「あ、おかえりなさい、先生」
突然の声に驚いて顔を上げればそこには唯がカップを両手に持って立っていた。
香りからそれがコーヒーではなく紅茶だということが分かる。
「…コーヒーではないんだな」
「実は私、紅茶派だったりします」
「…そうか」
どこか自信満々な唯に先ほどまでの緊迫感など知らないからこその間抜けさに、ヴェルデは一気に調子が崩された気がした。
香りからして恐らくストレートとミルクを用意したのだろう、紅茶の良い香りが部屋いっぱいに広がっていて、さらにはチーズケーキの優しい香りもほんのりする。
「なんとなく、帰ってくる気がしたので用意していたんです、ほら、昨日学校帰りに買ったでしょ?今食べないとダメになっちゃいますからね」
笑いながら机に紅茶を置く唯は実に穏やかで、まるで危険なマフィアと無関係のように見えてしまう。
【おかえりなさい、先生】
一年前から聞いているそれをいつから当たり前と思うようになったのか、ヴェルデは思い出せない。
あの六道骸という脱獄囚を監獄に戻した時にはすでにそれを当たり前と受け入れていたと思い浮かべる。
【せんせー、ただいまー】
舌っ足らずに、けれどまっすぐにヴェルデを見て告げられた最初の言葉を思い出す。
ズキリ、と、何故かヴェルデの胸が痛んだ。
「先生はストレートとミルクどちらが好きですか?」
振り返って、にっこりと裏表のない笑顔を見せてくる教え子はいつも通りのアホ面で。
ヴェルデはなぜかそのことに酷く安心感を覚えてしまい。
「…ミルクがいい」
調子を崩されたから普段は絶対に飲まないものを選んでしまったわけで。
けれど唯は何故か嬉しそうに「はい!」と返事をしてミルクティーのカップを差し出してくる。
差し出されたミルクティーをじっと見て、唯を見た。
「どうかしましたか?」
首を傾げて不思議そうにしている唯は何も憂いていなさそうだ。
それこそ、千沙が気にしていることに対しても何も思っていないかのように。
ヴェルデは知っている、唯の家庭環境のこと、これまでの学園生活のこと。
家庭教師を引き受ける際にある程度の情報はもらえたが、全てを知ったのはヴェルデが必要だと感じたから。
だから、唯が表に出さない自身の問題も、知っている。
唯がどれだけそのことに泣かされてきたのかも。
ヴェルデだけが知っている。
「…ただいま」
千沙が演技力によって偽ることを得意とするならば、唯は演技力によって隠すことを得意とする。
その事実に気づいているものは、恐らくヴェルデと(とてつもなく不本意だが)リボーンのみ。
(いつ、教えてやるかな)
そんなことをぼんやりと考えていたら、ヴェルデの言葉に目を見開いていた唯が破顔した。
「はい!おかえりなさい!」
様々な考えが飛び交っている現在、こんなアホ面晒して笑っているやつなんてこいつくらいしかいない、か。
中途半端に知っている奴らが殺伐とし、何も知らない唯は笑っている。
それならば、全て知っているヴェルデは?
ヴェルデはほんの少し笑ってみたのだった。