第74層フロアボスはまだ誰も見たことがない。この5日間でマッピングは8割方終了しており、おそらくボス部屋のフロアだけが終わっていないのだろう。
ボス部屋のあるであろうフロアに俺は来ており、右手を振って地図データを呼び出す。初期は灰色だった地図が鮮明に映し出され、俺のいる場所が空白になっている。自分のいるここがボス部屋のあるフロアということが確認できた。
歩いているとこの層お馴染みの〈リザードマンロード〉が出現した。
〈水平四連撃《ホリゾンタル・スクエア》〉と〈単発重攻撃《ヴォーパルストライク》〉の合わせ技でなんなく撃破し、1時間ほど戦闘をしていると回廊の奥に灰青色の二枚扉が見えた。妖気が溢れているかのように重い空気が仮想の風に乗って俺の顔に当たり前髪を揺らす。無意識のうちに唾を飲み込み足早に扉へ向かう。
左手を扉に触れさせるとひんやりとした冷たさを感じる。
これが〈死〉の温度なのだろうか。
「取り敢えず覗いとくか」
ボスの姿を見なければ対策は立てられない。ボスは守護する部屋から決して出ない。ならば入り口付近に立っていれば、万が一の場合でも外に逃げ出せる。
念の為に転移結晶を腰ポケットから取り出し、左手に握りながら鉄扉を軽く押すと俺が少し驚くくらい滑らかに開く。扉の中は暗闇で何も見えない。
いつ見えるようになるかと思っているとボボボボ……と炎が両端に灯り、一瞬にして炎の道が出来上がる。奥行きのあるボス部屋はかなり広く、マップの空白部分がすべて埋まるほどの規模だ。最深部の玉座から立ち上がり近付いてくるその体躯は、全身縄のごとく盛り上がった筋肉に包まれている。
肌は周囲の炎に負けぬ深い青。分厚い胸板の上に乗った頭は人間ではなく山羊のそれだ。頭の両端からは先が捻れた角が生え眼は青白く燃えているように見える。下半身は濃紺の長い毛に包まれており、半人半獣と言えなくもないがどちらかといえば悪魔に近い。
かなりの距離があるというのにここまでの恐怖を覚えるとは、やはりこれまでのボスとは格が違うように思えてくる。おそるおそる視線を上げ固定するとカーソルが浮かび上がった。
《The Greameyes》
名前に定冠詞が付くのだからこの層のボスであるのは間違いない。
〈輝く眼〉訳せばその通りだが個人的には山羊らしき名前にして欲しかった。そこまで考えていると第74層ボス《The Greameyes》は特大の咆哮を漏らした。そして斬馬刀とでも言える俺の身長を軽く超える両手剣を右手に携えながら、その巨体に似つかわしくない猛烈なスピードで接近してきた。
「うん、逃げよう」
俺は瞬時に踵を返し、敏捷パラメータをフルブーストしてボス部屋から退散した。
迷宮区最上層にある安全エリアに逃げ込み大きな息を吐く。これまで73体ものボスを一度たりとも見逃さず討伐してきたが、あいつは桁違いに苦戦するような気がしてならなかった。
分厚い胸板はメイスなどの打撃武器や重さ重視の両手斧が有利だと思える。前衛に重装備のタンクまたは盾装備を最低でも10人配置してスイッチをしていくべきだろう。特殊攻撃があるのかは不明だ。見たところありそうには見えないが、HPゲージによっては攻撃パターンの変化で使用するかもしれない。
頭の大部分を使い戦略を練りながらアイテムウインドウから〈アクアの水〉の入った革袋をオブジェクト化し一気に煽る。よく冷えたスッキリとする雑味がまったく感じられない軟水のような液体を貪る。アイテム名に〈水〉と2回付くが、これは第65層主催区〈アクア〉で手に入る水であるためだ。
第3層と似てはいるが、イタリアのべネチア通称水の都により近いと思わされる美しさを持つ町だ。美しい町並みなので俺の記憶に鮮明に残っているし、デートスポットとしても人気がある。いつかは誰かと2人で行ってみたいなと思わなくもない。
この層で手に入るアイテム名〈アクアの水〉はごく一部の井戸からしか汲み上げることができないため1リットル1000コルする。だがその分美味であり愛好者は日に日に増えているらしい。俺はこれしか水として認識していないので大量に購入している。水だとしても結局はデータなので、アイテム欄に何日・何ヶ月・何年放置しても腐ったりはしない。
しばらくすると遠くから男女の悲鳴が聞こえてきた。かなりの大声なようで広範囲に響き渡っている。最前線に危険プレイヤーはいないのだが、過去の最悪な経験から少しばかり警戒してしまう。
かなりの速度で安全エリアに走ってきた2人は、無視できない間柄なので隠れている必要はない。だがなんとなく出にくい状況なので2人から見えない位置に座りながら立ち去ってくれるのを待った。楽しそうに会話しながら食事を始めたので、話に割り込みたい衝動にかられ仕方なく声をかけることにした。
「楽しそうだなお二人さん」
「あ、カイト」
「今の話聞いてたの?」
もたれかかっていた柱の裏側から現れた俺を見て、驚くより安堵の表情を見せるので安心させられる。
黒を基調としたロングコートに同色のシャツとズボンの《双竜》の片割れである〈漆黒の龍〉あるいは〈黒の剣士〉の肩書きを持つ幼馴染のキリト。
白と赤を基調とした騎士風の戦闘服を着ている〈血盟騎士団〉通称K.o.B副団長〈閃光〉の異名を持つ《アインクラッド》で知らない人はいないほどの有名人のアスナ。
「一週間ぶりかな。少しばかり会わなかったけどパーティーでも組んだのか?」
「昨日の夜、アスナに強制的ガフッ!」
「キリト君がどうしても私と組みたいって」
途中キリトの言葉が途切れたのは、アスナが右拳をキリトの左脇腹にめり込ませたからである。ここは安全エリアなのでダメージは通らないが、代わりに軽いノックバックが発生する。
今のやり取りからしてキリトからではなくアスナからパーティー申請をしたのだと理解した。もちろん口にするような下手な真似はしない。まだ殺されたくない(精神的な意味で)し、攻略で話す機会があるのだから関係を悪化させるわけにはいかない。
「ここに来るまでにプレイヤーに会ったか?」
2人の正面にあぐらをかきながら座るとキリトに問いかけられた。
「いいや誰とも。どうしてだ?」
「迷宮区に入るまでに12人の《軍》の小隊を見たんだ」
「12人の小隊ね。普通のマッピングじゃ多すぎるし、攻め込むにしては少なすぎる。それに何故第1層を支配している《軍》がこんな最上層に来るんだ?」
《軍》とは通称で正式名称《アインクラッド解放軍》の略称であるが、プレイヤー達はあまり良いイメージを持っていない。結成当初は攻略に積極的だったのだが、ある時を境に真反対な方向に走ってしまったのだ。
オレンジプレイヤーやオレンジギルドに対する扱いは辛辣であり、傍からは見ていられないほどらしい。俺は直接目にしたことはないが、聞いたところによるとたまったもんじゃないらしい。俺も人のことは言えないが…。
「俺も知らなかったけどアスナが知ってた」
「ギルドの定例会で言ってたの。《軍》が方針変更して上層エリアに出て来るかもって。25層攻略の時に尋常じゃない被害を受けてから攻略より組織強化ってことになってたけど、最近内部で不満がたまって抑えるのに一苦労だって言ってた」
「つまり不満解消のために精鋭部隊で攻略してやろうってことか?」
「そうだと思う」
第25層のフロアボス討伐にはもちろん俺も参加していた。確かにとてつもない強さで、討伐隊の中から離脱者が多発し前線が崩壊しかけた。あと少し援軍が遅れていれば、俺達は今頃ここにはいなかっただろう。その時に援軍到着を支えたのは、俺とアスナ所属の〈血盟騎士団〉団長だった。
正直俺は死ぬ覚悟で戦っていたが、隣で戦う男を見逃すことはできず「この男を失えば第100層攻略は不可能だ」と思いながら戦い続けた。ブレイクポイントを見逃さず単発あるいは三連続までの〈ソードスキル〉を叩き込みなんとか凌いでいた。
その間にキリトとアスナはエギルたちとともに負傷者の救護を行なっていた。
「何故俺ではなくキリトに援護を頼まなかったのか」とボスを倒した後《Congratulations》の文字が浮かぶのを見ながら団長に聞くと「彼より君との方がコンビを組むのが面白そうだったから」と言われ、なんとも言えない表情をしたのを今でも鮮明に覚えている。
「なるほどね。でも会わなかったからまだどっかでモンスターと戦ってるんじゃないか?」
「可能性はあるな。それよりカイトのその新しい胸当はどうしたんだ?」
「これか?昨日こいつの強化をした時に重量が増えない程度でいい防具を探してるって言ったらこれを勧められたんだ。アスナのレイピアの素材の鉱石を取りに行った時に、レアモンスターとエンカウントして手に入れた素材から作った防具らしい」
背中の愛剣を少しだけ鞘から抜き出し教える。
「しっくりきてる」
「似合ってるね。そういえばキリト君はリズに作らせた剣はどうしたの?1回も使ってないみたいだけど。」
「う…」
目をそらすキリトは見た目以上に幼く見えてしまい苦笑してしまう。しかし和やかだったのはここまでだった。
無数の足音と金属音が聞こえ振り返ると同じ重装備の一団が俺達3人のいる安全エリアにやってきて、隊長とおぼしきプレイヤーが部下を休憩させ俺達に近寄って来る。
「私は《アインクラッド解放軍》コーバッツ中佐だ」
「カイト、ソロだ」
同じように俺も答える。はてさていつから自分達から《軍》と名乗るようになったのだろうか。通称ではなくなったのか。
「君達はこの先もマッピングしているのか?」
「ああ、ボス部屋までマッピングしてある」
「うむ、ではその地図データを提供してもらいたい」
まさかの要求にキリトとアスナは眉をひくつかせる。普通の要求であったならば2人とも快く渡していただろう。しかし当然のように言われたのであれば怒りを抱いても仕方ない。
「あんたは何を言っているのかわかっているのか?マッピングの過酷さを知らないから当たり前のように言っているんだろう?」
「我々は全プレイヤーのために戦っているのだ!故に貴様らが協力するのは当然の義務である!」
「なっ!」
「貴方ねぇ!」
さすがの2人もあまり抑えられないようだ。俺だっていい気分はしないし気持ちは理解できる。
「あんたたちだけじゃないぜ」
「「カイト(君)?」」
「何ぃ?」
怒りとも哀れみとも取れる声音に3人が問い返して来る。
「解放しようとしているのはあんたらだけじゃないって言ったんだ」
「貴様ぁ!」
「俺達だって思っているさ。攻略組の全員が自分達が助かるためだけに戦っているんじゃない。みんなを救いたいから戦っているって言っているんだ」
コーバッツという名の男の眼を見つめながら話す。バイザーにより眼は見えないが、口元の角度と武器を取るか迷っている腕を見るとかなり限界に近いようだ。
「だからといって地図データを渡さないわけじゃない。どうせ町にもどったら公開しようと思っていた」
「…カイトがそう言うなら文句はない」
「私も」
「ふむ。協力感謝する」
感謝の気持ちが微塵もない言葉を聞き、またしても2人が眉間に青筋を浮かべる。カイトが何も行動する気が無いことに気付いて自制してくれた。
「ボスにちょっかい出すならやめといた方がいい」
「…それは私が判断する」
「さっき一目見てきたが生半可な人数でどうこうなる相手じゃない!仲間も消耗しているみたいじゃないか」
俺の言葉通り床に座り込んでいるメンバーは、誰が見てもかなり疲弊しているのが分かるほどに弱っている。おそらく慣れない上層での集団行動に精神が疲れ切っているのだろう。肉体的疲労とは違い精神的疲労は、ちょっとやそっとで回復するようなものではない。
「私の部下はこの程度声を上げるような軟弱者ではない!貴様らさっさと立てぇ!」
「あんたの部下が軟弱者だと言っているんじゃない!あんたらの命を心配して言っているんだ!」
俺はたまらず叫び返してしまう。
「貴様には関係ない!それ以上口答えするようであれば、《アインクラッド解放軍》特殊規則に基づきお前を処罰する!」
そう言うと片手剣を鞘から抜き出し俺に向けてきた。仕方なく俺も背中から愛剣を抜き出して構える。コーバッツが〈〉ソードスキル〉を発動させようとスキルモーションを起こした瞬間、俺は床を蹴って刀身をコーバッツの喉元に押しつけていた。
「これでもまだやるか?」
「…我々にたてついたこといつか後悔することになるぞ」
「…何もせずあんたらが命を失うよりはマシだ」
重い足取りで迷宮区に向かっていく《軍》の小隊をなんとも言えない表情で見送る。
「どうする?」
「念の為に見に行くか。さすがにあの人数でボスには挑まないと思うけど」
仕方なく俺達3人は去って行った12人を追いかけることにした。