あの後、解散の流れになり、唯はすぐさま自宅に戻った。
「ただいま戻りました、先生!報告が…!」
自室の扉を慌ただしく開けた唯はそう言いながら緑色の髪を部屋の中に探す。
しかし、どこにもその姿が見当たらない。
「先生…?」
部屋の中にちゃんと入り荷物も置いた唯は自分の机の上に白い封筒が入っているのが目に入り、すばやくそれを手にとって開封した。
「…なに、これ…」
封筒の中身は手紙だった。
差出人はヴェルデから、唯に対してのもの。
恐る恐る手紙を広げて、ゆっくりと内容を読んだ唯は思わず部屋中を見渡した。
そして、今度は荷物も持たずに外へ飛び出した。
「先生!」
開口一番にそう叫ぶが、最近は当たり前のように返ってきた声はない。
近所を走り、商店街を走り、先程までヴァリアーたちと睨み合った道を走り、山の中も走り。
「先生!!!」
叫んでも、喉が痛くなるほど叫んでも声は返ってこなかった。
とうとう走り疲れてしゃがんだ場所は自宅の前。
もしかしたら帰ってきているかもしれないと希望を持って戻ってきたのだ。
手紙の内容と部屋の様子を見れば、そんなことありえないと、理解していたとしても。
手紙には、教育が終了したので報酬をもらって帰ること、最後の試験の合格を祈っているとだけ書かれていた。
(何が祈っているだ、そんなこと欠片だって興味ない癖に!!)
手紙は握りすぎてぐしゃぐしゃだし、色々なところを走っている間に引っ掛けたりしてボロボロだ。
唯は自然と涙が溢れて止められなかった。
嗚咽は強くなるばかりだし、気持ちだって手紙のようにボロボロだ。
それでも別の何かをしようという気になれず、ただそこでうずくまっているばかり。
(あなたも、なのですか…!)
声は出せなかった、ただ、心の中で叫んだ。
(あなたも、私のことを、褒めてはくれない…!)
「唯…?」
咽び泣く唯の耳に、低音の戸惑ったような声が聞こえてきて、動きがピタリと止まった。
いや、止まってはいない、走り過ぎて息はまだ肩でしているし、涙だって止まってはいない。
けれど、確かに今、唯の心は止まった。
「こんなところで何を…しかも泣いているじゃないか、とにかく中に入ろう」
スーツのズボンを地面で汚しているのも気にしていないのか、声の主は唯の前で膝をついて安心させるために唯の頭を優しく撫でてくれる。
その声は、本当はずっと唯が聞きたくて仕方なくて、けれど今は頭のどこにも予想していなかった声だった。
ゆっくりと、唯は顔を上げれば、相手の顔が涙でぼんやりとした視界になんとか映る。
唯とは正反対の黒髪で、唯と同じ青色の目をした吊目で少しシワの目立つ男性。
唯の父親、沢村繁和が心配そうに唯を見つめていた。
普段は唯が眠ってから帰ってくることがほとんどの父親が眼の前に居て、唯の動きが段々と止まる。
しかし相手が中に入ろうと提案したことだけは伝わったようで、大人しくそれに従い、家のリビングに父親と対面するように座った唯はようやく思考が動き出した。
「父さん、今日、早いね」
「ああ、今日は、な…大事な日だから」
繁和の言葉に唯は頭の中にあるカレンダーを引っ張り出して今日がなんの日か考えようとしたが相手が「それよりも」と話を変えたのですぐにやめた。
「どうして泣いていた、あの家庭教師か?」
「それは…!…そう、かも」
家庭教師という言葉に唯はすぐに否定しようとして、しかし素直に頷いた。
唯の様子を見ていた繁和は小さく息を吐いて、それからまたまっすぐに唯を見る。
「何があったんだ」
ゆっくりでいいから、話しなさい。
普段の唯だったなら、何を今更父親ぶっているのかと反論の一つも言えただろう。
しかし、今日は様々な事がありすぎて唯の頭はいつもより幼くなっていた。
結果。
唯は全てを話した。
今日起こり、知った事実と出来事の全て、今日に至るまでの経由も全て。
そして、最後に唯はポツリと繁和に疑問を投げた。
「なんで…あの人と…離婚するの…」
朝一番に投げつけられた衝撃の告白。
繁和は眉をピクリと動かし、そしてゆっくりと口を開く。
「……私と、あの子が、疲れたからだ」
「疲れた?」
頷く繁和に唯はいっそ笑ってしまおうかと馬鹿な自分がそう考えた。
しかし、繁和の表情がいつにもなく真剣で、まっすぐで、それが決してバカにしてはいけない二人の結論だと理解し、もう少し真相を探ろうと考える。
「どうして、疲れたの?」
「…あの子は育児に、私は…あの子に対して疲れたんだ」
「…あの人が育児に疲れていたのはずっと前からだったよ」
「…そうか…そうだったのか、それなら…もっと早くに話し合っておくべきだったなぁ」
あの子には悪いことをしたな。
そう呟いた言葉に唯は、自然と頷いた。
「唯は、あの子と話はできたのかい?」
「朝に少し…愚痴られちゃった」
「私の?」
「ううん、私の」
そうか、と言って繁和は唯を見ながらぼーっとし始めた。
これは繁和の癖で、唯もたまにやってしまう考え事をするときに話し相手の顔を見続けるというもの。
(あの人のことを考えているのかな)
「そんなにあの人、母さんに似てた?」
ふと、悪戯心が湧いて、今まで聞けなかったことがすんなりと聞けた。
繁和はゆっくりと目の焦点を唯に合わせると、やっと思考が現実に戻ったのか口を開く。
「ああ、若い頃にそっくりだった」
「驚いた?」
「もちろん」
「それで手を出しちゃったわけだ」
「それは違うよ…ただ、あの子も、寂しそうだったんだ…私も寂しかった、唯には内緒にしてきたけどね」
ようやく口の端を上げた繁和に唯も自然と笑顔になった。
繁和に全て話して、今日の出来事を一つ一つ整理することができて、唯にも余裕ができていたからだ。
気を抜くことができた、とも言う。
「そうだ、コーヒー飲む?」
「コーヒーなんて、今まで置いてなかっただろう?」
「家庭教師がコーヒー派だったから、私も飲むようになったの」
「そうか…ではブラックを一つ、もらおうかな」
よしきた!と唯は張り切って立ち上がり、キッチンに立つ。
リビングからキッチンの様子は見える作りになっており、ポットに水を入れて火にかける唯を眺めていた繁和は穏やかに笑う。
(…大きく、なったなぁ…)
家の前でうずくまっていた姿のせいで勘違いしそうになったが、元気になって立ち上がった先程の身長を見て、繁和は唯の成長を実感した。
赤ん坊の家庭教師が家にやってきたと、これから離婚する予定の妻から報告メールが来たときは随分と驚いたものだったが。
(…少し、話をする必要があるね…)
繁和の見たことのないマグカップを二つ用意した唯をまっすぐ眺めながら、繁和は明日の予定を頭の中で立てたのだった。
こんにちは、ケロです。
誤字報告ありがとうございました!
確認しましたのでその報告です。
時間は過ぎてしまいましたが、成人式を迎えた方、おめでとうございます!
これから何かと忙しくなってくる時期ですが、お体を大切にお過ごしください。
それでは、では。