リボンの聖戦士 ダンバイン外典   作:オンドゥル大使

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第三章 アルターブリッジ
第十九話 ライズ・トゥデイ


 船が湖を渡る術を、コモン人は多くは知らない。

 

 コモンにとって、波間、水とは神聖視されるものの一つであったからだ。

――湖の底ではフェラリオの世界がある。

 

 そう、まことしやかに囁かれれば、実際にフェラリオを見た事のない者達は錯覚する。そして、夢想するしかない。

 

 フェラリオの世界、妖精の舞う幻想の極楽浄土を。聞いた話では、フェラリオの世界には死の概念がないという、と口火を切ったのは、その夜に湖を渡る事を諦めた男達のうち、一人であった。

 

 彼らは旅団と呼ばれる移住者であり、特定の地に定住しない。それは彼らが本質的にそういった「テーマ」を持たないからでもあったが、何よりも理由として大きいのは全員が全員、開いた背に刻まれた痣が原因であった。

 

 薄く青ざめた痣は「翅痕」と呼称されている。コモン人は、「翅痕」のある人間を恐れる。その理由はそれこそ根拠のないいわれであった。

 

「翅痕の人間はフェラリオの血を引く異端者」――。

 

 全くの事実無根でもない。実際、フェラリオには翅がある。ただし、彼らはミ・フェラリオどころか、その成長態のエ・フェラリオの存在さえも知らない。

 

 だから、フェラリオ=翅を持つ妖精という事象でさえも植えつけられた無根拠の塊なのだが、それを否定する術を持たないのだ。

 

 彼らは夜ごと、眠る場所を決め、円筒型のテントを張り巡らせて、中で火を焚く。

 

 松明の火を凝視しつつ、誰かが「テーマ」を語り始めるのが旅団の日課であった。

 

 その日のテーマは自ずとフェラリオの噂話に決まったため、誰とも知れず御伽噺がついて出たのだ。

 

「死がない、か。……不幸だよな」

 

「死ねもしないと、ひもじくもならない。連中は何だ? 霞でも食っているのか?」

 

「さもありなんだから始末にも負えねぇ。フェラリオなんて森に入って捕まえてみろよ、ウスノロ。森に喰われるのがオチだぜ」

 

 彼らは互いを罵倒しても、心の底では繋がっている。ゆえに、真の決裂はあり得ない。穏やかなる気性の持ち主である旅団の「翅痕」達は、はは、と乾いた笑いを発した。

 

「お前の顔だって酷いもんだ。フェラリオなんかに連れて行かれなくたって、相手も願い下げだろうさ」

 

「てめぇだって、随分と。湖の底に引きずり込まれちまいな」

 

 火を囲んでの馬鹿話に、ふと、フェラリオは開くんだ、という震え声が混ざった。「翅痕」の中でも新参の、華奢な男が口にしたのだ。

 

「開く? 何をだ? まさか股を、とは言うめぇ」

 

「知らないのか? オーラ・ロードだよ」

 

 それは、旅をしていれば自然と一つや二つは噂になる。

 

 ――オーラ・ロード。

 

 空と海とを繋ぎ止めたこのバイストン・ウェルと、全くの関わり合いを持たない異郷の地、地上が交わり、そこから地上人と呼ばれる異人を連れて来るという。

 

 どれも要領を得ない噂の域で、彼の話も無論、槍玉に挙げられた。

 

「馬鹿言え。オーラ・ロードなんか開くかよ。そうなったらこの世の終わりだろ? 俺のオフクロが言っていたぜ。オーラ・ロードが開くと地上界にこのバイストン・ウェルが吸い込まれちまうって」

 

「そんな話は聞いた事ねぇな。俺が知っているのはバイストン・ウェルよりも上にあるって事だけだが、上ってどこだよ? まさか星の海の向こう側か?」

 

 空を指差した男が囃し立て、それを笑い話に変えた。いつだって彼ら旅団にはユニークさが求められる。どのような怪談であれ、奇奇怪怪の話であっても、それを一瞬で馬鹿笑いに変えられる要素が、彼らが今日まで生き延びてきた処世術の一つだ。

 

 しかしその「翅痕」は首を振って否定する。

 

「そんなんじゃない……! オーラ・ロードが開ければ、地上人が降りてくる。連中、バイストン・ウェルに災厄をもたらすんだ」

 

「おいおい、見た事もねぇ、地上人、それに見た事もねぇ、フェラリオ相手に何ビビッてるんだよ。怖がるのなら布団の中に潜ってからにしな」

 

「一人で震えるのは勝手だが話に水を差すなよ、新人。俺達旅団では、後味の悪いジョークはご法度なんだ」

 

「ジョークじゃない、本当なんだ!」

 

 喚き散らした新人に男達が諌める。

 

「まぁまぁ。それもこれも、湖を渡る度胸もない、俺達みたいなのを慰める作り話さ。よく見ろよ」

 

 テントの幕を開けた先には月光が作り出した黄金の道標がある。青く沈んだ水面は静寂を湛えていた。

 

「これが現実ってもんだ。まぁ、この湖の底にフェラリオの棲む世界はあるかもしれない。だが、地上人だって? オーラ・ロード? そいつはナンセンス。作り話以下だ」

 

 どこかで線を引かなければ、寓話の世界に引き込まれてしまう。旅団の男達はその点、ありもしないファンタジーを語るがリアリストであった。

 

 この世に解明されない永遠の謎は数多いだろう。だが、それら全てが、幾星霜の果てまで永遠に謎かと言えば、疑問符を浮かべざるを得ない。

 

 人々が生きている限り、解明される奇跡や、あるいは単純な理屈に過ぎなかった怪奇も存在するだろう。

 

 オーラの力とて、一昔前まではもっと幻想的に捉えられていたものだが、今では人間の発する単純なるエネルギーの素質だとまで言われている。

 

 それもこれも、とフェラリオの世界に思いを馳せていた者達は口々に声にした。

 

「三十年前にアの国が戦争なんておっぱじめなかったら、今でもオーラとか言うのは解明されていなかっただろうな。無論、オーラマシンもフェラリオももっと遠い出来事だっただろう」

 

「ショットとか言う、イカレた地上人が叡智を持ち込んだんだ。そいつがオーラで動くなんていうマユツバ機械を造り出した。もしかしたら、俺達だけならあと何百年かは平穏に暮らせたかもしれないな」

 

 それでも、何百年か、という単位でしかない。オーラマシンはいずれ製造されたかもしれないし、フェラリオの世界に関する理解ももっと早かったかもしれない。

 

 いずれにせよ、起こってしまった出来事だけは変えようがなかった。

 

「オーラマシンねぇ……。それがあれば、湖一つ渡るのに、こんなに苦労はしないだろうさ」

 

「他国だって、オーラマシンを造るのに躍起になった。三十年前はみんながみんな、どうかしていたんだ」

 

「……だから、オーラ・ロードも開いた」

 

「またその話かよ。おい! 誰かこの新入りをちょっと目ぇ、醒まさしてやれ」

 

「俺がやってやるよ」

 

 新入りの肩を男が引っ掴み、テントを出て湖の水面へと石を投げた。八回ほど跳ねて石が湖に沈む。

 

「この下にフェラリオの棲み処があると思うか?」

 

「……あっても不思議はない」

 

「そうだな。そりゃそうだ。だから、そういうスタンスでいいんだよ。あっても不思議じゃない。だが、なくったっても同じだ。俺達はそういう流れ者なんだ。だから、噂話が毎晩、暇潰しになる。怖がっても、何も始まらないだろ?」

 

「……だが全員の決定だ。湖を渡らないっていうのは迷信を信じての事だろう?」

 

「……お前、名前は?」

 

「……ディ・イリオン」

 

「変わった名前だな。イリオン、あそこにあるのは何か分かるか?」

 

 空を指差した男にイリオンは不服そうに応じていた。

 

「馬鹿にして。あれは星、あれは月だろう?」

 

「そう、月に星、ほら? 分かるもんだろ? そういう事なんだ、イリオン。いずれは分かる。いずれは誰にだって分かる。ガキにだってそうさ。お前は自分の子供に、夜空に浮かぶあの真ん丸が何か分からない、って教えるのか? それとも、瞬く星は、誰かの眼差しだとでも?」

 

 それは、とイリオンは返事に窮する。男は満足気に頷いていた。

 

「そういう事なんだ、イリオン。いずれは何もかも白日の下に晒される。この世で、分からない事、それは怖いもんだ。だが、恐怖を克服出来るのもまた、人間なんだ」

 

 イリオンは少しばかり気性が落ち着いてきたのが自分でも窺えた。旅団に拾われてよかったと、初めて思った瞬間かもしれない。

 

「イリオン、もう寝ちまえ。湖を渡る術は明日考える。明日、何もかも考えちまえばいい。今日分からない事は明日の自分に託すんだ」

 

 そう言って肩を叩き、テントに戻ろうとする男をイリオンは呼び止めていた。

 

「あれも……か? あれは、何なんだ?」

 

 彼が指差したのは湖に浮かぶ人影である。一瞬、男がびくついたのが伝わったが、彼は夜目が利くのか、すぐにその正体を看破した。

 

「あれは陽炎だ。遠くの街にある何かが浮かんで見えるのさ。よくある事だ」

 

 その「よくある事」に収めるのには、イリオンが目にしていた事態は異様であった。

 

「でもあれは灰色だ」

 

「そういうものもある。灰色だろうが、どうだろうが……」

 

「でもあれは、ヒトの形をしている」

 

「そう、ヒトの形を……。おい、ありゃあ、何だ?」

 

 問いかけた男が仲間達へと呼びかけるまでの僅かな時間、その人影は湖の中心地から赤銅色のオーラを空に向かって放出した。螺旋を描いて虚空へと赤銅のオーラが宵闇を引き裂く。

 

 その様が、どうしてだか恐ろしいよりも美しいという感覚が勝った。

 

 慌てて外に飛び出した男達が湖に浮かぶ影を凝視する。

 

「……ありゃ、何だ? 人間にしちゃ、でか過ぎる」

 

「フェラリオか?」

 

 先ほどの話の続きが思い起こされ、男達は肩をびくつかせる。

 

「驚かすなよ。どうせ、こういうのも、ちょっとした錯覚だ。そう、ちょっとした……」

 

 その時、赤銅のオーラを纏った何かは急速にこちらへと接近した。あまりの速度に誰もが認識を追いつかせていなかった。

 

 眼前に佇む灰色の巨人に、誰かが言葉にする。

 

「まさか……これが、オーラバトラー……」

 

 噂でしか聞いた事のないオーラバトラーと呼ばれる兵器は次の瞬間、旅団の仲間を一人、その手で掴んだ。

 

 悲鳴を漏らす仲間が直後には鉤爪が皮膚に入り、内側から破裂する。赤い血潮が舞うのを、イリオンは放心したまま眺めていた。

 

 眼前で握り潰されたなど誰が信じられよう。灰色のオーラバトラーが赤い眼窩をぎらつかせ、次の獲物をその手に握ろうとする。

 

 その時には、仲間の死に反応してか、あるいは最初から持っていたのか、銃声が響き渡った。

 

 銃弾が灰色の悪魔に突き刺さる。だが、硝煙を棚引かせたその一撃は何のダメージにもなっていないようであった。灰色の悪鬼が着弾点をさすり、旅団の男を一人、また一人とその爪で葬っていく。

 

 悲鳴と断末魔の連鎖に、イリオンは指先一つ動かせなかった。完全に硬直した肉体は撤退信号を出す前に、呆然と立ち尽くすのみ。

 

 頚動脈を掻っ切られた男が倒れ伏した時、残った仲間達は一斉に火縄を番えていた。旅団は基本的に武装しないのが慣わしであったが、いざという時の自衛の措置くらいは取れなければ仕方あるまい。

 

「放てぇっ!」

 

 火縄の弾頭がオーラバトラーへと殺到する。赤い瞬きが網膜に焼きつき、突然現れた蹂躙の使者を迎撃したかに思われた。

 

 直後に響いた声を聞くまでは。

 

『やるじゃん! やるじゃない、あんた達! 《ゼノバイン》がさァ、渇くんだって! アタシも渇いて、疼いちゃう……! こんなに活きのいい餌は久しぶりだって! 嬉しい? ホラ! 嬉しいって悶えなさいよ! あんた達ィ!』

 

 悪鬼の眼に凶暴な光が宿った。この時、知るはずのない知識が未来を先回りする。

 

 ――これ以上は。

 

 駄目だ、と思惟の声が引き絞られた時、彼は赤銅のオーラが渦を成すのを目にしていた。

 

『オーラディス! ヴェール!』

 

 胸部より灰色の物体がせり出し、内側から灼熱のオーラを放出する。

 

 男の一人が自分を庇って駆け出していた。しかし、視界には瞬く間に炎熱に焼かれていく仲間がありありと浮かぶ。

 

「駄目だ!」

 

 声にした男も呻いていた。その背筋から煙が立ち昇る。

 

『あんたさァ! 獲物のクセにちょこまかしないでよ。黙って狩られなさいよォ!』

 

 オーラバトラーが湖に打ち捨てられた材木を手にする。直後には赤銅のオーラが逆巻き、その材木を熱する巨大な剣に仕立て上げていた。

 

 振り上げられた刹那、男が口走る。

 

「南無三!」

 

 吠え立てられた声と共に、男の背筋から生えたのは青白い翅であった。翅痕から、本物の翅が出現した。

 

 その事実にイリオンは息を呑む。

 

「ゴメンな。イリオン。お前だけしか、逃がせそうにない」

 

 その言葉が紡がれた直後、万華鏡の如き輝きが天上より降り注いだ。あまりの光の瀑布に目を開けていられない。

 

「オーラ・ロードを開く! 我が御名の下に!」

 

『ウルサイ……ウルサイ、ウルサイ! 何この声……、オーラの向こうから、邪魔なのよ!』

 

 赤銅の切っ先が男の胸元を刺し貫く。脊髄を突き抜けた一撃にイリオンは吼えていた。

 

 瞬間、天地が背き合い、逆転する。光の波の向こう側へと、イリオンは弾き飛ばされていた。

 

 反動で身体が宙を舞う。重力を失った肉体は彼方まで突き抜けていくように思われた。

 

『逃がすわけないでしょ! 餌のクセにィ!』

 

 灰色のオーラバトラーが手を伸ばす。そこから逃れようと、イリオンは身体を折り畳み、波に任せた。

 

 世界が蠢動し、極小まで縮み上がった。何もかもが乱反射と、輝きをどこまでも湛えている。

 

 虹の道の果てはどこまでも続いており、果てしないように見えて、刹那、身体に異様なほどの重圧を感じてイリオンは坂を転がり落ちていた。

 

 何が起こったのか、まるで分からない。

 

 投げ出された形のイリオンは眩惑する視界の中、頭を振る。

 

「何が……」

 

 起こったのか。名状する前に、投光機の光が彼の視界に突き刺さった。

 

「誰か!」

 

 周囲に展開するのは武器を持った大人達である。イリオンは反抗する前に突きつけられた銃口に何も言えなくなっていた。

 

「……子供だな。立て! ここにどうやって入った!」

 

「どうやってって……」

 

「米軍の管轄だぞ! 女学校の生徒では……なさそうだが」

 

「おい、見てくれ! こいつ、白人だ」

 

 露になった自分の肌にイリオンは困惑の目線を周囲へと配る。

 

「どうなったって……」

 

「動くなよ! ガキ! ここは絶対に入れないはずなんだ……おい! まだか?」

 

「まだだって、落ち着けよ! そういきり立ったって、ガキ一人入ったってだけだろうが!」

 

「いいや、我が方の作戦を熟知して、何者かが送り込んだ尖兵の可能性もある。身体検査! いや、そもそもお前……嗅いだ事のないにおいだな……男なのか! 女なのか!」

 

 そのような分かり切った事実、尋ねられたいわれもない。イリオンは必死に応じていた。

 

「ここは湖の沿岸じゃ……」

 

「湖? 勘違いをしているのか。この……どっちともつかないガキを、誰かひっ捕らえろ!」

 

「待てよ! 撃ってもいいのか? 不法侵入!」

 

 逸った兵士達は照準を自分の胸元へと向けていた。引き金が絞られるかに思われた、その時、声が響き渡る。

 

「何事か!」

 

 野太い声の持ち主は自分を認めるなり、ふんと鼻を鳴らす。

 

「白人にしては、随分と華奢だな。女か?」

 

「どっちとも。分からないんです」

 

「少佐! 如何なさいます!」

 

「……近隣の村の子供だとすれば我々が保護した、という形が一番の落ち着けどころだろう。しかし、この港町に白人なんて住んでいたか?」

 

「軍属の家族かもしれません。身元の照合を」

 

「頼む。わたしは、彼を」

 

 屈み込んだ碧眼の男を、イリオンは観察していた。バイストン・ウェルの地表に似た、緑と泥が跳ねたかのような服を着ている。

 

 帽子までそのような代物なので、イリオンにはこれが何かまかり間違った芝居に見えたほどだ。

 

「……頭は……打っていないようだな。おい! 衛生兵を呼べ! わたしが連れて行く!」

 

 額をさすった男は自分の手を引いた。あまりの細腕にどうやら驚いているらしい。

 

「……食べ物を。まともに食べているような腕ではないな。食料もだ! 非常用のレーションでいい!」

 

 了承の声を返す同じ服装の者達を尻目に、男は自分を機械で構築された屋内へと連れ込んだ。

 

 その中の一室には強烈な臭いが充満していた。あまりの臭いにむせ返ってしまう。

 

「消毒液はお嫌いかしら?」

 

「ターニャ、この子が急に隔離地区に。まさか、入ってくるなんて」

 

「隔離地区に? ……何かの間違いじゃ?」

 

 ターニャと呼ばれた豊かな金髪の女性は自分を仔細に観察し、手首を掴んだ。

 

「……脈はあるわね。ジャップの言う、幽霊とかじゃなさそう」

 

「冗談はよせ。こんな時に」

 

「こんな時だからじゃない。彼……いいえ、見た感じ彼女かしら?」

 

「どっちだか判別がつかないんだ」

 

 困惑顔の男にターニャは微笑みかけた。

 

「案外、どっちでもなかったりして」

 

 ウインクしたターニャに男は咳払いする。

 

「……冗談よ。言葉は分かる?」

 

 イリオンは困惑気味に頷いた。ターニャは紙に何かを書き付けている。バイストン・ウェルではなかなかお目にかかれない代物であった。

 

 キマイ・ラグの皮でも丸ごと剥いだかのような薄っぺらい皮に強獣の血を使わないと出ないであろう黒い染みを滲み込ませている。

 

「名前は?」

 

「……イリオン」

 

「イリオン、ね。見た限り白人種みたいだけれど、言葉は?」

 

「丸っきりの日本語だ。だが若干我々のスラングも混じっているような気がする」

 

「どっちとも取れる……というわけ。要は、日本人とも、ましてや米国人とも言えない……あなたの悪い癖よ、少佐。お荷物を抱え込む」

 

「放っておいてくれ。彼……いいや、彼女か。どっちでもいい。殺される間際だった」

 

「隔離地区に入り込んだんじゃ、ね。殺されても文句は言うなと、一応は立て看板がしてあるんだけれど」

 

「日本語で書くからだ」

 

「英語で書いたってわけが分からないといわれればそこまでよ」

 

 ふんと鼻を鳴らした男は僅かにこちらを窺い見る。

 

「……兵士達がささくれ立っている。機密だが、隔離地区より逃げたらしい」

 

「まさか! あれが?」

 

 驚愕に塗り固められた声音に男は囁く。

 

「あれがまたしてもこの世に解き放たれれば、災厄の繰り返しだ。本国はあれのデータを持っている。だからこそ、隔離という策を取ったのだが……」

 

 額を押さえた男にターニャが顔を覗き込んだ。

 

「疲れてる?」

 

「かなり、ね」

 

「睡眠導入剤を。数粒出しておくわ」

 

「感謝する」

 

 小さな白い粒を男は受け取り、自分へと目線を合わせた。

 

「……君は大変な時に訪れたかもしれないな」

 

「彼……いいえ、彼女かしら。いずれにしても、精神が昂っているはずよ。それに栄養状態も悪そう。点滴を打っておくわ」

 

「助かる。明日には身元の調査を始めよう」

 

「しかし……悪い事は重なるものね。こういうのを日本語でなんていうのだったかしら」

 

「弱り目に祟り目、だったか。日本語は馴染まないな」

 

 男がそう言って立ち去りかけて、ターニャは自分をベッドへと手招いた。慣れた手つきで針を腕に差し込まれる。

 

 直後、言いようのない眠気が押し寄せてきた。

 

「疲れているのよ。ぐっすり眠るといいわ。悪夢も醒めるでしょう」

 

 そうなのだろうか、と自分はどこかでこの落とし込まれた事態を達観していた。ともすればこれは、悪夢のほんの序章なのではないか。

 

 そのような予感が脳裏を掠めた時には、もう意識は落ちていた。

 

 


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