今でも何が起こったのかを受け止められずに、エムロードは城内を彷徨っていた。
突然の闖入者と、《ゼノバイン》という強大な敵。あらゆる事を差し引いても、とてもではないが自分一人では抱え込めなかった。
だからだろうか。足が自然と、アンバーのいる部屋へと向かっていたのは。
せめて声が聞きたい。互いに互いの傷を舐めあう形でもいい。今はただ、声が……。
「……琥珀。ボクは……」
捨てた名前を紡いで、エムロードは部屋へと向かおうとする。
その時、扉の前で佇んでいる影を目にした。
ランラと名乗ったあの男である。何のつもりなのか、と問い質した眼差しに相手はふんと鼻を鳴らす。
「ちょうどいい。出るように言ってくれ。聞き入れてもらえなくってな」
「……どういう事」
「ギーマから、お前ら二人の教官に、と充てられた。明日より剣術を指南する」
突然の事に言葉を失う。だって琥珀は……。
「琥珀は……戦いたくないはずなんです」
「そんな事は関係がない。聞いた話では一番のオーラ力を持っているようじゃないか。オレが一端の兵士にしてやる。戦えなければ、地上人とは言え意味がないからな」
扉を叩こうとしたランラの腕を覚えずエムロードは握り締めていた。
コモン人とは思えない膂力に、このバイストン・ウェルに来て初めて圧倒されそうになる。
「……何のつもりだ?」
「アンバーは戦わない」
「それは許されない。ゼスティアに召喚されたのならば戦えと。オレもギーマとの契約があってな。不本意ではある」
「だったら……! 余計に守る義務なんてない!」
「オレにはあるんだ。離せ」
力が込められ、エムロードは振り払われた。まさかコモン人に力で負けるとは思っていなかった身体が萎縮する。
乱暴に扉を叩くランラに、エムロードの中で怒りがふつふつと湧き上がってきた。胸を占める黒々とした感情が腰に装備した結晶剣の鯉口を切らせる。
「……殺気立ったな。剣まで握って」
硬直したランラにエムロードは正眼に剣を構える。
「……これ以上やれば……ただじゃおかない」
「もったいぶるなよ、地上人。殺すとでも言えばいい」
相手の本物の戦士の気迫に、エムロードは呼吸を詰める。
「……殺してやる」
「殺してみろ。なに、やればいいだけの話だ」
本気で言っているのだろうか。結晶剣とは言え、敵は斬れるように造られている。エムロードは柄に力を込め、雄叫びと共に斬りかかっていた。
その一撃を相手は大して身じろぎしたわけでもない。立てた二本の指先で刃を取る。
「白刃取り……」
「拙いな。その程度か」
直後にまさか、と思ったのは、二本の指の力だけで押し返された事だ。
姿勢を崩したエムロードへと足払いが入る。背筋を打ちつけた身体から剣が奪われ、首筋に刃が添えられていた。
ハッと、息を呑む間もない。
恐ろしく密度の濃い手際に、ただただ何も言えなくなる。
「……どうした? 動かないのか? 首を刎ねるぞ?」
刃がじり、と殺気を帯びる。エムロードは咄嗟に身体を持ち起こしていたが、瞬間、先ほどまで首があった空間を太刀が引き裂いていた。
――今、姿勢を起こさなければやられていた。
その実感に冷や汗がどっと湧き出る。
早鐘を打つ鼓動に剣を返したランラは地面に切っ先を突き立てた。
「やれ。殺せると思うのならばな」
――不可能だ。殺せない。
予感でも、ましてや希望でもない。これは確実な敗北であった。
ここまで力の差を見せ付けられればどうしようもない。
ランラは扉から身体を離し、蹴りを見舞っていた。木製の扉が用意に吹き飛ぶ。
中に篭っていたアンバーの驚愕は最もであっただろう。彼女は目を見開いて放心していた。
「……貴様がアンバーか」
「……誰、翡翠は?」
「翡翠……? こいつか。エムロード」
エムロードは身動きさえも出来なかった。少しでも動けば剣を取られ斬りつけられる。
その実感があるせいで、そのイメージが脳裏を離れないせいで、呼吸も儘ならない。遂には呼吸困難に陥って膝を折ってしまった。
「翡翠……?」
「……どうやら自分より強い相手に出会った事がないようだな」
ランラは部屋へと踏み込み、アンバーへと冷徹に言いやる。
「貴様はオーラバトラーにはもう乗らないらしいな」
「……そう、だけれど」
「それはこの領国では許されない。アンバー、それにエムロード。貴様らを徹底的に、鍛えろと仰せつかった。それこそがオレが《ゼノバイン》を追うために、この国に在籍する条件だ。ギーマとミシェルもその条件を呑んだ。あの吟遊詩人もな。ここでオレの決定権を覆せる人間はいない」
絶望的な響きであった。
もう一度アンバーにオーラバトラーに乗って前に出ろと言うのか。そんな、あまりにも残酷な事を。
「あたし……」
「明朝から始めるつもりだったが、こんなところで腐っているのならば今から分からせたほうがいいか。オーラ力がどれほどのものか、試させてもらう」
ランラがアンバーの腕を掴む。細腕が今にもへし折られるかに思われた。
「やめろ!」
エムロードは眼前の剣を取りランラへと背中から斬りかかる。戦力差など関係がない。
アンバーを、こんな男のいいように扱わせるわけにはいかない。
打ち下ろした剣筋が直後、膨れ上がったオーラの熱を関知した。
アンバーが悲鳴と共に爆発的なオーラを増幅させる。その波にランラ共々吹き飛ばされてしまった。
エムロードは岩壁の冷たい感触を味わいながら、咽び泣くアンバーを視界に入れていた。
ランラが持ち直して頭を振る。
「まさかこれほどまで、とはな。アンバー。やはり貴様は《ガルバイン》に乗れ。そのほうが……よっぽどこっちよりも強くなれる」
一瞥したランラの眼差しに、エムロードはぞっとする。
本当に、虫けらとしか思っていない眼。
アンバーは涙していたが、ランラは歩み去っていった。エムロードは部屋に入る事も出来なかった。
素質の分ではアンバーのほうが自分より強いとは聞いていたが、オーラだけでまさか大の大人を吹き飛ばせるまでとは思うまい。
「……翡翠……。助けて……くれないの」
その問いかけに今は素直に頷けなかった。自分が全く太刀打ち出来なかった相手を、かつての友は容易に倒した。それだけで、エムロードの心には亀裂が走っていた。
「ゴメン……琥珀。ゴメン……、ボクは何も出来ない。何も……出来なかった」
贖罪のように口にした言葉が一番に情けなかった。エムロードは剣を手に逃げ出した。
どこをどう逃げたかも分からない。
ただ今の自分をアンバー――琥珀に見て欲しくなかった。ランラに押し負け、言葉でも力でも及ばなかった自分を。親友の相貌に守ると誓ったあの日々は、もう遠い幻なのだと突きつけられたかのようで。
城壁の隅で、エムロードは涙に暮れた。
止め処なかった。
それはこの場所へと呼ばれた不安の涙だけではない。至らなかった自分が情けない涙、敗北を心に刻んだ涙、そして――敵として蒼を討たなければならないかもしれない、そう遠くない宿命への涙……。
どれもこれもが少女の胸の中で抑え込むのには辛く、エムロードは今はただの「翡翠」という名の少女として泣くしかなかった。
気づいて、ティマは声をかけそびれていた。
柱の陰からエムロードを窺う。このバイストン・ウェルに召喚されてから、アンバーは脆さを隠せていなかったが、エムロードは戦士なのだと、自分達は勝手に思い込んでいた。
だからなのだろう。顔を出すのは気が引けて、身を翻そうとした時だった。
「……ミシェル」
「……アンバーから聞いてここまで来たんだけれど……放っておいたほうがいいわよね」
声が聞こえないのを確認して、ティマは罵った。
「……あんた達でしょ。あのランラとかいう乱暴者を呼び込んだのは」
「仕方がなかった……なんて言い訳するのもおこがましいわね。私達は分かっていてやっているの。確信犯なのよ。でも、あの子達は違う。聖戦士……だなんておだてられちゃったけれど、私より幼いんだもの。抱え込めるはずもない」
「……もしもの時はどうするの」
もし、エムロードが戦いたくない。アンバーも《ガルバイン》に乗るのを拒否すれば。
その時は、とミシェルは首を横に振っていた。
「分からない。でも、私なら……、こんなところで終わりたくはない」
「それはミシェルだからでしょ」
「どうかしら……。だって、私達が助太刀しに行ったとは言え、あなたとエムロードは地力でジェム領国から逃げ出そうとしていた。それは己の強さだとは思えない?」
問いかけにティマは鼻を鳴らしていた。
「見せ掛け、こけおどしだよ。……あたしもエムロードも、根本じゃ強くないんだ。あたしだって《ソニドリ》を否定されたら落ち込むし……泣いちゃう」
「だったら、せめてエムロードの傍にいてあげて。専属整備士なんでしょ? 《ソニドリ》の」
「そりゃ……そうだけれど。でも……地上人の傷を慰める方法なんて分からないよ」
「……私が行くのはもう蛇の道。今さら地上人だからって仲良しこよし出来ないのよ。だから、あなたが見てあげなさい。あの子達の事を」
「……分かんないなぁ。だって、地上人なんでしょ?」
その言葉振りにミシェルは寂しそうに呟いた。
「……それが無敵の証じゃない。それだけは覚えておいて」
立ち去っていくミシェルの背中は月光に濡れ、どこか寄る辺のない影そのものに映った。
「バイストン・ウェルの、物語を覚えている者は幸運である。心豊かであるから……」
語った吟遊詩人の音色を、ランラは鼻で笑う。
「何も出来ない聖戦士が」
「何も出来ないからこそ、見届けさせてはもらう。……なぁ、どっちに賭ける?」
平原で岩場に座り込んだトカマクがコインを弄んでいた。
「来るか、来ないか、か……」
「おれは来ない、にワンコイン」
「賭けにならない」
「そうかもな。でもまぁ、おれだって同じようなもんだよ」
「同じ?」
振り向けた視線にトカマクは楽器から寂しげな音色を立てる。
「……伝説になっちまった連中と、同じ時代に生まれるってのは残酷なもんさ。あの二人には……スタート地点から違ったって事なんだからな」
それが誰の事を言っているのか、バイストン・ウェルで知らない者はいない。
アの国を救った大英雄。そして、伝説の聖戦士。《ダンバイン》の使い手。
「……残酷な事をしていると思うか?」
「残酷なのは男の領分さ。手前勝手なのは女の領分。分かりやすくっていい」
「お前はバイストン・ウェルで何を見てきた」
「……何を? ほとんど全てを。残酷に戦火に駆り立てられるコモンの人々。穢れたものは嫌だと、手前勝手に全てを投げ打ったフェラリオの長……。そして何よりも……一応は運命を共にした者達が、浄化の名目で全てを塵に還されたって言う、現実を」
彼は生き証人なのだ。バイストン・ウェルという糸と糸の紡ぐ伝説そのものの。膨大な糸の一つが、彼なのだろう。
――では自分は?
《ゼノバイン》への憎しみだけで駆り立てられた自分は、一体なんだと言うのだろう。
掌へと視線を落としていたその時、不意に気配を感じて面を上げた。
「……信じられないな」
トカマクの言う通りであった。
自分でも信じられない。
エムロードが剣を手にこの場所まで歩み寄っていた。
「……来る気になったのか」
「ボクは……逃げない。逃げないと決めた。お前達のような不条理から。何よりも、このバイストン・ウェルという土地から。ボクは、抗うために呼ばれたはずだから」
「そう、か。だがその志は貴様だけではないようだ」
指差した方向から《ソニドリ》を抱えた《ガルバイン》が飛翔してきた。目を見開くエムロードの前で《ガルバイン》が降り立ち、《ソニドリ》の操縦席からはティマと名乗ったミ・フェラリオが飛び出してきた。
「エムロード! あたしは……《ソニドリ》の専属技師! だから、あんたの戦いは最後まで見守りたい! もちろん、アンバーも!」
《ガルバイン》の操縦席からアンバーが覗く。一瞬だけ、ばつが悪そうに顔を背けたが、逃げないと誓った双眸はアンバーを見据えていた。
「……やるよ」
拳を掲げたエムロードにアンバーが同じように拳を掲げ、コツン、とつき合わせる。
その了承は恐らく、彼女達だけのものだろう。
「……言っておくが、オレは半端をやれとは言われていない。やるのならば徹底的にやる」
岩場に控えさせていた《カットグラ》へとランラは乗り込んだ。
エムロードとアンバーが了承の眼差しを交わし、二人してオーラバトラーに乗り込む。
主を得た二機のオーラバトラーが瞳に輝きを宿した。オーラの力が拡大し、周囲の草木がざわめく。
未知なる二つのオーラが今、まさに風と渾然一体となった。バイストン・ウェルに吹く、新風だ。
『オーラバトラー、《ソニドリ》! エムロード!』
『同じくオーラバトラー、《ガルバイン》! アンバー!』
その意気はよし。立ち向かうと決めた声にはそれなりの張りが宿る。
《ゼノバイン》に全てを奪われ、あの日戦うと決めた自分と同じように、彼女らにも思い切らせるのだ。
このバイストン・ウェルで戦い抜くという覚悟を。
白と紫のオーラバトラーが駆動し、その剣筋を一斉に見舞った。
第二章了