どこかで聞いたことのあるフレーズに唯は一瞬現実逃避をしたくなった。
しかし、見に覚えはないので首は横に振っておく。
そう、と雲雀は少し息を吐く、それと同時に唯は殺気が肌を裂いた気がして思わずしゃがむ。
後ろの壁が大きく重たい音を鳴らしたのを聞いて唯はおずおずと上を見る。
先程まで唯の顔があった場所に雲雀のトンファーが、あった。
(あっぶなぁ…え、あれ食らっていたら死んでいたんじゃ…)
「千沙が心動かすのは君のことだけだよ」
身の危機を回避して安心していた唯の耳に入ってきた情報に、唯の思考は一瞬止まる。
(…今、雲雀さんはなんて…え、千沙が私のことだけでって、そんなの、なんで…)
唯の思考が濁流のように回る。
しかしそんなこと知らない雲雀は容赦なく唯の知らない千沙のことを話す。
「千沙は、君のことにしか執着しない、それ以外はそれ以外の何かでしかない…千沙の友人のことだって君と天秤にかけられたら負けてしまう」
そんなこと知らないと唯は叫びたかった。
そんな事実は知らないし、何より唯は学校で千沙に近づかないようにしているのだ。
幼い頃に自分のせいで千沙に迷惑をかけたから、これ以上迷惑をかけないように。
この間の勉強会は、千沙の方からの提案だったので休日で学校の関係者とは合わないと思ったから承諾したようなものだった。
唯から千沙に話しかけることは決してない。
だからこそ、叫びたかった。
知らない、と。
けれど、雲雀の表情が今まで見たことのない苦しそうなものだったから唯は言葉を引っ込めた。
「もう一度聞くよ、千沙に…僕の友達に何をしたの…!」
雲雀恭弥とはここまで激情を表に出すタイプだっただろうか。
それに今“僕の友達”といったのか?あの雲雀恭弥が?
唯は何も知らない。
千沙が唯のことを何も調べようとしなかったように、唯も千沙のことを知ろうとはしなかった。
実際千沙の好きな食べ物と誕生日くらいしか覚えていない、嫌いな食べ物すら知らない唯にとっては、小学校のときに迷惑をかけた友達という認識。
ただ、それだけだった。
だから、千沙があの雲雀恭弥とどういう経由で友達になり、ここまで大切にされているのかわからないのだ。
何も知らず、千沙本人から雲雀と友人だと言われたら、純粋に「ちーちゃんすごいね!」という言葉で終わることだ。
けれど、ここまで激情を表に出して告げられた事実に唯は何もできない。
何も知らないから、知ろうとしてこなかったから、何もしていないのだ。
何が彼女の気に障るのかも分からない唯にとっては、見に覚えがなさすぎることだった。
だから。
「な、何も…」
首を横に振って。
「なにも、してない…よ…」
消え入りそうな声でそう告げるしかなかった。
雲雀の顔は悲しそうな、それでいて寂しそうな顔をして、それから唯の胸ぐらをつかんだ。
「…千沙のこと、どのくらい知ってる?」
表情と質問がマッチしていないが、胸ぐらを掴まれて驚いていた唯は素直に答えるべきだと思い口を開く。
「好きな食べ物が、果物味の飴…誕生日が、12月20日ってこと…だけ…」
「性格は?いえる?」
幼い頃の千沙を思い出しながら、まるで教師が生徒に言い聞かすかのような声を出す雲雀に生徒側の唯は答える。
「最初は、暗い子だった」
「うん」
「教室の隅っこのほうで、ちっちゃくなって、本を読んでて、それで窓から入ってくる日差しで見える顔が綺麗だって、最初は、思ってた」
【それ、なんの本?】
【え…あ…えっと…ふしぎの国のアリス…】
【へぇ!私、それ絵でしか知らなかったんだ!ねぇ、それでどんな話?】
【…えっと】
「一緒に話すようになって、頭がいいなって思った、本を読むのが好きで、でも体を動かすことも好きだったみたいで、一緒に外で遊ぶこともあった」
【今日はかくれんぼしよう!】
【二人だけだと、つまんない気がするけど】
【そんなことないよ!二人だからこそ、絶対に見つけてもらえるよ!】
【それ、ゲームとしてどうなんだろう…】
「私がばかみたいな提案をして、それに千沙が仕方なくついてきて…かくれんぼだって二人だけでしたことがあったんだ」
【ちーちゃんみっけ!】
【見つかっちゃったなぁ】
「呆れた顔で、みつかったって笑ってたちーちゃん…あの時が、一番、楽しかったなぁ」
でも、と唯はそれからのことをゆっくりと思い出す。
「新しいクラスになって、ちーちゃんのところに行く途中、聞いちゃったんだよね」
【寺田さん、かわいそう】
【沢村さんに付きまとわれてね】
【寺田さん、嫌がっているのに、なんで気づかないのかな】
【寺田さんが仕方なく遊びに付き合ってあげているから、友達だって勘違いしているんじゃない?】
【うわ、最悪じゃんそれ】
廊下の角でぼそぼそと会話している女子二人。
自分は、何も知らなかった。
「…私が友達だと思っていたちーちゃんは、周りにとっては優しくて人気者の寺田千沙ちゃんで、そんな千沙ちゃんの恩恵にあやかろうとしている汚い奴が、私だって」
いつの時代も人気者には取り巻きがつく、権力あるものには薄汚い思考のものがついてくる。
唯は、周りからその薄汚い思考の者と思われていた。
だから、いじめられた。
周りは、千沙のためと言って、本当に善意だけで唯をいじめた。
【千沙ちゃんにこれ以上迷惑かけないで】
かけたつもりはなかった、相手も楽しんでいると思っていた。
けれど、周りから見たらそうじゃなかったらしく、千沙がどう思っているのかなんて、自分よりも千沙のことを知っているらしい周りの意見で理解してしまう。
小学生の女の子はいつだって、多数派に弱い。
決して本人から直接言われたわけではなくとも、本人がそう思っていると、唯は錯覚した。
自分が嫌だと、迷惑だと、言われた気がした。
最初から、あの、教室の隅っこの彼女に話しかけたあの時から、嫌だったのだと。
いじめはエスカレートしていき、ついには頭から水を被せられた。
その日、そのまま帰ろうとした唯に、千沙が話しかけてきた時、唯の気持ちが、爆発したのだ。
【唯ちゃん】
【ちーちゃん、ごめん…今まで無理して私と遊んでてくれたんだよね、ごめんねちーちゃん、私のことは気にしなくていいからね、ありがとう…】
さようなら、と。
千沙が悪かったわけではない、ただ、当時の唯にとって、あの状況があまりにも辛かっただけだ。
「…だから、ちーちゃんにはあんまり近づいてないし、遊んだりもしてないよ、本当に、私は何もしてない」
震えながらもしっかりと伝えた唯は、雲雀の目を見ようとして、雲雀の方から舌打ちが聞こえ、唯は思わず肩を震わせる。
「一度しか言わない、だから、よく聞きなよ」
はっきりとした声が唯の耳に入る。
「彼女は、君のことが、大好きなんだよ」
「…え?」