー。私達、待ち合わせの約束してる人が居るから」
遅れるとあの人恐いんだよー、などとうそぶきつつ、希美が優子の手首をグイと掴む。
「というわけで急いでるんで。さ、行こ」
呆気に取られる男達を置き去りにして、希美はスタスタと歩き出した。有無を言わさぬ彼女の勢いに引っ張られるがまま、優子もその後に続く。人ごみに紛れ彼らの姿も見えなくなった、というところで希美はするりとその手を離した。
「ありがと、希美」
優子は素直に感謝の意を述べる。希美はそれに、照れと苦笑が混じったような笑顔を浮かべた。
ああいう手合いは正直、あまり得意ではない。別に断り切れないという訳ではなく、あんな風にネチネチと絡んでくる男にはついカッとなってしまう、と言った方がより正確だろう。そんな獰猛さを必死に抑えながら場をやり過ごすのには毎度苦労していた。
「頑張ってたよねえ、あの人達も。優子はともかくとして、私なんかのどこが良いんだか」
さも不思議そうにまじまじと、希美が己の身体へ視線を向ける。いくら何でもそれは謙遜が過ぎるだろう。優子はそう思った。
傘木希美という女子を客観的に評価するならば、異性はおろか同性から見たって魅力的だと思える要素を、この子はたくさん持っている。それは決して外見的なものだけではない。人当たりの良さ。他人とすぐ打ち解けることの出来る柔軟さと協調性。人を束ね動かすカリスマ性。意志の強さ。努力家なところ。そしてカラリと明るい性格。これらは希美についての評価として、全て妥当なものだと言える。
さっきみたいな状況だって、僅かな間であれほどスムーズに事を収めてしまえるのは、希美の持つ優秀さの表れだ。機転を利かせつつ最適な判断を取る。そういう所もひっくるめて、彼女に憧れる人物は過去大勢居た。例えば、みぞれのように。
優子は唇をぎゅっと噛み締める。改めて希美の良いところを認識して、けれど同時に、それをすごく勿体ないとも感じていた。
「さ、早く行こうよ。怒らせたら恐いのはホントでしょ、あの子」
そうね、と頷いて、優子は再び歩き出す。憧れると言えば、以前アイツもそう言っていた。そのアイツは今は、希美の事をどう思っているのだろう。そして、私の事は。
かぶりを振って、優子は頭に沸きかけた思考を打ち払う。それ以上先を考えるのは恥ずかしかったし、何より、馬鹿みたいだった。
キャンパスの中庭に設けられた、野外ライブのステージ。そこへ優子達が到着した時にはちょうど、別のバンドグループがガチャガチャと騒々しい演奏をしていたところだった。
メインボーカルの男子が抱えているのは確か、フライングVとかいうモデルのギターだ。彼らがマイクに向かって叫ぶその声は、ほとんど雑音とも呼ぶべき音だった。キーンと響く不快感。優子は思わず耳に指を詰める。あまりにうるさすぎて、今にも鼓膜が破裂しそうだ。
「何なのよ、これ」
隣に居る希美も自分と同じポーズをしている。こちらに向かって口をパクパクさせているが、何と言っているのかまでは聞き取れなかった。
が、ん、ば、ろ、う……? いや違う、パンクロック、って言ってるのかな?
などと考えているうちに演奏はクライマックスを迎えたようで、ボーカルの絶叫と共に、それはそれは長いフェルマータで大音量が響き渡る。強烈なハウリングの音がアンプを軋ませ、それが消え失せたのを合図に彼らの出番は終わったようだった。ぶはあ、と大きな溜め息をついて優子は耳から指を離し、げっそりとうな垂れる。
まだ頭がガンガンする。あと数分もあの曲を聴いていたなら、その場で吐いてしまったかも知れない。あの演奏にキャーキャーと黄色い歓声を送る聴衆たちの存在が、優子には到底信じられなかった。
「次みたいだよ、夏紀たちの出番」
希美の声に合わせたかのように、優子は汗だくになった顔をステージへと向ける。そこには夏紀が居た。サンバーストカラーに彩られたエレキギターを提げている彼女の姿は心なしか、普段よりも凛々しく見える。他のメンバー達も一様に女性ばかりで構成された、いわゆるガールズバンドという形態だろう。
夏紀を含めギターが二人、ベースが一人、あとはドラムとキーボードが一人ずつ、というバンドに良くある構成となっている。夏紀はと言えばその中央、メインマイクのある場所に陣取っていた。
「ボーカル? アイツが?」
自分でも知らぬうちに、懐疑の声が口から漏れ出てしまっていた。それを聞き留めた希美がくすりと笑みをこぼす。
「あれ、優子知らない? けっこう歌上手いんだよ、夏紀」
そんなの知るわけない。高校時代、夏紀が本気で歌っているところを見た事なんて一度も無かった。定演の時には二人で歌を披露したこともあったけれど、それはあくまで楽器紹介のMCを兼ねた程度のものだった。
それに、あの時の夏紀の歌唱は音程や声量こそきちんとしたものだったけれど、そこまで本腰を入れてはいなかった。そんな夏紀に対して、これまで優子は彼女がバンドでメインボーカルを張れるほどの歌唱技術があるだなんて、知るどころか考えた事すら無かったのだ。
優子が困惑しているうちに、舞台上のメンバー達がそれぞれ準備を終える。赤茶色の前髪をカチューシャで留めたドラムスの女子が小さく頷いたのを合図に全員が頷きを返し、そして真正面を向く。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
カンカン、と拍子を打つスティックの音。リズムに乗ってスネアドラムが軽快に叩き鳴らされ、演奏は始まった。その音に優子は、一瞬にして引き込まれる。
有り体に言って、こういったバンドミュージックを生で聴く機会はこれまでほとんど無かった。生演奏を聴きたいとも思っていなかったし、食わず嫌いの気があったことは認めざるを得ないだろう。けれど今、目の前で曲を奏でるこのバンドの演奏は、一言で言うならとても洗練されていた。掻き鳴らされるギターの音もキーボードの音も、決して耳うるさいものではない。少しだけ抑えられた音量が却ってメロディの輪郭と魅力を浮き彫りにしている。黒髪の女子が弾くベースの音は、自分の身体に心地良い振動を生んだ。
イントロ部分のギターを鳴らしていた夏紀が唇をマイクに近付ける。息を吸う音がして、そして彼女は歌い出した。
「何よ、アイツ……」
夏紀の紡ぐその歌声は、どうやら英語の歌詞を紡いでいるらしかった。英会話に長けているわけでもない優子には、歌詞の意味を聞き取ることは出来ない。しかしそれが全く気にならないぐらい、夏紀の歌声は力強く生気に満ち溢れたものだった。
決して複雑ではないメロディに添えられた夏紀の歌唱。それは正確な音程を保ちつつ、時に生き物のように蠢き、彼女達の演奏に命を吹き込んでいく。はっきり言って、夏紀の歌はとても上手い。それも自分の想像の遥か上を行く上手さだ。
ふと周囲を見やると、さっきは狂気の如く振る舞っていた聴衆も、今は誰もが目の前の演奏に聴き入っている。そのうちどこからか手拍子が聞こえ、それは徐々に広まっていき、ついには会場中が奏者達の律動に合わせて一斉に手を鳴らしていた。希美ですらその輪に混じり、心から楽しそうに手拍子を打っている。
音楽だ。彼女達は今ここで、本当の音楽をしている。理屈ではなく直感で、優子はそれを感じ取った。
曲がCメロを抜けて最後のサビへと向かう。夏紀の声にはさらに力が籠る。その音の圧に身体が揺さぶられる。リズムに合わせて夏紀が身体を捻ると、彼女のポニーテールがひらりと宙を舞った。
少し低めな夏紀の声が、耳にじとりと沁み込む。彼女の歌声は、まるで泣いているような、微笑んでいるような、そんな素敵な輝きを放っていた。
ステージに立つ夏紀の表情に、緊張や羞恥の色はこれっぽっちも浮かんでいない。そこにはただひたすらに、音楽を奏でる喜びを堪能する夏紀の姿があった。
単純に、凄いと思った。
そしてその凄さに圧倒されつつも、なんだか一人取り残された気分になっている自分が居る事を、優子は感じていた。
大学に入って間もない頃、級友に「サークル入るの?」と尋ねられた優子は迷わずこう答えた。
「ここオーケストラサークルあるって聞いてたから、そこに入るつもり」
そのぐらい、優子は音楽が好きである事を自認していた。高校の三年間で全てを出し尽くした。やり切った。その自負はある。けれど何となくまだ音楽に未練があるような、そんな心地もしていた。
いざサークルに入ってトランペットを吹いてみると、その思いは単なる杞憂に過ぎなかったと感じた。トランペットを吹くのは楽しい。そして、コンクールの結果に左右されずに仲間達と音楽を作る事にはそれなりの充足感もあった。
これで良い。何もコンクールだけが、勝ち負けだけが、音楽じゃない。
優子はそう思った。いや、それはただ単に、そんな風に自分に言い聞かせようとしていただけだったのかも知れない。今でも別に、勝ち負けこそが音楽の本質だなどとは思っていない。音楽にはそれ以上の素晴らしさがある。魅力がある。それを掘り下げていく方法はコンクールだけ、と限られているわけじゃない。競争なんかに執着しなくたっていい、その筈だ。
けれどその度にどうしても、あの日の事が頭をよぎる。
関西大会で全国への代表権を取れなかった、あの瞬間を。
そして堪え切れず泣き崩れてしまったことを。
あの感覚を思い出す度、どうしても心の中にぽっかりと空いてしまった『何か』があることを、優子は感じずにはおれなかった。
その『何か』を埋めるものが何なのか、未だに見つからない。これを埋められるものを、勝ち負けの世界に戻りさえすれば得ることが出来る、というわけではきっと無い。そんな漠然とした予感が優子の内にはあった。
だからこそ、どうすればいいのか分からない。
自分が本当は何を欲しているのか。その何かを、どうしたら満たす事が出来るのか。
おもむろに窓の外を見やる。灰色一色に染まった街並みは、まるで涙でずぶ濡れになっているみたいだ。二人掛けのソファに腰を下ろし、優子はテレビのリモコンの赤いボタンに指を掛ける。
「……発達した大型の温帯低気圧は、今日明日、関西上空に留まる予定です。雨は今後も強まり、河川の増水などが予想されますので、近くにお住まいの方はお出かけなどを控えて……」
ブラウン管の中のキャスターが深刻そうな顔つきでコメントをしている。昨日の夜からこればっかりだ。優子は溜め息をつき、テレビを消してソファから立ち上がった。
報道の通り昨日の夜から天候が荒れ始め、朝起きた時にはしとしとと降っていた雨は、今はもうザアザアと滝のように注がれる様となっている。この勢いなら数年ぶりに電車も運休になる事だろう。前回は確か二年前、台風が直撃した時だったか。大学もきっと休講となる筈だ。ならば大人しく家で過ごしていた方が賢い。こうなることを事前の予報で知り得ていた優子は、もうこの数日は出掛けぬつもりで部屋に籠城する構えを決め込んでいたのだった。
キッチンへと向かい、冷蔵庫から食材を取り出す。たまねぎ、人参、じゃがいも、豚肉。それらを調理台に並べ、優子はまずたまねぎを手に取りまな板の上へと置く。
右手に持った包丁で、たまねぎの上端と下端をざくりと切り取る。切れ目から薄茶色の表皮をぴりりと剥ぎ取ると、白く艶やかな身がその姿を現した。この部分は果肉か何かだと長らく思っていたのだが、実はこれが葉の付け根であると知った時には随分と驚かされたものだ。けれどその知識は恐らく、今後の人生においてさほど役に立つことも無いだろう。ここが食べられる部位であると知ってさえいれば、それでいい。
その白い実を真っ二つに切り裂いて、タンタンタンとリズム良くたまねぎをみじん切りにする。食べる時にちゃんと存在感があるように、少しだけ大きめに。そう思いながら包丁を動かしていると、切断された繊維から迸るたまねぎの臭気がツンと鼻腔を突き抜け、優子の涙腺に突き刺さった。
「あーもう、ティッシュティッシュ」
リビングへ戻ってティッシュを取り、目から零れる涙を拭き取る。どうしてたまねぎは人を泣かせるのだろう。感情などまるでおかないましに生理的な反応として、人間はその刺激に涙を流してしまうのだ。とは言っても、全然平気な人もいるらしいのだけれど。
『泣く』ってどういう事なんだろう。そんな事を考えながらみじん切りにし終えたたまねぎを、用意してあった鍋へと放り込む。少しだけサラダ油を注ぎ、IH式コンロのスイッチを押す。パチパチ、と鍋の中で音を立てて炒め上げられるたまねぎの香ばしいにおい。決して焦がさぬように弱火でじっくりと、飴色になるまで炒め抜くのが母親直伝のやり方だ。
時々木べらで鍋の中のたまねぎをかき混ぜつつ、人参とじゃがいもの皮をピーラーで引き剥く。実家の母はこんなものを使わず包丁ひとつで器用にくるくると皮を剥いていたものだが、果たして優子はそんな母の真似をする気には到底なれなかった。
便利なものがあるのなら、それを使ったらいい。楽を出来るところは楽をする。そんな合理的な考えを持っているところは、自分と母との明確な相違点だ。それが誰に似たのか、というところまでを考える暇もなく、優子は引き続き目の前の食材に包丁を入れていく。
青芽を刈り取ったじゃがいもをさいの目切りにし、しばし水にさらす。人参は、じゃがいものサイズよりはかなり小さめに切った。ひと欠片を小指の爪ほどの小ささにしてあるのも、母から受け継いだ吉川家ならではの拘りだ。そして豚肉を広げ、これを人参と同じサイズに小さく切り分ける。これで材料の下ごしらえは一通り終了だ。
炒めていたたまねぎは既にかなりいい色合いとなっていた。そこに少量の油を追加すると共に、切り終えた豚肉を投入する。ジュウ、という何とも言えない音と共に、たちまち白く変色してゆく豚肉。次いで人参、水から引き揚げたじゃがいも、と順序良く鍋に入れたところで一旦火を止め、食材が泳げる程度の嵩まで水を灌ぎ入れる。そのまましばらくぐつぐつと煮込みながら、水面に浮いてくるアクを掬い網で丁寧に取り除く。
「さて、後は火が通ったらコレを入れる、と」
引き出しから取り出したのは、優子愛用のカレールウ。そのパッケージにはリンゴとハチミツのイラストが描かれている。これらが隠し味としてどのぐらいの効能があるのか定かではないが、このルウで生み出す味が優子はいちばん好きだった。
そのうち鍋からぐつぐつと泡が噴き出す。火を止め、小皿に取り分けたじゃがいもにブスリと箸を突き刺すと、じゃがいもはほっくりと柔らかい感触を示した。
よし。
パッケージを破ってルウが収められた包装を取り出し、六個がワンセットになったその包装ごとベキベキと手でへし折る。フィルムを剥がし取り、砕かれたルウを鍋へと落とし入れ、おたま杓子で具材をぐるぐるとかき混ぜルウを溶かしていく。
やがて、透き通っていた鍋の水が徐々に黄土色へと染まっていく。そこに隠し味として犬の絵柄が描かれたソースひと匙とチョコレートひとかけらを投入し、再び火を点けかき混ぜながら温める。これで十分にとろみが付けば、吉川家自慢のカレーは完成だ。そこまでの段取りを終えて、優子はチラリと冷蔵庫に掛けてあったカレンダーに目を遣る。
学祭も終わり、秋はどんどん深まりつつあった。月末には遠出の予定もある。それに向けて旅費を蓄えておかなくてはならない。その為に、どうにか家計を切り詰めよう。こんな思いもあって、優子はここ数食分をまかなえる量のカレーを一度にこしらえることにしたのだった。
やがてくつくつと、真っ赤な液体から気泡が出始める。そこで優子は火を落とし、鍋に蓋を被せた。
一人暮らしを始めてからこっち、カレーを作ったことは何度もあったが、これだけの量を一度に作るのは今回が初めてだ。毎日食べ続けると流石に飽きが来るかも知れないが、当分はこれで耐え凌ぐのも致し方ない。日ごとに味付けや添え物を変えてみるのもいいかも。そう考えていた折、テーブルに置いてあった携帯がピロンと鳴動する。
振動の仕方からして、それはインスタントメッセージの着信。誰からだろう。もしや希美あたりが今日の雨について、呑気に感想でも送って来たのだろうか。
リビングへと移動し携帯を手に取る。画面を開き、そこに示された文章を見て、優子の胸はどくんと弾んだ。
『いま家にいる?』
そのメッセージを送って来た主は、夏紀だった。
こんな日に何故、このタイミングで? 優子は訝しむ。どう返信すべきかと迷ったものの、考えたところで仕方ないと思い至り、優子は事実のままのメッセージを携帯へと打ち込んだ。
『そうだけど。何か用?』
妙にぶっきらぼうな感じになってしまったが、これ以上書くべきことも見出せなかったのだから如何ともしようがない。わざわざ修正する必要も無いだろう、と割り切って優子は送信のボタンを押す。夏紀からの返事はすぐに来た。
『助かった! ちょっと匿って』
はあ? と優子は携帯の液晶に思わず疑問の声を浴びせてしまった。匿う? 一体全体、夏紀は何のつもりでこんなメッセージを送って来たのだろう。そもそもこの大雨の中、アイツはどこに居るというのか。訳が分からぬまま携帯を握り締め、優子はしばらく呆然と立ち尽くした。
それからは数分ほどの間しかなかった。ピンポーン、と鳴らされたチャイムの音に優子はのろりと立ち上がり、玄関へと向かう。玄関のカギを捻り、ノブに手を掛けてドアを開けると、
「ひー、マジで助かったわ。ちょっと雨止むまでここで雨宿りさせて」
いつかの時と同じように、へらりと笑顔を浮かべながら。
しかし全身ずぶ濡れになった夏紀の姿が、そこにはあった。
〈続く〉