過去にて
唯の母親が死んだのは、唯がまだ赤ん坊の時。
唯の母親は、元々門外顧問機関の一人で、代々門外顧問の家系であった繁和とは仕事仲間だった。
共に死線をくぐり抜けてきた、謂わば戦友とも言える二人の間に恋心が芽生えたのはある意味、当然の結果だったのかもしれない。
しかし長年無茶をしてきた唯の母親の体はボロボロで、唯を生むには母親の命と引き換えにしなくてはいけない状況だった。
もちろん繁和は自身の妻の命を優先した、顔の見えない愛の結晶よりも目の前の愛しい人の命のほうがずっと大切だったからだ。
しかし、唯の母親はまるでそれが当然のことのように繁和に言った。
【ねぇ、繁和】
【この子のことをボンゴレがもしも狙ってきたなら、どうかそれに頷いて】
【少なくとも、今のボンゴレのトップは穏健派で…子供相手に非道なことはしないし、何より身内を大切にする方だから…きっと、この子のことを守ってくれる】
【ボンゴレ関係者が来たなら頭を下げて、この子を次の門外顧問にしてほしいって頼んで、断られても何度でも言い続けて】
【大丈夫、貴方はなんたって初代様の血を引く家系だよ?きっと、聞き入れてもらえるよ】
【一度でも頷いてもらえたなら、世界最大のマフィアがこの子のことを守ってくれる】
【これほど、心強いことはないと思わない?】
しかし、それでは君を守れないじゃないか。
繁和は視線でそう訴えれば、唯の母親はそれを理解したのか嬉しそうに小さく笑った。
【ありがとう、でも、嫌なんだ】
【この子を産まずに生きて、そして、やっぱり生んでおけばよかったなんて、言うのが】
【なら、生んで死にたいんだ、たとえ、繁和を置いてくことになってもね】
【ごめんね、繁和】
笑うことが得意じゃない彼女の珍しい笑顔をあんな形で見たくはなかった。
申し訳なさそうに、けれど幸せそうに笑う姿なんて、見たくない。
みっともなく、やめてくれと喚いたって彼女はきっと意思を変えずに勝手に子供を生むのだろう。
唯が生まれ、その髪の色素が薄かったこと、繁和はどれほど恨んだだろうか。
ようやく開いた唯の目が、自分と同じ青色をしていた時、繁和はどれだけ嘆いただろう。
“どうしてこの子は、私の見た目と似てしまったんだ”
“これでは彼女の子だと、証明するのが難しくなるじゃないか”
繁和にとって、唯は望まれて生まれた子ではなかった。
できることならば繁和の妻の腹の中で死に、それを彼女が悲しみ生きながらえることを願っていたほどだ。
最低な父親だろう。
けれど、そう願ってしまうほどには。
繁和は、自身の妻のこと愛していたのだ。
程なくして唯のことでボンゴレ九代目と門外顧問が繁和のもとにやってきた。
唯を次期門外顧問の候補に入れたい、と。
繁和はすぐに頷いた、そんな繁和の様子に門外顧問が目を吊り上げ、繁和の胸ぐらをつかんで病院の中だと言うのに怒鳴った。
「お前は自分の子供を、そんな簡単にマフィアに差し出すほど非道なやつだったか!!」
繁和は感情のない目で、ゆっくりと、頷いた。
乱暴に門外顧問に離され尻餅をついてしまえば、今度は土下座をする繁和。
恥などもうない、どこにも存在はしなかった。
親の所業ではないだろう、はたから見れば権力がほしいクズだ。
しかし、それでも。
「どうか、この子を、よろしくおねがいします」
土下座を続ける繁和に、話にならないと門外顧問は部屋を出ていこうとしたが、そこで周りの不穏な空気を感じ取ったのか、唯が泣き出した。
繁和は、土下座のまま動こうとはしなかったが、思わず顔は上げた。
すると、唯をゆっくりと、優しく抱き上げる九代目の姿。
「おーよしよし、怖かったね、ごめんね、おじさんたちすぐに帰るからね」
優しい声だった。
いつもなら中々泣き止まない唯が安心して泣き止んでしまうくらいには、優しすぎる声だった。
「繁和くん、この子は、まだ生まれて間もないんだ」
唯を元のベッドに寝かせた九代目が、顔を上げた体勢のままの繁和に合わせてしゃがんで視線を合わせる。
「君にとっては望まない子供だったのかもしれない、けれど、少なくとも、君の愛する妻には望まれて生まれてきた子供なんだよ、それだけは忘れてはいけない」
君は君の妻だけがあれば、君の息子のこともないがしろにするのかい?
言外にそう告げられてしまった繁和は先程尻餅をついたときよりもずっと強い衝撃を頭に食らったような気がした。
ずっと、唯のことばかりを見ていたが、唯には兄が存在する。
その兄は今年で二歳になり、もう歩くこともでき、今は保育園に預けられていた。
妻が生きていた頃からの子供はその子だけ、だからこそ、繁和は唯の兄の方は大切にしていたが、繁和が今唯にしたことは、遅かれ早かれ唯の兄にもしていたことかもしれない。
どちらも、妻が愛し、望んで生んだ子供には違いなのに。
残された繁和が、その優劣を勝手に決めていたのだ。
死人に口なしとはよく言ったものだ、残された繁和が子供をどう扱おうと、死んだ妻は何も口を挟めない。
子供を大切にするかどうかは、残された繁和次第だった。
子どもたちは日々成長している、そんなこと、唯の兄を見ていれば嫌でもわかる。
繁和だけが、唯が生まれる前の時間で止まっていた。
九代目は固まる繁和にとても弱いゲンコツを落とした、とても優しいそれは、繁和にとってはとても強く、痛く感じた。
「前を向きなさい、君には守らなければいけない命が二つもある、父親は大変だよ、繁和くん」
九代目の頭の中には触れたものみな傷つける刃物のような目をした自身の息子の姿があった。
「私は一人ですでに悩んでいるんだ、君は二人もいるからもっと大変だろう、だから、お互いに、たくさん話し合おう、改めて…自分の、子どもたちのために」
そう言って元いた自分の席に座った九代目に門外顧問が「甘いですよ、そんなんだから」と小言を始めかけたが、九代目がニコニコと穏やかな表情をしていたので大きくため息を吐いて、自分も元の席に座った。
繁和だけが、地面に座っている。
二人のやり取りを眺めていたが、繁和は不意に立ち上がると、唯の寝ているベッドに、ゆっくりと近づいた。
その様子を黙って見守る、九代目と門外顧問。
気の遠くなるほどのゆっくりな動作で、繁和は唯の頬に触れた。
すると、口の近くにあった人差し指を唯が吸う。
赤ん坊にしては強い力で繁和の指を吸う唯に、繁和はぼんやりと考える。
(…お腹、空いているのだろうか…)
何かを求めるように必死に吸い付く唯に、何故お腹が減っているのかと考え、そして気づく。
(…そうだ…唯には、お乳をくれる人が、いないんだ…)
自然と、繁和は唯を抱き上げていた。
それでも起きない唯に小さく笑うが、唯の頬に雫が落ちて、繁和は自分が泣いていることに気づいた。
もしも、と繁和は考える。
(もしも、唯をこのまま九代目に預けて何も知らずに生きたなら…母親も父親のことも知らずに育ったなら…一生、会えなくなるんだろうな…)
守ることや育てることも全てボンゴレに任せて、唯のことを何も知らずに暮らすことは、きっと簡単だろう。
自分の最愛の息子を育て、いつか妻の墓参りに二人ででかけ、一生息子には妹が居たなんて教えずに、自分の一生を終える。
それは一つの幸福なのだろう。
しかし、それは、きっと。
(…彼女の望まない未来だ)
妻はきっと、繁和と唯と、唯の兄の三人一緒に墓参りに来る未来を望んでいる。
結局自分は、妻を中心に考えるどうしようもないやつなのだと、そこで自覚する繁和だったが、一つ決意をした。
(…この子と、そして息子のために、生きよう)
守れるほど強くはないけれど、強くなるために体を鍛えることはできるし、出世することもできる。
いつか二人が母親の墓の前で笑って日々のことを教えてあげられる未来のために、生きねば。
そうして、繁和は唯をベッドに寝かせ、自分が座っていた席に座り直し、改めて頭を下げた。
「唯を門外顧問の候補にしてください、お願いします」
「お前…!」
門外顧問がまた立ち上がりかけたが、九代目がそれを手で制する。
「待ちなさい家光くん…繁和くん、理由を聞いてもいいかな?」
顔を上げた繁和はまっすぐ九代目を見て力強く答えた。
「妻は、生前、私に言いました…もしもボンゴレからあの子を門外顧問にしたいと言われたならばすぐに頷いてほしい、と」
「ほう、それは、何故?」
「ボンゴレにあの子が実質所属したとなれば、世界最大のマフィアがあの子を守ってくれる…私には力がありません、しかしこれからつけることは出来ます」
まるで眩しいものを見るかのように目を細める九代目に、繁和はどこまでも真っ直ぐに続けた。
「私はマフィアの世界から足を洗いますが、その分あの子と、そして息子を金銭的、堅気の人間にとっての地位的なところで守ってやれるように、全力を尽くして働く所存です」
「ボンゴレは託児所ではない、ボンゴレの所属となったとしても、あの子の命は保証できないよ」
「それでも、ボンゴレというブランドが、次期門外顧問候補という肩書が、あの子を守ってくれる」
命は狙われるのかもしれないが、それは繁和が追い払えばいいだけの話。
内密に話を進めれば、いずれボンゴレ関係者が繁和に対して恨みを持って何かしら子どもたちに危害を加えようとしても九代目と門外顧問の目があると知れば逃げていくかもしれない。
全てたられば、もしもの話だ。
それでも、今はそれに縋るしか、繁和には子供を守る方法が思い浮かばなかった。
「何より、ボンゴレ十代目候補と次期門外顧問の年齢が一緒ならば、教育もしやすいかと」
繁和は前もって十代目候補の子供のことは調べていた、目の前にいる門外顧問の息子、沢田綱吉は唯と同じ年。
念押しのように繁和が言えば、九代目はじっと繁和を見ていたかと思えば、にっこりと、それはそれは優しく嬉しそうな笑顔で頷いた。
「わかった、君の話を受け取ろう、元々こちらからの要求、断る理由はなかった」
それから繁和は走り回った。
まずチェデフをやめ、完全に裏の世界から足を洗い、表の世界で就職活動をし、唯と唯の兄を保育園に預け、働き、迎えに行くの毎日。
就職先では、新入社員にしては少々老けていることから最初はいろいろと言われたが、元々要領は良かったのですぐに仕事になれ、戦力として数えられるようになった。
それなりの地位を会社で獲得できた頃、唯達は保育園の年中クラスと年長クラスにいて、育児も大忙しの時期。
図書館で育児に関する本を借りようと探していた時に、繁和はその人を見つけた。
妻と同じ白い肌に緑色の目の綺麗な女性を。