————Side K
すーっ。そっと襖を開けると、ふわりと鼻先を抜けていく香りに胸が高鳴る。キラキラやドキドキを見つけたのとは、ちょっと違うドキドキ。
……なんなんだろ。私にはこのドキドキがよく分からなくて、最近ちょっと変な感じ。しかも、この前風邪を引いたときから、なんか悪化した気がする。
『——ありがとう、香澄』
うっ、これダメ、泣きそうになる。ま、まあ、それはそれとして、踏み入った一室ですやすやと眠る女の子に目を向けよう。うん、それがいい。
「……寝てる、よね?」
市ヶ谷有咲。ポピパのキーボード担当で、なんか、こう、近寄ると胸の奥がぐわーってなる。私はこのぐわーっが結構好きで、いっつもくっついていたいんだけど、有咲はあんまり好きじゃないみたい。……残念。
こうやって有咲の寝顔を見るの、これで何回目だろ。もう数えきれないくらい繰り返してきた日常で、これからもずーっと続くんだって決めてある。有咲に言うと、勝手に決めるなーって怒るから秘密。
「……かわいいなぁ」
ずっと続くって、そう決めてあって、でも、私にはなんだかこれがただの日常なんだってことが少し辛くて。当たり前になんて、なって欲しくない。……だって私、こんなにドキドキしてるのに。
「はぁ。……よし」
ぱちっと軽く頬を叩いて、それからすうっと息を吸い込んだ。
「あーりさっ!」
ゆっくり持ち上げられたまぶたの奥に隠れていた瞳と目が合う。有咲は何回か瞬きをして、顰めっ面で挨拶をしてくれた。
「ん……はよ」
「おはよ~っ!」
ちょっとうるさかったかな。有咲はため息を吐きながら身体を起こして、呆れたようにつぶやく。
「朝から元気だな……」
「朝だから元気なんだよ!」
太陽の光を浴びれば、昨日どれだけ疲れてても元気になれる。有咲と、ポピパのみんなの顔を見たらもっともっと元気になれる。……私がおかしいのかな? ま、なんでもいいや。
「ほら、早く支度して学校行こっ!」
「分かった分かった……着替えるから、先に飯食べてろ」
「はーい」
有咲のお婆ちゃんが作ったご飯、美味しいんだよね~。
「じゃ、待ってるね!」
「……おう」
————Side A
ぱたり、閉められたドアをしばらく見つめる。とんとんと遠ざかっていく足音が聞こえなくなってから、うつ伏せになって枕に顔を押しつけた。
——あぁぁぁぁあああああっ! 起きてんだよ、ばーかっ!
……起きたら足音が聞こえたから、咄嗟に寝たふりしちまったけど、なんだあれ。あいつ、いつも、あんなことしてたのか?
『——かわいいなぁ』
かっ、かわいくねぇーからっ! なんだよぉ……。意味分かんねぇよ、なんだよかわいいって。どこがかわいかったんだ……? 顔になんかついてるのかっ?
ばっと立ち上がって姿見の前に立つ。しかし、いくら眺めてもなにもついてない。うわ、目ヤニついてる。恥ずかし。目ヤニか? 目ヤニが香澄のかわいいポイントなのかっ? そんなわけねーだろ、いい加減にしろ!
まじ意味分かんねー。いっつも意味分かんねぇけど、度を越して意味分かんねぇ。迷宮入りだよ、工藤新一もお手上げだわ。
……なんだこれ。なんだこれ! なんか腹立つ! あー、もー、わけわかんねーことばっか言いやがって、バーカ! アホ! 香澄!
「——あーりーさー!」
「今行くーっ!」
× × × ×
天気のいい日だった。暖かい日差しと、住宅街を吹き抜けていく心地よい風。気温は高くもなく低くもなく、花粉症でもない限りは過ごしやすいだろう。
「——くしゅんっ」
「……風邪、治ってないのか?」
香澄が風邪を引いて学校を休んだのは先週のこと。治っていない可能性は低いが、このアホは多少の体調不良は無視しそうだから気にかけておくに越したことはない。
べっ、別に香澄が心配だからとかそんなんじゃ——ない、ことも、ないことも、なくないけど……。私のことはどうでもいんだよ!
「んーん、ただのくしゃみだよ。ふふー、心配?」
「んなっ、誰がお前の心配なんかっ! ……でも、ボーカルがいなくなんのは困る、から、気をつけろよな……」
「有咲は素直じゃないな~」
「うっせぇ!」
ほんとこいつ、なんか最近っていうか、あの日から調子に乗ってる気がする。……うわー、思い出したくねぇ。
なんであんなこと言ったんだ私……いやでも、確かに言いたいとは思ってて、言わなきゃなとも思ってたから、後悔してるわけじゃないんだけど。なんか、なんか、こう、あー、うー、顔熱い……。
ただでさえ今朝のことで顔見づらいのに、余計なこと考えたせいでますます悪化した。それもこれも全部香澄のせいだ。……全部、香澄のせいにしておきたい。
「……考えごと?」
ひょこっと、覗き込むように私を見る香澄に、軽く頭を振ってくだらない思考を弾き出した。
「香澄はバカだなーって考えてた」
「なにそれー! バカじゃないもん!」
抗議の声にカケラも説得力がない。ここまでバカじゃないって台詞が似合わないやつ、他にいるか? いや、いない。
「学年末テスト数学と英語の点数いくつだったっけ?」
私がからかい半分で訊くと、香澄は言葉を詰まらせる。
「うっ……それは反則だよ~」
「なにが反則だよ……っつーか、常日頃から備えとけよな。お前の勉強のために練習出来なかった時間とか結構多いんだから」
「ご、ごめん……」
珍しくしおらしい態度を取る香澄に、なんだか調子が狂う。いつもなら、「次は大丈夫!」とかなんの根拠もなく言うくせに。……一応、こいつなりに気にしてるってことか。
「……見てやるか」
「え?」
「だ、だから……勉強。定期的に教えてやれば、テスト前に慌てなくて済むだろ。どうせうちの蔵で練習してんだし、それが終わった後とか、三十分くらい……」
「……い、いいの?」
「は? なに遠慮してんだよ……今更そのくらい、なんでもねぇっつーの」
やっぱりこいつ、なんかおかしい。絶対私の名前でも叫びながら抱き着いてくると思ったのに……いや、抱き着いて欲しかったわけじゃなくて! まじで!
「うぅ……ありがと~~」
「な、泣くなよ! なんだいきなり!」
「だ、だってぇ……最近有咲、前よりもっと優しくなってるから……」
「な、なな、なってねーしっ!」
は? いやほんとなに言ってるのか分かんないんですけど? ていうか、もともと優しくないんですけど? ……本当に、違うんだよ!
優しいとか優しくないとかじゃなくて、私はただ、有言実行してるだけっつーか、全然香澄に優しくしてやるつもりなんてねーし! むしろ厳しくするし!
「……私が、引っ張ってやるって、言ったろ」
ああ、顔が熱い。動悸がする。
でも、言ったんだ、確かに。私がお前の手を引いてやるんだって、私にだってお前をどこかに連れて行ってやれるんだって、振り回されるばっかりじゃないんだって。
「……私一人じゃ出来ないことを香澄が一緒にやってくれる。だから、香澄一人じゃできないことは、私が、一緒に、やってやってもいいっつうか……そういう、感じ」
「あ゛り゛ざぁ゛~゛!」
「抱き着くな、鬱陶しいっ!」
「お話、終わったかな?」
「あー? そもそもたいした話じゃねぇ——って、は?」
ぱっと声のした方向へ視線を向けると、そこには見慣れた顔が三つある。
「あ、さーや! りみりんとおたえも! おっはよー!」
「うんうん。おはよ、香澄。有咲もね」
「みんないつからいたのー?」
香澄が首を傾げながら問うと、沙綾は苦笑を漏らす。りみも少し気まずそうで、おたえはいつも通りだ。すげぇ、おたえまじでなんも変わんねぇ。
「香澄が泣いた辺りからいたよ?」
「声掛けろよっ!」
全部聞かれたってことじゃねーか! あー、めっちゃ恥ずい! 恥ずかしいっ! 軽く死ねるわこんなん! なに黙って盗み聞きしてんだよー!
「だって、沙綾とりみが止めるから……」
「あはは……有咲、ごめんね?」
「ご、ごめんねっ、有咲ちゃん」
なんで私にだけ謝るんだよ! なんか私だけ怒ってるみたいじゃねーか! ……私だけ怒ってるのか、そうか。んあー、なんか納得いかねぇ。だいたい、こいつは恥ずかしくねーのかよ……私だけかよ、恥ずかしいの。
香澄に目を向けても、きょとんとした顔になるだけだった。私がおかしいんじゃなくて、香澄とおたえがおかしいんだ……絶対そうだ。
「別に怒ってねーし……」
「うっそだー。だって、有咲顔真っ赤だよ?」
「おたえうっせぇー! 赤くねーから!」
「赤いよね、沙綾?」
「えぇ、私に振るの~? ……うーん、まあ、うーん。どうだろうね、りみりん」
「ふぇっ……えぇっと、あ、赤く、ないよ? 有咲ちゃん」
「……もういい」
そうやって、気遣われるのが一番恥ずかしいっつーの! ああ、もう! そんなに顔赤いのか私!? そりゃ、なんかちょっと熱いなとは思ってたけど!
「ご、ごめんっ」
「大丈夫だよー、りみりん。有咲、怒ってるんじゃなくて、照れてるだけだもん。ねー、有咲っ」
「おまっ、なに言ってっ……」
照れてなんてない。そんなことを言おうとして睨んだ先には、さっきまで平気そうだったのに頬を染めて目を泳がせる香澄がいて、思わず口を噤んでしまった。
「……お前のほうが赤いんじゃねーのか」
呆れて言うと、えぇっと素っ頓狂な声を上げて、香澄は自分の顔をペタペタと触る。……なんだそれ、なんかかわいいな。
「ほんとだ、熱い……」
「ほんとだ、じゃねーよ……」
なんだか力が抜けて、疲労感を覚えつつつっこむと、沙綾が堪え切れないといった様子で笑い始め、おたえが神妙な表情でつぶやく。
「あははっ! なにしてんの二人して、朝から勘弁してよ、もう」
「さすが、噂されてるだけのことあるね」
「ちょっ、おたえっ!?」
……なんか今、聞き流せない台詞が聞こえたな? 沙綾はなんでもないよーみたいな顔をしてるが、もう遅い。
「……噂?」
「な、なんのことだろうね? ほら、急がないと学校遅刻するよ!」
なんだか嫌な予感がする。そりゃそうだ。私が聞いても困らないことなら、隠す必要なんてない。つまり、逆説的に私が聞いたら困ること、私が怒りそうなことであると。
「沙綾」
私が名前を呼ぶと、沙綾は目を逸らしながら、
「……どうしても?」
「どうしても」
「……私に怒らないでよ?」
「……怒らない」
そんな問答を繰り返して、はぁと嘆息したのち、沙綾は口を開いた。
「……香澄と有咲が、付き合ってるんじゃないかって」
「えっ」
「はぁ……? 付き、合う……? なん、え、待った。は? 今、なんて……? 私と、香澄が、付き合っ……バンドの、付き合い、とか、そういう意味じゃ、ないんだよな……?」
こくり。沙綾の頷きを瞳で捉えて、咀嚼するように口を閉じた。
……私と香澄が付き合ってる? なんだ……なんだ、なんだ、胸、熱くて……声が。あれ、口って、どうやって、開くんだっけ?
吸い込まれるように動かした視界に映ったあいつは、ぽかんとなんでもないような顔で佇んでいて、さーっと熱が引いていった。
——落ち着けよ。バカじゃねーの。
「……ははっ、なんだそれ。くっだらねぇ」
「……あれ、怒んない?」
「はぁ? そんな根も葉もない噂で怒るわけねぇじゃん。第一、そんなの——」
どうしてここで、言葉に詰まる? 言いたくないから? 違う、そんなんじゃない。私はそんなの、望んでない。だから、口にするべき言葉は決まっていて、
「——ありえねーだろ」
そう。ありえないんだ、そんなの。私は香澄に憧れてる、隣にいたいと思う、それは認める。けど、そういう感情じゃなくて……だって、あいつだって求めてない。
「なぁ、か——す、み?」
同意を求めて再び視線を向けた。こいつだってそう思ってるんだって、私はそんな予想を立てていて。きっと笑い飛ばすに違いないって、それが正解なんだって。なのに。
なのに——お前は泣いていて。
「なに、泣いてんだよ……」
「へ?」
今まで気づかなかったみたいな声を上げて、それから目もとを拭う。濡れた手を確認すると、私に目を合わせてにへらと笑った。
「……なんでだろ、お、おかしいね?」
「調子悪いのか……?」
ぶんぶんと首を振って否定する。じゃあ、どうして。私が問うより早く、香澄はきつく胸の辺りを抑えて、口を開いた。
「分かんない……分かんないけどっ、なんか、変。痛い……痛いよ……っ」
「やっぱ、どっか悪いんじゃ——」
「——違うっ、違うの。なんて言えばいいか、分かんないけど……こう、胸の奥が、ぎゅぅってなる……っ。なんでかなぁっ……?」
笑顔と、ぽろぽろと滴り落ちる哀しみを見ていたくなくて、気づけば手を伸ばしていた。しかし、肌に触れる間際で鋭い痛みを伴って手が目標を見失う。
「痛っ……」
「あ——ご、ごめんっ」
一瞬なにが起きたのか理解出来なくて、じんじん痛む手と香澄を交互に見る。……なんだ、今、手、弾かれたのか? 香澄に?
「ち、違くてっ、なんか、びっくりして……」
「なんだよそれ……っ。いつも、いつも、お前から——」
ぱんっと、二回乾いた音が響いて、はっと我に返った。すっと私と香澄の間に入ってきた沙綾は、子供を宥める親みたいなちょっと腹立つ表情を浮かべて現実を口にする。
「あのさ……学校、遅刻しちゃうから」
「……忘れてた」
「だと思った。二人とも落ち着いて、とりあえず学校行こっか」
「べ、別に私は落ち着いて——」
「——落ち着いて、なに?」
「……なんでもない」
うんうんと頷いて、沙綾は香澄の手を引く。……なんで、私だけ。ああ、気色悪い。あいつが誰と手を繋ごうが、私には関係ないだろ。あんなバカ、ほっとけばいいのに。
ぼうっと見ていると、両手が温もりに包まれた。
「ほら、有咲。置いてっちゃうよ」
「有咲ちゃん、一緒に行こ?」
「……手繋いで行くとか、小学生かよ」
分かってる。なんかよく分からないうちにムキになってた。どうしてかなんて、分からなくて——違う。分かりたくないんだ。分かりたくない。理解したくない。知るのが怖い。ずっとそのままでいたい。
変化して失ってしまうのが怖い。きっかけを生み出すのが自分であって欲しくない。変わることでなにかを得るより、変わらないことで失わない道を選びたい。……バカじゃねーのか。
そんなの、臆病なだけだ。
「……有咲」
前を歩いていた香澄が私を見て笑みを浮かべる。
「ごめんね?」
私には、その笑顔が、ただただ痛かった。