次期門外顧問の私   作:ケロポケット

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母と娘

 

「え?」

「好き、好きよ、大好きよ、お母さん」

「ちょっと、唯急にどうしたの?」

「私にとって、お母さんは貴方だけなんだよ、お母さん」

 

女性が、唯の母が息を呑むのを見ながら、それでも湧き上がって溢れる感情のままに唯はつっかえつっかえに伝える。

ずっと、伝えることの出来なかった気持ちを。

 

「大好きなの、本当だよ、お母さん、私、お母さんが大好きなの」

 

ある日、唯と唯の兄を比べるようなことを言った唯の母が、その後に自分の発言を後悔している姿を唯が見たのは偶然だった。

 

【ああ、また私、やっちゃった…】

【ごめんねぇ、唯、直接言ってあげられなくて、ごめんね…】

 

自分の謝罪を唯に伝えることの出来ない、素直じゃない自分を責める姿を唯は最初に見たときからずっと見てきた。

だから唯は、唯の兄ですら知らないことを一人だけ知っていたのだ。

唯の母は決して悪い人間ではないことを。

本当は優しくて、でも育児に疲れていて、そのストレスのぶつけ場所がなくて思わず唯にぶつけてしまっていたこと。

それをとても後悔していることを。

唯が唯の母を怖がっていることを察して仕事は唯がいる時間に入れるようにしていたこと。

ずっと、ずっと、知っていて、黙ってきた唯の秘密だった。

本当の母がどっちなのかわからず、もしかしたら演技なのかもしれないと疑心暗鬼に陥っていた唯は昨晩、唯の兄と話して確信したのだ。

唯の母親は、唯の兄と同じように優しい人なのだと。

だからこそ、疑心暗鬼に陥っている間も心の奥底に押し込んで黙らせた気持ちをようやく取り出せた。

 

「昔、ずぅっと昔に、お母さんがすごいねって褒めてくれた絵を、私が捨てたの、まだ残しているの、知っているよ、本当は嬉しかったんだ、本当に、嬉しくて……っ!」

「唯……」

「お母さん、ごめんね、いつも、何も言えなくて、こんなときになってしか素直になれなくて本当に」

「唯!」

 

いつの間にか俯きながら言葉を吐き出す唯に唯の母が椅子を倒す勢いで立ち上がって唯に駆け寄って抱きしめる。

唯は目を見開き、自分を抱きしめる母を横目に見た。

 

「おかあ、さん?」

「私の方こそ、ごめんね、唯ぃ!」

 

ぐずぐずと音が聞こえてきて唯は唯の母が泣いていることに気づいて驚き「おかあさん」とまた声をかけようとするがそれにかぶせるように母も言葉を吐き出す。

 

「お兄ちゃんと仲良くやれていないの、知っていたのに、何も出来なくて、学校でも!本当に、ダメなお母さんでごめんね…っ!」

 

それが母の抱えてきた本音なのだと理解した唯もついに自覚して泣き出した。

ゆっくりと母親の手が唯の頭にのせられて、優しく撫でる。

 

「唯、唯……!よく、今まで頑張ってきたね、一人で、よく、耐えられたね……本当に唯は偉いわ……!貴方が……私の子供だったのは……本当に、幸運だったの……!本当よ……!」

 

自分のほうが助けられたことが多いと続けた唯の母はずっと唯には言えなかった唯への気持ちを全て告げた。

若さゆえに取り返しのつかない過ちを犯したのは事実。

謝っても許されないようなことをしたのは自分だと自覚していた母は、それでも任された他人の子供を捨てようとは思えなかった。

そう、他人の子供。

彼女にとっては好きになった人に偶然子供が居た、程度の認識でしかなかった。

子育てなんてネットや本に書いていることに従えばいいし、わからなかったらこの子達の親である夫に相談すればいい。

簡単だ。

そんなふうに考えていた彼女の想像したバラ色のライフは一瞬にして砕け散った。

仕事の鬼と化した夫、どこか自分に反抗的な息子と、まだ赤ん坊の娘。

彼女は一人ぼっちだった。

自分を理解してくれる人はどこにもおらず、現状を友人に相談しても【子育てを甘く考えていたお前が悪い、自分で調べろ】【バカなの?】【自業自得、せいぜい子供を死なせないようにね】など、誰も取り合ってはくれなかった。

自分の味方はどこにもいない、それが彼女の心を黒く染めていく。

自分が馬鹿なことなどさすがに自覚できていた、けれど、何も寄って集って責めなくてもいいじゃないか。

一人くらい【そうだね、辛いね、一緒に考えようか】とか言ってくれてもいいだろうに。

そう考えていたところで味方が増えるわけもなかった彼女は必死にネットや図書館などに行って子育ての本や料理本などを読み漁った。

しかし、子供は予想外の行動を常に起こす、当然だ、子供であろうと人間なのだから本の通りには動かない。

手料理を振る舞っても、それを褒めてくれる人も居ないし、自分の手料理は料理と言うにはお粗末なものだ。

不味そうに食べる息子に悲しくなり、外食にすればよかったかと思ったその時だった。

当時、まだ赤ん坊だった唯がお腹をすかせて泣き出したのだ。

さすがにタイミングがタイミングなので泣いている理由を理解した彼女はすぐに唯のためのミルクを作ろうと本を手にとり、キッチンに立ってミルクを温める。

その時、ふと、一人で泣いている唯を見て、思ったのだ。

 

(この子は、本当のお乳の味を、知らない)

 

適温に戻したミルク瓶を持って、唯に近づき、ゆっくりと抱き上げる。

大泣きして、手を伸ばすその姿のなんと必死なことか。

けれど、この赤ん坊は本当のお乳の味を知ることはない。

 

(この子は、市販のミルクしか飲んだことない……だって、この子のお母さんは……)

 

ゆっくりとミルクを飲む唯が近くにあった彼女の親指を握った。

ただの赤ん坊の反射的行動に過ぎないはずのそれが、彼女にはどうしようもなく悲しくて、そして、嬉しくなる。

 

(……私を、お母さんって、思っているのかな……)

 

いつもミルクをくれる女の人でしかない、本当の母親ではない彼女を母親と思い込んでいるのは彼女の腕の中の赤ん坊、唯だけだ。

今だって、自分の妹を落としやしないかと不安そうな顔をする息子はちっとも彼女の心配なんてしていないのだ。

彼女はすでに自身の母親にも相談しているが、他の友人達と同じような反応だった。

だからこそ、彼女は自分を母と思い込んでいる娘が愛おしかった。

世界中を探しても、自分を母親と、家族と思って接してくれるのはこの腕の中の赤ん坊だけ。

それから娘が成長して、酷い仕打ちをするたびに彼女は自責の念を抱いた。

しかし、それでも唯は彼女を【お母さん】と呼び続ける。

いつしか、唯の母となった女性は唯を否定していながら、ずっと唯を愛していた。

ちぐはぐなそれを無意識に唯が理解してくれているとは到底思えない。

自分の愛する娘に嫌われていることは、何よりも、どんなことよりも彼女の心を苦しめ、そして尽きない悩みのタネとなった。

 

(自業自得だって、そんなのわかっている!それでも、どうしようもないじゃない!!)

 

他の子よりも小さかった唯は明るく元気な女の子で、素直な良い子だった。

けれど、その純粋すぎる部分を他の子達に悪用されたり、いじめられたりするんじゃないかと不安になった彼女は、唯の一番身近にいる人物を引き合いに出して唯の成長を早めようと考えた。

それが最悪手であることに気づいたのは、実行してすぐのことだった。

唯と仲良くしてくれている千沙や、唯の兄はよくできる天才タイプ。

しかし、唯は天才ではなかった。

その違いに気づけなかった己を、彼女は何度責めただろう。

それでも時々忘れてしまったのは、彼女の悪い性格だ。

だから、ずっと。

ずっと、唯を苦しめる呪いのようなその育児を続けたのだ。

自分が毒親となっていることなど、とうの昔に自覚していた彼女。

しかし、それでも、唯は。

 

【私、お母さんのこと、好きだよ】

【好き、好きよ、大好きよ、お母さん】

【私にとって、お母さんは貴方だけなんだよ、お母さん】

 

好き、と。

 

大好きだと、言ってくれた。

 

ずっと聞きたくて、けれど、言われることを諦めていた、素直な好意。

お母さんは貴方だけだと、その言葉をずっと望んでいた彼女にとってはこれ以上ないくらい鋭利なナイフで胸を刺された感覚を覚える。

何も言えなかったのは、何も言えなくしたのは、母である自分なのだと。

そんなの、わかっていたからこそ、彼女はとても悔しかった。

こうなってしまってからようやく吐き出される唯の本音を、もっと前に聞くべきだったのだと。

もっと、前に、話しておくべきだったのだ、母である、自分が先に。

そうしたら、そうしていたなら。

 

(……何も、意味はなかったのかもしれない……でも、何か変わることは出来たはずよ……!)

 

しかし、現実は唯が先に本音を言い、みっともなく泣いて彼女も本音を言う形になった。

 

(信じてもらえないかもしれない)

 

本当の、心の奥底に隠してずっと言えなかった言葉が彼女にはある。

それは、唯とそっくりの言葉。

今までの行いを考えれば、信じてもらえないことのほうが当たり前のこと。

 

(でも、今言わないと、絶対、後悔する)

 

涙でグシャグシャになった顔で震えてまともな言葉も紡げないかもしれない口をなんとか動かして、唯の母は伝える。

 

「唯、唯、わた、私も……私も!貴方が好き、大好きよ!愛しているわ……!」

 

唯の目から溢れていた涙が勢いを増す。

 

「信じてもらえないかもしれないけれど、私は、貴方を、心から愛しているわ……!だって!」

 

力いっぱい息を吸い込む彼女に、唯は溢れる涙を止めることもせずに母親の言葉を待った。

そう、母親の言葉を。

 

「貴方は私の娘なんだから!娘を愛さない母親がどこにいるの!!」

 

叫びきって、息を切らし、それでも溢れる涙のせいで過呼吸になりかけている母親。

唯は息ができなかった。

本当のところ、唯はずっと、この言葉を待っていたのだ。

誰かと比較されるたび、母親はいつだって唯を否定してきた。

だから、ずっと気になっていたのだ。

唯の母親は、唯のことを自分の娘とは思っていないのではないかと。

一度傷ついた心の傷は癒えるのに時間がかかる。

けれど、唯にとってはこの状況で叫んだ母の言葉が本心であることなど火を見るよりも明らかで。

ゆっくりと、息を吸って、吐く。

毒親であった唯の母は、悪い人間ではなかった。

ただ、唯に呪いのような育児をしてきた、唯にとってはトラウマのような存在。

 

(でも……貴方が私を娘と呼び、愛していると叫んでくれた……今は、それで充分)

 

自分の存在を心から否定していたわけではないことだけわかれば、今はそれで充分だと笑うことができる。

時間はかかるかもしれないが、それでも、この母親が唯にしてきたことを受け入れることができるようになるから。

ゆっくりと、唯は母親の背に手を回して、笑う。

 

「ありがとう……私も、大好きよ……お母さん」

 

抱きしめ合う二人の泣きながら笑う姿は、とても、よく似ていた。

 

 

 

 

**

 

 

 

「……お、お母さん」

「んー?」

 

玄関にて、靴を履く母の背に声を掛ける唯。

笑顔で振り返る母に、唯は視線をさまよわせたが「あ、あのね」と決心して母の目をまっすぐ見る。

 

「今度、メールとか、その、お茶とかに誘ってもいい…?」

 

キョトンと目を見開いた母に唯は「あの、い、嫌なら別にいいの!」だとか様々な言い訳を始めたが、その必死さが面白くて母は思わず吹き出した。

突然笑いだした母に唯の方がキョトンとしてしまう。

 

「ええ、ええ、いいわ!もちろん!連絡、待っているわね!」

 

携帯電話を持って小さく振りながら嬉しそうに快諾した母に唯の表情が明るくなる。

 

「うん!」

 

大きく唯が頷けば、唯の母もにっこり笑って、立ち上がる。

履き終わった靴をトントンとつま先を地面につけて整え、荷物を持って振り返った。

 

「それじゃあ、もう行くわね」

 

瞬間、唯の顔がこわばる。

それを見た唯の母は一瞬驚いて目を見開くが、すぐに細めて穏やかに笑い唯の頭をなでた。

 

「お母さん」

【おかあさん!いってらっしゃい!】

 

幼い唯と今の唯の表情は違うのに、重なった。

 

(そういえば……見送ってくれたのは、この家ではこの子だけだったなぁ……)

 

息子は言葉をくれはしても顔を見せて見送ってはくれなかったと思い出した唯の母は、目の前にいる娘の頭を撫でる手に少しだけ力を込めた。

突然力が入った手に戸惑う娘の顔を見て唯の母は満足し、手を離して荷物を持ち直し、ドアの方に振り返って開ける。

 

「またね、唯」

 

今度は振り返らずにそう告げれば、布の擦れる音がやけに大きく聞こえた気がしたが、唯の母はそのまま外に出てドアを後手で閉じた。

しばらく歩いて立ち止まった唯の母は目を細め、口を開く。

 

「ねぇ、家庭教師さん、いるんでしょう?」

 

返事はない、しかし唯の母は続ける。

 

「貴方が科学者だって聞いたわ、変な研究に娘を巻き込んでないでしょうね?まぁ、あの子は騙されやすいところがあるみたいだし、心配だけれど」

 

ニッコリ笑う唯の母に、彼女の言葉を聞くそれは目を見開いた。

 

「あの子があそこまで必死になれるのは、貴方が原因よ、ちゃんと責任とってもらわなくては割に合わないわ、だから、いつかちゃんと挨拶に来なさいね、待っているから」

 

そして、唯の母は今度こそまっすぐ駅に向かって歩き出した。

彼女を見送るそれはしばらく彼女の後ろ姿を見つめていたが、やがて、唯の観察に戻ったのだった。

 

 

 

**

 

 

 

母親を見送った唯は手を伸ばした状態で固まっていた。

しかし、そのままではいけないと冷静な頭に叱咤されすぐに自分の部屋に戻る。

自然と自身の机の前にある椅子に座り、机の上にある昨日書いたやることリストのノートを開いて、最重要のところを黒線で消した。

 

(次は…)

 

視線を少し下にずらして確認した唯はそこで思い出す。

 

「……夕飯、誘えばよかった」

 

ぽつりと溢れたそれを、唯はとても後悔した。

 

 

 

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