「ちょ、何よそのカッコ」
濡れネズミと化している目の前の来訪者を相手に、優子は素っ頓狂な声を上げてしまう。額にぐちゃりと張り付いていた前髪を鬱陶しそうに掻き上げつつ、夏紀は肩をすくめてみせた。
「いや、今日ちょっと大学に用事あってこっちまで来たんだけどさ。そしたら帰りに大雨に降られちゃって。傘は風ですぐ壊れちゃうし、電車ももう止まっちゃったし、あっという間にご覧の通りよ」
「それは見れば分かるわよ。天気予報見てなかったの? 今日は大雨って散々テレビで言ってたじゃん。こんな日に何ほっつき歩いてんの」
「ニュースは見たけどさ。まあ用事終わる頃までは大丈夫って高括ってたけど、いやー、読みが外れたわ」
「アンタ、本気でバカなんじゃないの?」
いつもの調子でつい軽口が出てしまう。そのぐらい、夏紀の言い分は荒唐無稽なものだった。
「バカでも何でも結構ですけど、とにかく雨が落ち着くまでここ居させてよ。ファミレスとかカラオケも、この雨のせいで閉まっちゃってて」
強気な口調こそ崩していないが、夏紀の嘆願はきっと本心からのものだろう。共用スペースの向こうからはザーザーと、滝のように降り注ぐ雨の音が聞こえて来る。昼頃よりもその勢いは強まってきているようだ。こんな状況をやり過ごせる場を、夏紀はここ以外に見繕うことが出来なかったに違いない。おまけに秋雨に濡れて冷えたせいか、彼女の肩は微かに震えていた。ハア、と優子は大袈裟に溜め息をつく。
「とにかく、ここでそうしてたら風邪引くでしょ。上がんなさいよ」
優子は顎でグイと部屋の奥を示す。その動きに従い、夏紀は「お邪魔します」と玄関の内側に入って来た。ポタポタと彼女の服から垂れる滴の量は決して少なくない。この大雨の中、本当についさっきまで、夏紀は雨降る表通りをここまで走って来たのだろう。浅く息を切らしている夏紀の表情からは、どうにか止まり木を見つけた、とでもいうような安堵の空気を感じる。
「あ、上着はそこで脱いで、そのままそっちの洗濯機に入れてよ。廊下濡らしたら後で掃除させるから」
「ハイハイ」
優子が声を掛けるまでもなく、夏紀は既に羽織っていたパーカーの裾に手を掛けていた。袖のところが引っかかっているようで、うまく脱げずにもたついている。その間に優子はリビングへと向かい、干してあった大判のタオルを一枚取ってきて、それを夏紀に渡した。
「ほら」
「ドーモ」
タオルを受け取った夏紀はまず髪の毛の水分を吸い取り、続けて黒と灰のボーダー柄があしらわれたインナー越しに自分の身体を拭いていった。濡れそぼった生地はぴったりと身体に張り付いていて、それがスレンダーな彼女のスタイルを強調するのに一役買っていた。
「今からお風呂沸かすから。準備出来たらとっとと入りなさいよ」
「え。別にいいよ、そこまでしなくたって。雨宿りさえ出来れば」
「そのずぶ濡れの服で部屋ん中汚されたらたまんない、って言ってんの。玄関に突っ立たれっぱなしってのも、私の気分が悪いし。それとも服が乾くまで素っ裸で過ごすつもり?」
「うわ。アンタに見られてんの想像したらトリハダ立った」
「ケンカ売ってんの? とにかく今から準備するから、もうちょっとそこで体拭いてなさい」
「へーい」
ふざけた調子で返事をする夏紀をギロリと睨め付けて、それから優子は脱衣所を通り、浴室の壁に貼り付けられたボイラー操作の給湯スイッチを押した。
もう夕刻が近いこともあり、それに天候の荒れ具合からして落雷停電の恐れもあったため、ボイラー自体の電源は既に入れてあった。恐らく十分としないうちに、湯船にはたっぷりのお湯が張られている筈だ。
「もうすぐ沸くから。身体、ちゃんと拭いた?」
「OK」
「じゃあどうぞ」
夏紀の服から水滴が垂れ落ちなくなっているのを目視して、それから優子は夏紀を案内する。靴を脱いだ夏紀はまず器用に片足ずつを上げて靴下を剥ぎ取り、
「あー、体中ビッチョビチョで気持ちわる」
夏紀が洗面台のところでインナーの袖をギュウと絞る。タオルで吸い取り切れなかった水分が押し出され、排水溝へと流れていく。この分だと、仮に夏紀の着ている衣服全部を今から部屋に吊るしたとしても、乾くまでには丸一日以上かかってしまう事だろう。どうせなら洗った方が早い。そう判断し、優子は既に夏紀のパーカーが放り込まれている洗濯機へと親指を向けた。
「その服も洗濯機に入れちゃって。アンタがお風呂入ってる間に回しとくから」
「これ洗っちゃったら、あたし着るもの無くなっちゃうじゃん」
「乾くまで私の着てればいいでしょ。アンタとサイズ同じなんだし」
「そっか」
珍しく、夏紀が自分の言に素直に従った。
悪天候のせいもあるのだが、今日の気温は室内に居てさえも肌寒さを感じさせるほどになっている。そんな中、冷たい雨に打たれてすっかり体力を消耗した夏紀はもしかすると、いつものように噛みついてくる気力も失せているのかも知れない。
ほんの少し、優子の胸の内を翳りが覆う。でもそこで変に心配する素振りを見せるのも、何だか癪だった。
このぐらいが多分、ちょうどいい。自分と夏紀の距離感は。
『マジで怒るよ』
そう言い放った夏紀の形相は、今までに見たこともないほど強い感情を孕んだものだった。何かを言い返すことも出来ぬままの優子がただぐっと唇を噛んでいるうちに、踵を返した夏紀がスタスタとその場から去って行く。そのまま暗闇の中にぽつんと、自分だけが取り残された。夏紀の態度が彼女なりに本気で自分を気遣ってくれているが故なのだ、とは分かっていても、それをあっさり認める事はどうしても出来なかった。
別に、夏紀がどうこうという話ではない。自分は部長だ。だから、関西大会前の最後の追い込みをかけるこの合宿の最中に、その自分が真っ先に潰れている訳にはいかない。ただそれだけの話だ。
額に手を当ててみる。熱は、夏紀の言うほどあるとは思えない。いや、それももしかして自分の身体の方がもうとっくに熱くなっていて、手と頭の温度差を感じられないだけなのかも。意識がぼうっとする。夜とはいえまだ大分蒸し暑い筈なのに、それに反して全身を襲う寒気と怠さがみるみるうちに力を奪っていくような、そんな嫌な感覚があった。さっき夏紀に言われた通り、自分の体調が良くない状況にある事は、自分自身がいちばん良く分かっていた。
『けど、そんな事言ってられないでしょ』
誰にともなくそう呟いて、立ったまま膝に手を置き、中腰の姿勢になる。
背を伸ばして立っているのも最早しんどい。
だけどここで倒れることは、それだけは、出来なかった。
部内に起こった数々の問題を、優子と夏紀は一つずつ的確に潰して来た。勿論、彼女達だけの手腕で解決出来たものばかりでもない。優秀な仲間達や後輩の助力を受けたことも幾度となくある。部長就任後、優子はそうやって、極力部内に波風立てぬ事を第一の方針としてやって来た。
去年までの自分達のような目に、後輩達を遭わせたくない。
人間関係においても、音楽面においても、問題として表面化すれば部のまとまりは一気に瓦解してしまう恐れさえある。関西大会はもう目の前。それに向けて改善すべき点は、まだまだ沢山あった。
ここが踏ん張りどころだ。風邪ごときに負けている場合じゃない。……そんな自分の考えを、夏紀は全て見通しているかのようだった。自分一人なら歯を食いしばって、それこそ血を吐いてでも上を向いて、部長としての責務をやり遂げようとしただろう。そうやって知らず知らずのうちに無理をしている自分の事を、夏紀はきちんと制してくれる。だからこそ自分は必要以上に余計な事を考えず、全力で突っ走る事が出来たのだ。
優子が北宇治吹部の部長として過ごした日々。
いつも傍らにあったその安心感は、とても腹立たしくて、でもほんの少しだけ、心地良かった。
「あのさあ」
うんざりした声を上げながら、夏紀が脱衣所から姿を現す。
「替えの服なんだけど。これもうちょっと何とかならなかったの」
さっきまで彼女が身に付けていた衣服は全て、既にゴゴゴゴとけたたましい音を立てて回る洗濯機の中で、洗剤と一緒にもみくちゃになっている。代わりにと優子が用意した着替えは、彼女自身の部屋着の一つだった。
濃いピンク色のトレーナー、胸の部分にはデフォルメされた白い犬のイラストが描かれている。黄色いフキダシに納められた「I love you. 」という台詞はとても愛らしいフォントで記されていて、色、柄、共に優子お気に入りのデザインである。
「ガタガタ文句言わないの。洗濯終わるまでなんだから我慢しなさいよ」
「優子のセンスって、ホントあたしには理解しかねるわ」
などとケチを付ける夏紀は風呂上がりの為か、いつも後ろできつく縛っている髪をほどいていた。その長さは高校時代よりもほんの少し伸びている。髪を下ろした夏紀を見たことはこれまでに何度もあったけれど、今日の夏紀の姿は優子の目にひどく大人びて見えた。
既視感。
いつかの時にも同じ印象を受けたことがあったような気がして、優子はつい夏紀から視線を逸らしてしまう。まだ乾き切らない髪を、これまた優子が用意しておいたバスタオルでガシガシと乱暴に拭きながら、夏紀はソファの中央にドカリと腰を下ろした。
「あー、でもホントさっぱりした。この状況でお風呂入れるなんて思ってなかったよ」
「感謝しなさいよ。普通、いきなり来たトモ……ヤツにお風呂貸すなんてこと、しないんだからね」
うっかり『友達』と言いかけてしまったところで優子は口をつぐみ、すぐさま言い直す。
「もちろん、心の底から感謝してるよー。今度学食奢るわ」
「なんか、あんまり感謝してる感じしないわね」
「しょーがないって。もうすぐ名古屋行きなんだし、お金に余裕ないのはそっちだって同じでしょ」
「まあ、そうね」
先日は遅刻したりもしていたけれど、一応コイツにも元副部長としての自覚はちゃんとあったらしい。そんな事を考えつつ、優子はソファの向かい側にあるベッドの端に腰を下ろす。
「で?」
「で、って何よ」
「こんな大嵐の中、大学まで来た理由。休講になるって連絡、貰ってなかったわけじゃないんでしょ?」
真正面から夏紀にジト目を向ける。対する夏紀は何でもないような素振りをしていたが、その視線だけは少し上の方を見ていた。
「あー、まあ、バンドの楽譜置き忘れててさ。次のライブ来月だし、家でもちょっと練習しておきたくて」
「ふうん」
優子の返事はいかにも気の無いものだった。それは夏紀という人間の性分を、優子が良く理解しているから。
学祭であれだけの演奏と歌唱をやってのけた夏紀の事だ。高校でユーフォニアムを吹いていた頃もそうであったように、来月に迫った本番で演奏する曲の楽譜ぐらい、とうに頭の中に入っているに違いない。つまりはたかだか一日二日の間だけ家で曲練する程度のことに、わざわざ楽譜を見る必要なんてある筈がない。優子はそのように踏んでいた。
「まあ別にいいけど。でもこんな天気の日に外を出歩くなんて、正気を疑われるわよ」
「それは完全にあたしの読みが外れたわ。まさか夕方になる前に、こんな降って来るとは」
「予報でも昼過ぎから低気圧のど真ん中が来る、って言ってたけどね」
「最近の天気予報なんて、アテになんないし」
まるで子供みたいな屁理屈を捏ねる夏紀の態度に、優子の口からひゅるりと吐息が漏れる。またさっきと同じ軽口を叩いてしまいそうになったから、というのもあるが、少なくとも夏紀が本当の用事を自分には教えるつもりが無いのだろう、という事だけは良く解った。
丁度その時、ピピー、と洗濯機から甲高い電子音が鳴り響く。洗濯の終わった合図だ。
「アンタあれ、自分で干しなさいよ」
そのぐらい出来るでしょ、と優子は窓の隅に置いてあった物干しスタンドを顎で示す。夏紀は胡乱げな瞳を一度そちらへ遣って、おもむろにソファから背を離した。
洗い物をかごに入れ廊下から出てきた夏紀が、心底めんどくさそうに衣服をスタンドに掛けていく。優子も立ち上がり、そして台所へと向かう。
「ところでアンタ、カレー好き?」
「別に嫌いじゃないけど、何で?」
「今日の晩ご飯、カレーだから」
そう言いつつ、優子は机の上に置いてあったデジタル式の時計に目を遣る。
分厚い雲に覆われている空のせいで現在の時刻が掴みにくかったが、既に陽の落ちる時間は目前に迫っていた。今洗ったばかりの夏紀の服が、今夜中に乾くことは無いだろう。
それに今の彼女には、家に帰る手段も無ければ夜露を凌げる場所もここ以外に無い筈だ。つまり夏紀はこのままこの家で一夜を明かすことになる。流石に晩ご飯ぐらい食べさせなかったら、家主として人間性が疑われてしまう。そんなのは優子にとって、何より我慢のならないことだ。
「言っとくけど、アンタの為に作った訳じゃないんだからね」
どこぞの定型句みたいな断りは、けれどそこには深い意味など何もなく、せいぜい『ありがたく食べなさいよ』程度のものだった。食器棚からカレー用の皿を二つ取り出す。片方の皿が少し欠けているのを見て咄嗟に、こっちの皿は自分用、と優子は思った。
「いただきまーす」
リビングに置かれた小さな木目テーブルの上で、夏紀が律義に手を合わせ、そして銀色に光るスプーンを手に取る。それを真っ赤なカレーの汁に浸し、弄ぶようにカチャカチャと前後に揺すった。
「えー何これ、シャバシャバじゃん」
「文句言うな。これが我が家のカレーなの」
優子の弁は決して嘘などではない。少し水気の多いカレーの作り方は母直伝のものだ。こうした方がご飯に良く絡んで、お父さんが喜ぶから。そう言っていた母の横顔を、優子は今も良く覚えている。中学の頃から暇を見ては母の家事を手伝っていた優子は、高校を卒業するまでの間に母が有する料理レシピの殆どを習得済みだった。
「ふーん。あたしん家ではもったり黄色カレーだったから、なんか新鮮」
「それ皮肉ってんの? いいからさっさと食べなさい」
「ハーイ」
ふてくされた悪戯小僧のような返事をしながら、夏紀はライスをルウで溶いて掬い上げ、そして口に運ぶ。
「うわ、辛っら」
「この辛さが美味しいんじゃない」
「これホントに分量通り入れてる?」
「入れてるわよ。仕上げにガラムマサラをたっぷり入れるのも我が家流」
「はー」
顔をひきつらせた夏紀は横に置いてあったお冷を手に取り、グビグビと一気に飲み干した。彼女の額に噴き出た汗の粒は、ちょうど手にしたグラスの結露とおんなじ形をしていた。
「優子と結婚するヤツは大変だね。毎度こんな辛いカレー食わされたら、舌がバカになりそう」
「ちょっと、なに勝手に私の結婚相手を不幸設定してんのよ!」
「あーそっか、辛い物好きの相手と結婚すれば問題ないのか」
「無視すんな!」
優子は平手でテーブルをバンと叩く。コイツ、もういっぺん外に放り出してやろうか。そんな殺意にも似た感情が、一気に頭のてっぺんまで昇って来た。
「でも慣れて来たら美味いわ、このカレー」
え、と優子は虚を突かれる。その言葉はどうやら嘘ではないらしく、夏紀はひーひー言いながらも目の前のカレーをどんどんと口の中に運んでいった。
「おかわり」
ニヤリと笑みを浮かべながら、空のグラスを目の前に差し出してくる夏紀。その如才のない振る舞いに、優子はすっかり毒気を抜かれてしまった。複雑な思いを胸の内に抱きつつ、夏紀の手からグラスをひったくる。
「それとカレーも、おかわりちょうだい」
それを先に言え。ミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫に突っ込んで、優子はバタンと勢いよく扉を閉めた。
夕食を済ませた後、優子はシンクの前に立って、二人分の洗い物をしていた。
キッチンは対面式になっていて、ここにいるとリビングの様子が良く見えるようになっている。そのリビングでは夏紀がソファに身体を寝そべらせながら片肘で枕を作り、学生スポーツ関連のニュースを眺めているみたいだった。
チラリと映った選手の姿は、全身が頑強そうなプロテクターに覆われている。こんな派手な格好をして敵チームとぶつかり合っている彼らも、自分達と同世代の大学生。そう考えると、モニタの向こうの彼らとひょっとして街中ですれ違っていることもあるのかも知れない。と、そんなことを思いつつ、優子は洗い上げた皿を水切りかごに立て掛ける。
「この人らもさ、きっと何か目標があって、こんだけ一生懸命やってるんだよね」
不意にそう漏らした夏紀の問い掛けに、優子は洗い物の手を止め答える。
「そうなんじゃない?」
「大会で優勝する為、活躍してスター選手になる為、仲間と思い出を作る為。そりゃあ理由は、色々あるんだろうけどさ」
涅槃像の体勢を解いて、夏紀が身を起こす。残っている洗い物は二人が使ったグラスだけ。その片方を手に取り、優子は泡のついたスポンジでグラスの内面をゴシゴシと擦る。
「なんか時々思う。この人達って、本当に楽しめてるのかなって」
優子はそれに返事をせずに、手首で蛇口のノブを押し上げた。わっと溢れ出る水にグラスを浸すと、こびりついていた泡は瞬く間に押し流され、排水溝へと飲み込まれていく。
「でも、勝った時って嬉しいもんじゃないの? それが欲しくてやってるんだと思うけど」
「それさ。前はあたしもそう思ってたんだけど、今はちょっと違う気がするっていうか」
夏紀はこっちを見ずに話を続ける。優子もそれに倣い、すすぎを終えたグラスを水切りかごの中に入れ、もう一つのグラスに手を伸ばした。
「競争じゃないところで、本気でやり切って楽しむっていうのも、あるんじゃないかって」
やや間を置いて夏紀がそう言ったのは、二つ目のグラスの濯ぎもちょうど終わった時だった。掛けてあったタオルで手を拭き、それから優子はリビングへと向かう。
「何が言いたいわけ?」
向かいのベッドではなく、あえて夏紀の隣に腰を下ろす。そうすることを求めているかのように、夏紀の隣の席が空けられていたからだ。
夏紀がこちらに顔を向ける。その表情にはいつになく、彼女の憂いが混じっているようにも思えた。
「あたし今バンドやってるじゃん。するとさ、時々考えるんだよね。音楽って、別に競争しなくちゃいいものが作れないだとか、そういうのじゃないんだろうなって」
「そりゃあね」
「だけど高校の頃はさ、やっぱ何か結果が欲しいからって、そういう分かりやすい目標があった方が腰が入ったりしてたワケよ。何ていうか、モチベーションっていうの? そういうの」
夏紀の顔には僅かに自嘲めいた色が浮かんでいた。彼女の言いたい事が、優子には分からなくもない。結局は結果に左右される。そういう事実を優子自身、幾つも目の当たりにしてきたし、自分自身の体感としてもそういう経験は数多くあった。
中学の夏、コンクール府大会で銀賞に沈んだ時の悲しみ。
高校一年の夏、コンクールどころではなかった時の絶望。
高校二年の秋、全国で自分達の演奏が出来た快感。
そして、高校三年の夏。
唇を閉じたまま、優子はこっそりと歯噛みをする。あの日の事にはもう何度も向き合って、そしてその度に自分なりの結論を出して来た筈だった。
自分達はやり切った。全力を出し尽くした。だから、あれ以上の何かなんて求める余地は無かったのだ、と。
けれど心のどこかでは、あの日あの時己の中に生まれた『ぽっかり』が、何一つとして劣化することなく今も燻り続けている。
「そっから考えたんだよ。ウチら、結局は何の為に競争してたんだろうって。今ここに映ってるこの人らも、最初はただボールを投げたり蹴ったりして、狙った通りのところにボールを飛ばすのが面白かった、ってところから始まったんじゃないか。いつから競争して勝たなくちゃいけないって思うようになったのか、ってさ」
夏紀の横顔は至って真面目で、真摯な瞳のその行く先を、優子はただ黙って追う事しか出来なかった。
モニタに映った選手のキックで、ボールが二つのバーの内側をくぐる。それで勝利が確定したのだろう、ホイッスルの音を合図に選手達はひとところに集まり、勝利の喜びを全身で表している。そんな光景が、優子には堪えがたいほどの眩しさを放っていた。
「高校で吹部に入った時も、最初はそう思ってた筈なのに。やっぱりあたしって、周りの雰囲気に流されやすいのかもね」
達観めいた事を言う夏紀の目は、遥か遠くを見ているみたいだった。
自分と夏紀は、元・部長と副部長。
ふたり一緒にタッグを組んで、吹部の運営を担って来た。
けれどそんな夏紀からぽつりぽつりと漏れ出る言葉は、なんだか、そうであった己の過去を否定したがっているように聞こえた。
「学祭のさ」
弾かれたように口を開く。自分でも、こんな事を言うつもりなんてなかったのに。自身の行動に驚きながらも、優子は言葉を紡ぐ。
「アンタ達の演奏、すごく良かったよ」
「……ありがと」
そこで夏紀はようやく、ありのままの笑顔を覗かせた。
「正直、最初ヘルプ頼まれた時はホントに軽い気持ちだったんだけど、あの子達けっこう本気で良い音楽作りたいって思ってたからさ。だからあたしもあたしなりに、色々意見出しとかしたんだよね。ここのギターの音はもっと絞った方がいいとか、ここはキーボードを聞かせようとかって」
「へえ」
「そしたら音がどんどんまとまっていって、皆で合わせたら『これ、けっこうイケてない?』みたいな感じになって。そん時思ったんだよ。あー音楽って、こういう風に作っていくのもアリなんだ、って」
夏紀のその言葉に、優子は高校生当時の自分達の練習を振り返る。
引退前の冬にアンサンブルでの演奏経験があったとは言え、夏紀にとっての音楽経験の殆どは吹部でユーフォニアムを吹いていた時ぐらいのものだ。どちらかと言えば浅い彼女のそれを導いていたものはほぼ常に、自分以外の誰かによるものだったと言えるだろう。
自分達の意思で自分達の音楽を作る。そしてそれを、聴衆の前で存分に披露する。そうした経験を部活動の範疇で得ることは、不可能ではないにしろ相当に難しい。大学でバンドに参加しこういう経験を踏まえたことは、もしかして夏紀にとってはカルチャーショックと言える出来事だったのかも知れない。
結果に、賞に左右されず、良いと思うものをとことんまで突き詰める。そういう意識が、視点が、果たして現役時代の自分にはあったと言い切れるのだろうか。今にも震えそうになる肩を抑え込むように、優子はもう片方の手をそこに置く。
「そっからするとね、野球とかサッカーとかコレみたいに勝ち負けが前提のスポーツって、そういう気持ちになれることあるのかなって、そう思っただけ」
その問いに答えを返すことが、優子には出来なかった。
そりゃあ勝敗に関わらないところで楽しい、あるいは嬉しいと思える体験をすることも無くは無いだろう。けれどあくまでそれはそれ。彼らが最も輝く姿を見せるのはやはり勝負に勝った時、最高の栄誉を手にした瞬間だ。勝敗なんて関係ない。そう言い切ることはどうしても、憚られた。
例え採点方法が絶対的なものであるにせよ相対的にせよ、結果は結果。その結果のみを以て、自分達以外の人は『良かった』『ダメだった』と評を下す。そんな事は無い、と反論したくとも、それ以上の何かが自分達の苦労や過程にべたりと重々しいレッテルを貼り付けてしまう。
それを、認めて、受け入れなければならない。自分はそういう存在なのだと他ならぬ自分自身に言い聞かせて、そしてそれを不満に思うなら、最高の結果を出して捻じ伏せるより他にない。そんな風に考える自分がいるのもまた、否定し切れぬ事実だった。
「アンタはさ」
沈黙で会話が途切れてしまう前に、優子は夏紀へと問い掛ける。こんな事を尋ねたって、今さらどうになるものでもない。その事は痛いほど良く分かっていた。けれど、尋ねずにはおれなかった。
「後悔してること、ある?」
その問いに夏紀は目を大きく開き、そしてこちらをじっと見据えた。窓の外の景色はすっかり暗闇に包まれていたけれど、その漆黒の闇の中で、雨は未だ強く降り続けていた。
〈続く〉