————Side A
スマホのアラームで目が覚めた。聞き慣れない音を止めて、ゆっくり伸びをする。ぐるっと静かな室内を見回すと、妙な新鮮さを感じた。
……いつも、あいつがいるからな。
起きたらあいつがいて、たまに寝坊して来なかったり、風邪を引いて休んだりするものの、うるさいほうが日常で。……うるさいのがいないのに、逆に落ち着かない。
まあ、あいつがいれば落ち着くかっていうと、全然そんなことないんだけど。うるさいし、すぐ抱き着いてくるし、ドタバタな毎日にいつも疲れてベッドに突っ伏している。
でも、そのうるささも鬱陶しさも、疲労も苦労もなにもかも、落ち着かない日常の一つ一つがどれも心地よくて、疲れたーって飛び込んだベッドで重いまぶたを下ろしながら思うんだ。
——早く明日が来ないかな、って。
ポピパが好きだ。それは認める。おたえもりみも沙綾も香澄も好きだ。それも認める。そんなの、だって、誤魔化しようもないことだから。あいつらには絶対言わないけど、自分の心の中でくらいは認めてやってもいい。
でもそれは、親しみを感じているという意味での好きで、それ以上でもそれ以下でもない。
私は、戸山香澄の友達だ。
友達なんていなかった。ずっと一人だった。嬉しい。心の底からそう叫ぼう。この喜びや楽しさのどこにも嘘はない——なのに。
……なのに、どうして、こんなに胸が痛くなるんだろう。
この前の香澄の笑顔が脳裏に焼きついて離れない。違うんだ。そんなの……私の知ってる香澄は、そんな笑い方しない。あいつのあんな顔、見たくなかったのに。なんでだ。誰がっ——誰が、あいつの笑顔を変えた?
視界がぼやける。拭っても拭っても、それは止まってくれなくて、諦めて掛け布団の上に落ちた手のひらにぽつりぽつりと溜まっていく。
「……いた、い」
——痛い。
「い、たい……っ」
——痛い。
「痛いっ……」
——痛い。
痛いっ、痛いっ、痛いっ……! 喉の奥が焼けるように熱くて、胸が刺されたように痛くて。全身の力を奪い取るような熱量に、背中を丸めてぐしょぐしょになった手で胸を抑え、うずくまった。
目を閉じたくなかった。けれど、溢れ出す水分と耐え難い痛みに、どうしたってまぶたを下ろしてしまう。そうして、まぶたの裏に映し出されたあの笑顔と哀しみに、心臓がきつく締めつけられる。
「……どうしてっ」
どうして、泣いた? なにが悪かった? 私のせいか?
「香澄……っ」
——あの哀は、誰のもの?
私はまだ、その涙のわけを知らずにいる。
× × × ×
初期設定の通知音が耳に届く。慌ててスマホを確認すると、もうすぐ着くという旨のメッセージが届いていた。
ざわめきに包まれながら、そっと胸に手を当てると、心拍数が上がってるのが服越しにでも分かった。……なにどきどきしてんだ、私。
「……変じゃない、よな」
家を出る前に散々確認したのに、なんだか不安になってくる。服装はまあ、概ねいつも通りだから大丈夫だろうけど……目とか赤くなってないよな。時間はあったし、ちゃんと充血もまぶたの腫れも引いてたはずだけど……。
もう、帰りてぇ……うわー、会いたくねぇ。いや、でも、流石に今更帰るとか言えないし、そもそも言うほど帰りたいかっていうとそこまででもないし。いやいや、万が一「泣いてた?」とか聞かれたら絶対死ねるし、ていうか死ぬし。あー、うー、あー……。
「——有咲ーっ!」
「うわぁっ!? な、えっ、あ……か、香澄?」
「おっはよー!」
「お、おはよ……」
びびったー! めっちゃびびったー! 心臓飛び出すかと思ったわ、まじで。本当こいついきなり抱き着いてくんのやめろ。私が死ぬだろ。
そんな私の恨み節なんて知りもしない香澄は、びしっと頭の悪そうな敬礼をして、
「戸山香澄、到着です! ……待った?」
「……待ってねーよ。今来たとこ」
三十分前からいたとか絶対言えねぇ……そんなことを言ったら腹立つにやけ面を見るハメになる。それだけはごめんだ。
「ダメだよ、有咲。五分前行動を心掛けないと!」
「お前に言われたくねーよっ!」
時間ぴったりに来たやつがなに言ってんだまじで。こっちは三十分前から待ってたっつーの! 言わねーけどなっ!
「いちいち人を腹立たせるのが上手いやつだな……」
「えへへー」
「褒めてねぇからなっ!?」
「……有咲、しーっ。みんな見てるよ」
人差し指立てんな! はっ倒すぞ!
「……あー、もう、早く行くぞ」
「はーいっ!」
お前もうるせーじゃねーか。本当、能天気なやつ……こっちの気も知らないで。……知られたくもねーけど。
とにかく移動だ。遊園地は遠くないから、バスに乗ればすぐに着く。バスか……こいつと二人でバスに乗るってのも初めてだよな。めっちゃ騒ぎそう。
「有咲?」
「……なんでもない」
バスの時間は事前に調べてあったため、特に待つこともなく乗車する。香澄は私の予想に反して大人しく、ちょっと不安になってくるレベル——よく見たらめちゃくちゃ手が落ち着きなく動いていた。
「……楽しみか?」
「うんっ、楽しみ」
にへら、頬を緩める香澄に違和感を覚えることはなかった。……これだ。私の知っている香澄の笑顔はこれで、あのときのはまるで別物。一年しか見てこなかったけど、こいつは一年中笑ってるから、その違いに気づけた。
……まあ、気づいても、どうしようもないんだけど。
「私も……楽しみだ」
その言葉は自然と口から出てきて、言った私が驚いてしまう。……私、こんなこと言えたっけ。自分でも、今まで言えていた気はしない。香澄が面食らっているのを見るに、やっぱりそうなんだろう。
楽しいと思っていても楽しくないと言って、嬉しくてもどうでもいいと言って、一緒にいたくても離れろと言って。そういうことばかりしてきた。いつも口から飛び出すのは正反対の言葉だった。別に、そのことに対してなにか後悔を抱いているとか、そういうわけじゃないんだ。素直になれない自分は好きじゃなかったけど、香澄は——ポピパは、そんな私でも受け入れてくれたから。
——でも、こんな笑顔が見れるなら、もう少し素直になってもいい。
「はっ……随分と嬉しそうだな?」
「うん……うんっ、うれ、しぃ……っ」
「ちょっ、はぁ!? こんなとこで泣くなよ! おいぃ……」
「だって、だってぇ……有咲がぁ……っ」
「お前、最近泣き過ぎだろ……」
香澄が風邪を引いた日から、何度こいつの涙を見たか分からない。感情の起伏が激しい香澄だから、どうでもいいことでも大袈裟な反応をしてしまうのは、なんとなく理解出来ないこともないけど……それにしたって、堪え性がなさ過ぎる。
「……有咲が悪い」
「いや、なんでだよ……こんなちょっとしたことでいちいち泣くお前がおかしいんだろーが」
「ちょっとしたことじゃないっ! ちょっとしたことじゃないよぉ……」
「なら、控えるようにするか……」
「それはダメ!」
「どうしようもねーじゃねぇか……」
まあ、控えるっつったって、私だって意識してそんなことを言ってるわけじゃないから、本当にどうしようもないんだけど。
なんだろうな。あの日、言いたいこと、言えなかったことを吐き出したおかげで、ハードルが下がった。いや、ハードルが下がったというよりも、ハードルにぶつかるのが怖くて跳べなかったのが、バンジージャンプをしたら怖くなくなったみたいな、そういう感覚。
なにをしたって恥ずかしいものは恥ずかしくて、怖いものは怖いということだってもちろんあるけど、今回の場合はそれ。他になにか理由があるとすれば……私の意識の違いだろう。
明日からはまた言えなくなると言っても、毎回毎回あんなことはしたくない。そんなことしてたらいつか死ぬ。だったらまあ、多少恥ずかしくても、こまめに吐き出しておいたほうがいいっていう。
「毎度泣いてたらお前も疲れるだろ……」
目もとを擦りながら笑っている頭のおかしなやつに呆れ半分恥ずかしさ半分で声を掛けると、そいつはふるふると首を振って、はっきりと否定する。
「疲れないよ」
こいつの——戸山香澄の声は、たまに耳に響く。うるさいとか、そういうことじゃなくて、それはまるで、水面に落ちた雫が波紋を立てるような。じんと身体に溶けていく音。
「全然疲れない……元気出る」
ほらね、そう言って自分の頬に指を当て満面の笑みを浮かべる香澄は眩しい。いつものことだ。こいつはいつも眩しい。ただ、私はいつもその眩しさに目を瞑りたくなっていたのに、今は全然そんなことがなかった。
「有咲が隣にいるから、元気出る」
「……そうかよ」
「うん」
隣にいるんだ。その一言に泣きそうになった。