なかよし川、氾濫警報   作:ろっくLWK

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四.悔恨のレシタティーヴ

 ちゃぷちゃぷ、と跳ねるお湯が今にも浴槽から溢れ出そうになっている。その様子を眺めながら、優子は湯船に顎までどっぷり浸かっていた。

 ここで暮らして半年以上。もうすっかり馴染んだはずの浴室だったけれど、今日は何だかいつもと違う気がする。

 それはきっと、夏紀のにおいがするから。

 不思議な事だ。シャンプーにしろボディソープにしろ、彼女が使ったのはここにあるもの以外に有り得ない。だからこの浴室内に夏紀固有のにおいを感じる要素なんてあるわけが無いというのに、自分の鼻腔はどこかに残る夏紀の形跡を確かに感知している。

 何なのよ、アイツ。吐いた言葉はお湯の中で瞬く間に気泡となり、目の前にぶくぶくと泡を作り出した。その飛沫が目に飛んできて、優子は反射的にまぶたをきゅっと閉じてしまう。

「はあ」

 湯面から首を伸ばし、そのままの姿勢で大きく仰け反る。目に映る天井は照明から放たれる緩やかなひまわり色に包まれていて、その柔らかさはもやもやしていた自分の心をほんの少し軽くしてくれる、ような気がした。その姿勢を保ったまま、優子はぼんやりと、先ほどまでの会話を思い返していた。

 

 

 

 

「アンタはさ、後悔してること、ある?」

 少し驚いたような顔をしてこちらを向いた夏紀の視線を、優子もまたしかと見据える。

 本当はこんな事、聞くつもりじゃなかった。

 自分達はやれるだけの事はやり切った。あれ以上の結果なんて求めるべくもない。

 だから今さらあの時を、高校時代を振り返る必要なんて無いのだ。

 これが互いの間にあった、暗黙の了解。優子自身はそう思っていた。けれど今の夏紀の姿を見ていると少しずつ、その思いが揺るがされてしまう。

 もしかして今もそう思っているのは本当は自分だけで、夏紀にとっての高校時代は、そして吹部での副部長としての体験は、もはや彼女の中で忌むべき過去となってしまっているのではないのだろうか。胸の内をズキズキと突き上げる強烈な不安に、堪らず優子は吐息を噛み潰す。

「急に何? もしかしてさっきの話で、優子さんの真面目スイッチ入れちゃった?」

 硬直していた夏紀がわざとらしく口角を緩め、小首を傾げる。

「茶化さないで」

 なおも真剣な表情で、優子は夏紀を睨み続ける。ここで夏紀のペースに乗せられたら、またいつものようにうやむやにされて終わってしまうだろう。視線に強く、熱を注ぐ。こちらの意図に気付いたのか、半開きだった夏紀の唇がゆるゆると閉じていった。

「そういう優子はどうなの?」

 尋ね返す夏紀の瞳に、もはや誤魔化しの色は浮かんでいない。今度は優子が口をつぐむ番だった。互いに音を発しないまま、外の雨音だけが響く場の空気がピリリと凍り付く。

 別に責められているわけじゃない。自分にしたって、夏紀を責めたいわけでもない。ただきっとこの件に関しては、互いの最も繊細な部分に踏み込もうとしている。言い方を一つ間違えただけで、これまでの関係があっさり崩れ去ってしまうかも知れないほどに。

 だから慎重にならざるを得ない。そんな考えが、優子の口をぎしりと縛ってしまっていた。

「私は――」

「ストップ」

 やっとの思いで喉から声を振り絞ろうとした優子を遮るように、夏紀は手のひらを突き出して来た。

「お風呂」

「は?」

「こんな長話してたら、せっかく沸かしたお風呂冷めちゃうよ。話の続きは後にして、優子もさっさと入ってきたら?」

「アンタね、人が大事なこと言いかけてる時に、」

「いいからホラ」

 夏紀の手に、優子の二の腕はグイと押しやられる。その力が思ったよりも強かったもので、よろめきかけた優子が踏ん張ろうと足に力を入れると、自然とソファから腰が離れてしまった。

「何すんのよ急に!」

「とにかくお風呂行って、アタマ落ち着けて来な」

 優子がそう声を荒げた時、夏紀は優子からそっぽを向いて、手の甲をヒラヒラと振っていた。

「それまであたしも、自分の考え整理しとくから」

 夏紀の腕がするりと下がる。ソファの背もたれにもう片方の腕を置き、頬杖をつくような姿勢を取った彼女の背中が、少し縮こまったように見えた。

 

 

 

 

 入浴を終えて手早く髪を乾かし、着替えも済ませた優子は脱衣所から短い廊下を抜け、リビングへと戻る。さっきまで賑やかだったテレビも今は点いておらず、部屋はシンと静まり返っていた。きっと夏紀が消したのだろう。その夏紀はさっきとほぼ同じ姿勢でソファに座ったままだったが、戻ってきた優子に呼応するかのようなタイミングでぐるりと振り返った。

「お待たせ」

「全然。むしろもっと長風呂しててくれても良かったぐらい」

「これ以上入ってたら私がノボせるっての」

 こんなやり取りですらいつもの調子ではなく、二人とも声のトーンを低めに抑えていた。これから真剣な話をしようという時、互いの間に流れる独特な空気感。それをどちらともなく察すると、いつも自然とこんな風になる。けれどそれは優子にとって、決して不快さを覚えるものではない。

 話の前に台所へと向かい、冷蔵庫の扉を開ける。中で冷やしてあったボトルの一つを手に取った優子は、水切りかごに置いてあったさっきのグラスを二つ並べ、そこにボトルの中身を注ぎ入れる。

「ハイ。冷やしほうじ茶」

「アリガト」

 礼を述べる夏紀の口調に、感謝の意を感じられる色はほとんど浮かんでいなかった。たった今お風呂で温まって来たばかりの自分と違って、入浴後に食事と給水をばっちり済ませた夏紀はさして喉も乾いていないのだろう。そのぐらいは優子だって理解していた。

 少し肌寒いぐらいの室温を考えたら、ここはホットコーヒーでも用意した方が良かったのかも知れない。けれどそうしなかったのは、ただ単に優子がそれを面倒だと思ったからだ。今最も大事なのはそこじゃない。グラスの一つを夏紀の目の前にあるテーブルへと置き、もう一つを手に取ったまま、優子は夏紀の隣へと腰を下ろす。

 外では未だ低気圧が猛威を振るっているらしく、びょうびょうと鋭く吹く風に混じって雨粒がひっきりなしに窓ガラスを叩く音が聞こえる。けれどこうして室内で過ごしている限り、その音は煩くて気になるというほどでは無かった。窓から目を離し、グラスを口に運んで、ついと傾ける。喉に沁み渡る冷たさとほうじ茶のふわりと香る風味とが、風呂上がりの身体に心地良かった。

「さーて、じゃあどっちから話す?」

 優子が一息ついたのを見計らってか、夏紀もまたグラスに手を伸ばしなら尋ねてきた。手元のグラスにはまだ半分くらい中身が残っている。深い茶色に染まったその液体はグラスの中でたぷたぷと、緩やかに波を打っていた。それをじっと見つめながら、優子は口を開く。

「私は後悔してない。今日までずっと、そう思って来た」

 

 揺れ動く液体の底に、幾つもの光景が浮かんでは消えていく。

 期待を持って北宇治の校門をくぐった春の日。

 去り行く仲間達のその背中を、何も出来ず黙って見つめるしかなかった夕暮れ。

 尊敬していた先輩の柔らかくて眩しい笑顔。

 後輩と激突し、その後輩にプライドも何もかもかなぐり捨てて頭を下げた朝。

 覚悟した先輩の悲壮な姿に耐えられず、大声を上げて泣いたこと。

 こんな紆余曲折を経ながらも、全国出場を目指して、仲間達とひたすら練習に血道を上げ続けた日々。

 そして、あの日。

 先代部長と副部長によって、次期部長にと指名をされた夜。

『私、やります。そして来年こそ必ず、全国で金を獲ってきます』

 決然とそう言い切ったあの時の自分には、それがきっと出来る、という自信が確かにあった。

 それからの一年間は本当にあっという間だった。部内の練習スケジュールをまとめ、部員達に指示を出し、少しでも環境を良くするよう最大限の注意を払った。その隣にはほぼいつも、副部長だった夏紀の姿もあった。優秀な一年生達が入部し、コンクールに向けての練習にもさらに熱が入り、自分の仕事は順調にこなせていると思っていた。いや、そう思いたかっただけなのかも知れない。

 実際に、破綻しそうな局面は幾つもあった。その局面をぎりぎりのところでかわし続け、次を切り抜けさえすればいよいよ全国という、その舞台で。

 優子の眼前に突き付けられたのは、残酷な現実だった。

 

「後悔するのは時間の無駄。そう思ってたし、だから部員達の前でもそう言った。けど、」

 さっきほうじ茶を飲んだばかりだというのに、やけに喉がひりつく。グラスの外側に生じた結露が一滴、音も無くテーブルへと落ちる。涙の形にも似たそれを、優子は指でぐしゃりと押し潰してやりたい衝動に駆られた。

「きっとあの時はまだ、向き合えてなかったんだと思う。自分の気持ちに」

 あの日、通路の隅で思う存分泣き濡れて、それで優子は自分の中の悔しさややるせなさを全て吐き出したと思っていた。あとは笑顔で前を向いて、優秀な後輩達に全てを託そう、と。

 そして今年の夏。その成果を見届ける為に向かった関西大会のホールで、優子は後輩達の演奏を見守った。

 掛け値なしに素晴らしく美しい演奏。昨年の演奏だって、決して劣っていたなどとは思っていない。けれど今年の北宇治の演奏は、そこからさらに何倍も磨きの掛けられた出来栄えだった。不満などあろう筈もない。彼らは自分達の果たせなかった夢を受け継いでくれた。そう思う一方で、自分の中には全く別の感情もあった。

「私、いま大学でオーケストラやってるじゃん。求められる役割が少し違っても、オケも吹奏楽も、どっちも音楽である事には違いない。大会もあるからもちろん一生懸命練習はしてるし、楽器吹いてて楽しいって気持ちもあるよ。けど、それでもどっかで、私は去年の事を別のなにかで埋め合わせしようとしてた気がする」

 さっきまで言葉にするのがためらわれていたというのに、いざ喋り出した途端、胸の奥底から想いがポロポロと溢れ出てくる。夏紀はそれに何も返さない。ただじっと真摯な眼差しで、優子の言葉を受け止め続けてくれていた。それが、彼女のその優しさが、今の優子には、つらい。

「だから、こないだ関西大会を応援しに行った時、あの子達の演奏を聴いた時、私が思ってたのは」

 みんな凄い。

 頑張った。

 良い演奏だった。

 さすが自慢の後輩達だ。

 そして、

「羨ましい、って」

 一年前の自分達が得ることの出来なかったもの。それを後輩が、あの子達が、手に入れる資格を持っている。この事実に改めて向き合った自分の感情は、とても狂おしくて。だけどそれは絶対に、表に出してはいけないものだと分かってもいて。

 欲しかった。

 結果が、欲しかった。

 自分達の努力に、頑張りに、苦悩に、判断に、『間違ってなかった』という客観的な証明が、欲しかった。

 それをこの手に掴むことの出来なかった自分自身が何より、心底恨めしかった。

 自分の胸に空いた『ぽっかり』の、その燻りの正体を、この時優子はハッキリと自覚していた。

「でも、もう取り戻すことは出来ない。どんなに願っても、私は私の過去を取り戻すことなんて出来やしない。きっとこれからもそんな気持ちを持ったまま生きていくんだって事に気付いて、初めて分かった。やれるだけの事はやり切ったって思ってたのに、それでも私の中にはまだ、あの日をどうしようもなく悔しいって思う気持ちがあるんだってこと」

 思いの丈を一通り吐き出して、そこで優子はなんだか急にいたたまれなくなった。手に持ったままのグラスはすっかりぬるくなっていて、それを思い切って飲み干す。さっきより強まったほうじ茶の香りがざらつく舌の上にいつまでもこびりつくような、そんな感覚があった。

 すぐに洗面所でうがいをすれば、この感覚はたちまち消え去る事だろう。でも今はそれをしたくない。何故そう思うのか、自分では良く分からなかった。

「それが、私の後悔。夏紀はどうなのよ?」

 気恥ずかしさを誤魔化すようにして、夏紀に話を促す。そのとき優子は見た。夏紀の表情に浮かぶ、深く濃い愁いの色を。テーブルに置いたグラスを鷲掴みにした姿勢のまま、夏紀は微動だにしなかった。

「優子もさ、覚えてるでしょ。高校二年までのあたしの事」

 その姿勢のまま、夏紀がぽつりと言葉を漏らす。彼女の様子を窺いながら、優子は神妙な面持ちで頷いた。

 そりゃあ、覚えていない訳がない。高校から吹奏楽を始めた夏紀は当初、ほとんどまともに練習に参加していなかった。当時の吹部の空気がそうだったから、というのは勿論ある。直属の先輩であった田中あすかがその事に無頓着だったのも原因の一つだろう。何より夏紀自身、自分の技術を磨くことに、当時はそれほど熱心ではなかった。

 諸々の要因が合わさって、それから一年以上が経って後も、夏紀の演奏技術はハッキリ言って初心者に毛の生えた程度のものでしかなかったのだ。

「あの頃あたしは、音楽って別に競争するものじゃないんだし、これで良いんだと思ってた。でも二年になって、顧問が変わって、部活の空気も一緒に変わって、なんとなくあたしも変わらなきゃいけないような気がした。けどさ、」

 グラスを掴んだままだった夏紀の手が離れ、それはそのまま彼女の胸の辺りへと宛がわれた。まるで自分の心に問い掛けをする時のような、そんな身振り。夏紀の全身が放つ氷の刃を思わせる鋭利な悲壮さを感じ取って、優子もまたごくりと息を呑む。

「その時には思ってもみなかったよ。あたしが丸々棒に振った一年間が、もっと後になって後輩達にとんでもない迷惑掛ける原因になるだなんてさ」

 その詳しい経緯を、優子も流石に全て把握している訳ではない。けれど、大体のところは分かっていた。

 自分より上手い後輩達の存在、そして自分にとっては最後のコンクール。かつて優子も似たような状況を目の当たりにしたことはある。けれど夏紀のそれとは事情も経過も結末も、何もかもが違い過ぎた。それを乱暴に一緒くたにする事は出来ない。

「それだけじゃない。優子の言うように、副部長として部活の事をもっと何とか出来なかったかとか、そもそもあたしじゃ力不足だったんじゃないかとか、そう思ったことは山ほどあるよ。後藤や梨子にもめちゃくちゃ迷惑掛けた事あったし、希美の復帰の件でもいろんな人振り回したし。そんなの、一つずつ振り返ったらキリが無いくらい、ある」

 それは、まるで懺悔の言葉だった。夏紀の顔が痛みを堪える時のような、苦しげな形に歪む。

「あたしの場合、一生懸命になって取り返そうとするのが遅すぎた。コンクールの結果が出た時、そう言われたような気がしたよ。そんなの、後悔しないわけない」

 そこで夏紀はグラスに手を伸ばし、ようやくほうじ茶を飲み下した。空になったグラスをテーブルに戻した夏紀は、今度はおわかりを請求しなかった。

「それを埋められることも、きっと無いと思う。もっと時間が経ってから、あーそう言えばあの時そういう事があったなって思い出す度に、あたしはまたこんな気持ちになるんだろうな、って。あの日から何回も振り返って、その度にいつも、この気持ちが胸の中に戻ってくる」

「私と、同じ?」

 多分ね、と苦笑してみせた夏紀の横顔は、まるで泣いているみたいにくしゃりと潰れていた。

「でも、吹奏楽に関してはさ。正直もう、自分の全力は目いっぱい出し尽くしたって思ってるワケよ。あれ以上は自分には出来ないっていうか、本当の意味で限界までやったんじゃないかって。そこは満足はしてる。燃え尽きた、って感じ」

 だから夏紀は吹奏楽を、ユーフォをやめたのだろう。それは何となく優子にも分かっていた事だった。

 不意に優子の耳に、夏紀のユーフォニアムの音色が響くような、そんな錯覚。他の人達に比べれば不格好だけれども、彼女特有のどこか垢抜けたような明るい音色。もう一度あの音を聴きたい。きっとそんな未来はもう訪れないであろう事を、頭ではちゃんと理解しているのに。

「こんなとこかな。まあ、今バンドやってて楽しいって思う気持ちはウソじゃないし、それは別に後悔の穴埋めをバンドでしたいからじゃない。どっかで前を向かなきゃっていう風に、あたしの中の何かがちゃんと分かってんだと思う。あたしだけじゃなく、他のみんなだってそうなんだろうけど」

「それは……私もそう思う」

「希美もさ」

 なぜそこで希美の名が? 訝しむように、優子は夏紀にいま一度視線を投げる。

「あの子なりに、自分の中の色んな気持ちと向き合おうとしてるんだよ。普段はそういうとこ、あたしらに見せないようにしてるけど」

「実際バレバレだけどね」

「まあね。でも、それ見てて思うんだ。悩んだり苦しんだりしながら、それでも前へ行こうとする。今はまだ折り合いを付け切れてないかも知れないけど、その繰り返しがいつか希美を変えていくんじゃないかって。だからあたしも希美みたいに、この気持ちときちんと向き合って、乗り越えてかなくちゃ」

 夏紀は宙に向かって息を吐く。まるで心の中の曇りを、その一息で吹き飛ばそうとするみたいに。

「夏紀はホント、希美に甘いよね」

「お? それってヤキモチ?」

「アホ」

 だんだんお尻が痛くなってきて、優子はソファから立ち上がった。もう外は真っ暗だ。けれど雨の止む気配は全く無かった。この分だと当初の予報通り、雨は明日までこの勢いを保ち続けるのだろう。

 半開きになったままのカーテンを閉め、それから優子は自分のベッドに腰を落ち着ける。間にテーブルを挟んで、ちょうど夏紀とは正対する位置となった。

「希美だって人間だし、そりゃ良いとこばっかじゃないってのは分かってる。でも、希美のせいでみぞれも悩んだり苦しんだりしてたのよ。私はそれをずっと、あの子の傍で見て来た。私にとっても希美は友達だし、悪いヤツじゃないって思うからこそ、希美がもうちょっとみぞれに向き合ってあげてたら今頃は、って考えると複雑なの。正直なところね」

「みぞれ、ね」

 呟いた夏紀の瞳が微かに伏せられる。その仕草からは、彼女から感情の色がすうっと消えていくような、そんな気配がした。

「あたしにとっては、みぞれの方こそ複雑かも」

「どうしてよ? みぞれ、いい子じゃない」

「あー、そこは分かってる。ちょっと不思議ちゃんなトコあるけどね」

 夏紀とみぞれ。この二人には、確かにそれほど接点は無い。高校の三年間同じクラスだった程度で、後は吹部内でもさほどの絡みは見られなかった。

 二人の関係を有り体に言うならば、同じ中学出身で、共通の友達が居る間柄、という程度だ。そんな夏紀が一体、みぞれの何を知っていると言うのか? 不服の意思を込め睨む優子の目に、夏紀は自分の目を合わせようとはしなかった。

「あたしに言わせれば、希美の『みぞれはずるい』っての、ちょっと解る気がするからさ」

「どういう事よ」

「あの子にとって、希美がどれだけ大事な存在なのかは分からなくもない。今の自分があるのは希美が居たから、っていうみぞれの気持ちもちょっとだけ共感できるよ。けどさ、そういうみぞれの方だって希美にちゃんと向き合ってるかって言ったら、そうじゃないとこあるでしょ」

 夏紀の鋭い指摘に、優子の喉がひとりでにギクリと震える。

「みぞれは希美を神様か何かみたいに見てる。でも少なくともあたしにとっての希美っていう存在は、凄いと思うところは沢山あるし憧れもあるけど、悩んだり傷ついたり、誰かの事を妬ましく思ったり、そういうところもある一人の人間だよ。希美のそういうところをみぞれはちゃんと見てるのか、分かってるのかって言ったら、多分そうじゃない。みぞれは希美のことを『大好き』って言ってたけど、それってすごく一方的っていうか、希美の事を見てるようで見てないんじゃないかって気がする」

「それって、みぞれが希美の気持ちをあえて無視するような子だって、そう言いたいの?」

「そんな器用な子じゃない事ぐらい、見てたら分かるよ。ただ、みぞれは希美がずっと欲しがってたものを持ってて、希美がなりたかったものになろうとしてる。それをみぞれ本人がきちんと分かってたら、希美との関係だってもうちょっと変わってた筈。もちろん優子の言う通り、希美も希美でみぞれにきちんと向き合えてないところはあるけどさ」

 夏紀の言わんとしているところは、優子にも何となく解る気はした。人と人との関係に、どちらか一方だけが良い悪い、ということは無いのかも知れない。各々に理由がある。信念がある。それらは時として「原因」という言葉にすり替わる。互いの置かれた立場や取り巻く状況がそうしたものを浮き彫りにし、ぶつかり合ってしまうことがある。その時、片方だけを決定的に悪いと難ずることは、果たしてそう容易いものなのか。

 優子自身にも覚えはある。優秀な後輩との衝突。その時の自分の立場が、取った選択が、結果としては自身を悪役とするものであったにせよ、間違っていたとは今も思っていない。けれどその後の一年間を通じて彼女の事も少しだけ解るようになり、そして二人の間にあった軋轢はいつの間にか無くなっていた。

 それはきっと二人とも、何かが少し変わったから。

「結局さ、希美にだって問題はあるし、みぞれにだって問題がある。どっかでお互いが膝を突き合わせてお互いに向き合おうってならない限り、あの二人はいつまでもチグハグしたままなんじゃないかな」

 夏紀は淀みなくそう述べた。果たしてこれが、のぞみとみぞれの間に横たわっている問題の、本当の解決策となり得るのだろうか。

 もしも希美が、みぞれにもっと歩み寄りさえすれば。優子はいつも希美に対してそんな思いを抱いていた。けれど夏紀の言うように、もしかするとみぞれの側にだって、希美に歩み寄る余地があるのかも知れない。夏紀の理屈は何となく合っているような気もするし、だけど違うと言いたい気もする。その時の優子にはどちらとも判断を付けることが出来なかった。

 頭の中に希美とみぞれ、二人の事が次々浮かんできて、ぐるぐると渦を巻いていく。それは取りとめも無く、竜巻のように優子の心を搔き乱すばかりで、結局何一つとして結論を見出すことは出来なかった。

「だから、あたしが希美寄りな分、みぞれに対してはちょっと微妙な気持ちになってるワケ。多分、アンタが希美に対して抱いてる気持ちと似たようなもんだよ」

 そう言って夏紀が自嘲めいた笑みを浮かべる。

 ふと、グラスを手に持ったままだったことに気が付いて、優子はそれをテーブルの上に置いた。夏紀のものと合わせて二つ、空っぽになったグラスがテーブルに並ぶ。長時間グラスを握っていた手は、結露にまみれてびしょびしょになっていた。

「もうあの二人、このままなのかな」

「優子は、どうなって欲しいって思うの?」

「それは、」

 言葉に詰まる。自分の内なる感情にそっと聞き耳を立てるように優子は俯いた。しばしの沈黙。夏紀は口を開くことなく、優子の言葉を待っている。

 難しい事はいくら考えても答えを出せそうにない。だけど、みぞれと希美は、あの二人の事は。そう思った時、一つの光景が頭の中に浮かぶ。途端、霧の中を彷徨う心に一条の光が差し込むような、そんな感覚があった。

「あの二人に、また昔みたいな感じに戻って欲しい、って思う。後悔、して欲しくない」

 呟いた途端、目の前のテーブルに何かがぽたりと落ちた。グラスはとっくに手放したというのに、そこには小さな滴がぽつりと、今にも消えそうな水たまりを作っていた。それをじっと見据えるようにしながら、優子は考える。

 後悔、と一言に言っても種類は全然違う。けれど、この心の空隙を抱えた今の自分には、その辛さが、苦しさが、良く分かる。

 本音を言えば、みぞれには幸せになって欲しい。あの子は自分の道を与えられて、今はその道を一人で歩んでいるけれど、それはきっと他にどうしようもないからだ。それが、希美の願いだったから。そんな風に自分に言い聞かせて、これからもずっと縛られたままのみぞれの姿を、自分は見たくない。

 そして、それは希美についても同じ事が言える。いつまでもみぞれに、彼女を通じて過去の夢に、縛られていて欲しくはない。

 己の思いに囚われた二人がいつか解放されて、ただの人間同士としてもう一度向き合った時、二人一緒に心から笑い合うあの時が再びあって欲しい。それが、優子の心からの願いだった。

「まあ、あの二人って結構めんどくさいとこあるし。実際そう簡単にはいかないかも知れないけどね」

「またアンタは、すぐそうやって否定的なことを」

「あたしは現実的な見解を述べてるだけですって」

「今そういう空気じゃなかったでしょ。ふざけないでよ」

 目頭を拭いながら勢いに任せ、優子は立ち上がった。いや、正確には立ち上がろうとした。

 直後、目の前の視界がぐらりと揺れる。長らく座りっぱなしだったせいか、片方の足が十分に体重を支える構えになっていなかったらしい。何か掴まれるものにすがろうと、ばたばたと振った手がスローモーションになっているように見えた。

「ちょっと、」

 夏紀がそう大声を上げた、次の瞬間。

 頭をしたたかに床に打った、と思った優子はぎゅっと目を瞑る。けれど実際には、ぼすり、という柔らかな感触が半身にあるばかり。恐る恐る目を開いた優子の、その目の前には。

「あっぶなー。大丈夫?」

 そこには夏紀が居た。突如体勢を崩して倒れかけた優子を、夏紀が寸でのところでベッドへと押し戻してくれたのだ。けれどその夏紀自身、咄嗟のことに勢い余ってしまったのだろう。彼女は優子の上に覆いかぶさるような恰好でベッドに倒れ込んでいた。

「大丈夫。ていうか、重いんだけど」

「は? こういう時は普通、ありがとうって言うもんじゃないの?」

「別に助けられなくても、自分で何とか出来たんですけど」

「ウソにも程があるでしょ。完全に横倒しの姿勢だったって」

「うっさい」

 夏紀の顔を何故か直視することが出来ない。こんなに至近距離で、しかもこんなあられもない恰好で夏紀と絡まるだなんて、今までに無いことだった。

 夏紀の吐息が首筋を這う。体温がほのかに伝わってくる。それらのせいで、心臓はバクバクと早鐘を打っていた。押し上げられた血流は一瞬にして頭まで昇り詰め、正常な思考をベロリと塗り潰してしまう。何なの、この状況。優子の脳みそはもはや沸騰寸前だった。

「てか、さっさとどきなさいよ」

「ヤだね。アンタがちゃんとお礼言うまでどかない」

「はいはい、どーもありがとうございました。これでいいんでしょ?」

「心がこもってないのモロバレすぎ」

「知らないわよ、そんなの」

 夏紀の肩に腕を伸ばし、優子は力づくで夏紀を押しのけようと試みる。けれど腕にうまく力が入らなくて、結局は優子が夏紀の身体を支えるような姿勢になってしまった。もしかしたら夏紀も意地になって、押しのけられまいと余計に体重を掛けてきたせいもあったかも知れない。上を取られている以上、重力を味方に付けられる夏紀の方が有利なのは明白だ。さらに近付く夏紀の顔が、とうとう優子の耳元までやって来た。

「もしこのままどかなかったら、どうする?」

 耳たぶを吐息にくすぐられ、優子はひうっと蚊の鳴くような声を上げてしまう。

 どうするって、どうすればいい?

 ここには夏紀と自分の二人しかいない。

 その二人が今、こうやってベッドの上で組み合っている。

 しかも挑発的なことを言う夏紀の瞳には妖しげな光が湛えられていた。

 顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。

 胸の鼓動は激しさを増す一方で、今にも破裂してしまいそうだ。

 夏紀の手がそっと自分の頬に伸びてくる。

 何もかもが、理解の範疇を、とっくに超えていた。

 一体このあと、どうなってしまうのか。優子はギュッと目を瞑る。

 

 ――もうどうにでもなれ。そんな、諦めの境地だった。

 

 

 

 

 ぱちり。

 最初に見たのは白い天井。目をすがめてから大きく見開き、いま一度天井紙のでこぼこを無心で凝視する。薄明るいその光景に、優子は朝が来たことを直感した。ザアザアと降りしきる雨の音が現在の天候を教えてくれている。どうやら低気圧はまだ上空に留まったままらしい。

 ふと隣を見やる。そこには夏紀が居た。目を瞑り、すうすうと穏やかな寝息を立てている。彼女を起こさぬよう優子はそうっと身を起こし、それから改めて夏紀の寝顔を眺めた。

 

 

 結論から言うと、あの後は、どうともならなかった。

『何赤くなってんの。ヘンな想像でもしちゃった?』

 頬をするりと撫でた夏紀はからかうような事を言い、それに激昂した優子がいつものテンションで夏紀と言い争いを始め、そうこうしているうちに二人ともいつの間にか眠り落ちてしまったのだ。

 部屋の明かりは消えていた。きっとあの後、夏紀が消してくれたのだろう。シーツ越しに感じる夏紀の温かさをそっと手繰り寄せるように、優子は自分の足を夏紀の傍へと寄せる。

「ん、」

 その動きに反応したのか、夏紀の口からくぐもった声が洩れた。閉じられた瞼が少し動いている。もしかして目覚めそうなのか。さっきまで落ち着いていた優子の心拍が、再びどくんと跳ね上がった。

 何も起こらなかったとは言え、あの夏紀とこうして二人で同じベッドで一夜を明かすことになるだなんて、思ってもみなかった。そんな相手へ、目覚めの一番最初に掛けるべき言葉は何だろう。この状況を再確認するだに、優子の全身には羞恥心と緊張感がぎゅるりと巻き付いてくる。

 やがて夏紀の瞳がおもむろに開いていった。おぼろげにこちらを見つめる夏紀に、優子は必死で口角を上げてみる。きっとそれは笑顔というよりは困ったときのような、恥ずかしがっているかのような、そんな複雑さにまみれた表情だったに違いない。

「おはよ、夏紀」

 夏紀はパチクリと一度まばたきをして、それから胡乱な視線を向けてきた。

「優子、寝相悪すぎ」

「へ?」

「アンタが爆睡してる間、何度も寝返り打つわ、腕ぶつけてくるわ。こっちはそのせいで、ゆうべ全然寝られなかったし」

 ハー、と溜め息をしながら寝返りを打った彼女のその仕草は、極めて不機嫌そうだった。

 いや、そうじゃないだろ。

 優子は愕然としていた。さっきまでの自分の緊張は、恥ずかしさは、胸のドキドキは何だったのか。急に全てが阿呆らしく感じられて、その次にふつふつと湧き上がって来たのは、隣に居る夏紀に対しての強烈な怒りだった。

「とにかく、もう起きるんならサッサと布団出てよ。あたしもう少し寝たいから……ふあぁ、」

 ぶつり、と頭の中で何かがはち切れる。次の瞬間、優子は夏紀の足を思いっきり蹴り飛ばした。

「痛っ。何すんの!」

「アンタってやつは、本当に、」

「今聞いてるのはあたしでしょ。何でアンタに蹴られなきゃいけないの」

「知らないわよ、バカ!」

 もう一度、夏紀の足に蹴りを入れる。そっちがその気なら、と夏紀も蹴り返してきた。バチンという乾いた音と共に、優子の向こう脛に痛みが走る。

「やったわね」

「先にやったのは優子でしょ」

「そもそも夏紀がバカなのがいけないんだからねっ」

「アンタにバカ呼ばわりされる謂れはないんですけど」

 ギャーギャー罵りながら、二人は互いの足を蹴り合う。

 いつもながら本当に、夏紀と居ると調子が狂う。どうしてこんなヤツとタッグを組んでやって来れたのか。いや、こんなヤツだからこそなのかも知れない。結局自分達は何か変わっているようで、変わっていないのかも。最後はついに取っ組み合いになってしまった夏紀のしかめっ面を見ながら、その事にほんの少しだけ安堵している自分がいるのを、優子は感じていた。

 この先、過去の事を思い出したり大きな壁にぶつかる事があったとしても、夏紀が隣に居るのならば、何だかんだで乗り越えて行けるような気がする。そんな漠然とした予感を確信に変えるかのように、優子は夏紀の足に自分のそれを絡め、ギリギリと絞るように力を込めた。

 

 

 近所の河川氾濫情報が発表されたのはちょうど、二人がそうしていた時のことだった。

 

 

 

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