「よっしゃー、今回もあたしが一位!」
ガッツポーズを作る夏紀の姿に、優子は呆れの吐息を漏らす。
「アンタ、いくら何でも強すぎじゃない? こういうのって運次第なんじゃないの」
「まあ、やり慣れてますからねえ。勝負かけるタイミングってのがあるのよ」
「ホント納得行かないわ。私だって今回いいトコまで行ったってのに」
「惜しかったよねー優子。でも今回はかなり大荒れの展開で、最後まですっごいハラハラしたよ。もっかいやろうよ。ね? みぞれもやるでしょ」
「やる」
みぞれのその一言を合図にして、全員が車の形をした駒に突き刺さった幾つかのピンを引き抜く。手持ちの金札や手形といったアイテムを元の場所に戻し、四人は再びまっさらになった盤面へと向かった。
「それじゃ行くよー。じゃん、けん」
ポン、と一斉に出された手のひらの形。それを見つめて、優子はぐぬぬと呻いた。
「はい、優子さんは今回も四番目スタートでーす」
心底楽しそうにニヤつきながら夏紀が宣言する。その様子に苦笑を浮かべる希美と、少しだけ頬を緩ませるみぞれの姿が、そこにはあった。
希美が明日から一人暮らしを始める。夏紀からその報告を受けた時、優子は少しだけ驚いていた。
最近の希美が時々サークルを休んでバイト活動に勤しんでいるのは優子も知っていたのだが、それがまさか一人暮らしをする為だったとは。そんな話は一言も聞いていなくて、けれど何だか、事実を知って安心するような心持ちも優子にはあった。
「希美も一歩、踏み出す気になったんだね」
「かもね」
昨秋の大雨の夜、夏紀と話した事の内容を優子は思い出す。別に希美が一人暮らしを始めたからと言って、それが彼女の成長の証というわけじゃないだろう。実家から大学へは通えない距離ではないし、もしも実家に帰りたくなったらいつでも帰れる。状況的には優子のそれと近い。でもだからこそ、優子は希美の中に何らかの心境の変化があった事を感じずにはおれなかった。
「んで、明日と明後日は希美がバイト休みらしくて、もしこっちの予定が空いてたら独立記念に遊びにおいでよ、ってさ。せっかくだからボードゲーム持ってって、夜通し遊び尽くすつもり」
「二人だけで? 他に誰か誘ってないの?」
「それが、他の子はちょっと都合悪いらしくてさ。まあ春休みの終盤だし、みんなバイトなり旅行なりでヒマ無いんだろうけど」
「それでやむなく私に声掛けた、ってわけね」
「ま、そういう事」
希美が自分に声を掛けなかったことを、優子は特段ショックに感じていなかった。自分が希美ならそうするだろう。だって、その後ろにはみぞれが居るから。
希美と違って、優子は今でもみぞれと直接連絡を取り合っている。もしも優子に声を掛けたら、きっとその情報はみぞれにも伝わって、そしてみぞれが自分の部屋に来てしまう。この事態を希美が多少なり危惧したであろう事は想像に難くない。
自分は別にそれでも構わない。けれどみぞれは、あの子と希美の関係は、本当にそれでいいのだろうか。優子は思考を巡らせる。そして、心を決めた。
「行ってもいいけど、一つだけ条件付けていい?」
優子の問いに、何? と夏紀は小首を傾げた。
「みぞれも誘う事」
「はあ? 優子アンタ、何考えてんの。そんなの、」
呑めるわけがない。自分と同じように、希美の事を良く知る夏紀はこう反応するだろう。その事はとっくに予想がついていた。
「ずっと考えてた。あの二人、このまま行ったらどんどん接点が無くなっちゃう。希美もみぞれも、どこかで繋がり合うキッカケが無かったら多分、今と変わらない関係のままいつか縁が切れる。それじゃダメなんじゃないかって」
「そのキッカケが、今回みぞれを呼ぶってこと?」
夏紀の問いに、優子は黙って頷きを返した。
「私達も、もう三年もしたら社会に出ていく事になる。そしたら今以上に時間なんて作れないし、それぞれ住んでる場所だってずっと遠くに離れちゃうかも知れない。特に、みぞれは。そうなる前に、せめてキッカケだけは保っておきたいの。それを希美が求めてないんだとしても」
「優子の言いたい事は分からなくもないよ。けどだからって、今回みぞれを呼ぶのにはあたしは反対。話が急すぎるし、それに希美だってようやく落ち着いてきてるところなんだからさ」
「だからこそよ。今年は去年と違ってみんな揃って北宇治の応援に行くとは限らないし、四人で集まるチャンスだってそうそう作れないかも知れない。今回だってみぞれが都合良いかどうか分かんないけど、こういう時を大事にしないで次いつチャンスが作れるのよ」
優子の語気が自然と強まる。
後悔は、いつも必ず事が過ぎ去ってから訪れる。全てが終わってからそれに気付く。幾ら振り返っても戻らないあの時を、ああ、こうしていれば良かった、とずっと後になってから嘆いてみたところで遅いのだ。
だから、機を逸してはならない。自分が焦りに逸っているのは重々承知しながら、それでも今というこの時を見逃すべきではないと、優子は強く思っていた。
「みぞれには私から連絡する。もしもみぞれの都合が悪かったりして行かないって言ったら、その時は仕方ない。無理強いする事は出来ないし私もすっぱり諦める。でももしもあの子が行くって言ったら、その時は三人で一緒に希美の家に行く。どう?」
畳み掛ける優子に、夏紀はどうしたものかと逡巡の様子を覗かせた。夏紀にだってどうするのが正解かなんて分かっている訳がない。優子とて、根拠も確信も何も無いことなのだ。
だから、これは単なる自分の我儘。そう自分自身に言い聞かせつつ、優子はただじっと返答を待つ。
「……分かったよ」
そこでとうとう観念したように、夏紀は両手を肩の高さに挙げた。
「けど、この事は希美にも一応了解取るからね。もし希美がダメだって言ったら、」
「言うわけないわよ。今の希美なら」
これも根拠などは何も無い。けれど何故か、優子は自信を持って答えることが出来た。
「それとついでに、もう一つ条件っていうか、約束して欲しい事があるんだけど」
「何?」
訝しむように、夏紀が優子を見つめる。
「それはね――」
「今回は優子、かなり順調だね」
「当然でしょ。私が本気出したらこんなものよ」
盤上の展開を睨みながら、優子は希美に返事をする。既にゲームは中盤へと差し掛かっていた。夏紀の用意した人生ゲームはなかなかに波乱含みのイベントが多く、ある時までは順調だったとしても次の瞬間ごろりと順位が覆ってしまう。ひと時たりとも油断は出来ない。当初の目的もすっかり忘れ、優子はただただ目の前のゲームに夢中になっていた。
「じゃあ次、みぞれの番。はい、ルーレット回して」
夏紀に差し出されたルーレットの中心を、みぞれの細い指がチョンと摘み、そしてくるりと捻る。カラカラ乾いた音を立てて回るルーレットの示した数字で、みぞれの駒はストップマスへと到達した。
「さあ、今回も結婚マスに来ました。みぞれの選択は?」
「しない」
「デスヨネ」
淡々としたみぞれの宣言に、夏紀はほとんど棒読みの口調で返した。
「結婚はしない。ずっと」
それはこのゲームに対するみぞれなりの拘りなのか。それともゲームに限らない話をしているのか。どちらともつかないみぞれの呟きに、夏紀が乾いた笑いをこぼす。
とは言えその選択のおかげで、ルーレット運には恵まれているみぞれもことゲームについては芳しい結果を出す事がかなわず、ここ数回は常に最下位に甘んじていた。当のみぞれはゲーム内の順位などさして気にもしていないらしく、時折希美の近くの駒に止まれれば少し嬉しそうにしている程度だ。もしかしてこの子の中で人生ゲームの趣旨は、本来のそれとは少し違うものとして取り扱われているのかも知れない。
そんな事を考えつつも抜かりなく、優子は自分の駒が次に進むであろう範囲のマスとそこで起こるイベントを一通りチェックしていく。みぞれに次いで夏紀、そして希美の番が終わり、ここまでの展開に大きな変化は無かった。
「ここで一気に差をつけるわよ」
自分に発破をかけて、優子は思いっ切りルーレットを捻る。けたたましい音を立てて回転したルーレットの示した数字、それに従い駒を進めた先のマスには『ギャンブルチャンス』の文字があった。
所持金から既定の額を賭け、勝てば大金を手にする事が出来るが、負ければ目も当てられない。現実のギャンブルと何一つ変わらないこのシステムは、ゴール時の所持金の多寡によって順位が決まる人生ゲームにおいて、勝負の行方を大きく左右する事もある大事なイベントの一つである。
「どうするの、優子?」
「決まってるでしょ。ここは勝負一択よ」
希美への返答そのままに、優子は手持ちの金札を鷲掴みにし、それを盤面に叩きつける。優子の順位は現在、堂々の暫定一位。しかし夏紀と希美の所持金はまだまだ僅差と言って良い位置につけており、次の一手で逆転を食らう恐れだって無いとは言えない。ここは絶対勝ちに行く。そういう決意でもって、優子は勝負に出ることにしたのだった。
「いざ!」
指先に念を込め、そして優子はいま一度ルーレットを回した。ルーレットは徐々に速度を遅め、やがてある数字のところでピタリと止まる。四人は同時に首を伸ばし、盤面のマスに書き込まれてあった賭けの結果を凝視した。
「ま、負け……!!」
「あ~あ残念。てなわけで優子さん、今回の賭け金は全部ボッシュートでーす」
チャラッチャラ、と何かのメロディを口ずさみながら、夏紀は盤面の金札をごそりと外へと押しやった。
「んああああああもう! 何でいっつもこうなんのよ!」
「優子は、ついてない」
みぞれに『おいでおいで』され、優子はぐうと喉を詰まらせる。今回のギャンブルの結果、優子の暫定順位は一位から四位スレスレの位置にまで転落してしまった。今のみぞれの手招きはつまり、そういう意味の仕草だ。
「やー、ここは賭け金大きいマスだったからなあ。結構ドボン要素強かったと思うし、ドンマイだよ優子」
腕組みをする希美が何の慰めにもならないことを言ってくる。彼女の順位は現在二位。序盤からずっと安定した展開を保ちつつ、ここまでを無難にやり過ごしていた。
そして現在の一位は、もちろん夏紀だ。
「こりゃ今回もあたしの勝ちかな? 誰かさんのおかげで」
「冗談じゃないわ。見てなさいよ、ここからドカンと巻き返してみせるから」
「だいぶ熱くなっちゃってるねー。せいぜい最後のギャンブルマスで破産しないようお気を付けあそばせ」
「絶対そんな事にはならないわよ! もう二度とギャンブルなんてやらないんだから!」
「ちょっと優子、興奮するのも分かるけどもう深夜だし、近所迷惑になっちゃうから」
もうちょっと静かに、と慌てた希美が口の前に指を当てる。隣に居たみぞれもそれを真似するように、『しー』と優子を窘めにかかった。
こんな時ばかり息を合わせやがって。二重の悔しさに歯軋りする優子を、夏紀が愉悦の表情でからかってくる。
「さあ、あたしの番ね。暫定三位さんがカッカしてる内に、ここで一気にケリつけちゃおうかなー」
「悪い目が出ますように、悪い目が出ますように」
「人を目の前で呪うんじゃありません」
そのやり取りの何が可笑しかったのか、希美が堪え切れなくなったように噴き出す。みぞれの表情もいつもよりずっと穏やかで、この空気を楽しんでいるみたいだった。
その様を眺めた途端、優子の胸の内からスウッと毒気が掻き消えていく。隣を見やると、からから笑う希美達を眩しそうに見つめる夏紀もまた、その顔を緩く綻ばせていた。
そうだ。今はこれでいい。
自分と夏紀も含めて、この四人の関係が、今は大きく変わらなくとも。こんな時間を積み重ねていった先にきっと、いつか互いが互いをもう少しだけ解り合える時が来る。
願わくばずっとずっと先の未来でも、またこうして四人で集まって、みんなで笑い合えるのなら。
自分達が、そのキッカケとなる。
何度でも、自分と夏紀、二人がかりで希美とみぞれを繋ぎ止める。
それはあの日、夏紀と優子が交わした、二人だけの秘密の約束だった。