「何の光ッ!」
操縦桿を引いたイリオンは屹立する赤い鬼神が銀色の輝きに切り裂かれたのを、《アグニ》の操縦席より確認していた。
ハイパー化。その詳細は分からなくとも、これがあってはならない災厄であるのは分かり切っている。たとえ湖を渡る術を知らぬコモンでも、これはまずいのだと反射的に分かる。
「これは……人の世にあっちゃいけない光だ。禁断の虹……!」
積載した武器弾薬庫はほとんど尽きている。それでもメタルバルキリー《アグニ》は曇天に沈んだオーラの天空を滑走した。
青い推進剤を棚引かせ、真紅の翼を得た《アグニ》が敵を睨む。
敵はもう一機のアンノウン――紫色のオーラバトラーの放った剣閃で致命傷を受けたらしい。その遺骸が海に没する前に、無数の輝きが乱反射し、地上を地獄に染め上げたのだ。
「……極小規模でのオーラ・ロード……。こんなものって……! デックさん!」
繋いだ先の整備班より、悲痛な声が迸る。
『イリオン……君。我々に……観測出来るのは、ハイパー化したオーラバトラーが生み出した……干渉波の洪水だ。このままでは呑み込まれるぞ。……港町だけじゃない。全てが……バイストン・ウェルと引っくり返ってしまう……』
引っくり返る。そうなるとどうなるのか、無線に問い質そうとして、イリオンは《アグニ》へと貼り付いた敵機の破片が異常な数値を示しているのを目にしていた。
「……計測した事のないオーラバリア……。これが……基地のみんなの頭上に……落ちる……」
そうなればどうなるのか。想像に難くない。
オーラバリアは今の地上界の叡智をもってしても、無力化出来ない隕石のような暴力だ。
その暴力が、人の命を摘み取っていく。人間の痕跡や証明などまるで無意味だとせせら笑うかのように。
オーラは、平等に何もかもを奪うだろう。
――守ると決めた大切な者達を。
イリオンは骨が浮くほど、パイロットスーツの中で拳を握り締めた。
首裏が汗ばみ、この空域から今すぐにでも離れるべきだと危機管理能力が告げている。
それでも、とイリオンはオーラの暴風が吹き荒れる絶海を突き抜けた。
フットペダルを踏み込み、加速度に身を浸した《アグニ》が旋回し、崩壊の途上にある赤い影をヘッドアップディスプレイに照準する。
「……全部がオーラ・ロードだって言うのなら、関係ない。全部、撃ち落とす!」
叫びと共に引き金を絞る。連装ガトリングと武装コンテナに装備された全火器が放出され、赤い影を突き飛ばす。その身をオーラの皮膜が守ったのも一瞬。こちらの容赦ない弾頭がハイパー化した敵へと殺到した。
――《アグニ》は全てのオーラバリアを持つ敵を無効化する。
事前にミシェルから聞かされていた通り、メタルバルキリーへと進化を遂げた愛機は異常なほどの攻撃力を発揮した。
その暴力はまさしく騎士の名を冠するに相応しい。
空を引き裂く一陣の烈風。赤い比翼、鋼鉄の獣騎士。
そう、その名は――。
「メタルバルキリー《アグニ》は、伊達じゃないッ!」
殺人的なGが胃の腑を押し上げる。今にもブラックアウトしそうな脳内で、イリオンはただひたすら撃墜を重ねた。
照準に入った敵を葬る。
ただ、それだけの、疾走する野性。本能を剥き出しにした、鋼鉄の外皮を持つケダモノ。
一つでも多くのオーラ・ロードを消し去る。
その目的のみで駆け抜けようとした矢先、照準警告の赤に《アグニ》のコックピットが支配される。
「接近? まさか、さっきの紫色のオーラバトラー……」
そこまで口にした時、視界いっぱいに大写しになったのは、灰色の悪鬼であった。
羽音をまるで散らせず、無音のまま接近した死神。自分をこちら側へと手招いた諸悪の根源が、煉獄のオーラを纏いつかせ、その腕を振るい上げる。
『――邪魔よ』
まるでそれだけの、羽虫のような侮蔑さえ伴わせて。
《ゼノバイン》、の識別コードを振られた敵機によってもたらされた一撃に、《アグニ》は激震を受けた。
緊急措置が実行され、武器弾薬がパージされる。《アグニ》が得た翼を、《ゼノバイン》は一撃の下に奪い取っていた。
「あれは……僕を……」
思い出されるのは、翅を開いた旅団の仲間の最期。その声が明瞭に響き渡る。
――生きろ。イリオン。
奥歯を噛み締める。萎えかけた意識に無理やり火を通し、イリオンはフットペダルを限界まで踏み抜いていた。
急加速に振られた機体が軋みを上げる。空中分解の警告が鳴り響く中、イリオンが赤く染まった照準を敵影へと据える。
「……お前だ。お前が何もかもを……、未来を奪った!」
連装ガトリングによる猛攻を敵機は片手を翳しただけで無力化する。可視化されるほどの膨大な黄昏色のオーラにイリオンは絶句していた。
オーラバリア。それも桁違いだ。強獣なんて生易しいほどの。
《ゼノバイン》は崩れ落ちていくハイパー化したオーラバトラーを見据え、その生物的な瞳に光を灯らせる。
『……ホント、ヤになっちゃう。あのジラードって言うの、分かっていてやってる。だから、アタシだって、こんな……残飯処理みたいなのはやりたくないんだけれど』
腹腔より声を発し、イリオンは弾丸を殺到させた。《ゼノバイン》は最小限の動きだけでそれを制する。
「逃げるなァッ! 戦え、《ゼノバイン》!」
『ヤよ。アンタ、勘違いも甚だしいんじゃない? アタシは、救いに来たのよ? アンタ達……地上人を』
「救い……だと。お前は旅団のみんなを殺したじゃないか!」
怨嗟が火器の勢いと渾然一体となって《ゼノバイン》に降り注ぐ。しかし相手は、まるで意に介していない。
振るい上げただけの手で防御した。
「……これならッ!」
《アグニ》が片腕を振るい上げる。武装が解除され、三つ指のマニピュレーターが高速回転した。すり鉢状の拳が、《ゼノバイン》へと突きつけられる。
「お前を殺す! そうでしか、僕はみんなに報いる事は出来ない!」
『随分と狭いのね。そんなだから、鈍重そうな翼を、バカみたいに誇示して』
「これは誇りだ! 黙れェッ!」
補助推進装置が起動し、《アグニ》を超加速へと押し上げる。パイロットへの負荷を完全に度外視した速度だ。これで砕けない強獣はいないはず。
如何に強力なオーラバリアとは言え、こちらはメタルバルキリー《アグニ》。
その存在理由はバイストン・ウェルの妖精の神秘を砕くためにある。
この世で唯一の神秘殺し。その腕には、灼熱が宿った。
「墜ちろォッ!」
満身より発した殺意を、《ゼノバイン》とそのパイロットは風と受け流す。
『誰が。せっかく掃除しに来てあげたのに、恩知らずにはお仕置きしないと。……ねぇッ! アンタもそう思うでしょう! 《ゼノバイン》!』
オォン、と声が響き渡り、《ゼノバイン》が保持する剣にオーラの加護が宿った。剣先が払われる。
それだけで《アグニ》へと致命的なダメージが与えられたのが窺えた。それでも、本能を押し留める事はない。
渾身の叫びと相乗して、高速回転の拳が叩き込まれようとする。
『邪魔よ! オーラディス、ヴェール!』
《ゼノバイン》の胸部より銀色の装備が露出する。その刹那、禍々しいオーラの波が《アグニ》へと襲いかかった。
第一装甲板が剥離する。続いて第二装甲板、最終装甲板へとオーラが侵食した。
「これは……オーラの反転現象……。《アグニ》は……」
《アグニ》はオーラを持たない兵器。しかしこの時、災いしたのは追加武装であった。追加武装までオーラが完全にゼロになったわけではない。
引火した武装より《アグニ》本体へとダメージが至る。
『砕け散りなさいよ! 地上人の浅知恵なんてェッ!』
全身が赤い警戒色に塗り固められた。パイロットへと即時撤退、コックピット部の強制パージが推奨される。
だが、イリオンはその警告をマニュアルで無視させた。
下部より引き出した強制キーで《アグニ》の武装を再び点火させる。
『……まだやるって言うの。意味ないのよ、それ』
「……かもな。でも、僕は退けない。退くために……! 生きちゃいないんだよ! 分かるか!」
《アグニ》の残った片腕の武装マウント部が強制排除された。その下に隠されていたのは、野性を体現したかのような刃である。
三つ指のマニピュレーターはこの時、奇跡的に稼動した。
刃の鯉口を切り、その剣が軽やかに引き出される。
オーラゼロの剣。バイストン・ウェルの理を断つためだけに存在する奇異なる武器はその刀身より蒸気を発し、瞬く間に灼熱の域まで引き上げられた。
「斬る!」
『冗談! 《ゼノバイン》!』
《ゼノバイン》が握っていた剣が不意に光をなくした。残ったのは枯れ枝のようなガラクタである。
敵パイロットが舌打ちを滲ませたのを、イリオンは聞き逃さない。
勝利の喜悦に、口角を緩める。
それは地上界で得たものであったのかもしれない。レイリィと出会い、ターニャの優しさに触れ、この世界で息づく者達の美しさに心打たれた。
バイストン・ウェルにはない、自分達の居場所。
異端でしかない自分が見出した、最愛の故郷。心の還るべき極楽浄土はこの地上界にあった。
ならば、これ以上を望むのは傲慢と言うものだろう。
自分は、間違いなく救われたのだから。
――ゆえにこそ、救うために戦うのに何の躊躇いが要るものか。
幻想の世界、海と大地の狭間にあるあの場所は自分達を拒絶した。しかし、この大地と人しかない、この世界は。この偽りのない、地上世界には。
「……還るのは、ここだったんだ」
噴煙を上げ、灼熱の刃が振るい落とされた。
その一閃が赤く焼きつく。《ゼノバイン》の胸元に斜の傷跡が刻み込まれた。
『生意気なのよ、このオンボロ!』
《ゼノバイン》の爪が《アグニ》の片目を突き破る。その貫手はコックピットまで至っていた。
目と鼻の先に悪しき敵の爪がある。イリオンは割れたバイザーから覗くその視界に、ぺっと唾を吐いた。
「……墜ちるのはお前だ」
敵の絶叫が響き渡り、暗黒のオーラの螺旋が《アグニ》を吹き飛ばす。イリオンは操縦桿から決して手を離さなかった。
その手を、レイリィとターニャが取ってくれるのを、ぼやけた視界の中で幻視する。
どこか、懐かしい景色であった。小さい、まだ何の意識も生まれていない、芽生えていない視界でレイリィが少しうろたえ気味に自分に手を差し出す。それを、小さな、ほんの小さな自分の手が握り返すと、彼は見た事のない顔で破顔一笑した。
直後に抱き上げられ、ターニャが自分を抱える。安堵する鼓動、血の根底に刻まれた脈動と生温かいミルクのにおい。
ターニャの乳に育てられ、自分は赤子から世界を回帰していた。不思議と恐怖はなかった。そのような事もある、と基地の人々から教えられてきたからだ。
――走馬灯。そう、呼ぶのだと。
その在り方を、イリオンは美しいと感じられた。死の瀬戸際に想い人のところに還れるのだ。これほど嬉しい事はない。
涙で滲んだ視界の中で、イリオンはその優しい世界に祝福した。
「ああ……ママン……」
《アグニ》の手が宙を掻く。その機体がバラバラに砕け、真紅の翼は折れた。
仄暗い死の爪痕とはほど遠い、柔らかな安堵に包まれ、イリオンはその瞼を閉じた。