ただ、一部ちょっと不快な思いにさせてしまうかもと危惧。
ひょろ……そんな擬音が似合う力の無いボールが、控えめな音を立ててキャッチャーミットに到達する。
変化球の抜け球ですらないスローボールは、投げているのが羽場布郎とは思えない気の無い一球だった。
受けた捕手の
「オイラでも打てそうでやんすね」
「羽場先輩……やっぱり、ピッチングも忘れてしまったんですね」
でたらめな投球フォームから繰り出された力の無いボール。その右腕は、数日前まで豪快なフォームから唸るような剛速球を放っていた投手のものとは思えなかった。
彼は怪我をしているわけではない。夏の大会、隣の球場から飛来して来たボールにぶつかるというアクシデントに見舞われた羽場であるが、ぶつかった箇所には何の異常もなく、身体は健康そのものだった。
しかしその事故は肉体ではなく、彼の精神に対して大きな傷痕を遺していたのだ。
「俺の投げ方、そんなに変?」
「変でやんす! 今の羽場君は、イーファスボールの人みたいな投げ方でやんす!」
「いーふぁす? なにそれ?」
「天井から投げ下ろすような、
「いや、全然」
天才投手羽場は事故により、記憶の大半を失ってしまった。
そして記憶と共に、本来の野球選手としての実力を完全に喪失してしまったのである。
自分がどんな投げ方でどんなボールを投げたのかさえわからず、辛うじてキャッチボールが出来る程度の能力が今の羽場布郎であった。
「俺には今ので精一杯なんだけど、本当はもっといい球投げてたのか?」
「いい球なんてもんじゃなかったでやんす!」
「ストレートは150キロを超えていて、お化けみたいなスライダーやフォークを投げていましたよ。他の球種も多彩で、どれも完璧な精度でした」
「えっ、俺すごっ!」
羽場布郎とはこの二年の夏、弱小校レベルだったパワフル第二高校をほぼ一人の力でベスト16まで導いた選手なのだ。エースで四番を打っていた彼は海外のスカウトからも注目されており、野球の実力に関して言えば非の打ち所がない天才児だった。
「だから羽場先輩には、なんとしても元の記憶を取り戻してほしいんです」
「聖人……」
諏訪野聖人。一見女性と見間違うような綺麗な風貌をしている彼(記憶喪失直後、初めて会った時は盛大に間違えた)は、新入生一の実力を持ち、夏の大会では一年生ながら正捕手として羽場のボールを受け続けていた男だ。
そんな彼だからこそ、変わり果ててしまった羽場の投球には人一倍切実な思いがあったのだろう。羽場にボールを投げ返した彼の表情からは、言葉では表現し難い心情が読み取れた。
そんな聖人の肩を叩きながら、高校生離れした老け顔の男が場に現れる。
「まあ、そう焦りなさんな。こういうのは焦っても逆効果だ」
「波留寺キャプテン……」
「元キャプテンだ。俺達三年は引退したからな」
受験勉強に備え既に引退した身であるが、彼も記憶喪失の羽場のことを気に掛けているようで、今でも頻繁に部に顔を出していた。
「そう、俺は引退した身だ。だからいい加減次のキャプテンを決めなきゃいけないんだが……誰にするかまだ悩んでてな」
「本当なら、羽場先輩がなるべきだと思いますが……」
「俺もそう思っていたんだがな……今の羽場には、チームの面倒は苦が重すぎる」
この野球部の監督は野球経験の無い素人が務めており、元々放任主義な性格でもある為か、部のキャプテンという立場は権力が大きければ負担も大きい。
二年生の中から新しいキャプテンを選ぶ権限があるのも前キャプテンである波留寺だったが、現状はその立場に相応しい者が見当たらないのが悩ましい問題だった。
特に記憶喪失のことで手がいっぱいである今の羽場には、その立場はあまりにも重すぎる。
「と言っても、他の二年もまとめ役って柄じゃないしなぁ……サボってばかりの
「武藤?」
ある意味監督よりも監督らしく、腕を組みながら波留寺は思い悩む素振りをする。
その中で彼の発言に出てきた名前に、マウンドから下りた羽場が反応した。
「武藤って、あそこでメジャーリーガーの真似している奴だっけ?」
外野の方向を指差しながら、羽場が一同に訊ねる。
彼の指した場所では矢部以外の外野手を集めた外野ノックが行われており、そこでは打ち上がった打球に対して背面にグラブを添えてキャッチを行なっているひげ面の男の姿があった。
口ひげ以外でその顔に似ている要素は皆無であったが、その姿はさながら日本一有名なメジャーリーガーのようだ。
「ニセロー君でやんす。羽場君、ニセロー君のことも覚えていないんでやんすね」
「ああ。でも、あのメジャーリーガーのことは知ってるよ? そういう野球の常識とか、初歩的なことだけは覚えているんだ」
「でなければ、キャッチボールもままなりませんからね……それだけは本当に、不幸中の幸いでした」
その仕草は一々あのメジャーリーガーに似ており、顔が見えない距離から眺めれば一瞬本人かと錯覚するかもしれないほど風格がある。
しかし彼はメジャーリーガーでも、ましてやモノマネ芸人でもなく、れっきとしたこのパワフル第二高校野球部の一員だった。
武藤
そんな彼の人物像に対して、波留寺が自身の無精ひげをいじりながら呟く。
「武藤は真面目だし努力家なんだが……色んな意味でストイックすぎるんだよなぁ。あえてやらせてみるのも手だとは思うんだが、どうもキャプテン向きには見えないんだよ」
「わかるでやんす! キャプテンと言ったら、チームで一番足が速くて男前なスター候補がいるでやんすよ!」
「お前は良くも悪くも、空気が読めないのが致命的すぎる。権力を与えたら確実に調子に乗るだろうし」
「やんす……」
立場が人を変えるという可能性も無きにしも非ずだが、波留寺から見れば後輩達の世代は自分達の世代よりも遥かに粒ぞろいで、期待の持てる素材が揃っていた。
夏の時点ではまだ羽場のワンマンチームに過ぎなかったが、ここに来て成長を見せている二年の矢部や萬、聖人達の素質は磨けば必ず光ってくれる筈だと信じている。
そして何と言っても主力にはオカルト出塁貴公子こと武藤がおり、今は記憶を失っているが天才投手の羽場がいる。現状は語り尽くせないほど課題だらけのチームだが、彼らのポテンシャルが十分に引き出されさえすれば甲子園への出場も夢ではないと思っていた。
だからこそ、彼らをまとめる新キャプテンの選出は慎重に行わなければならなかった。
実力面、実績面、そして人格面……これらを総合して考えると、彼の頭に浮かんできたのは困ったことに、現在部の練習に参加していない男の姿だった。
「そうなると、やっぱり土中が適任なんだよなぁ」
「土中君、でやんすか?」
「つちなか? そんな奴、野球部にいたっけ」
土中
かつての羽場のような圧倒的な球威はないが、まとまった制球を持ち、多彩な球種や彼オリジナルの変化球「ラッカセイバー」というナックルのような魔球を操る優秀な人材だった。
羽場さえいなければ、間違いなく一年生からチームのエースとして活躍していたであろう。名門校にいてもおかしくない逸材であったが……今の彼は、一か月もの間この野球部に顔を見せていなかった。
「土中君は、休部中の野球部員でやんす」
「そうなのか。でも休部って……そんな奴にキャプテンなんか任せて大丈夫なのか?」
「でも、実力は凄いでやんすよ。まとめ役が上手くて、みんなからも慕われていたでやんす」
「あれ? じゃあなんで、そんな奴が休部してるんだ?」
「あんたのせいでやんす」
「矢部先輩!」
土中という男は我が強く、記憶を失う前の羽場とは度々反発し合っていたことが部員達に知られている。
しかしその力関係は圧倒的な実力差から常に羽場が上に立ち、その関係はお世辞にも良いものとは言えなかった。
それこそキャプテンの波留寺が間に入らなければ、何度暴力沙汰になっていたかわからない。端的に言って険悪な関係である。
休部の原因もまた、記憶を失う前の羽場との確執によるものだったのだ。
聖人から制止を受けるほどはっきりものを言う矢部の説明から、羽場はピンと来ている様子でこそないものの、大体の事情を察したようにげんなりした表情を浮かべた。
「あー……俺が、なんかやらかしたのか」
「本当に忘れちまったんだな。ああ、確かに土中の休部は、お前にも一因がある」
土中の休部の決め手は、彼の努力の結晶である「ラッカセイバー」を嘲笑った羽場の態度だったと波留寺は記憶している。
彼らはお互いにプライドが高く、お互いに正直者で、お互いに不器用だったのだ。それ故に羽場と土中が反発し合うことは必然だったのかもしれない。
しかし波留寺は彼の休部を引き起こしたその事件を止められなかった自分自身のことを、誰よりも悔やんでいた。
「……そうだな。お前もあいつと話せば何か思い出せるかもしれないし、行って呼び戻してこい」
ある意味、羽場が記憶を失ったのは二人が和解するラストチャンスなのかもしれない。
そう思った波留寺は最後のキャプテン命令として、羽場に土中の復帰を一任した。
そして、翌日。
後輩思いの先輩の思惑は虚しく、土中実の復帰は失敗に終わった。
昼休みから彼に直接呼び掛けを行った羽場だが、土中は羽場の声を聞いただけで、顔も見たくないと対話に応じなかったのである。
それでも矢部が仲介してくれたおかげで今の羽場が記憶を失っていることと、波留寺から彼にキャプテンをやってほしいという要請があったことだけは伝えることが出来たが……その感触は思わしくなかった。
「取り付く島もなかったでやんすね」
「一体、俺は土中君に何をやらかしたんだ?」
これでは波留寺キャプテンに顔向けできないなと、羽場は一向に思い出せない記憶を思い出そうとして溜め息をつく。
又聞きした話によれば過去の自分がかなり「イヤな奴」で、その性格から周りの人間から嫌われていることがわかったが……今の羽場には記憶が無い為、謝ろうにも謝れないのが歯がゆかった。
野球部の部室に向かう中、矢部がそんな彼を気遣ってかはわからないが、空気を変えるように言い出した。
「こうなったら、作戦を立てるでやんす! まずは土中君と二人きりにならないと」
「それなら、校内放送で呼び出してみるとか?」
「偽装ラブレター作戦って手もあるでやんす!」
「うわ、矢部君それは外道だわ……」
「……羽場君に言われるとすごい引っ掛かるでやんす」
こんなにいい奴なら普通に矢部君がキャプテンしたら良くない?と、彼の気さくな性格からそんなことを考えていた羽場だが、彼の無邪気な発言の中に時折潜んでいる危うい気配に勘づき、彼をキャプテン候補に挙げながった波留寺に対し改めて敬意を抱いた。
――そんな時、ふと前方から駆け足で向かってくるユニフォーム姿の男が見えた。
「あっ、ニセロー君でやんす」
武藤流。ニセローのあだ名で呼ばれるひげ面の男は、羽場達の姿に気づくと駆け足を止めて爽やかに挨拶を交わした。
一年生よりも早く部室の中に入り、一番に出てきた姿である。これから始まる練習に対して早速やる気満々と言った様子に、感心したように矢部が呼び掛けた。
「相変わらず早いでやんすね」
「下手くそが上手くなるには、これぐらいしか道は無いからね。前の羽場君は、もっと早かったけど」
「羽場君は授業サボってたでやんすからねー」
雰囲気だけは非常にメジャーリーガーに似ている彼だが、その顔立ちは歳相応の高校二年生であり、羽場には無理に似せようとしている口ひげが似合っていないように見えた。或いはサングラスでも掛ければしっくりくるのかもしれないが、それも仮定の域を出なかった。
そんな彼の口ひげをしっくりしない感覚で見つめていると、矢部から視線を変えて羽場の方を向いた武藤が爽やかな声で話しかけてきた。
「それで、羽場君の復活はまだ厳しそうかな?」
「うん……悪いな」
「いいさ。ふとした瞬間に戻るかもしれないし、煮詰めすぎない方がいいと思うよ」
「それはまあ、わかってるけど……」
一向に記憶が戻らないことを申し訳なく思う羽場に、武藤は苦笑しながら気にするなと励ます。
そんな彼は、付け足して言い放った。
「それと、あまり周りの言うことを真に受けない方がいいよ」
「え?」
苦笑を浮かべた後に言ったその言葉だけは、真顔のように抑揚のない声だった。
「君のことをあまり知らない子達が語る君の人物像なんて、大した参考にはならないってことさ」
――どうせ、一方的に悪者扱いでもされたんだろう? そう言って肩を竦める彼に、羽場は何も言い返せなかった。
……何か、妙に引っ掛かる物言いである。しかし羽場がそれを問い掛ける前に、武藤が重大な発言を言い放った。
「あっ、そう言えばさっき、土中君を見掛けたよ」
「本当か!?」
「ああ、聖人君と一緒に部室へ来たよ」
羽場が復帰を頼んだ土中実が、早速野球部に現れたのである。
羽場に対して取り付く島もなかった彼だが、呼び掛けの効果は想像以上にあったようだと喜ぶ。
「なんだよ、ちゃんと来てくれるじゃねぇか!」
「波留寺先輩から指名されたのが効いたみたいでやんすね! 土中君、先輩のこと慕ってたでやんすから」
武藤の横を通りながら、羽場はこうしちゃいられないと走って部室へと向かっていく。
――そして、彼は見つけた。
部室から飛び出してきた野球部員、土中実の姿を。
「あっ! 土中君、ありが……」
戻ってきてくれて、応えてくれてありがとう――そう言おうとした羽場の言葉は、その先まで出ることはなかった。
「もう二度と、お前と野球なんかしないからな!」
「えっ」
部室から飛び出した土中が目を大きく開きながら、怒りの形相で羽場の顔を睨む。
今にも殴り掛かってきそうな剣幕の彼は、視線を外して部室の中へと移した後、獣のように叫んだ。
「ちっくしょーー!!」
怒りと、悔しさ。それらの感情がこれでもかというほどに滲んだ叫びを上げた彼は、脇目も振らずにその場から走り去っていった。
「な、なんだアイツ……」
「どういうことでやんす?」
状況が飲み込めない羽場と矢部は、土中のただならぬ奇行に呆然とした表情で立ちすくむ。
彼に一体何があったのか……その真実は彼のいた部室に目を向けた時、羽場は理解した。
「!?」
《熱烈☆歓迎 新キャプテン土中様のロッカーはこちら↓》
そこにあったのは「土中専用」と表記されたボロボロのダンボール箱だった。
「なんだよ、これは……」
「ひどいでやんす」
体育会系のノリとしては、そう珍しいものでもないだろう。仲間同士のいじり合いであれば、そこまで咎めるようなことでもない。
しかしこの状況、このタイミング。そして土中実の今の立場を考えれば、それはあまりにも陰湿な嫌がらせであった。
「悪ふざけにしちゃ度が過ぎてるだろ!」
「羽場君!」
土中実という男に何があったのかは、今の羽場にはわからない。しかし休部していた彼が大きな決意と覚悟を持ってこの野球部に戻ろうとしていたことは容易に察せられる。
その矢先、彼が一か月ぶりに帰ってきた部室で見たのがこの光景である。
――これでは、叫んで飛び出したくもなるだろう。
土中の精神状態を心配した羽場は、居ても立っても居られず彼を追い掛けて走り出した。
「誰が、こんなことを……」
一人その場に取り残された矢部は、常のやんす口調も忘れて呟いた。
そして、思い出す。
土中実が新キャプテンになることを良しとしないエセメジャーリーガーの存在を、彼らは失念していたのだ。
2018サクセスでは諏訪野姉妹もとい姉弟が一番好きです。
聖人君声聴くまで女の子だと思っていました( ´∀`)