彼女は手紙を受け取ると、表情を曇らせた。
流石に400年も経つと、遠方への伝言は手紙に変わった。高価な羊皮紙ではなく植物性の繊維を用いた紙が普及したことが要因だ。書物も、一般人が手に入れられる程度の価格にまで下がっていた。今なお専門書の多くはラテン語であるため、市井に出回る書物の多くは小説やエッセイであるが。
「癒やしの対価に寄付を要求するようにと、教会本部からの手紙です」
「むしろ、今まで無償でやっていたのか」
「もちろんです」
毅然とした表情で言い切る。
彼女には、確固とした信念があるのだろう。
「私は貧しい病める人のためにこの力を使うべきだと思います。神もそうお望みになるでしょう」
立派なことだ。
手紙を畳みながら自室まで戻ってくると、アルトリアは棚に向かった。
「頂いた紅茶がありますけど、飲みますか」
初めはまた来たのか、と眉をひそめていたのだが。
「もらおう。しかし、随分と歓迎してもらえるようになったな」
「……っ、そうですね」
指摘されて、彼女は困っているような、照れ笑いのような顔をした。
「貴方がその……友達を欲しているなら、私がなっても良いかと思って」
「ん?」
「え?」
互いの解釈に齟齬があるようだ。
「最初に言ったであろう。お前は妻にすると」
「は」
改めて宣言しておかねば。
「我が友はエルキドゥ。そして我が妻はアルトリア。お前だ。光栄に思え」
「私は修道女ですよ? 結婚なんてしません! それに、私はまだ15歳です!」
15歳といえば、我の時代にはそろそろ結婚するような年だったが。
しかしまあ、幼少期から修道女として育ったのであれば、婚姻というのはピンとこないものかもしれない。
ましてや、教会公認の聖女ともなれば。
……いや、アルトリアは幼少のみぎりから修道女という理解であっているのだろうか。この町の出身ではないことは知っているが、他の教会から来たのか、孤児院や一般家庭から来たのかは知らない。
修道女の多くは孤児であるか、もしくは貧しい家に生まれ、食い扶持を減らすために出家させられるパターンだが。
「そう言えば、お前はいつから聖女なのだ」
彼女は質問に眉をひそめた。
何かまずいことを聞いただろうか。
「……そうですね。癒やしの力を授かったのは4年前ですが」
「4年前?」
最近の話ではないか。
「そのときにはすでに修道女であったのか?」
「いいえ、隣村の……本当に普通の、農民の娘でしたよ」
彼女の瞳が遠いところを見やる。
「本当に、大したことはない話なのです。貴方とは違って」
そう断ってから、アルトリアは口を開いた。
ごく普通の家庭。
うちは小さな農村の小作人だった。
平日は父母の畑をお手伝い。日曜日は礼拝と、日曜学校がある。
安息日の前日である土曜日の大人たちは、少し忙しい。安息日に仕事はしないため、畑の手入れを十全にするし、家事をしないために食事を作っておいたりもする。
今日は金曜日。
土日は忙しくなるから、ここに来られない者も多い。
だから、金曜のサッカーには一際熱が入っていた。
「フリー!」
「シュートいける!」
声が飛び交う。
もちろんちゃんとしたボールなんて村の誰も持っていないから、ぼろ布を紐でぐるぐる巻きにして作った塊が、私たちのサッカーボールだ。
木の枝を地面に2本立てた簡素なゴール。
人数は日によって違うし、両チームが同数であればそれで構わない。
「ラリー! 逆サイ!」
上手くガードを外して切れ込んできた私に、ゴール寸前で鋭いパスが飛ぶ。
ボールを受け、ゴールめがけて。
思いっきり蹴る。
みんなの中でも唯一女子であり、身体は小さい。全身のバネを使って、しなる様に全力のキックをしなければ男子の中でシュートを狙えない。
しかし、私の放つそれが、一番シュート力の高い攻撃なのだ。
もちろん同じフォームで放てば体格の良い男子の方が強い球になるのだが、それはあくまで、私と同じように出来た場合だ。みんなこれを真似しようと試みたが、上手いこと行かなかった。威力と引き替えに、コントロールが滅茶苦茶になるのだ。予備動作で遅れを取り、しかもデタラメな方向に飛んでいくとなれば、これは試合で使い物にならない。
パスを受けた頃には、蹴りは繰り出されていなければならない。
そして丁度の角度、速度、タイミングで私の足にボールが触れ。
ガツンと弾き出す。
「出たーーー! アルトリア砲!」
「アルトリア! ナイシュー!」
本日2点目を上げた私は、同じチームのみんなと笑顔でハイタッチを交わした。
その時、教会の鐘が鳴った。
6度叩かれる低い鐘は、午後6時を表す。
残念ながら、今日はゲームセットだ。
「あー、くっそ、2点も入れられた」
キーパーは一番人気のないポジションだが、アルトリア砲を防げば英雄になれる。
何人かの男子は率先してキーパーに手を上げ、対策を話し合っていた。
「ほぼ真横から来るもんな。普通あそこからゴールは狙えねえよ」
「アルトリアのいる位置にあわせて跳べるようにもっと見といた方が」
「ばっか、それでアルトリアにだけ集中しすぎてアシスト決められてんだろお前」
芝生の真ん中で言い合っていると、大人達がぞろぞろとやってくる。
「おまたせー」
「はいはい、片付けて片付けて。鐘、聞こえたでしょ?」
迎えに来た保護者たちだ。
といっても全員の親が居るわけではない。
村の中央は礼拝堂であり、自然とその近くの休耕地が遊び場になる。
礼拝堂で日曜学校の準備をしていた大人達が、ここに立ち寄って一緒に帰る、というのが金曜の自然な流れだった。
沢山で歩いていても、母の姿はすぐに目に付く。
黒や茶色の頭髪が多い中、頭巾をした隙間からでも目立つ、私と同じ淡いブロンド。
すらりと高い身長と少し吊り上がったグレーの瞳は、知的で冷たい印象を与える。
「男の子と混じってサッカーばかりさせて。いいのかい? イグレイン」
一人の男が、そう話しかけるのが聞こえた。日頃から母に馴れ馴れしい、苦手な男だ。
視線はやらないが、耳がそっちに向いてしまう。
「服装だって、なんだいあれは? まるっきり男の子じゃないか」
彼は窘めようというのか周囲の同意を得ようと言うのか、聞こえよがしに言ってくる。
エプロンドレスなんかでサッカーはできないし、ズボンを履いているのが男だって言うんなら、私は男の子で良い。全く、大きなお世話だ。
「構わないわ」
それよりも更に大きな、母の声。
大きいけれども棘のある言い方ではなく、その音は明るく響いた。
「アルトリアは女の子だけどサッカーが得意で、夫のウーゼルは男だけどお菓子作りが得意。なーんにも問題ないわ」
最初から母が私の肩を持つことはわかっていたから、別段どうということはない。
ないのだが。
ちらりと見やると目が合って、母はウインクを返した。
大人っぽい顔立ちの美人だが、こういういたずらっ子みたいな表情をよくする。怜悧な印象のルックスで、少女のような仕草をするのだ。我が親ながら、敵わない。きっとこのギャップで大層モテたことだろう。
「私は料理も裁縫も全部苦手よ。アルトリアみたく運動神経がいいわけでもないしね。出来るのは、勉強くらいなの。あー、教師の職があってよかった!」
そうやっておどけると、周囲は笑い声に包まれる。
「あったんじゃなくて、あんたが作ったんじゃない」
「バレたか! そうそう。みんな私の思う壺なのよ!」
母はお茶目に舌を出して見せた。
日曜学校の教師をしている大人は何名かいるが、その中でも特に中心になっているのが、私の母であるイグレインだった。
母は街から流れてきたらしい。
歌手志望だったが、顔に傷を付けられてから舞台に立てなくなり、路頭に迷って流れ着いたという。
父であるウーゼルに助けられて定住。
街で身につけた教養を生かして、今は読み書き計算を教えている。
よそ者の彼女が農村で居場所を作るには相当な苦労があっただろうけど、詳しいことは話してくれないので、漠然としか私も知らない。
確かなのは、彼女は村でも尊敬を集め、慕われている立派な教師であるということだった。
「お前がサッカーが得意だとは意外だな」
「そうですか? まあ、修道女になってからはやっていませんし、イメージではないかもしれませんね」
「我にも勝てると思うか」
「大人の男性にもそうそう負ける気はしませんが……吸血鬼の身体能力がどれほどのものか。もしかすると良い勝負かもしれません」
話ながら彼女は目を輝かせた。
どういう試合運びになるか考えているのだろう。
それは、年相応か、それよりも幼く見える。
村の者たちは、この話を聞いても信じないだろうか。
それとも、敬虔な聖女様にもそんな子供時代があったんですね、と笑うだろうか。
どちらにせよ、今の彼女とはすっぱり切り離して考えるだろう。
この様子からして、アルトリアはいまでもやんちゃな子供のようだが。
サッカーに夢中になる金曜が終わると、土曜日。
畑仕事も忙しいが、とっておきのご褒美があるのもこの日だ。
私は小走りに、収穫に向かう。
小麦畑の隣には、うちで食べるための小規模な野菜畑がある。そして、さらにその端っこ。低い白塗りの柵で囲われた一角には、ご丁寧に看板まで付いていた。
“ウーゼルの素敵なお庭”
父の趣味で作られたエリアである、白い柵の中。レンガを敷いた道の左右には色とりどりの花が咲いている。
畑の面倒を見るだけでも一仕事なのに、食べられもしないお花を何種類も育てていて、物好きだなあとつくづく思う。
綺麗だな、とも勿論思うけど。
そんな綺麗なお花に混じって、私のお目当てのものもある。
ひょろっと細長く伸びて、自らの枝の重みでアーチのようにしなっている、私の背丈くらいの木。ラズベリーだ。
小さなバスケットの半分ほどまで収穫して、その隣で同じように実っている、ブラックベリーにも手を伸ばす。
「ふふふ」
かご一杯の果実を見ていると、自然と笑みが零れた。
その成果を片手に、早足に畑を抜けると、家のキッチンへと急ぐ。
「採ってきたよ!」
「ありがとう。おお。大収穫だね」
「まだ緑色のもあったから、来週も沢山作れるよ」
父の作るスコーンは格別だ。
夏に畑で採れる、ブラックベリーとラズベリーを使ったジャム。牛乳をコトコト煮込んで作るクロテッドクリーム。この二つと一緒にスコーンがおやつに出てきた日には、私は舞い上がって喜んだ。
それはいつも、土曜日のこと。
母が日曜日のお茶会に持って行けるように、たっぷり作るのだ。
美味しい土曜日が過ぎると、いつもよりたくさんお祈りと勉強をする日曜日。
家族で礼拝所に行くと、そこには村中の人々が集まっている。
とは言っても、村中合わせて100人程度である。しかも、日曜礼拝には隣村の教会まで行く家族も少なくないため、ここにいるので全員というわけでもない。
なぜ隣村の教会までわざわざ出向くのかと言うと、この小さな村には司祭がいないのだ。
だからここは、教会ではなく礼拝所。更に、時には村の会議所にもなり、学校にもなるのだった。
村長が音頭を取って礼拝を終えると、大人達は談笑しながら席を立つ。
「じゃあ、いってらっしゃい」
子供たちと、教師役を務めている数名の大人たちだけが残る。
日曜の礼拝所では、読み書きや算数を教えてくれるのだ。
私は11歳。そこに残っている子供たちの中では最年少だった。普通は、もう少し大きくなってから手習いに通う子が多い。
しかし、教師なだけあって母は教育熱心だったのだ。
礼拝の後は日曜学校、その後は母はお茶会に出かける。全く、安息日が聞いてあきれる過密スケジュールだ。
しかも、母は帰宅するなりリビングの椅子で、熱心に本を読みだす。
今日のお茶会で友達から新しい物を借りたのだろう。
母と友人たちは、都会で流行の小説を誰か一人が手に入れたといっては、回して読んでいた。
村には字が読める者は多かったが、これは決して常識的なことではない。都会ではともかく、こんな農村では字なんか読めなくたって困ることもないのだから。
そういう訳で、たまに余所から嫁いでくる女性の中には、字や計算を習っていない者もいる。日曜学校ではそういった大人も積極的に受け入れていた。
ロビンソン・クルーソーもパミラも読めないなんて最悪だ、と彼女は言う。
その件に関しては、私も同意見だ。
彼女のおかげで、村の識字率は飛躍的に上がった。
都会の情報が入ってくるのも、それに寄るところが大きい。
母の偉大な功績だと、私は思っている。
そんな平日と、土曜日と日曜日。
それが繰り返されて、私の日常は出来ていた。
それ以外の出来事だと、買い出しだろうか。
月に一度くらいは、ここらで一番大きな村である隣村に行って買い出しをする。
そして、四季に一度程度はもっと大きな街に出る。
それなりの規模のマーケットタウンである、マンチェスターだ。
街に出るには、途中までは村の馬車、そこから乗り継いで蒸気鉄道である。
一家族だけで馬車を出すのは勿体ないので、大抵は3,4家族で乗り合わせて出発する。
……その日。
今思えば、私が行った最後の買い出しだった。
そのときは、一緒にサッカーをやっている兄弟、ハルとラリーの家族も一緒で、私ははしゃいでいた。口うるさいご老人の、ベイツさんも一緒なのが減点対象だが。
「街にはサッカーのチームがたくさんあるんだってね」
「学校も町内会もみんなチームを持ってるらしいぜ」
「まじかよ! 俺たちより強いかな」
「静かにせんか!」
ベイツさんが苛立った様子で怒鳴りつける。
その音量に、馬車を引く馬も一瞬身震いをした。
「……おめーが一番うるせーよ」
ちいさな声で、私たちは言い合った。
馬車で鉄道の駅まで乗って、蒸気機関車に乗り換える。これが格好良くて、私たちはまたはしゃぎそうになったが、ベイツさんの手前、目配せをするだけに抑えた。
機関車を降りれば、そこはいよいよ大都会、マンチェスター。
子供といえど、役割を担っている労働力だ。
日が暮れるまでに村に戻るためにも、買い物は分担で、手分けして行う。
そしていつも、それぞれの役目を終えたら、教会のミサに参加してから帰ることになっている。司祭のいる隣村の教会でも平日にミサは行っていないが、都会の大きな教会では毎日執り行われているのだ。
数ヶ月に一度と言えども、慣れた道。
子供達に任されている品は値動きがあまりなく、交渉もせず買えるような簡単なものだ。私たち3人はベイツさんもいる団体行動から解放されて、悠々と商店街へ向かった。
その途中、大きな広場がある。
普段はなんてことなく通り過ぎる、ただの芝生なのだが……。
「サッカーやってるじゃん」
5人。私たちよりも少し年上に見える。
「うわあ! 本物のサッカーボールだ!」
私たちが村で使っているような、布を丸めたものなんかではない。
店に飾ってあるような、まん丸いボールだ。
なんでもブタの膀胱を膨らませて作っているそうだが、それを知ったときにはみんな大爆笑して止まらなかった。
「触らせてくれ!」
「もちろんいいよ。蹴ってみる?」
「いいの!?」
なんとも素晴らしい提案に、私たちは大興奮だ。
「サッカー好きなのか?」
「ああ! 毎日やってる!」
「君も?」
私に向かってそう聞くので、こくりと頷いた。
「アルトリアは俺たちの中で一番上手い」
「女だからって舐めない方がいいぜ!」
ハルとラリーが得意げに言う。
そんなにハードルを上げられても困るのだが。
「もうちょっとしたら人数揃うから、試合も出来る。一緒にやる?」
私たちはぶんぶんと首がもげそうな勢いで、首を縦に振った。
それからどれくらい経ったか。
教会の鐘が鳴った。
気づいたら、もうミサが始まる時間だ。
彼らに礼を言って別れると、私たちは走った。
「やばいやばい」
大急ぎで白コショウや石けんを買って、教会目指して走る。
「どうしよう」
「サッカーしてたのバレたらまずいよね」
「道に迷ったことにしよう」
息を切らせながら、目配せして頷き合う。
村の礼拝所とは全然違う、荘厳な建物。大きなステンドグラスの窓がきらきらしているのも、今は高圧的にしか見えない。
教会の出入り口付近に、大人達は立っていた。
ベイツさんはカンカンで、私やハル達の両親に説教をしている。
「やっと来たか! どこで何をしていたんだ!」
「ええと、道に迷って……」
先ほどの作戦通り、ハルが答える。
血走った目が、私に向けられた。
手首をぐいっと掴まれる。
「道に迷って、こんなに掌が汚れるか!」
よく見れば、私たちの衣服は所々が茶色くくすんでいた。
「膝も、足首も! 遊んでいたんだろう!?」
尚も怒りが収まらないのか、老人は言う台詞を考えながら3人を順番に見る。
そして、私で視線を止める。
「いつまでも男の子と遊んでおかせるから、ふしだらな娘に育つ」
彼は私に狙いを定めたようだ。
「やっぱり親が悪いからだろう。都会から来た不良娘の子供だから悪い!」
その言葉に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
お母さんを悪く言うな!
そう言いたくて、でも声が出ない。
「申し訳ありません」
母は頭を下げた。
それも許せない。
なんで母がそんなことを言われないといけないんだ。謝らないといけないんだ。私にだけ悪口を言えばいいのに。
感情がぐるぐる回って、私はただ立ち尽くした。
その次の週は、外に遊びに行く気にはなれなかった。なんとなく部屋で、うちにはたくさんある、教材の読み物を眺めたりして過ごした。
帰って来て部屋に居る私を見て、母は目を丸くした。
「アルトリア、一体どうしたの?」
「別に」
あの言葉が頭の中で何度も響いた。
それが事実だと思っているわけじゃない。でもまた、母が悪く言われるのは嫌だった。
「気分じゃないだけ」
次の日も、その次の日も私は気分じゃなかった。
「みんなが呼びに来てるよ」
「具合悪いって言って」
数日も広場に来ない私を、遂に友達は呼びに来てくれた。それにも私は応じなかった。
「アルトリア」
その日の夕方。農作業を終えて、家に入ろうとしたときだった。
母が私を呼び止めた。
「ほら」
ボールを差し出す。
「サッカー、好きでしょ」
受け取らない私の前で、彼女はリフティングを始めた。
とは言っても、全然できていない。
足首に当たっては明後日の方向に跳んでいって、それを拾ってはまたチャレンジする。
足の甲の平らなところに当たるようにしないと、まっすぐ跳ね返ってこないのは当然である。
「あっ、惜しい」
2回ほど足に当てることができて、自らそう呟く。
ボールは私の方へ跳んできて、つま先に当たって止まった。
「むずかしいね」
ゆっくりと、ボールを取りに歩いてくる。
「私の立場なんて、考えないで」
母はしゃがみ込んでボールを手に、そのまま立ち上がらず顔も上げず、ボールに話しているみたいに呟いた。
「私はアルトリアの親だからね。責任を取る。頭も下げる」
世間話みたいな軽い口調。
ボールは神妙な様子でそれを聞いていた。
「でも、逆は違う。あなたは自由にやったらいい。私の責任を取る必要はないんだよ」
ゆっくりと立ち上がって、彼女はまた、リフティングらしきものを再開した。
ああもう、見ていられない。
「……こうやるんだよ」
彼女がこぼしたボールを拾って、やって見せる。
「こう?」
「ちーがーうー」
結局、その日のうちに、母はリフティングを10回やってみせた。
これは才能があるかもしれない。
数週間後。
私は元のようにサッカーをして過ごしていて、そんなトラブルがあったこともあまり思い出さなくなってきた頃。
朝早くに、訃音が伝えられた。
ベイツさんが亡くなったのだった。
老人が風邪をこじらせて、というのはよくある話。私も、葬儀に参列するのは初めての経験ではなかった。
地味な色の服を着て集まる。私の場合は濃い紫のワンピースを持っているので、これが葬式の時の格好だ。
隣村から来た司祭が取り仕切って式が始まるのを、ロザリオを握りつつ、俯き加減に見やる。死んでしまったベイツさんは、もう私や母を罵ることはできない。
内心私は、いい気味だ、と思った。
それからほんの数日だったと思う。
父が寝込んだ。
風邪が流行っている様子で、村には咳をしている人は多かった。身体の弱い父がいち早くもらわないわけがない。
しかしタイミングが悪い。明日は土曜日。スコーンを焼く日だ。ラズベリーの残りを収穫して、ジャムにしてもらおうと思っていたのに。
いつもそう。
母は身体が丈夫で、風邪を引いている記憶もない。そんな母と違って、父は季節の変わり目には体調を崩しやすかった。
「明日スコーンを作るのは難しいかもしれないけど、作り方を教えたらアルトリアがやってくれるかな?」
「私にも作れるかな」
「きっと出来るさ。ジャムもね」
父はそう言って笑った。
喉を痛めているのだろう。
しわがれた、聞き覚えのないおじいちゃんのような声が、妙に耳に残った。
料理は得意でない母だが、父の看病なら慣れたものだ。
次の朝には病人でも食べやすいようにオーツ麦を牛乳で煮込んで、オートミールを作っていた。
「アルトリア、ウーゼルの様子を見てきてくれる? 少しは食べられるといいんだけど」
「うん」
キッチンを兼ねているリビングを出て、父の部屋の前で声をかける。
「お父さん?」
返事がないのは寝ているのか、かなり喉がしわがれていたから声が出ないのかもしれない。そう思って、扉を開けた。
ベッドで横になっている父に近づく。
そこで、異変に気付いた。
暗い部屋の中で、なぜわかったのだろう。
顔が紫色に変色して、腕がだらんと、白いシーツの上に投げ出されていた。
「お母さん!」
叫んだ自分の声に驚いた。リビングに戻って、母を前に事態を説明しようと口を開く。
「あ、お、お母さん、お、お父さんが、あ」
言葉にならないだけでなく、思考も付いてきていなかった。
お父さんが? お父さんが、どうしたと言おうとしたのか。
私自身にもわかっていなかった。
ただ、口元にぎゅっと握りしめた拳を当てて、その手も震えていて。いや、震えていたのは唇の方? どちらかわからない。とにかく、そんなんだからくぐもって上手く話せない。
「アルトリア?」
私の様子が明らかにおかしいのを見て、母は父の寝室へ走っていった。
そうして、数秒か、数十秒か。
母は外に飛び出して行った。
多くの人を連れて来て、みんなで父のベッドを取り囲んだ。
さめざめと泣く母はその輪には入らずに、ただ、両手で顔を覆っていた。
「イグレイン、こっちへ」
近所の女性達に肩を抱かれて、部屋を出て行く。
「アルトリアも」
私も促されて外へ出た。
もう、父がどうなったのか明白で。
だって、私が一番に見たのだ。
真っ白い蝋のような父の姿を。
「うそ……うそでしょう」
またいつものことだと。
軽い風邪か何かだと。
葬儀のために隣村から司祭が駆けつけた。
ベイツさんのときと同じように。
でも、老人が旅立つのよりも、ずっと空気は重たい。父はお迎えの順番を飛ばしてしまったから。
母のすすり泣く声が聞こえる。自分は碌に歌えもせず、賛美歌を聞きながら、やはり私にはこれが現実だとは思えなかった。
最期のお別れを、と促されて、棺の中をのぞき込む。
父の顔は、なんだか彼ではないみたいだった。
寝ている間に、精巧に作られた人形とすり替えられてしまったようだ。
これが死というものなのだろうか。
父とのお別れ。
それは、呆然としているうちに、何もかも終わってしまった。
母が変調を来したのは、その夜。
咳が止まらないのだ。
私が呆然としているのなんて関係なく、あまりにも早く事態は流れて行った。
「……アルトリア、ここに居ない方が良いわ。移ってしまう。ハルとラリーの家に行っておいで」
しわがれた、聞き覚えのない、おばあちゃんの様な声で母はそう言った。
「かみさま……!」
わかる。
私はもう知っている。
母は、明日の朝には紫色になっている。
それはすぐそこまで迫っている。
「かみさま、たすけて!」
はしる。はしる。
夜の暗闇を。
ハルとラリーのところへではない。
お医者様を呼びにでもない。
この小さな村に、医者なんていない。
薬屋も司祭もいない。
いるのは。
神様だけ。
礼拝所の扉はいつでも開いている。
駆け込んで、暗闇の中で何度も膝をぶつけながら長椅子の間を走り抜け、私は崩れ落ちるように跪いた。
ステンドグラスなんてない。
丸い枠に、小さな十字架が鎮座しているだけの簡素な礼拝所だ。
「神様」
暗い上に涙が溢れて、最早なにも見えない。
「神様、助けて」
そう発音したつもりだけど、そのような音になっていたかはわからない。
ロザリオは身につけていなかったため、ただぎゅっと両手を握った。
「おねがい……お母さんの苦しみは、私に引き受けさせてください」
良い子にします。
言いつけをよく聞きます。
毎日のお祈りもきちんとします。
誰のことも恨みません。
悪口も言いません。
全部全部、きちんとします。
「だから……おねがい……助けて」
そのとき。
全てが滲んでいる真っ暗な視界が、急に色を帯びた。
「……?」
十字架のある丸い枠がお月様になったように、私の居る床を照らして、光が差し込んだのだ。
この、一つも窓のない礼拝所で。
「かみさま……?」
答えはなかったが、温かい光は私を包み込んだ。
その後。
同じように、走って家に帰ったはずだ。
あの日の帰路については意識が朦朧として、よく覚えていない。
母の部屋へ駆け込んで、熱に魘されながら咳をする彼女に駆け寄った。
「お母さん、お母さん」
私は彼女の手を握った。そうして、額へ触れさせた。
私を包んだ温かい何かが彼女にも移るような、そんなイメージが浮かんだ。
「…………アルトリア?」
聞き慣れた音で、彼女は私の名前を発音した。
それを聞いて、私は安堵の余り床に崩れ落ちた。
「母は、この力を神様から授かったのは人々を助けるためだと言って。教会の勧めもあって、私は修道女として迎え入れられました」
「それで聖女に?」
「そうです」
彼女は頷いて目を逸らし、話しながら手紙の端を指でなぞった。
「……ですから、まあ、成り行きというか。貴方みたいな武勇伝はないんですよ」
「なんだその言い種は。我が有能な領主すぎてコンプレックスを抱いていたのか? よいよい。我ほどの才色兼備は極めて稀である故、気にする必要はないぞ」
「性格まではついてこなかったようですね」
「はは、皮肉の一つも言いたくなるか」
軽くあしらって、目を伏せた。
アルトリアはワルガキで、言い訳もするし嘘もつく。虚勢も張るし人を憎む。
聖女なんて言われているのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、普通の人間だった。
普通の、少女だ。
それを取り上げてしまったのは、誰なのか。
……神というのは本当に悪趣味で、腹が立つ。