キルヒアイスは三葉の部屋で朝を迎え日付を見て、泣いてはいけないと思っているのに涙が止まらなくて喘いでいた。
「うっ…くっ…うぅっ…」
明日、この町に隕石が落ちる日だった。
「…明日っ……どうして……明日っ…」
今まで入れ替わりは連続して生じたことは一度もない。今日、三葉の身体にいるということは、ほぼ必ず明日は三葉は三葉だった。避難させる作戦案はある、実は起爆装置も秘かに造ってはいた、そして半年前の三葉ではなく、今の三葉なら作戦案通りに動いてくれると確信できる、ガソリンで火傷したりせず町内の空き家を爆破して、予告電話をかける、そのくらいのことができる経験をともに重ねてきた。
「…ぐすっ…泣いて、どうなるものでも……どうせ、私は三葉さんたちを助ける気もないくせに……」
けれど、宇宙の因果律に触れる気は無かった。
この入れ替わり現象だけでも相当な危険だと感じるのに、歴史を意図して変更したら、どうなるのか。起爆装置を造っていたのも、結局は自分への言い訳や気休めにすぎず、論理的な思考では助けるつもりは無かった。
「……できないっ……私には……そんな恐ろしいこと……」
極めて楽観的に考えれば、隕石落下での犠牲者をゼロになるよう避難させれば、犠牲者は出ず日本は対宇宙防衛のミサイル技術開発に乗り出さず、そうなれば核戦争は起こらないか、もしくは時期がずれるかもしれない。その時点で、もう歴史は大きく違うことになる。いずれ人類が宇宙に出るとして銀河連邦が成立するのか、ルドルフが再臨するのか、核戦争の時期が違うだけでも、おそらく歴史は大きく狂う。それさえ楽観的に考え、揺り戻すように歴史が同じ経路を辿り、ルドルフ以外のルドルフのような男が出現するかもしれない。そう考えれば、ラインハルトのようなラインハルトも、アンネローゼのようなアンネローゼも生まれてくれるかもしれないけれど、姉弟ではなく兄妹になっているかもしれないし、キルヒアイスのようなキルヒアイスと出会うかもしれないし、出会わないかもしれない。楽観を究極に突き詰めれば、核戦争はなく人類は穏やかに銀河へ拡がり、ルドルフも一軍人として生涯を送り、ラインハルトも幼年学校などへ行かず、アンネローゼも幸せに青春を送るかもしれない。
「……そうなれば、私は……ここに来ない……ここにいる私は私………」
そこまで大きく歴史が変われば、そもそも帝国暦に生きた自分が1583年も遡って、ここにくる現象が生じないし、生じるとしても、それは帝国暦の自分で無くなり、結局、今ここに三葉の中にいる自分がいないことになってしまい、とてつもなく矛盾が生じる。
「……あるいは………私は消えて……」
それとも歴史を変えた瞬間に自分は消えるのかもしれない、隕石落下で犠牲者は出ず、その瞬間に自分もアンネローゼも銀河帝国も銀河連邦も何もかも消失して、宇宙は2013年からやり直すのかもしれない。それで三葉たちが助かるなら、と、そう考えなくもないけれど、確証もないし不安は巨大すぎる。
「……結局……私は卑怯者……」
三葉には何度も助けてもらった、三葉がいなければヒルダは死んでいたし、アンネローゼともどうなっていたか、わからない。そんな大きな恩のある三葉を見捨てて、自分は美しい二人の妻と来年には生まれる子供、そして揺るぎない皇帝代行としての地位を守るのか、宇宙が崩壊するなんて大袈裟なことは起こらないかもしれない、ただ少しずつ歴史が変わるだけかもしれない、もしかしたらラインハルトだって負傷せずに済んだかもしれない。ただ、ただ、自己保身のために三葉たちを見捨てるような気がして、感極まって大声で泣いた。こうやって泣いていることさえ、心の底で、もう助けない、歴史は変えない、見捨てると決めているから泣いているのだと、自分の卑怯さが嫌になって慟哭する。
「ああああああっ!! 私はっ! 私はぁっ!!」
「朝から何を大声で泣いてるの?」
戸を開けて四葉が入ってきた。
「まさか、また立花瀧に電話でもして嫌われた? そういうことすると、どんどん結ばれる時期が延びるよ。…あ? お姉様の方なの?」
四葉は泣き方が楚々たる貴婦人のような仕草だったのでキルヒアイスだと気づいた。
「お姉様、どうして、そんなに泣いて……あ、もしかして、明日、隕石が落ちて私たちが死ぬと思ってる?」
「っ…知っているのですかっ?!」
「安心して。大丈夫、そうはならないから」
「そんなっ…、でも……何が…どうなって……宇宙の因果が…」
「なるほど、そういうこと考えて悩んでくれてたの。それも大丈夫、宇宙がストップしたり壊れたりはしないから。まあ、うちのお姉ちゃんは、そういうことおかまいなしに振る舞って一つの世界の糸を絡まらせて途絶させてるけど。この世界では大丈夫だよ、私たちは隕石で死なないし、すべてうまくいくはず」
「すべて……うまく……四葉…、四葉! どうか、教えてください! どうなっているのですか? 四葉は何もかも知っているのですか?」
縋りつくように三葉の手が四葉に抱きついた。四葉は指先で三葉の涙を拭いてから、その滴を舐めた。
「何もかもではないけれど、ただの人間よりは色々と知っているよ。とりあえず、泣かなくていいよ」
「ぐすっ…四葉たちを助けても宇宙は崩壊しないのですか? 歴史は、どうなるのですか?」
「さすが、お姉様、ちゃんと慎重に考えてくれてたんだね。その慎重さと注意力をお姉ちゃんにも分けて欲しいくらいだよ。うん、わかった。お姉様なら不用意に誰かに言ったりしないと思うから、色々と教えてあげるね」
「……色々…」
「う~ん………まず、人間に理解してもらうために、私たちの存在を正確に語る言葉がないけれど、私たちは水に宿る霊、時間に根を張る流体の生命とでも言えるかな」
「…………霊………流体……」
「って、いきなり言われてもわからないよね。とりあえず、お姉様が一番心配してくれてる因果律についてだけど、パラレルワールドっていう概念はわかる?」
「はいっ!」
その一言で三葉の顔がパッと輝き、そして普段は三葉が触らない押し入れの奥から小さな箱を出してきた。
「四葉、それなら、これを見てください!」
「なにこれ?」
四葉は起爆装置と作戦案を見せられた。作戦案はドイツ語で書かれていて、オーベルシュタインと入れ替わったときに多少は習得したので読めなくもない。
「……農業小屋を爆破………予告電話………あ~、そういう風に避難させるつもりだったんだ」
「はいっ、これなら誰も死なずに済みます! ガソリンで火傷しないよう、これから私が教えますから、どうか三葉さんと二人で明日、頑張ってください」
「ありがとう。でも、せっかく準備してくれたけど、そんな犯罪チックなことしなくても私たちで何とかするから気にしないで」
「何とかすると言われても……」
「私が信用できない?」
「いえ、信じます」
「うん、よしよし」
「四葉……あなたは、いったい……何者なのですか? 神の使いか……なにか…」
「人間から見れば、半分は神で半分は人間と言えなくもないかな。神さまも色々で、うちの姉みたいなのもいるけど」
「……神が……存在する……」
「神と言っても、全知全能唯一絶対じゃないよ。実体は宇宙人と言った方が近い」
「っ、宇宙人なのですか?!」
「そう、地球外生命体が宮水四葉という人間の身体に寄生してる状態という表現も間違いではない」
「……寄生……」
「怖がらなくても、ミトコンドリアや腸内細菌が害をおよぼさないように、私たちティアマトから来た流体生命体は害はないよ。むしろ、人間に貢献してる。なるべく人間世界の歴史を良い方に導いて、いずれ霊的に高次な存在となってくれるようにね」
「霊……霊や霊魂といったものが存在するのですか? 宇宙人でさえ、信じがたいのに」
「霊や霊魂を、否定するのは、おかしな話だよ、とくにお姉様たちの来た時代の科学なら逆説的に証明さえ、できるくらいに」
「私たちの時代……」
「なぜ、ワープは成人の脳細胞には一切悪影響を与えないのに、妊娠中の胎児には、きわめて悪い影響があるのかな?」
「……その原因は不明です」
「それは唯物論でのみ考えるからだよ。女性の妊娠中に胎児は、だんだんと霊魂を形成していく。なのに、いきなり空間上の位置が変わると、周囲から霊魂を形成するために集めていた形成の材料、かりに霊子と言ってもいいけれど、ワープによって空間上の位置を瞬時に動かされてしまうと、霊子を集めることに支障をきたして形成不全を起こす。霊も、霊だけでは存在が不安定で、よりしろや身体があってこそ安定するからね。ティアマト星系から来た私たちも、そう。ティアマト彗星という母船から、1200年ごとに地球へ着陸して人間に定着してる。まあ、着陸というよりは強行着陸になってるけど。むしろ人間には墜落に見えるかもね。でも、私たちは流体だから平気だし、ティアマト彗星の分轄は一部を凍らせることで割ってるからさ」
「…だから、この土地には、以前に2度も隕石墜落の痕が……?」
「そう。さすが、よく観察してるね。この前、山頂にいたときかな。私も落下予測を確信するのに、見に行ってたから。もう、すべて大丈夫」
「……。同じ土地に2度も、これは偶然とは思えない確率ですから……けれど、あなた方はティアマト星系から……来て……いるのですか…?」
「そうだよ。その名の重なりを偶然だと思った? あの星系に人間がティアマトと名付けたことも。彗星に同じ名を名付けたことも。言葉には霊的な力があるよ。あと、何より私たちも、どこでも好きな時代、好きな場所にタイムワープできるわけじゃない。ワープに制限があるように、タイムワープにも、入れ替わる人との相性や、時脈、辿り行く道の問題もある。まあ、だからこそ、ティアマト星系付近にいてくれたとき、お姉ちゃんが入れ替わりに行って時脈をつなげられたわけだけどね」
「………入れ替わりは……霊が入れ替わっているのですか?」
「脳細胞が入れ替わっていると、思う?」
「……いえ……おそらく質量は時間を跳躍できないのではないかと……」
「うん、だいたい無理」
「霊は信じざるをえない………そうだとしても因果律は、どうなるのですか? 単純にパラレルワールドだとしても、辻褄が…」
「そう、辻褄は大切だね。うちのお姉ちゃんは、その辻褄を無視して、一つ世界を途絶させたからね」
「………三葉さんは、何をされたのですか?」
「まず、パラレルワールドって概念で入れ替わりと時間跳躍をとらえると、つい、世界を数直線のようなイメージで考えるかもしれないけど、そうじゃないの。世界の総体は、この紐のようなものであり、より重層的で多世界が組み合ったものなんだよ」
そう言って四葉は、三葉の髪を結っている真新しい紐を撫でた。組紐は複数の糸で形成され、組み合わさって鮮やかな色を表現しつつ、頑丈さも兼ね備えている。
「紐……」
「一つ一つの世界は、この一本一本の糸のようなもの、そして、寄り集まって組まれて、この組紐みたいに確かな存在になる。世界はね、多世界なんだよ、それをまだ人間は認識できないけれど、いくつも複数の世界が組重なって、世界の総体になる、その世界の総体を私たちは、より良い方にしたい。人間と共生してね。人間は自分がいる、一本の糸の世界だけを見て、それを確かなものだと感じるけれど、そうじゃない。むしろ、一本ずつだと、とても不確かなもの。いつ切れるか、わからない。そうならないよう幾重にも組み合わさり、支え合い、多世界で進んでいくの。まあ、だから、お姉ちゃんが一本ダメにしても、なんとか、なるんだけどね」
「………ダメに……した?」
「まず、お姉ちゃんは一度目…、一度目というと時系列が不確定な多世界で表現に語弊があるから、一本目と言うね。一本目、お姉ちゃんは立花瀧という男子と入れ替わった。けれど、そこが3年未来であることに気づかないばかりか、お互いの生活に配慮がまるでなくて、ノーブラでバスケするわ、パンツ見えるの気にせず動き回るわ。あと男の子だから、どうしても女子の身体への好奇心が抑えられなかったんだろうね。そんなこんなで、お姉ちゃんは生きる気力を無くして自らの死を願うようになり、願い通り隕石で死亡」
「…………その延長が私たちの世界なのですか?」
「そう」
「三葉さん、気の毒に……さぞかし思い悩まれて……死にたいほど……」
「気の毒なのは立花瀧だよ。お姉ちゃんは死んだ後、立花瀧の身体を乗っ取って、そのまま東京の男子としての人生を謳歌するから。まあ、それも核戦争までだけど。で、核戦争後はわかるよね、銀河連邦、銀河帝国と殺伐とした世界になっていくの。そうなったのも私たち宮水の巫女が干渉できなくなったことも大きい。私たちは唾液や、おしっこを介して世界全体に拡がってはいるけれど、大本は宮水の血筋にあるから、それが絶えると、とても影響力は弱くなる。それでも修正方法はあって名取家の血筋なんかが傍流だけど。けれど、二本目は、もっと問題だった。もう修正もきかない」
「……修正も……いったい、どんなことが?」
「お姉ちゃんは、もともと人間の方向音痴みたいに時点音痴なところがあって、立花瀧と再び入れ替わって3年先に行ったのに、またもや隕石落下の情報に触れようとしない。というか、3年先であることさえ、何度入れ替わっても気づかない。曜日だって違うのに、どういう頭をしてるのか、同じ時点だと思い込んで、しかも使命感も何も感じず、ただただ東京で遊んでバイトして、男の子の身体であることを楽しむだけなの。で、このままじゃ、また死ぬ! ぜんぜんダメって状況だったんだけど、なんとか入れ替わり相手の立花瀧が気づいてくれて、私たちを助けようと動いてくれた。もしかしたら、どこかで霊的な勘が働いて、このままだと、また自分が乗っ取られて終わるって感じたのかもしれない。けれど、未来から過去に干渉するのは、とても難しい。それでも最後の最後、究極の奥の手として用意してある口噛み酒に辿り着いてくれて、かなりドタバタな感じに終わったけど、なんとか隕石で犠牲者が出るのは防いでくれたの」
「……よかった…」
「ここまではギリギリよかった。ギリギリ。けれど、なんと! お姉ちゃんはタブー中のタブー、辻褄をメチャクチャにする行動に出た! なんと、入れ替わり相手に会おう! 会って声をかけよう! むしろ彼氏にしたい!! という、とんでもない行動に出て、わざわざ東京で就職までして、何年も何年も! 探し回った。で、あげくに、とうとう出会うはずのない二人が出会って、声までかけてしまうの!」
四葉は話しながら興奮してきている。半分は人間であると言っただけに、やはり家族である実姉の所業に思うところが大きいようだった。
「……それが、いけないことなのですか?」
「ダメダメだよ。多世界といっても辻褄は重要なのに。世界が重層的であるために、それに口噛み酒を飲んで糸と糸の区別が、より不明確になっているために会ってしまうリスクが生じていて、けれど、ちゃんと論理的に考えれば、助けに来てくれた立花瀧は一本目のお姉ちゃんたちが死んだ世界の情報に触れた立花瀧、なのに二本目の生きているお姉ちゃんと会うなんて超危険! 本来は会わないはずの二人が出会って、声をかけたら、その時点で、その先は無し! その世界は途絶! たった一言、君の名は。そう問いかけた時点で、そこで終わり! タイムパラドックスを起こして、世界の糸は途絶する。ごくごく単純に考えて隕石落下で宮水三葉が死んだという情報に触れた立花瀧が、助かった宮水三葉に出会うわけがないんだよ。なのに、世界の総体が重層的な多世界であるために、そして宮水の巫女と、口噛み酒を飲んだ者であるために、出会ってしまうこともありえるの。それでも、幽霊のように黙ってすれ違っていてくれれば、世界の糸は保たれる。なのに、出会って、君の名は。とまで因果律に干渉して声をかけられると、もう世界は糸の軸を保てない。そこで終わりの終止符。こんな風に、お姉ちゃんは二本目の世界を途絶させてしまったの」
「………では、いま、ここに四葉といるのは三本目なのですか?」
「ううん、もう何本か色々とあって失敗を重ねて、いよいよ、うまくいきそうな世界なの。とくに一本目で、その先に殺伐とした未来をつくってしまったフォローとして、お姉ちゃんと私が頑張らないといけないの。私は無理して早めに覚醒したから、きっとお母さんみたいに人間としては早く死んでしまう。私たちも人間の個性が色々であるように力にバラツキもあるの。お姉ちゃんは連続で、しかも24時間も入れ替わっていられるところは、すごいんだけど、使命感とか、人間としての注意力とか、思考の方向性とか、そのあたりが残念なことが多いし、お婆ちゃんは前時代に十分に働いたんだけど、その分、もう人間でいう痴呆症みたいなもので、もう世界の総体の紐を見ることもできないし、その記憶も薄れてる。そもそも、宮水の巫女は多くが一人娘だったのに、お母さんが無理して二人目を産んでくれたのも、私とお姉ちゃんが補完し合うためだと思うから。まあ、ざっと、こんな感じだよ」
長い話が終わりかけ、キルヒアイスは半分は神のような存在だという四葉に是が非でもお願いしたいことができていた。
「四葉にお願いがあります!」
「……」
「四葉が神さまに近い存在なら、どうか、ラインハルト様を目覚めさせてください! できるなら負傷しなかったことにしてください、お願いします!!」
「……それが可能だと思う?」
「お願いします! どうか、どうか! ラインハルト様がいらっしゃる未来を!!」
「そのために自分が死ぬ、としても?」
「っ……かまいません!!」
「さらに、ヴェスターラントの犠牲者に数倍する死者が出るとしても?」
「……………まさか……ラインハルト様が、過ちを繰り返すようなことは……」
「繰り返すよ。ただ、ヤン・ウェンリーに勝ちたい、それだけのために何百万の人命を損ねる。何より、アンネローゼさんを笑顔にできるのはキルヒアイスの存在のみ、彼女に灰色の生涯を送らせるのがいいか、数人の子供と、その数倍の孫に囲まれて、にぎやかに過ごさせるのがいいか、あなたに、あなたの未来を教えるのは語りすぎかもしれないけれど、アンネローゼさんとヒルダさんは、とても仲良くうまくやっていくし、帝政を廃した後も、あなたが生きているうちに大きな戦乱が起こることはない。そもそも、そう修正するよう歴史の糸を紡ぎ直すことが私とお姉ちゃんの使命だった。さらには、ラインハルトはアンスバッハに殺されなかったところで、ほんの数年の寿命しかない。これは不可避な寿命。そして、その数年で屍体の山を築く。カイザーラインハルトは戦を嗜む、そう評されるけれど、嗜むなら、酒か女である方が、ずっとマシ。さあ、それでも、ラインハルトを生かしておきたい?」
「…………ラインハルト様が…………」
「まあ、そんな世界もあるのかもね。一応、宇宙の覇者になってるような」
「……………」
「そろそろ登校の時間だよ。そして、今日が最後、もう二度とお姉様が、ここに来ることはない。隕石の件は大丈夫。もう何も心配しないで、ただの女子高生として一日をおくって。出席も、どうでもいいよ」
「………四葉………本当に、色々ありがとうございました」
四葉に頭を下げて通学路に出ると、克彦と早耶香に出会った。
「おはよう、三葉」
「おはよう、三葉ちゃん」
「っ…はい…おはようございます。テッシー、サヤチン。…ぅっ…」
二人の顔を見て、涙が零れた。二人は死なない、これからも元気で生きていてくれる、けれど、もう会えない、もう二度と会えない、その安心と離別の感情で涙が溢れて止まらない。
「三葉……また、そんな顔をして……」
「三葉ちゃん…………」
早耶香が零れ続ける三葉の涙を見て決めた。
「もう、お互い限界だよね………。これ以上は………三人とも不幸になるだけ…………。決めた!」
「早耶香?」
「サヤチン?」
「克彦っ、今日まで、ありがとう! 一夏の想い出、とても楽しかった! だから、もう私と別れて!」
「早耶香……何を言って……」
「もう私に遠慮することないよ! 三葉ちゃんと付き合ってあげて!」
「早耶香……」
「っ、サヤチン?! 何を言っているんですか?!」
「もう隠さなくていいよ」
早耶香が三葉の瞳を見つめた。
「目を見ればわかるよ、どれだけ克彦のことを好きでいるか」
「違います! 誤解です!」
「そんな悲しい嘘をついたままでいいの? それで、自分の気持ちが終わっちゃっていいの?」
「っ…私は…」
「私は、もうイヤなんだよ。三葉ちゃんが克彦を好きなら好きで、そう言ってほしい。無理に隠さないでほしい。ううん、そうさせたのは私だよね。卑怯な手段で勝とうとした。でも、やっぱり後ろめたいんだよ。だから、もう克彦とは別れる。そう決めたの!」
「っ…ダメです! そんなことはダメです! おそらく、あなたたち二人は結ばれる運命! 宮水三葉には別に好きな人がいます!」
「そんな嘘を言って……だったら、さっき、どうして泣いたの?」
「そ、それは……」
「この前も私たちを見て泣いたよね?」
「………」
「あんな顔されたら、誰だって確信するよ」
「………誤解です…」
「私に遠慮してくれるのは友達として嬉しくもあるよ。けど、後ろめたくもあるの。ねぇ、お願い、三葉ちゃんの本当の気持ちを教えて。あなたの胸の中にある本当の想いを」
そう言って早耶香が三葉の胸に触れてきた。
「……サヤチン……」
「三葉ちゃんと嘘や偽りのある関係のまま生きていくのはイヤ。お願い、教えて」
「…………………」
そう言われて自分を見つめ直した。この半年、ずっと女子として振る舞ってきた。その中で克彦を好きか、嫌いかといえば好きだったし、それは女子として好きだった気がする。自分の中に、もう一つの自分、女子としての自分がいる気がするし、その自分は、やっぱり克彦を好きでいて、そして、その想いを隠せていないともわかった。
「………もう今日で……最後なのに………」
「最後? 何が最後なの?」
「……………」
今日で最後になると言ってしまって実感すると、このまま克彦へ何も言わずに別れるのは悲しくて忍びない。言いたい、告げたい、あの告白を受けて感動したこと、好きでいること、言わずに別れるのは嫌だった。
「……でも……私は本当の……宮水三葉では…」
「「………?」」
「………」
けれど、三葉からの注意では克彦と早耶香の関係を乱さないことが言いつけられている。この三葉の唇で好きだと言ってしまうのは指示に反する。なのに、もう三葉の瞳と涙で語ってしまい、早耶香が余計な気を回して克彦と別れるとまで言い出している。このまま今日が終わると、さらに混乱させてしまうかもしれない、とくに明日は大変な日になるはずで不安定要素を残しておくのは危険で、それを避けるためもキルヒアイスは決めた。
「………もう学校に遅刻してしまいますが、大切な話があります。とても長くなるかもしれませんが、お二人に聞いていただきたいのです」
「うん、いいよ」
「ああ、わかった」
三人は通学路を離れて、静かな神社の境内まで戻った。
「サヤチン、テッシー、今まで騙していて、すみませんでした」
深々と三葉の頭が下げられると、早耶香と克彦は困惑する。
「ど、どうしたんよ、三葉ちゃん?」
「三葉……いったい、どういう…」
「お二人と話している今の私は、宮水三葉であるように見えても別の人格をしたものなのです」
「「……別の…人格…」」
「はい、まったく別の人間です。精神病などではなく、日ごとに本来の三葉さんと心と身体が入れ替わっていたのです。けれど、ご安心ください。その現象も今日で終わり、もう本来の三葉さんに戻り、私は私に戻るはずです。そして、本来の三葉さんはテッシーを大切な友人だとは思っていますが、異性として好きな人は別にいます」
「「…………」」
「いきなりで信じられないのも無理はありません」
「いや……むしろ、……やっぱり、そうだったのか、というか…」
「うん……そう言われる方が、しっくりくるというか……」
「お気づきになっていたのですか……」
「「だって、あんまりにも違うし」」
早耶香も克彦も、はじめは父親の選挙向けのお嬢様モードなのかと思っていたけれど、選挙が終わっても日によって続いているし、その気品と優雅な仕草は演技で切り替えられるものとも思えないほどで、今こうして別人なのだと言われると、その方が納得できるくらいだった。
「気づかれていたのなら……もう……言ってしまいます」
三葉の瞳が克彦を見つめると、その頬が赤く染まってくる。告白しようとする女子の顔だった。
「わ…私は……テッシーが……好きです。あの夕日を見たときから。あのテッシーの告白が私に向けられたものでないことはわかっています。けれど、あのときから……私は……私は、あなたが好きです!」
「っ…三葉……いや……違う……違うんだよな。君の名は?」
「ジークフリード・キルヒアイスです」
三葉の唇が名乗り、克彦は微笑んだ。
「キルヒアイス、キレイな名前だな」
アンネローゼとヒルダがミヤミズミツハを女性名とは思わなかったように、克彦もまたジークフリード・キルヒアイスを男性名とは感じなかった。
「キルヒアイス、もう会えなくなるのか。外国にいるのか? どうすれば、会える?」
「もう……絶対に会えません。私は別の世界から来ているのです」
四葉の話からすると、会えないし会ってはいけないし、それでなくても1500年もの時を隔てている。いっそ、別の世界と言った方がいいくらいだった。いきなり別世界と言われても、その声色が真剣かつ切実だったので克彦と早耶香は信じた。
「そうか……会えないのか……くっ…くっ…」
「キルヒアイスちゃんと……もう会えないなんて……ぅっ…ぅっ…」
もう会えないと言われると、克彦と早耶香も悲しくなって泣けてきた。この半年、いっしょに過ごしてきて、想い出もあるし情もある。なのに、存在がわかった途端、二度と会えないと言われると、とても悲しかった。
「サヤチン……私はサヤチンのことも大好きでした。女子として」
「うん、うん、私もキルヒアイスちゃんのこと大好きだよ」
キルヒアイスと早耶香が抱き合って涙ぐんだ。克彦という同じ男を好きになった同性同士に芽生える連帯感のようなものさえあった。
「ありがとう! サヤチン! あなたに会えて良かった!」
「私もだよ! キルヒアイスちゃん、会えてよかった!」
「黙っていて、ごめんなさい。私がテッシーを未練がましく見たりしたから、誤解させて」
「いいんだよ、もう、いいんだよ」
「サヤチン……」
「キルヒアイスちゃん」
「キルヒアイス……オレは………もしかしたら、三葉じゃなくて………お前を……キルヒアイスを好きだったのかも……しれない」
「テッシー………」
一瞬、嬉しいと感じてから、抱き合っている早耶香のことを思い出した。その気遣いに早耶香も気づいたけれど、頷いた。
「そうだね、きっと、キルヒアイスちゃんがライバルだったら勝てなかったよ」
「サヤチン……」
「ほら、もう今日で最後なんでしょ」
そう言って早耶香は三葉の背中を押した。押し出されてキルヒアイスは克彦に抱きついてしまった。
「……テッシー……」
「キルヒアイス……」
見つめ合い、自然とキスしそうになってから、キルヒアイスは顔を背けた。
「ダメです……ごめんなさい……この唇は三葉さんのものです……勝手なことはできません………ごめんなさい……ごめんなさい…」
そう言って泣くキルヒアイスを克彦は抱きしめたし、早耶香も見ていて涙が止まらなかった。三葉の中に二つの人格があったと言われると、克彦を好きでいる人格と、そうでない人格があるのは確信できた。やっぱり本来の宮水三葉は演技ではなく本当に克彦を友人としか想っていないし、もう一方の人格は克彦を好きでいるのだと、よくわかる。よくわかるだけに、その恋を忍ぶのが、どれだけ苦しいか、早耶香も恋を忍んできただけに、よくわかって同情した。
「キルヒアイスちゃん、今日で最後なら、もう二人きりで過ごしなよ。じゃあね」
早耶香が去ろうとするのを、キルヒアイスは袖をつかんで止めた。
「待ってください! サヤチンも、いっしょにいてほしいです!」
「克彦と二人の方がいいよ。ね?」
「いいえ、二人っきりになったら……なったら……私だって我慢できなくなるかもしれない……お願いです。いっしょにいてください。最後の時間をサヤチンとも過ごしたいです」
「キルヒアイスちゃん……」
三人で抱き合って泣いた。ゆっくりと、けれど確実に時間は流れ、日が沈み、境内も暗くなる。四葉に連絡して状況だけは説明しておき、最後の時間を三人で過ごしていく。
「あと、どのくらいキルヒアイスは三葉の中にいられるんだ?」
「夜の12時までです」
「……まるでシンデレラだな」
そう言って泣いてばかりだと男として格好がつかないので克彦は星空を見上げた。もう、はっきりとティアマト彗星が見える。
「キレイだな……なぁ、キルヒアイスは、どんな子なんだ? 三葉と似ているのか?」
「いえ……私は………」
「髪の色は?」
「赤です」
「へぇ……キレイなんだろうなぁ」
「………」
キルヒアイスが三葉の頬を赤くして目を伏せた。
「キルヒアイスちゃんは日本人みたいな顔してるの? それとも妖精みたいな?」
「いえ……別の世界と言いましたが、この世界と似ている世界でもあって……ドイツ系の白人のような……」
「「白人かぁ……」」
克彦と早耶香の脳裏に、赤毛の美しい色白の美少女が想像された。そっと早耶香が三葉の手を握る。
「もう会えないとしても、私たちがいっしょに過ごした時間は確かに存在したんだよね」
「はい、サヤチン」
キルヒアイスも握りかえした。克彦も手を握ってくる。
「君に会えて、よかった。一生忘れない」
「はい、私も、ずっと覚えています。テッシー」
見つめ合った。キスはできないけれど、想いは通じ合った気がする。静かに三人が涙を零したとき、12時を迎えた。
三葉は観光気分で旗艦バルバロッサから海王星を見ていた。もはや宇宙は統一され、敵はいない。キルヒアイスからの手紙では地球へ行ってみたいので向かっているとあり、三葉としても見てみたいので艦隊を進めているけれど、地球に到着する前には夜12時になりそうな予定だった。
「まあ、望遠で見るだけでもいいかな」
星系外宙域と違い、星間物質の多い太陽系内なので、あまり速度をあげさせるわけにもいかず、安全重視で進んでいた。
「閣下、ビッテンフェルト提督から通信が入っております」
「メインスクリーンに映して」
すぐにビッテンフェルトの姿が映し出されたけれど、顔色が悪かった。やや青白いのに、頬だけが興奮しているように赤い。
「どうしたの? 大丈夫?」
「はっ」
さらに、敬礼している手の小指と薬指が途中で切断されていて無い。
「その指……」
まさか、また何か大失敗でもして、ヤクザみたいに指を落としたのかな、でも、そんな文化があるようには思えなかったけど、と三葉が変な心配をしていると、ビッテンフェルトが自らが説明する。
「閣下が地球へお越しになる前に露払いをと、ノルデン元帥に許可をいただき、地球の安全を確認しに接近していたのですが、艦橋に潜り込んでいた賊にナイフで斬りつけられ、毒が塗ってあったものですから、かすり傷だったのですが指を切断しております。お見苦しきところ恐縮です」
「賊って……」
「御安心ください。調べましたところ、地球教徒なる者どもであり、すでに本部を叩き潰しております!」
「そ…そう……それなら、いいの、かな…」
同盟軍との最終戦闘に留守番を命じられて不満が溜まっていたビッテンフェルトが指まで斬られて、どれほど激怒して苛烈な攻撃をしたのか、明らかに鼎の軽重を問われるような艦隊攻撃を地表へしたんだろうな、と三葉は思った。
「地球教徒どもの目的も計画も不明でしたが、もはや山脈ごと消滅しております。何も案ずることはありません」
「そ…そう……山脈ごと……。体調は、どう? 顔色悪いけど、大丈夫? 毒は、どうだったの?」
「ご心配いただき、ありがとうございます。毒など、とうに免疫ができております! 何ほどのこともありません。指も2本ばかり、武人の勲章にすぎません」
「……。お大事に」
免疫ができてないから指を切断したんじゃないかな、と三葉は余計なことを考えたけれど、皇帝代行として部下をねぎらうことを優先する。
「無事でよかったです。ビッテンフェルト提督の武功も、同盟軍との最終戦闘に参加した提督たちと同じほどに評価しますね」
「はっ! ありがたき幸せ! ……ですが、もう戦闘は無いのでしょうか?」
「無いことを祈ってください」
物足りなそうな顔して、やっぱり参加させなくてよかったよ、絶対イゼルローン方面でもフェザーンから侵攻させても、余計な突撃とかしそうだもん、と三葉は戦死者を最小限に抑えつつ戦乱を終結させたことを誇りに思いつつ、通信を終えた。
「……ぅぅ……」
「ラインハルトさん……また、熱が…」
指揮席のとなりに設置した生命維持装置へ寝かされているラインハルトが呻いている。同盟軍との戦争が終わり、宇宙が統一され、もう戦闘が無いと声をかけるようになってから日に日にラインハルトの容態は悪化していた。原因不明で発熱し、そのたびに体力が失われている。三葉は専属看護婦に頼んでタオルを借りると、ラインハルトの汗を拭った。
「ラインハルトさん、明日には地球ですよ。興味ないかもしれないけど、面白いかもしれませんよ」
この時代の地球が過去の遺物でしかないことは周りから聴いているので、三葉も京都や奈良へ行く高校生くらいの興味しかもっていないので、地球着陸までには最後の入れ替わりが終わってしまうことを知っていても、さほど残念には思っていなかった。そこへ、ケスラーからも通信が入ってきた。ケスラーは敬礼して話し始める。
「ビッテンフェルト提督を襲った地球教徒なる者どもですが、目的は皇帝陛下と宰相閣下の暗殺にあったようです。その前に地球へ接近していたビッテンフェルト提督を、まずは害そうとしたようです。ビッテンフェルト提督より連絡を受け、オーディンおよび他の星系でも捜査いたしましたところ、相当数の教徒をとらえております」
「ご苦労様です。事後処理も、よろしくお願いします」
「はっ」
ケスラーは簡潔かつ明瞭に報告し、引き続き捜査する旨を述べて通信を終えた。三葉は艦橋の全天モニターを見上げて、一つの小天体に気づいた。
「ティアマト彗星………」
「よくご存じですな」
オーベルシュタインが手元の操作端末機で確認している。
「変わった彗星ですな………記録では1200年周期で地球へ接近しており、しかも386年前の西暦3213年と、さらに2013年と、813年と紀元前387年に毎回必ず一部が分裂して地球へ隕石となって落ちております」
「そう」
なんとなく三葉はティアマト彗星に向かって敬礼した。
「閣下……何をしておられるのですか?」
「なんとなくだよ、なんとなく。にしても、やっぱり宇宙歴と帝国歴を廃して西暦に戻してよかったね。だいたい、いつ頃のことか、わかりやすくなった」
もう一度、三葉はティアマト彗星を見つめる。今は386年前に地球へ最接近した後なので地球から遠ざかる軌道をとっていた。
「……ぅぅ………ハァ……ハァ……ジーク………みんなで……」
ラインハルトの呻き方が、いつもより苦しそうだった。
「ラインハルトさんの容態は?」
「申し訳ありません。いまだ原因が……」
軍医たちは困惑したまま、発熱が続いていて、心拍が弱まっている。このままでは死んでしまいそうだった。
「しっかりして! ラインハルトさん! せめて、せめて夜の12時まで頑張って!」
たとえ死んでしまうとしても、死に目にキルヒアイス本人が会えないのでは忍びない。三葉は手を握って声をかけ続ける。
「もう宇宙はラインハルトさんのもの! すべては終わったの! だから、目を覚ましてよ! 元気になって! アンネローゼも待ってるよ! ヒルダだって!」
三葉が声をかけても、どんどん心拍は弱まっていく。ずっと黙ってみていたオーベルシュタインが反対側に膝を着いてラインハルトの耳元に言った。
「ローエングラム閣下、敵艦隊を発見しました。その数、およそ2万。閣下の予想通りです」
そんな情報は無かったけれど、オーベルシュタインの声がラインハルトを刺激したのか、心拍が回復した。脳波も活性化している。
「オーベルシュタインさん………」
「おそらく陛下は戦が好きなのです。戦争の終結はむしろ目的の喪失と同義」
「…戦が好きって……そんな……。こんな身体になってまで………」
「閣下、敵右翼が前進してまいりました。いかがいたしましょう?」
「……ぅぅ……」
ピクリピクリと義手になっているラインハルトの右手が動いている。
「はっ、こちらも前進させます」
「………ラインハルトさん……」
三葉は時計を見た。この分なら12時まで保ちそうだった。
「オーベルシュタインさん、そのまま聴いてください。今朝、言ったように、もう私は二度と現れません」
「敵との距離15光秒です」
「どうか、キルヒアイスさんと協力して平和な世界をつくってください。お願いします」
「はっ」
オーベルシュタインが三葉へ向かって敬礼した。三葉も敬礼を返す。
「……ぅぅ……」
「さようなら、ラインハルトさん」
「……ジーク……みんなで……」
「はい、ラインハルトさん」
静かに涙を零した三葉は目を閉じて12時を迎えた。
キルヒアイスは目を開けると、ラインハルトの容態を見て青ざめた。
「ラインハルト様?!」
「……ジーク……みんなで……ぅぅ…」
その一声を最後に自発呼吸が止まり、生命維持装置が人工呼吸をさせても脳波も停止していく。軍医が力なく首を横に振った。
「ラインハルト様! ラインハルト様っ! くっ……ぅううっ…」
数分前まで少女として泣いていたキルヒアイスは親友の死に際して男泣きして拳を握った。それでも、ずっと覚悟していた事態でもあったので朝までには立ち直り、予定通りに地球へ降り立っていた。
「この町は、まるで戦禍をさけるような位置に……」
岐阜県飛騨地方へ、念のために装甲服姿で訪ねたキルヒアイスは核戦争から1560年も経過して放射能の影響も薄れ、緑溢れる地域になっているかつての糸守町を見て、言いようのない想いを抱いていた。ここに来たせいか、胸の奥が少女のように痛む。オーベルシュタインも周囲を見回している。
「この地には直接の核攻撃は無かったようですな。クレーターは四つもありますが」
「ナゴヤやオオサカのような都市とは離れていますから、攻撃目標にならなかったのでしょう。かつてニホンの内戦であった戦国時代も大きな戦は無く、この惑星の歴史を振り返っても、まるで選んだように戦乱からは離れた土地………」
日本そのものが地球史において国際的な戦争が少なかったし、また国内戦においても岐阜県飛騨地方は、ほとんど戦禍に遭っていない。歴史の先々を見通す目があるとしか思えない選定だった。オーベルシュタインが西暦3213年に隕石が落ちて形成されたクレーターを見て言う。
「やはり、この地に集中的に落ちているようですね」
「そのようです」
かつて糸守町だった地域には4つもの隕石落下痕らしき地形が残っている。その三つ目である宮水神社へ直撃した隕石痕に近づいたときだった。
「ようこそ、お姉様。それとも宰相閣下の方がいいかな?」
風のように現れた少女がキルヒアイスの前に立っていた。そして少女は巫女服を着ている。
「なぜ、私だとわかったのですか……いえ、あなたなら、わかるのでしょうね」
キルヒアイスは装甲服の面鎧をあげた。周囲にいるキスリングたちと同じ装甲服姿なのに、一目でわかること自体、もはや人外の技だった。けれど、キルヒアイスは少女の顔を見て違和感と既視感を覚えた。
「……サヤチン…」
「違うよ。私の名は、名取那耶香」
「ナヤカ…、……名取早耶香の子孫なのですか?」
「残念ながら、名取早耶香も、この一本目では死んでいるの。あの日に」
「……では、あなたは?」
「早耶香さんの姉の子孫だよ。顔が似てるでしょ」
「たしかに……」
少女の物言いと雰囲気は四葉そのものなのに、顔立ちは早耶香に似ていて、キルヒアイスは違和感と既視感の正体に気づいて納得した。
「ここの、みなさんは無事に暮らしているのですか?」
「それなりにね」
少女が水田を指した。もともと山地で平野が少ないけれど、ところどころに水田が見られる。神社も再建されていた。
「よかった………」
「美しい地域ですな」
オーベルシュタインも、しみじみと言って見渡している。
「二人とも、わざわざ確かめに来てくれて、ありがとう。これを、どうぞ」
差し出された小瓶にキルヒアイスは見覚えがあった。
「これは……口噛み酒」
「そう、あなたが宮水三葉として造った口噛み酒だよ。呑んでみて」
「……わかりました」
「閣下っ?! そのような怪しげな物を?!」
キスリングが止めているけれど、キルヒアイスは呑んだ。
キルヒアイスは雲上にいた。
「……ここは……尾根……」
見渡す限り雲が続いているけれど、足元には地があり、山の尾根のような岩肌がある。周りは明るいけれど、夕日のない夕刻のような黄昏色の空だった。
「……………」
「キルヒアイスなのか?」
後ろから声をかけられてキルヒアイスは振り返って驚いた。
「ラインハルト様っ?!」
そこにはラインハルトがいた。けれど、見知っているラインハルトより少し歳を取っている気がする。豪奢な金髪が、ますます長くなり王者の風格を放っていた。
「ラインハルト様、どうして?!」
「お前こそ、どうして……」
存在を確かめ合うように二人が触れ合った瞬間、お互いにすべてを理解した。
「そうか。キルヒアイス、お前が宇宙を……」
「ラインハルト様も宇宙を手に入れられたのですね」
「フフ、お前の方が完勝じゃないか。私は意外に手こずった。そうか、ガイエスブルクをフェザーンから。なるほど、確かに圧倒的だ。なぜ、私は思いつかなかった……お前が死ぬからだぞ」
「ラインハルト様が生きておられる世界があった……よかった」
「それはオレのセリフだ。お前が生きている世界があったのだな」
「ラインハルト様と二人で宇宙を手に入れていた……」
「そうだな。二人で宇宙を手にしたな。いささか、子供の頃に思ったのとは違うが、確かに二人で二つの宇宙を手に入れた」
「はい」
いつの間にか、抱き合い、そして二人の黄昏時が終わった。
三葉は宮水神社の境内で左右の手を克彦と早耶香に握られている状況を認識した。
「……ぐすっ……」
泣いていたようで目が濡れている。
「テッシー……サヤチン、もしかしてキルヒアイスのこと見送ってたの?」
「三葉に戻ったのか?」
克彦は質問に質問で答えた。
「うん、私だよ」
さりげなく三葉は克彦と握り合っていた手を離したけれど、まだ早耶香とは握り合っている。
「もう三葉ちゃんなの? キルヒアイスちゃんじゃなくて」
「……あいつにチャン付けしたんだ……まあ、いいけど」
なんとなく早耶香と克彦はキルヒアイスを男だとは思っていない気がしたので二人の想い出のために黙っておくことにした。
「えっと……どこから何を説明しようかな…」
三葉が迷っていると、四葉がタイミングを見計らっていたように現れた。
「説明は後回し。明日は朝から大変なんだから、睡眠不足にならないよう、早く家に帰って寝てください。で、朝5時に、また、ここに集合!」
「四葉……5時って今から4時間50分くらいしか寝れない。お風呂も、まだ…」
「死にたい? 永眠する?」
「いえ」
「じゃ、5時ね」
「四葉ちゃん、私と克彦も?」
「はい、お願いします。動きやすい服装で」
「明日はお祭りだから、その準備に?」
「質問も説明も無しです。時間が惜しいのでお願いします」
「「……わかったよ」」
逆らいがたい気配を感じた早耶香と克彦も了承して、帰宅して眠り、朝5時になって再び集合した。すでに四葉は巫女服に着替えて三人を待っていた。
「では、これから言うことを信じて実行してください」
「「「………」」」
「まず、今夜、最接近するティアマト彗星の一部が、ここに落下してきます」
四葉が足元の一点を指した。ほぼ境内の中心で、鳥居から神殿までの直線上だったし、よく見ると、そこだけ石畳の色が違う。まるで今夜の出来事がわかっていたかのような造りだった。
「その結果、ここから半径500メートルは吹き飛び、その範囲に人がいれば死にます。お二人の家も無くなります」
「オレんちが……」
「私の……」
「お二人には後で手伝ってもらうことがありますが、今は帰宅して急いで大切な物を高校へ運び込むチャンスタイムをあげます。これはかなりラッキーなことですよ」
「「………」」
克彦と早耶香が顔を見合わせ、三葉が問う。
「四葉、私たちの家の物は?」
「もうだいたい持ち出してあるから」
「さすが」
「「…………」」
克彦と早耶香は、まだ状況についていけない。それをわかっていて四葉は克彦に頼む。
「ちょっと、そこに膝を着いて目を閉じてもらえますか」
「え? あ、ああ…」
巫女服を着ている四葉に言われると、つい素直に克彦は膝を着き、目を閉じた。
ヌチュ…
四葉が舌を入れるキスをしてきた。
「っ?!」
「四葉ちゃん?!」
克彦と早耶香が驚いているけれど、四葉は神事の最中のように落ち着いた顔をしている。
「勅使河原克彦、今日一日私の命に服しなさい」
「……………。は…はい…」
「克彦っ?! 何言ってるの?!」
交際しているはずの男子が女児に頭を下げているので早耶香が軽いパニックになる。
「四葉ちゃん! 克彦に何をしたの?!」
「名取早耶香」
フルネームで呼ばれると早耶香は金縛りにあったような感覚を全身の肌に感じた。
「そこに膝を着き、顔を上げなさい」
「っ……」
流れから何をされるか、わかっているのに、早耶香は足から力が抜けて膝を着いた。
ヌチュ…
四葉が唾液を入れるようなキスをしてくる。
「っ…」
「わかりましたね。私の言うことをききなさい」
「……はい」
よくわからなかったけれど、四葉の言葉を信じ隕石が落ちてくる気がしてきた。
「では、家の物をまとめに行きなさい。途中、誰かに何をしているのか問われたら宮水四葉の名を出して、宮水二葉が夢枕に立ち、今宵大きな災いがあると予言があったからだと大声で話しなさい。そして、その者にも家財をまとめ高校へ逃げるよう」
「「はい」」
もう二人とも、すっかり四葉の言葉を信じて自宅へ駆け戻った。克彦は自室に戻るとムーをまとめはじめた。十冊ごとに紐で縛って廊下に出していると、朝食を作るために起きてきた母親が感動してくれる。
「ああ、やっとカツちゃん、それを捨ててくれるのね」
小学生の頃から貯め込むこと十年、しかも毎月の新刊だけでなくネットオークションを通じて創刊号からそろえているので、壁の一面はムーだけになっている。そのムーが搬出されているのを見て母親は涙さえ滲ませたけれど、克彦は太い眉を寄せて思春期の男子高校生らしく反論する。
「捨てるわけないだろ! 大変なことが起こるんだ! こいつらを避難させないと!」
「……」
「母ちゃんも大事なものをまとめて高校に行ってくれ!」
「……あんた、何を言ってるんだい?」
「三葉の妹が言ったんだ! 二葉さんが夢枕に立って、今日の夕方、とんでもない災害が起きるって言うんだ! 宮水神社から500メートルの範囲はいたら死ぬってよ!」
「二葉ちゃんが………」
同じ世代なので二葉の勘が良かったことは、よく覚えている。自分の死期さえ言い当てていた二葉が夢枕に立ったという言葉を信じるか、信じないか、迷ったのは数分で母親も大事なものをまとめ始めた。
「父ちゃん、起きとくれ!」
「なんだァ? 朝から騒々しい」
「四葉ちゃんの夢枕に二葉ちゃんが立って言ったんだって!」
母親の説明を聴くと、父親も少し悩んだけれど、すぐに保険代理店へ電話をかけると自宅の火災保険を積み増しする契約を結び、会社の設備にかけている保険も新品取得可能な特約をつけた。それから惜しい重機は高校の許可もえずにグラウンドへ搬入していく。当然、道すがら多くの町民に何をしているのか訊かれ、隠すことなく触れ回った。おかげで半径500メートルの範囲に住んでいた町民の8割は家財と家族を避難させていく。その様子を巫女服姿の四葉と三葉は鳥居から見つめていた。
「そろそろかな」
「やっぱり全員は信じてくれないんだ」
「信じていても、歳だから家とともに死ぬなんて言ってる人がいるからね」
「ああ、そういう人いるよね。宇宙でもいたよ、艦とともに、とか言う人」
「あとサヤチンさんのお姉さんみたいに勤務へ出てる人は半信半疑のまま仕事場を離れられないから」
「じゃあ、そのお姉さんのところへ行こうか」
「打ち合わせ通りにね、お姉ちゃん」
「うん」
二人は巫女服のまま、ゆっくりと歩いて町役場へ向かっていく。途中で手伝いを頼まれていた克彦と早耶香も合流して、まるで付き人のように二人の巫女の傍らを歩いて、二人が特別な存在なのだという雰囲気を出し始めた。騒ぎになっている町民たちは道を譲りながらも訊いてくる。
「三葉ちゃん! 二葉さんが夢枕に立ったってのは本当かい?」
「はい、確かに四葉様がご覧になったとおおせです」
そう言って妹に対して深く頭を垂れる。もともと巫女としての所作に通じていて、さらに宮廷儀礼も学んできたので、その厳かな雰囲気に思わず町民たちも頭を下げた。いつも祭りの日には上から見下ろすことに慣れている四葉は穏やかなのに重い口調で告げる。
「お母様はおっしゃいました。夕刻、未曾有の災害が町を襲う、と。当社より5町の範囲にいる者は誰一人生き残らないと」
神事の祝詞を宣する訓練も積んできているので、その声は朗々と響いている。田舎なので、だいたいの町民は1町が109メートルであることも知っていた。三葉も張りのある声をあげる。
「まだ時間はあります! 慌てず、騒がず、確実に避難してください!」
「ど、ど、どうしたらええんじゃぁ?!」
一部の町民がパニックになりかけても三葉は戦場で培った指揮官としての威厳で命じる。
「落ち着きなさい! リュックサック一つに大切な物と、少しの食料と水を入れて、ゆっくり避難してください! 大丈夫、まだまだ時間はある! 重ければ食料は要らない! 家族の命だけ守りなさい!」
若干17歳とは思えないリーダーシップと、もう10歳の女児というより半分神がかったオーラにあてられて町民たちは動き出した。それでも動かない者を動かすために四葉と三葉は町役場へ入ると、放送課にいた早耶香の姉に声をかける。
「あなたは妊娠していますね」
「っ…ど…どうして……それを…」
誰にも黙っていたことを四葉に言い当てられて驚いている。
「いつ課長と町長に告げるか、迷っていたのでしょう。ですが、もう隠してはいけません。これから町は騒然となり、すべての職員が多忙を極めるでしょう、けれど、あなただけは安静にしていなさい。でなければ、流れてしまいます」
「……は……はい……」
思わず返事していると、俊樹が町長室から出てきた。
「四葉、三葉、どうしたんだ? そんな服で、ここに来て」
「お父様、名取は妊娠しています。大事にしなければ流れてしまう。今すぐ町長専用車で岐阜市へ送ってあげてください」
「妊娠……そんな話は……名取くん、本当なのか?」
「は…はい……そろそろ言おうと思っていたのですが…」
「そうか。……四葉、それを言いに来たのか?」
「違います。けれど、まず新しい命の安全を確保してください。車を早く」
「……うむ……わかった」
他の公用車は軽自動車が多いので妊婦を輸送するのに向いていない。俊樹は町長専用車の臨時使用を許可した。妊婦を見送った四葉は俊樹に告げる。
「夕刻、ティアマト彗星の一部が、この町に降ってきます」
「……何を根拠に……そんなことを……」
「お父様の研究テーマでもあったはずでしょう。なぜ、この町には二度も隕石が降っているのか。そして、よく言うではないですか、二度あることは三度ある」
「お父さん、四葉の言っていることは、きっと当たります。私もそう感じるから」
「三葉まで……」
「言い伝えにすぎないと、むげに切り捨てますか、私たち宮水の巫女の予言、予知、お父様も何度となくお母様が神がかった言い当てをしたのを覚えているでしょう。もう私たちにも、その力がつきました。信じなさい、宮水俊樹」
「………わ…わかった……信じよう」
俊樹も信じさせた四葉は課内にある放送機材へ向かった。
「課長さん、全町へ向けての放送をオンにしてください」
「は…はい…」
すぐに用意させた四葉はマイクへ告げる。
「糸守の皆さん、私は宮水四葉です。もう皆さんも耳にされたことでしょう、私の母、宮水二葉からのお告げです。今宵、宮水神社より5町の範囲にて大なる災いが起こります。そのうちにいるものは悉く死するでしょう。いまだ、その場にとどまり逃げぬ人に言っておきます。あなたが逃げないことで、あなたの家族、あなたを救助しようとする消防団の方に被害が出ます。ゆめゆめ己一つの命でないことを肝に銘じてください。以上です」
短い放送だったけれど説得力は大きかった。おかげで夕方までに全員が避難し、予言通りに隕石が落下するのを目にすると、四葉は気力と体力を使い果たしたように、その場に倒れた。
「四葉、よく頑張ったね。あとは私に任せて。サヤチン、テッシー! 四葉をお願い! お父さんは、私と来て」
三葉は四葉の懐から古文書を抜き出すと自分の懐に入れつつ、父に言った。
「う、うむ」
四輪駆動の災害対策車を俊樹が運転して、落ちたばかりの隕石に近づくと、しばらくして自衛隊のヘリが4名の空挺隊員をロープで降下させてきた。明らかに宇宙から飛来した隕石を調査するために来たという雰囲気の隊員へ三葉が立ち向かう。
「お勤めご苦労様です!」
三葉が背筋を伸ばして敬礼すると、思わず隊員たちも敬礼を返した。
「私は宮水神社の巫女、宮水三葉です。当社に飛来した隕石は当社の御神体となること、嵯峨天皇の御代より賜っております。また、これより先は当社の敷地、踏み入れること許しませぬ、どうぞ、ご理解ください」
「「「「…………」」」」
隊員たちは顔を見合わせ、三葉が両手で広げた古文書を見つめ、日本語ではあっても古語なので、まったく読めず三葉に恐る恐るたずねる。
「こちらの書類を撮影させてもらってもよろしいですか。本部に照会しますので」
「どうぞ」
デジカメで撮影した画像を本部に送信して、しばらく待つと宮内庁から古文書が真性であると確認がとれ、また敷地内ということもあって隊員たちは一旦は引いてくれたけれど、本部からは少しでもサンプルを確保するよう命令されたようで撤退はせずに留まっている。三葉は前線の隊員たちが本部の上官から、どんな命令をされたのか雰囲気で嗅ぎ取ったので隕石を守り続ける。俊樹は役場に戻って災害復旧の指揮を執り始めた。そのうちに自衛隊の車両も多数、糸守町へ駆けつけライフラインの復旧の作業も始まった。中部電力と協力して停電を直し、水道課と協力して断水へも対処し、体育館に避難している町民たちには温かい食事を用意してくれる。
「君たちも、どうぞ」
隊員の一人が三葉と克彦、早耶香に食事を勧めてくれた。克彦と早耶香は徹夜で隕石を見守る三葉のためにテントを用意してくれている。三葉たちはインスタントの食事も準備していたけれど、自衛隊が用意してくれた食事は豚汁と炊きたての白米で、とても美味しそうだった。
「ありがとうございます。でも、敷地内には入らないでくださいね」
「ははは、まいったな」
仲良くなって近づこうという作戦を、三葉に笑顔で見抜かれて隊員も笑って誤魔化したけれど、三葉が隕石を見守っているだけの時間を有意義に使おうと勉強していた防衛大学校の受験対策本を見て問う。
「それ、防大の? 君は防大を受けるのかい?」
「はい」
「女の子なのに防大かぁ……」
「いけませんか?」
「いや! いい、いいよ! ぜひ、どうぞ!」
会話のきっかけが生まれると、徹夜で見張る三葉と、徹夜で様子を見る隊員たちは夜明けまでに、すっかり仲良くなって起きてきた四葉へ、三葉が頼む。
「四葉、隊員さんたち、どうしても隕石のサンプルが欲しいって。でないと何日でも帰れないかもしれないって」
「はぁぁ……イケメンだから?」
「違うもん! 朝ご飯も、ごちそうになったし。町の人たちもお世話になってるし。欠片の一つくらい、よくない?」
「………ちょっと待ってて。探ってみる」
四葉は隕石に触れると、その一部を舐めたり吸ったりしてから、囁いた。
「ようこそ、地球へ」
それから隕石を抱きしめ、また色々なところを触って回ると、ごく一部に元来のティアマト彗星ではなく、ただの小惑星の欠片にすぎない岩石が付着しているのを見つけ、それを隊員に差し出した。
「どうぞ。大切に扱ってくださいね」
「き…君……素手で……放射線が…」
「このくらいなら私は大丈夫です」
四葉は隊員が持っている放射線防護措置がされた箱へ小惑星の欠片を入れ、素っ気なく背中を向けた。三葉は笑顔で言う。
「これで帰れますね」
「ああ、ありがとう。君も受験、頑張ってね。応援してる」
サンプル取得が目的だった4名の空挺隊員が撤退すると、他の隊員たちは純粋に災害復旧が任務だったので、もう隕石に近づこうとする者は無くなり、町の復旧を手伝ってくれる隊員たちと協力するうち、ますます三葉は自衛隊に憧れて、頑張る気になった。
副題「君の名は。今度こそ立花瀧でお願いします」
エピローグ
立花瀧は父親と二人で夕食を食べていた。淋しい父子家庭なのでテレビを見ながら食べている。ニュースが岐阜県を映していた。
「昨夜、岐阜県糸守町に落下した隕石はティアマト彗星から分裂したものであることが判明しました。住宅地を含めた地区に大規模な被害をもたらしたにもかかわらず奇跡的に死傷者はゼロという…」
今夜は残業が無く、買ってきたコロッケを食べていた父親がつぶやく。
「本当に落ちたな……あの子の言った通り……」
「………。………もう思い出したくない……言わないでよ。あんな頭のおかしい女……うわっ、テレビに映ってやがる……」
三葉が目元にモザイクがかかった状態でテレビに映っていた。
「敷地内に入らないでください! 撮影もご遠慮ください! この隕石は当社の御神体ですので!」
「宮水さんが落下を予言されたというのは本当ですかっ?!」
「取材は受けておりません! お引き取りください! あ、ちょっと! そこも、うちの敷地ですから入らないでください! 通報しますよ!」
「「…………」」
取材拒否している三葉を見ていても仕方ないので父親はチャンネルを変え、瀧は忘れることに努めた。
西暦3634年、キルヒアイスは50歳を過ぎて自宅に招いたヤン夫妻との茶話会を終え、見送っていた。
「また、来てください」
「はい、そうさせていただきます」
ささやかな茶話会ではあったけれど、両者ともに退役したものの要人ではあるので、そばにいたキスリングが目線で部下に命令してヤン夫妻を宇宙港まで送るよう伝えた。ヤンたちの姿が見えなくなると、オーベルシュタイン退役元帥が地上車で訪ねてきた。
「お久しぶりです。オーベルシュタインさん」
「はい。急な相談ごとにのっていただき、ありがとうございます」
「どうぞ、中へ」
二人で応接間に入ると、ヒルダとアンネローゼも茶器を用意し直して現れた。ヒルダを見てオーベルシュタインは鞄から新しい義眼を出した。
「まだ試作段階ですが、6万色の義眼アダプターへも接続可能な25万色の新義眼です。お試しください」
「ありがとうございます」
礼を言ったヒルダは新義眼を試してみた。
「まあ……すばらしいですわ。まったく自然に見えるくらい……」
「片眼義眼の奥様に、そう言っていただけると開発者も喜ぶでしょう。それに、お二人とも、これほどキレイな人だったのですね」
自身も新義眼を装着しているオーベルシュタインに今さら誉められると、今まで、どう見えていたのか、少し気になったけれど、それは問わないことにする。二人とも年相応に老けてはいるけれど、いまだ美しさと気品は保っていた。そして新義眼についてが本題ではないので、少し談笑してからオーベルシュタインは相談に入った。
「実は私ごとですが、結婚しようかと思っているのです」
「それは……おめでとうございます!」
「「…おめでとうございます!」」
三人とも意外だったし、年齢の問題もあるとわかっていたけれど、まずは祝辞を述べた。
「ですが、二つばかり問題があります。一つが解決しそうなので思い切って婚約したのですが……」
迷っている男へ、ヒルダが問う。
「まずは解決しそうな問題とは何でしょう?」
「私の遺伝子の問題です」
「「「………」」」
たしかに、それは大問題だった。オーベルシュタインが、どのような遺伝性の疾患で生まれつき両目が見えないのか、三人とも詳しくは知らないけれど、結婚に際して問題になることはわかるし、むしろ、この年齢まで結婚が遅れたことも当然だと同情した。もともと人を人とも思わぬ彼の若い頃の言動も、人が人に見えなかったのかもしれないし、恋や結婚という道も完全に諦めていたからかもしれない、とさえ想える。
「ですが、この問題は劣悪遺伝子排除方法が発明されたことで解決しそうなのです。これをご覧ください」
オーベルシュタインは新技術を説明するパンフレットを見せた。そこには微小粒子に指向性を与えるナノマシン技術と、超微小ワープ技術の組み合わせによるDNA再編纂技術の説明があり、故人であるシャフト博士と、いまだ天才医師の名を轟かせているルパートの写真があった。
このブリーフを装着すれば、睾丸内の劣悪遺伝子を確実に排除!
生まれつきの障害のある人も、婚期の遅れた人も安心!
シャフト粒子に使われている軍用技術を医療へ転用し、DNAを変換します。
今まで体外受精しか方法がないと諦めていた人に朗報!
ワープ技術の天才シャフト博士が残した理論をもとに、超微小ワープを行うことで体外から睾丸内の精子DNAをピンポイントに編纂!
さらにルパート医師がデザインした理想的なDNAへとコーディネイトされます。
ヒルダが不安になって問う。
「この技術は信用できるのですか?」
「すでに類人猿で成功しており、ほぼ実用段階です」
オーベルシュタインの説明に、キルヒアイスも頷いた。
「今日の平和があるのもシャフト氏の貢献が大きいですから大丈夫でしょう」
ゼッフル粒子に指向性を与えたことといい、巨大要塞のワープを成功させたことといい、シャフトへの評価はキルヒアイスの中でも高かったし、戦後社会でも戦争終結をもたらした天才技術者として賞賛されていた。
「では、今ひとつの問題とは何でしょうか?」
ヒルダが促すと、オーベルシュタインは迷いつつも語る。
「相手と、かなり年齢差があること。それに、知人の娘であることです」
「その知人とは?」
「ケスラー氏です」
「「「………」」」
ケスラーが、かなり歳の離れた若い娘と結婚したことは三人とも知っていた。その二人の娘となると、さらに若い。キルヒアイスが問う。
「おいくつの娘さんなのですか?」
「17歳です」
「……」
「ケスラー氏は反対されるでしょうな……」
オーベルシュタインが諦め気味に言うと、アンネローゼが告げる。
「結局のところ、お二人の気持ち次第です。年齢差など、気持ちのあるなしに比べれば、ささいな問題に過ぎませんよ」
「「「…………」」」
わずか15歳で皇妃となり、その相手が老齢のフリードリヒであったアンネローゼが言うと説得力が大きかった。オーベルシュタインが立ち上がり、一礼した。
「ありがとうございます。相談して、よかった」
決断した男を見送り、午後からは三人でオーディンの商店街へ出た。すでに帝国宰相の座から退いて15年近くが過ぎている。退職後の10年は、さすがに政治的な要人として扱われ、厳重な警護も受け、また政治的な判断について意見を求められることも多かったし、控えてはいたものの、判断を下す方が良いと思われることには忌憚なく意見を伝えていた。それでも10年を過ぎると、もともとは庶民に過ぎなかったキルヒアイスを宰相扱いすることは減り、政治的な判断もいまや議会がくだしていた。おかげで商店街へ出ても、キスリングたちが遠巻きに警護しているだけにすぎない。キルヒアイスはコーヒーを買ったついでに、キスリングの分も持って声をかけた。
「いつも、ありがとうございます」
「いえ、任務ですから。恐縮です」
辞退するのも失礼になるし、今まで何度も差入れを受けているのでキスリングはありがたくコーヒーに口をつけた。すでにキスリングも要人警護につくには年齢的に盛りを過ぎている。それでも着任しているのは、それだけ安全であるという事情もあった。二人が静かにコーヒーを味わっていると高級軍用車が近づいてきて駐まった。
「やあ、キルヒアイス閣下」
窓からノルデンが顔を見せている。
「もう閣下はよしてください。ノルデン名誉元帥閣下」
「ははは、お互い、いつまでも閣下よばわりされますな。お元気そうでなりよりです」
何一つ実権は無くなったけれど、一応は帝国軍の最高位職とされる名誉元帥の地位にあり続けるノルデンは機嫌良さそうに挨拶してくれた。
「では、メックリンガー画伯の美術館20周年記念パーティーがありますので。あ、キルヒアイス閣下も呼ばれたのでは?」
「もう、そういった場には、できるだけ出ないようにしようかと思っておりますので」
「そうですか、それは残念。また、そのうち遊びに行きますよ」
「ええ、どうぞ。私的な訪問は歓迎しております」
ノルデンへ手を振って別れると、キルヒアイスは二人の妻が仲良く商店街を歩いているので、キスリングと歩くことにした。街頭の三次元モニターが自由化された民間放送を流している。
「栄えある第一回シャフト平和賞を受賞されたホワン・ルイ氏です!」
三次元モニターに高齢の男が、よぼよぼと杖をついて現れたので、キスリングは思い出した。
「この受賞、閣下は辞退されたのですよね?」
「もう閣下はやめてください」
「すみません。つい。キルヒアイスさんは辞退されたとか?」
「あの財団はシャフト氏の遺産をもとにラング氏が理事長をされていますから、かなり旧帝国寄りの財団です。いっそ、第一回は同盟側である方が良いでしょうし。皇帝代行であった私に賞を与えるというのも鼎の軽重を問うようなものです。何より、これ以上の肩書きはほしくない。そういうことです」
「変わりませんね、あなたは」
キスリングが再びモニターを見上げた。
「ホワン・ルイ氏へ、ルビンスカヤちゃんとドミニクちゃんから花束の贈呈です」
「「………」」
二人とも思い出したくないことを思い出した。
「あのアイドルユニット、一見して17歳に見えますが、我々より年上のはずですよね」
「ええ。……それに片方は、もとは男性です」
「………」
「フェザーン占領時の条件が、ご子息の病院経営について広く自由を認めること、という内容でしたが、最近ではDNAへの編纂技術を駆使して、脳細胞以外は若返らせることに成功したそうです」
「………見た目は可愛らしいですが、こういった受賞の場に贈呈役とは………差別する気はないのですが、本当に17歳の少女が抜擢されるものではないのでしょうか」
「そうですね。あまり、いいウワサは聞かない。金銭での裏取引がある、と」
「そのあたりはフェザーンらしいやり方が変わらないのですね……見た目が少女でも………。たしか、ご子息のルパート医師は、もともとは第一志望であった政治経済系の大学に落ちて、第二志望だった医学部で才能を発揮したとか」
「人間、わずかなことで大きく人生が変わりますね。さきほど、ヤンさんとも話していたのですが、西暦1900年頃に現れた独裁者も第一志望であった美大が不合格であったことから政治方面で活躍するようになったと」
「独裁者ですか………とはいえ、技術の進歩で誰でも17歳の少女になれるようでは、かのルドルフ大帝が、退廃した銀河連邦の文化を憂いて、強制的に文化の方向性を決めたのも、わからなくもないですね」
「……たしかに……」
「それに、すっかり艦隊戦は旧時代のものになってしまいましたね」
「そうですね。シャフト氏が移動要塞の開発に成功してから、もはや戦艦は戦力たりえなくなり、ごく少数の海賊狩りに駆逐艦が製造される程度で、軍の主力は移動要塞が基本になったようですね。これもヤンさんが言っておられたのですが、弓から銃へ、歩兵から戦車へ、火薬から核兵器へと、兵器にイノベーションが起こったように旧来の艦隊戦が意味を成さなくなるのは歴史の常だと。そして、そういったイノベーションが起こる前夜には、旧来の軍人は自らが不要になる本能的な恐れから、新しい兵器を過小評価しがちだと。たしかに、当初は諸提督も巨大な移動要塞を無用の長物、巨艦巨砲主義の産物などと言い、私も半信半疑でしたが運用してみると、内部に工場もある移動要塞は補給線の心配も激減し、同盟政府への威圧効果も抜群で、さらには、これからの銀河未開発域への進出に最適なようですから。時代は変わったのでしょう」
「未開発域への探索に向けて新たに建造されるものをシャフト級というそうですが、その防御力の高さから、今まで危険宙域とされていた銀河腕へも向かえるそうで…あ、そろそろ、奥様方のところへ戻られた方がよさそうですよ」
キスリングはヒルダとアンネローゼが夕食の材料を決めるのに夫の意見を欲している目をしていたのでキルヒアイスを促した。キルヒアイスは妻たちに駆け寄ると、パンよりもライス、オニオンスープより東洋の味噌スープが食べたいと言ってメニューを決め、そのまま三人で街を歩いた。
「………」
不意にショーウィンドウへ飾られた赤いドレスが目に留まった。真紅のドレスはルビーを溶かしたような赤色で、赤毛と同じような色合いだった。どことなくデザインの感じがバルバロッサに似てもいる。
「……………」
「ジーク、それを着てみたいのね」
「っ…いえ、まさか!」
「フフ」
アンネローゼが微笑んでヒルダへ視線を送ると、ヒルダも微笑んだ。
「これだけ長く連れ添った夫が、どんな寝言をつぶやいているか、知らないとでも思うのかしら」
「ええ、寝ているときのジーク、とっても可愛いですよ」
「………」
「「まるで女の子みたいに」」
「………」
初めて妻の笑顔を怖いと、感じてしまった。
西暦2040年の2月、三葉は艦隊旗艦の司令官席に座っていた。
「宮水海将、中国軍のヘリが接近してきております」
「……立花です。私の名は立花三葉になりました。覚えてください」
「はっ! 失礼いたしました! 立花海将!」
艦橋の士官たちは護衛艦隊司令官の機嫌が、すこぶる悪いので緊張していた。もう結婚しないのだろうと周囲が思っていた44歳になって、ようやく結婚したけれど、結婚式の翌日に尖閣諸島で大規模な中国海軍の動きがあり、成田空港からハワイへと新婚旅行へ向かうのを取りやめて航海に出ているので、かなり機嫌が悪い。いつもは部下を優しく厳しく気遣ってくれる将官として定評のある女性自衛官だったけれど、念願の結婚式からの新婚旅行へ水を差されたので、一人の女性として相当に気分を害していた。
「中国軍ヘリ、さらに接近!」
「………」
今や三葉の麾下には横須賀所属の第1護衛隊群の艦艇があり、海将という階級は中将に相当しているけれど、今の日本には元帥や上級大将という階級が無く、海上自衛隊の中では、ほぼ頂点に近い位置にいた。その三葉の機嫌が悪いので艦橋にはピリピリとした空気が漂っている。
「さらに接近! 異常接近です! 距離100メートル!」
「………」
「宮み…立花海将、どうされますか?」
つい習慣で旧姓で呼んでしまいそうになった副長は慌てて言い直しつつ問うた。いつもは優しくても三葉が怒ると相当に怖いというのは防衛大学校時代から有名で、格闘戦の演習にかこつけて胸や尻を触ってきた上級生を骨が折れるように投げ飛ばしたというのが最初の武勇伝で以後、どうしても男性社会であるために大半の自衛官が生真面目であっても、たまにあるセクハラに対して、必ず白兵戦技で報復していた。おかげで任官してから3年で誰も三葉へセクハラしなくなったし、乱取りで三葉が瞬間的に見せる戦技テクニックは独特かつ先進的で一部の隊員からは宇宙CQCと呼ばれていたくらいで陸戦の教官へ推す声もあったけれど、艦隊勤務が志望だったので辞退している。艦隊勤務に就いても図上演習や模擬戦で見せる勘の良さと、作戦の合理性と緻密さ、外洋に出てロシア海軍や中国海軍の艦艇と近接したときの実戦経験でもあるかのような胆力と落ち着きは高く評価され、順調に出世を重ねてきている。一方でセクハラだけでなく顔とスタイルの良さもあって防衛大学校時代から交際を申し込まれることも多かったけれど、すべて丁寧に断っていて佐官まで出世した頃には、もう結婚しない主義の女性なのだと思われ、誰からも声をかけられなくなっていた。それが突然に妹から届いた婚活パーティーの誘いにのって休暇を取ったかと思えば、電撃的に結婚したので海上自衛隊だけでなく全隊で話題になるほど有名な話になっている。さらに運悪く新婚旅行へ出発する日に、中国海軍が尖閣諸島に出てきて臨時の演習を始めたので三葉の艦隊も監視と警戒に出ざるをえず休暇を切り上げているので機嫌が悪いことは誰もが理解しているし、同情もされていた。
「我が艦隊は進路を維持しなさい」
「はっ! 進路維持!」
「さらに接近! 距離50!」
「……」
もう中国海軍のヘリは艦橋から、お互いの顔が視認できるほど接近している。日本の艦隊司令官が女性であることを知っているからか、ヘリの搭乗員が手で何か下品なジェスチャーを送ってきているのが、わからなくもない。明らかに挑発行為だったので、艦橋にいる隊員たちも気分が悪い。米海軍と違い、三葉たちが先に発砲することがないのを見越していての危険な接近行為だった。三葉も美しい眉をひそめてから、つぶやいた。
「……ファイエル」
「は? 何かおっしゃいましたか?」
「っ……」
問われて三葉はハッと気づいて副長に命じる。
「副長! 私を殴れ!」
「な……なぜですか?」
「殴れ! 早くしなさい!」
「……。はっ」
鉄拳制裁の三葉は隊内で有名だった。部下が命にかかわるミスをすると、容赦なく殴り、殴った後にミスをさせた自分も殴れと言うので、パワハラとして問題になることは少なかったけれど、海将補に昇進したとき上層部から禁止されたので以後、自分を殴らせるだけになっていた。副長は女性の顔面を殴ることに抵抗を覚えつつも、言い出したらきかないことも知っているので殴った。
「よし。全艦へ通信する! 傍受されてもよい! そのまま流せ!」
三葉はマイクを握ると暗号化せずに麾下の全艦へ訓示する。
「旗艦に接近するヘリを腹立たしいと思うか? 思ってはならぬ! 喜べ!」
三葉の声は演習中の中国海軍まで流れていく。
「これが平和だ! 威嚇し合っているうちは上々! ひとたび戦火が始まれば、たとえ勝った方にも何割かの戦死者は出る! 無傷の勝利などない! こうして睨み合っているうちほど、幸せなことはない! 我々も彼らも誰一人欠けることなく家に帰れるのだ! 撃とうなどと思うな! 平和を守れ! 以上!」
マイクを置いた三葉へ隊員たちが敬礼している。接近していたヘリも、しばらくして離れていった。中国海軍は演習を終えると撤退し始め、呼応して三葉も艦隊に帰還を命じた。
瀧は専業主夫として入念に官舎の室内を掃除していた。塵一つ無いように拭き取り、シワ一つないようにベッドメイクして妻の帰りに備えている。
「これで完璧だよな……大丈夫だよな……」
夕食もバランスを考えたメニューで手作りしているし、風呂も用意している。
「………やっぱりミスがあったら殴られるのかな……でも、オレは部下じゃないし……対等なはず……」
結婚して数週間、妻は航海に出て不在だったけれど、同じ官舎に住んでいる専業主婦たちから自衛官の伴侶としての心得は色々と聞いていた。曰く、亭主元気で留守がいい、ただし帰還時はもてなすこと。他の会社員と違い、在宅している時間が短い分、そのときは妻としての役割を果たしているように見せないと、人によっては手をあげられることもある、と。逆に、不在時は安定した給料が入り続けながらも自由な時間が多い、とも。
「……オレの小遣い月5万って約束してくれたし……」
三葉とは登録制の婚活パーティーで出会った。男性登録無料ただし家事能力試験あり、女性登録有料かつ年収500万円以上という専業主夫を目指す男性と、それを求める女性が出会う登録サイトだった。
「やっと非正規雇用から永久就職に………」
今年で41歳になるけれど、大卒後から一度も正社員になれたことがなかった。いつもバイト君、派遣さんと呼ばれて、名で呼んでもらえる職場は無かった。最低賃金に近い時給で働くと、生活するだけで精一杯で自由に使えるお金は、ずっと無かった。
「……けど、暴力的な人だったら……また離婚………」
一度は結婚もした。高校時代から付き合っていた年上の女性と就職も決まらないままだったけれど、若さと勢い、そしてバイトしながら就活すればいいという気持ちで3年間の結婚生活を送った。一年目は平穏だったけれど、二年目から、いつまでも正社員になれないことをなじられるようになった。三年目で友人の藤井司と不倫しているのではないかと疑い、問いつめると平然と認めてタバコの煙を吹きかけられたので離婚した。
「結婚するまでは優しかったけど、結婚してから豹変する隊員もいるって聞いたし……」
三葉との結婚は出会いが専業主夫サイトなので男の職業と年収は問わないことになっているはずだった。けれど、やっぱり不安もある。婚活中も何度も嫌な思いをした。商社や証券会社勤務の女性たちから、見下したような目で見られた。婚活パーティーは男性が作った料理を味わってもらい、いかに家事能力があるか、育児も夫が主体になって妻の仕事を支えることをアピールする場で、もともと父子家庭だった瀧はそこそこの家事もできたので評価は低くなかったけれど、いくつか瀧からも条件を出していた。
「……三葉さん……タバコは吸わないって……」
一度目の結婚が離婚になったとき、タバコの煙が決定的に嫌いになった。タバコを吸う女と生活するくらいなら死んだ方がマシだと思うほど嫌いになった。けれど、高給取りの女性の喫煙率は意外なほど高くて、とくに夜勤の多い看護婦は全身からタバコの匂いがした。婚活パーティーの席上で瀧が出している喫煙NGの条件を見た彼女たちは冷ややかに瀧を見下した目で見た後、鼻で笑って去っていった。
「……小遣いは2万だったのに5万にしてくれたし……」
月の小遣いは2万円を呈示していたけれど、三葉は5万を約束してくれているし、カードもくれた。無職や非正規の男性ばかりが集まっている中だと、瀧は顔と家事能力と姑がいないこと、舅が元公務員で共済年金が潤沢にあり要介護状態になったら特養に入る気でいること、瀧は一人息子で煩わしい義兄弟姉妹との付き合いも無さそうなこと、バツイチだけれど子供がいないことで評価されたので人気もあって少し自信もできたし、軽く女性間で競争も生まれたので、一番高い小遣いを呈示してくれた三葉を選んでいる。
「けど、女性上位な感じの人だったら……嫌だな……」
タバコ以外に、もう一つ、瀧には女性にかかわる嫌な思い出があった。もう中学の頃の記憶なので相手の顔も名前も忘れてしまったけれど、ある日突然にやってきて可愛らしいお嬢様のような演技で瀧を騙して上がり込み、夜中になると襲ってきた女がいた。あのときから女性の汗臭さが苦手になったし、女性が上にのってくるのも嫌になった。それは一度目の結婚が破綻した一因にもなっている。女性が上にのってくると、男として反応できなくなってしまい、それもなじられた。
「……三葉さんは、オレのどこがよかったのかな……料理かな……」
料理は婚活前に特訓したので自信があるし、飲食店でのバイト経験もあった。
「あの人、オレのとこだけに来て……」
婚活パーティーなので次々と声をかけていくのが普通なのに、三葉は瀧だけが目的のように動かなかったし、料理も誉めてくれた。髪は三つ編みで公務員らしく化粧気は少なくて、伊達眼鏡をかけていた。かなり美人で結婚するのに苦労するとは思えなかったけれど、艦隊司令官だと聴いたのは結婚式の予約を入れた後だった。
「……いい人っぽいけど……何か隠してる感じも……」
成田空港まで来て緊急呼び出しのために新婚旅行へ行けなくなったときは、ぼろぼろと泣きながら謝ってくれたので、艦隊司令官といっても女の子なんだと想う部分もあったけれど、任務以外にも、どこか後ろめたそうな様子も感じられる。
「そろそろ時間だから…」
初めての帰宅を自衛官の伴侶らしく玄関で出迎えるために瀧が廊下に立つと、連絡があった時間通りに三葉が帰ってきた。海将としての制服を着ているので、とても風格があって身長以上に大きく感じる。
「ただいま戻りました」
つい長年の習慣で三葉が敬礼してしまうと、瀧も慌てて敬礼した。
「ぉ、おかえりなさいませ!」
瀧も背筋を伸ばして問う。
「お、お風呂されますか? お、お食事にされますか?」
「ありがとう。……うん、じゃあ、お風呂を先に…」
三葉は恥ずかしそうにした。瀧は女性が汗臭いのは苦手だということは婚前に聞いているので気をつけたいと思っているのに、艦隊勤務だと真水は貴重なので陸上ほど入浴も洗濯も自由にできない。衛生的にしていても、どうしても独特の匂いはあった。
「用意いたしております。どうぞ」
「ありがとう」
まだ夫婦としてのやり取りに二人とも慣れておらず、緊張のあまり将官と従卒のような会話をして、三葉は脱衣所に入ると、制服を脱いで裸になる。
「……いっしょに入るのは、まだ先かなぁ……」
喉元まで、誘いの言葉が出かかったけれど、四葉から積極的に誘うと27年前に襲ってきた女だと思い出されてしまうので注意するよう伝えられていて自重していた。
「しっかりキレイにしよう」
今までの人生で一番に念入りに身体を洗い、ムダ毛も処理して40代からの基礎化粧品で肌も整える。
「……大丈夫、まだまだ、いけてるよね、私…」
もう44歳だったけれど、三葉は自分の全裸を鏡で見つめて自信を保つ。自衛官としての訓練のおかげもあって無駄な脂肪は一切無いし、筋肉のおかげでスタイルもいい、そして何より宮水の巫女の特性なのか、25歳以降は子供を産まない限り、あまり老けないらしい。考えてみれば、一葉が二葉を生んだのも40歳の頃で当時としては、かなりの晩婚になる。そのときまで一葉も美貌を保っていたらしく、今の三葉も25歳だと言い張っても通用するかもしれないくらい美しかった。ただ、代わりに母のように二児をもうけると一気に残りの寿命が減るということも四葉から聴いている。その四葉は先月、いろいろと遺言をしてくれながら、17歳の長女と10歳の次女を残して逝ってしまった。祖母の一葉はとうに鬼籍へ入っているので、今は17歳と10歳の姪が新宮水神社を継いでいるけれど、母に似てしっかり者なので大丈夫そうだった。
「四葉……ちゃんと言われたとおりにするからね……見守っていて」
はいはい、と、どこかで言われたような気もする。三葉はパジャマを着ると、キッチンへ向かった。
「うわぁっ、美味しそう!」
少しだけイタリアン風の和食がテーブルに並んでいて、三葉は感動した。
「お口に合うと、いいのですが……どうぞ」
「ありがとう、いただきます!」
ワインを開けたいところだったけれど、新婚初夜で失敗したくないので呑まずに食べる。
「うん、美味しい!」
「よかった……」
瀧も安心して、穏やかな夕食の時間が流れ、二人で後片付けをしてから、瀧も入浴して、いよいよ夜を迎える。新婚旅行がおあずけになったので今夜こそが初夜だった。
「…………」
「…………」
お見合い結婚である二人は3回のデートで結婚を決めたので、まだ性行為は無く、三葉は瀧から、積極的な女性が苦手であることも聞いているし、四葉からも念押しされているので、恥ずかしそうにベッドへ座って待っている。
「…………」
「…………」
しばし沈黙があり、瀧が口を開いた。
「三葉さんはオレに隠してることとか、言っておくべきこと、とかある?」
「っ…」
ドキリとして心臓が飛び出そうになった。
「…な……無いよ…」
お願い、思い出さないで、あの夜のことは、どうか思い出さないで、と三葉は背筋に汗を流しつつ祈った。四葉から二人の性交前に思い出されると必ず結婚は破綻すると言われているので顔を伏せて誤魔化しを考える。
「……か…隠してる風に感じるのは……機密のことじゃないかな……任務のことは夫婦でも言えないの……ごめんなさい」
護衛艦の詳しい性能、ミサイルの飛距離、対処マニュアル、航海計画、言えないことは数多いというよりも、むしろ任務に関することが、ほぼすべて機密扱いなので、どの自衛官も伴侶にさえ来週の予定を言っていない。これが浮気疑惑につながり離婚した夫婦もいたりする。
「結婚前にも言いましたけど……いつ勤務があるかも、言えないの。ごめんなさい」
「それは……いいんだけどさ。じゃあ、オレの話、していい?」
「うん、どうぞ!」
夕食を経て、やっと将官と従卒から男女らしい会話になってきている。掃除や料理がなっていないと叱られて鉄拳をくらうのではないかと緊張していた瀧は安堵しつつあり、逆に初夜を前にして三葉は強く緊張してきている。これが、この世界で瀧と結ばれる最後のチャンスだということは予感していた。
「オレが就活に失敗して、ずっとロクな仕事に就けなかったこと。前の結婚相手は最初は、いいって言ってくれて励ましてもくれたんだ。けど、だんだんバカにするようになって……もう、オレは41だし、今からじゃ励ましてもらっても、どう言われても、まともな就職なんて無理だからさ。三葉さんとは結婚前にも約束したけど、本当にオレのことバカにしたり、見下したりしない?」
「しないよ! しないしない! ひどい奥さんだったね! だいたい日本の新卒一括採用ってシステムが間違ってるよ!」
「……ありがとう……信じるから……裏切らないでよ」
「瀧くん………」
三葉は傷ついた男の瞳を見て胸が痛くなった。大学卒業から18年間、ずっと非正規労働者として職場でも世間でも、異性からも妻からさえも、見下され冷遇されてきた男の悲哀が瞳の奥に結晶化して震えている。バカにされること、人間扱いされないこと、その苦しさと、男としてのプライドがあげる悲鳴、それらが瀧の瞳を落ち着かない、どこか怯えた精神病者のような目にしていて、さきほどの心のこもった温かい料理を作れる人が苦しんでいると思うと、三葉は抱きしめて慰めたくなった。けれど、女性から抱きつくことは今は戒めている。
「私はね、今の仕事、合ってるから定年まで続けたいの。子供ができても。だから、家事のうまい瀧くんと結婚できて幸せだよ」
「三葉さん……」
「正直、瀧くんにはバイトにも出ないでほしい。きっと航海に出たら、子供が熱を出しても帰って来れないし。災害派遣とかだと入学式も出られないから。ずっと、家にいてくれるお父さんがほしかったの」
「……」
瀧は働きに出る可能性がゼロに近いので安心した顔をしたけれど、まだ何か言うべきことがある顔をしていた。
「あと、…………あとでバレて離婚されるくらいなら、今、言っておくことがあるんだ」
「そうなんだ……どうぞ」
「……オレ……ちょっと変わった趣味があって……」
「へぇ、……どんな?」
「……………」
「気にせず言って。私、けっこう受け入れ範囲広いよ」
「………きっと、ドン引きすると思う……」
「覚悟して聴くよ」
「……………うん……じゃあ……実は……。ときどきだけど……」
「うん、ときどき?」
「………女の子の……水着を着たり………」
「あ~、そういう趣味。うん、最近よく聴くよね。ブラジャー着ける男の人もいるって。いいんじゃない? ときどきなら」
実は四葉から聴いていた三葉は驚かなかったけれど、瀧は後ろめたいのでオドオドとしながら言う。
「……そ……それも……小学生の女子が着るような……スクール系の……水着を……着てしまったり……ストレスが溜まると、そうやって発散して……」
「別に人に迷惑がかかるわけじゃないから、いいと思うよ」
妙な趣味に目覚めさせてしまったことのきっかけが妹にあることを知っているので三葉は笑顔で受け入れる。
「っていうかさ、私が自衛官の制服を着てるのも、ちょっと異性の服に憧れるみたいな部分もあるよね。着てみたいって気持ち、わかる、わかる」
「…………、あと、それだけじゃなくて……」
「うん、他には?」
「………女子高生の制服とかも着てみたり……」
「……………」
覚えてるんだ、魂に刻まれてるんだ、私と入れ替わったことも、どこかに残って、と三葉は抱きついて想い出してほしくなったけれど、別世界の記憶より中学時代の記憶を思い出されると嫌なので抱きつくのを我慢する。
「やっぱり、ドン引き……だろ?」
「ううん、平気! 毎日じゃないなら! その制服って盗んだりしたの?」
「ちゃんとネットオークションで買った物だよ」
「それならOKだよ。うん!」
どうせ着るなら他の女子の制服より自分の糸守高校の制服を着せたかったけれど、それを出してくると、中学時代のことを思い出されそうなので自重する。
「いいよ、いいよ、私は気にしないよ。ときどきならスクール水着を着ても、なんちゃって女子高生しても平気」
「………本当に?」
「うん、本当に」
「心の中で引いてない?」
「ぜんぜん!」
「………前の結婚相手は、すごくバカにしてきたんだ」
「前の奥さんにもカミングアウトしてたの?」
「いや……ある日、バレて」
「あ~…いきなりだと引く女性もいるかもね。どんな風にバレたの? 押し入れの掃除でもされて?」
「……ある日、……オレ、就職の面接に行くのが、途中で嫌になってマンションに戻ったんだ。どうせ、また落ちるって思うと、すごいストレスで……それで、そのストレスから解放されたくて……いつもみたいにスクール水着を着て……あとで制服も着ようと思って準備したりしてたら……ミキの部屋から気配が…あ、…ミキっていうのは……前の結婚相手……もう名前も思い出したくなかったけど……覚えてるんだな……オレ……」
「へぇ、ミキさんって言うんだ。まあ、どうでもいいよね、別れた人なんか」
遠い記憶で三葉はスカートを斬られた女子を思い出したけれど、気にしないでおく。
「それで?」
「あいつの部屋から気配がして……もしかして空き巣かと思ったけど、隠れてたのは、あいつとオレの男友達で………言ったよね? 前の結婚は不倫されて終わったって」
「うん……そっか、そんなタイミングでバレたんだ……」
痛い、痛すぎるよ、瀧くん、なんて可哀想なの、と三葉が脳内で女児スクール水着を着た20代の瀧が、妻と不倫相手に遭遇しているところを想像して同情していると、瀧は思い出し泣きした。
「…くっ…二人して……オレを蔑んだ目で……、あいつはタバコを吹きかけてくるし……司も、お前は高校時代から、そんなことを教室で叫んでたよなって、……オレ、昔、変な夢を見て……それからスクール水着に興味が……」
「瀧くん……」
はい、うちの四葉のせいです、ごめんなさい、かのルドルフも泥酔するほどショックを受けたってことらしいから、普通の男子高校生の精神力だと、変な方向性に目覚めるかもしれないよね、ごめん、ホントごめん、と三葉は謝りつつ、瀧の膝を撫でた。
「気にしなくていいよ。私は平気」
「っ……」
瀧は膝を撫でられてビクリとして身を引いた。
「ごめん……女の人から触られるのも苦手で…」
「………」
ごめんなさい、それ私のせいだよね、まだ少年だった君に、ひどいことして、トラウマになって、ホントごめん、逆の立場で考えたら私が14歳のときに知らない男子高校生が家に来て夜中に襲ってきて縛って無理矢理キスして跨ってきたら心に深い傷を負うよね、ホントごめん、と三葉は顔を伏せて心の中で謝った。瀧はポタポタと思い出し泣きの涙を零している。
「離婚のときも最悪だった……スクール水着を蔑まれて……準備してた女子の制服も見られて、あいつ嗤いながら着て見せろって……でないとスクール水着姿の写真をバラまくって……自分は不倫してたくせにオレが悪者みたいに……、ハァ…ハァ…制服を着たら着たで、あいつカッターナイフなんか出してきてオレのスカートをズタズタに……そんな写真も撮られて……言う通りにしたのに、司のスマフォから、みんなに写真をバラ撒きやがって…ハァ…ハァ…」
過去のトラウマを話している瀧は過呼吸気味になり、いつも持っているビニール袋を口元にあてて発作を抑えながら話していく。
「ハァ…ハァっ…それから即離婚だって言って、スクール水着の上からズタズタにされた制服を着たまま…ハァ…ハァ…外に引っ張り出されて……市役所に…ハァ…ハァ…離婚届を書かされて……けど、オレ……仕事も無いし……マンションも、あいつ名義で……オヤジも大卒後は一人で生きろって言ってたから……追い出されたら寝るとこも無いって、あいつに頼らざるをえなくて……不倫されたのにオレが土下座して…ハァ…ハァ…それでも離婚届を出されて、すぐ同じ階にあった生活保護課に蹴り込まれて…ハァっ…生活保護の申請書なんか書かされて……不倫してたくせに慰謝料も無しで……あんまりにも悔しくて…ハァ…情けなくて…ハァ…周りの人もオレを見て嗤ってるし……生活保護課の女性職員も事務的で冷たくて……すっごい頭痛がしてきて…ハァ…呼吸が苦しくて…ハァ…手足も痙攣してきて…ハァ…あいつ、さんざんオレを傷つけたくせに自殺されたら、うざいって……生活保護課の職員にオレのこと押しつけて…ハァ…司と行ってしまって…ハァ…オレ、目まいもするし……吐き気も……気がついたら精神病院に入院してて……すっごい鬱だって……それから何年も療養にかかって……やっと精神状態がマシになった頃には…もう30歳を過ぎてて……本当に、ロクな仕事がなくて……唯一の癒しが、自分を10歳の女子だと思い込んで水着を着たり……まだまだモラトリアムできる女子高生だと思い込んで過ごしたりすることで……生活保護を受けたり、脱却したりを繰り返して……ケースワーカーの人に専業主夫を目指さないかって……女装趣味OKな奥さんもいるかも……って…」
「……………」
黙って聴いていた三葉も同情の涙をポロポロと零した。その涙には女装趣味を蔑むところは一欠片もなくて、ただ気の毒な境遇に深く同情してくれているので少し安心した瀧はポケットから紐と女物の下着を出した。
「これを見て」
「っ…」
それを見て、再び三葉はドキリとする。紐と下着は三葉が高2だった頃に中2だった瀧を襲ったときに、いずれも置き忘れてしまったものだった。瀧と入れ替わった世界では理想的な置き土産にできたけれど、この世界では強制わいせつ犯の遺留品でしかない。思い出されることを恐れている三葉へ、瀧は静かに語る。
「制服だけじゃなくて、下着まで女の子のを使ったりするんだ」
「…そ…そうなんだ……へぇ…。下着とかもネットで買うの?」
三葉は話をそらそうとしたけれど、瀧は持っている下着を見つめる。
「うん、買ってる……けど、この下着だけは、よく覚えてないけど、もともとあったような気がして……っていうか、女装を始めたきっかけが、このパンツで……これを履いたことから、すべてが始まった気がする」
「…………」
そのパンツは女子高生だった私が、かなりヘビーローテーションに使ってたものだから、別の世界で瀧くんも私として何度もそれを履いたはず、その記憶もまた魂に刻まれてるのかも、と三葉は使い古されたパンツを見つめ、いっしょに瀧が持っている紐が切れているのに気づいた。
「その紐、切れて…」
「あ、うん、なんかキレイな紐だから、ずっと持ってたんだけど………今のオレが、あるのは、この紐のおかげなのかも」
「………」
それ私が瀧くんを縛るのに使ったから、もしかして縛られるのが好きになったとか、そんな性癖に目覚めさせてしまったのかな、それならそれで責任をとって付き合うよ、スク水の瀧くんでも、女子制服の瀧くんでも、縛って優しくしてあげる、キモいとか想ったりしない、むしろ、ごめん、君を縄で縛るのも、君の縄で縛られるのでも、どっちでも受け入れるよ、っていうか瀧くんに縛られる私もいいかもしれないし、瀧くんを縛るのも楽しそう、代わり番こにお互いの身体の自由を奪ってされるがまま、何をされても抵抗できない、そんなドキドキする関係、と三葉は夫が、どんな性癖をもっていても受け入れる覚悟と変な期待をしたけれど、瀧は紐の切れたところを見せる。
「ケースワーカーの人に専業主夫を目指さないかって言われた日の夜………オレ、首を吊ったんだ」
「っ…」
「まあ、こうして生きてるんだけどね……あの夜、死にたくなって……衝動的に手近にあった、この紐で………どうせ、死ぬなら、思いっきり情けない姿で死んでやるって、スク水を着て、制服も着て……」
「…………」
それだと死体を発見した人と警察は、かわいそうな性同一性障害者だと思ったんじゃないかな、今度生まれ変わるときは心も身体も女子がいい、女子として青春を送りたかったって想いながら首を吊った人かなって、と三葉は安アパートの一室で首を吊って死ぬ女装の中年男性の姿を想像した。
「死のうって覚悟して……椅子を蹴ったとき、もう古かったからかな、この紐が切れて……オレは死ななくて……。………生きてることとか、怖かったこと、これ以上ないほど情けないってこと、いろいろ頭ん中で爆発して朝まで泣いて……それで、もう吹っ切れて……もういいや、専業主夫でも、なんでもやってやるって……決めたんだ」
「そう……この紐が……瀧くんを助けてくれたんだね。……私たちを結んでくれた」
三葉は中ほどで途絶した紐を撫でた。
「オレは……女装趣味の変態で……無職で……死ぬこともできない……そんな情けない男なんだ」
瀧が告白を終えて、うなだれた。
「オレ……最低だな……やっぱり……三葉さんに相応しくないっていうか……あきれただろ。……あとあと離婚されるくらいなら……今……」
「瀧くん………」
スクール水着も、女子制服も、女性恐怖症も、全部、私たちのせいです、きっと就活の失敗と離婚も私が遠因、と三葉は土下座して謝りたくなったけれど、微笑むだけにした。
「本当に平気だよ。そういう趣味も人それぞれだよね」
「………軽蔑してない?」
「してないよ、本当に」
「……無職だし」
「それを軽蔑するようなら、あのサイトで婚活しないよね」
「………本当に、信じてもいい? ………途中で離婚されるくらいなら……今……言ってよ。もう裏切られるのは……たえられないから……」
「裏切らない。私を信じて」
「っ……三葉さん……」
仕事でも趣味でも結婚でも傷ついてきた男は高級公務員女性をまぶしそうに見ている。就職に失敗した瀧にとって公務員という存在は貴族にさえ感じる憧れの遠い世界の人なのに、今は目の前にいてくれるし、勇気を出して告白した女装趣味を引かずにいてくれた。けれど、それでも残留している男としてのプライドが疼いているのを、三葉は男性社会で仕事をしてきたので気づいていた。三葉に白兵戦技で負けた男性隊員の目と、瀧の目には共通する色合いがある。そんなとき、どうしてあげればいいか、三葉は女なので本能的にわかった。そっと三葉は女々しく目を伏せると、弱気な声で告げる。
「瀧くん………私も一つ告白しておくことがあるの」
「三葉さんに?」
「うん……きっと、ドン引きするよ」
「…言ってみて…」
「………私……この歳まで…………経験が無いの」
「……何の?」
思わず問うた瀧の鈍感さに三葉は顔を赤くして恥じらった。
「…き……決まってるでしょ……この状況で…」
「……もしかして……処女?」
「…………」
恥ずかしそうに三葉が黙って頷くと、瀧は下半身に滾るものを覚えた。女装はしても根本的には異性愛者なので女の子が好きだった。逆に三葉は本当に恥ずかしかった。処女も女子高生の頃なら誇れたけれど、今の年齢だと恥ずかしすぎる、けれど瀧以外とは考えていなかったので、ずっと温存してきたのだった。ヒルダやアンネローゼとの経験があるので童貞ではなかったけれど、この身体は確かに処女なはずだった。
「……瀧くんは……女の子から触られるの苦手なんだよね……私、……何もしないから……お願い………瀧くんから……して……ください」
真っ赤に恥じらいながら求める三葉を見て、瀧は男になった。
「……ああ……瀧くん……やっと……」
自分から何もせずに抱かれる受け身なセックスが、こんなに恥ずかしくて気持ちいいのかと、三葉は涙を流しながら処女を卒業する。
「……お母さん……四葉……お婆ちゃん……」
時空を超えて、三葉は祝福してもらったのを感じた。
Ende
あとがき
今回も長い二次作品になりましたが、お付き合いいただき、まことにありがとうございます。
またまた書いていて楽しかったです。
おかげで、いつかは応募しようと思っているオリジナル作品などが、ぜんぜん進みません。
けれど、ようやく三葉が幸せそうなエンドも書けて、自分でも良かったなぁと。
一葉さんも、そういえば、かなり晩婚なんですよね。いったい何があったのやら。
歴史の糸がいっぱいあるおかげで、時空を超えて黄昏時に皇帝ラインハルトと皇帝代行キルヒアイスが邂逅するシーンも書けたし、もう銀英プラス君名は完結です。
本当に意外なほど相性の良い2作品に、ありがとう、と言って、終わります。
ありがとうございました。