その劇場は、実を言えば因縁が有って、あまり来るつもりは無かったのだ。
だが、かたや妻の付き合いで、こなた現在の情人未満の顔を立てに、そこで観劇せざるおえなくなったのだ。
だが、そうしてやって来たその劇場で、事件が起こってしまった。それも、満場の観客が見ている舞台のすぐ側でだ。
ウォルフガング・ミッターマイヤーとオスカー・フォン・ロイエンタールとは、二人仲良く劇場内のラウンジでコーヒーを啜っていた。
チェック柄のネイビーカラーのジャケットがまるで新社会人のようなミッターマイヤーと、それしか着たことが無いようなタキシード姿のロイエンタールが、一つのテーブルで並んでコーヒーを啜る姿は妙にちぐはぐしていたが、二人は特に気にしていない。
彼らの背後では、不安そうな人々と、現場保持と調査で右往左往する憲兵と私服警官の姿がある。
「しかし、」
そう切り出したのはロイエンタールの方だった。
「どうした?」
「何、この劇場も気の毒な話だと思っただけだ」
親友の言葉に、まとめる努力だけはした蜂蜜色の金髪に指を入れて、ミッターマイヤーも小さく頷いた。
「そうだな、あの事件から半年ばかり経って、やっと客が来るようになった矢先だったそうなのに」
『あの事件』とは、以前この劇場の楽屋で起こった、私設秘書による脚本家殺人の事である。その場に居合わせた女優に容疑が掛かったものの、間接的に推理する事になった二人によって、真犯人が判ったと言うものである。
最も、その事実はほんの一握りの人間しか知らないのだが。
「何にせよ、早く帰らせて貰いたいものだ」
ロイエンタールの言葉に、ミッターマイヤーは灰色の瞳をそっと伏せた。
今日の演目は、古典を現代風にアレンジしたものだと言う話だった。
パンフレットと妻からの解説によると、母と叔父の姦計で父を殺され、自身も命を狙われた主人公が、婚約者を自殺に追い込み恩師も誤解から殺した挙句に、敵の二人を殺してしまうものの、実は総て父親の妄想から来た誤解だったと言う、『悲劇』なのだそうだ。要は『ハムレット』らしいが、落ちがひどくなっていると思ったのはミッタ―マイヤーだけの秘密である。
事件は、劇の中盤から終盤に掛けて、婚約者の葬儀中のシーンに起こった。
そこは、恩師でもある婚約者の父に、主人公が自分の亡父の遺品を突き付け、姦計の共犯か否かを問い質すシーンだった。
当然、妄想の産物の姦計なのだから恩師に答えられる筈も無く、逆上した主人公は彼を骨董品のリボルバーで撃って殺してしまうのだ。
そのシーンが終わり舞台が暗転した後、急に緞帳が降りて場内の照明が次々に点いた。
そして、ざわめく観客席に館内放送で『事故が発生した為、指示が出るまで動かないように』と言うアナウンスが流れたのだ。そして三〇分以上経ってやっと、緊急閉鎖のため全員退場するようにと放送が掛かり、観客達は憲兵に追い立てられるように場内からロビーに移された。
ロビーに出来た、臨時カウンターで氏名と住所を記録された観客は、一部抗議していた者もいたようだが、皆憲兵によってつまみ出されたようだ。
前評判の高かった劇ゆえに、かなりのブーイングが上がっていたが憲兵達に押し出されてしまったのだ。
二人は本当なら帰っているところだが、ミッターマイヤーは妻がまだ尋問中の友人――今日が初舞台だった女優である――に付き添っている為、ロイエンタールは親友に付き合っていたら、出演者の招待客であった事が知られて足止めを受けたのだ。
三杯目のコーヒーを空ける頃、憲兵総監となったウルリッヒ・ケスラーが二人の前に現れた。
「ケスラー、どうしてお前が?」
不思議そうなミッターマイヤーに、大柄な憲兵総監は眉をハの字にしてこう答えた。
「上級大将が二人、事件現場で雁首揃えていればな。対応できないと現場から泣きつかれたから、首検分を兼ねて来たんだ」
「あ……」
ケスラーの言葉に、ミッターマイヤーは納得した様子だが、優雅にカップをテーブルに戻した金銀妖瞳の貴公子は、同僚を不機嫌そうに見上げただけだった。
「で? 一体何が起こっているのか、報告を受けたのか?」
「ああ。ここではなんだ、別の場所に移って話すとしよう」
「待ってくれ、俺は妻と一緒に来ているんだ、悪いが離れる訳には」
ミッターマイヤーがそう言った、その時である。憲兵と劇場関係者らしい人間が、大挙して出口に向かうのが見えた。
どうやら、誰かを病院に運ぶらしい。
その人ごみの中に妻を見付け、ミッターマイヤーは思わず立ち上がった。
エヴァンゼリンの方も夫とその親友とに気付き、小走りでラウンジへと走り込んだ。
「エヴァ?」
「ああ貴方、ロイエンタール様、それからケスラー様も。ごめんなさい、ロジーが倒れてしまったの」
『ロジー』とは、妻の友人で、今回の劇で初舞台というロジーナ・キーンの愛称である。
ショーカットのブルネットと、大きな緑玉色の瞳が印象的な女性で、女優より看護婦か保母の方が似合うとミッターマイヤーは思っていた。
「ロジーさんが?」
「舞台のお稽古で根を詰めていたところに、せっかくの初舞台がこんな事になってしまって、しかも被害者が彼女の尊敬していた先輩だったものだから耐え切れなくなってしまったらしいの。私、彼女に付き添って病院に行くわ、貴方はどうします?」
「……俺は、ロイエンタールと飲むから大丈夫。朝方、着替えに戻るから、君の方こそ気を付けて」
軽く夫とキスを交わし、エヴァンゼリンは大急ぎで劇団員を追って行った。
その背中を見送ると、ミッターマイヤーはそこはかとなく所在なげなケスラーと、軽く肩を竦める親友とに向き直った。
三人が移ったのは、劇場に程近い小さな酒場だ。
どうやらケスラーはここの常連客らしく、軍服姿を見てもバーテンもボーイも特にうろたえもせず、ボックス席に酒とつまみの皿を運んで来た。
軽くグラスに口を付けると、ミッターマイヤーは促すように口を開いた。
「妻の話では、俳優に何かあった様だが?」
「……殺人事件だ。被害者は、ゾフィー・フォン・カネッティ。今夜の舞台で、主人公の母親を演じていた劇団の看板女優だ。一年間の病気療養からの、これが快気興行第一弾だったそうだが」
そう言うと、ケスラーは気不味げにロイエンタールを伺う。
当然と言うか、彼を招いていたのは被害者だった。
だが、ロイエンタールの方は軽く眉を顰めただけで、特に反応を示さなかったが。
状況はこうである。
あの、暗転して舞台の大道具の入れ替えが始められようとしたその時、急にフロイライン・カネッティが倒れたのだと言う。
一瞬、貧血を起こしたのかと思った周囲の目の前で、彼女は呼吸困難を起こし、そしてそのまま事切れたのだ。
その時、彼女の周囲にいた人間は四人で、そのうち同じ劇団の役者は三人、もう一人は劇場の職員だった。
一人は、劇団の団長でもあるシグムント・ドルスト。
被害者とは劇団創設以来の付き合いで、今夜の演目では、主人公に殺される恩師の役を演じていた。
もう一人は、この劇の主役を演じたクリスチアン・レッシング。
この劇団の若手ナンバーワンである。とある筋では、国立劇団から引き抜きの打診もあると言う。
そして三人目の劇団員が、先程病院に運ばれたロジーナ・キーンであった。
彼女はゾフィーの親族の経営する学校の卒業生である。在学中に引き抜かれて劇団員になった女性で、舞台では母親付きのメイドの役を演じていた。
因みに、最後の劇場職員はトマス・ヴァルサスという臨時雇いの少年である。
彼はたまたま、劇団員宛ての届け物を運んで来ていたらしい。
この中で、一番憲兵側が嫌疑を抱いているのは、その時ゾフィーにコーヒーを渡すべく側に近付いたロジーらしい。
それを聞いて、ミッターマイヤーが激しく眉を顰めた。
「いきなり無茶苦茶だな。死因も特定出来ない内に、いきなり犯人扱いか?」
「勿論、いきなり逮捕などと言う軽率な真似はしないよう言ってある。それに、今上げた他の三人も、一度は彼女に接している」
ドルストは彼女からタオルを手渡され、ヴァルサスは運んで来た荷物を渡し、そしてレッシングは、彼女からその荷物を受け取ったのだと言う。
「荷物? 何だ、それは」
ミッターマイヤーの問いに、端末から情報を引き出しながらケスラーが頭を掻く。
「ふむ、レッシング宛の薔薇の花束らしい。香りの良い、見事な赤い薔薇だったそうだが」
薔薇と聞いて、ミッターマイヤーは顎に指を当てた。
「薔薇か。そう言えば、前にエヴァとロジーが、薔薇の事で話していたような気がする」
「……ゾフィー・フォン・カネッティは、結構な薔薇フリークだったな。最も、『自分は《緑の指》を持っていないから』と、造花や雑貨を集めていたようだが」
そう言って、黙々と酒を飲む双色の瞳の親友をちらりと見ると、ミッターマイヤーは状況を確認するべくケスラーに向き直る。
「劇団内や被害者自身に、何か問題とかは無かったのか? 俺が妻から聞いた限り、ロジーは彼女に特に悪い感情など、持っていなかったと思うんだが」
「ああ、それも問題なのだ」
途方に暮れたように、ケスラーは下を向いた。
「あの劇団は、はっきり言って彼女が纏め役と言って良い。レッシングを見出したのも彼女だったし、脚本も彼女の手によるものだったそうだ。しかも、かなりの世話好きだったそうで、今は彼女曰く、『甘え方を知らない男の子の愚痴相手を勤めている』と言う事だったそうだが」
ケスラーの言葉と、ミッターマイヤーの無言の視線に、居心地悪げにロイエンタールはグラスを降ろす。
そこに、短いアラームがなった。病院からの検死報告が届いたのだ。
三人で、肩を寄せ合うようにして画面を見ているうちに、ロイエンタールは怪訝そうにこめかみを押さえた。
「この症状……、もしや『アナフラシキーショック』か?」
「アナフラシキーショック? 何か聞いた事があるな」
ミッターマイヤーが聞き返すと、小さく頷いてロイエンタールは簡単に説明する。
「詳しい仕組みは医学書に載っていると思うが、ある種の薬品や蜂毒などを長期間摂取していると、身体の中にある種の免疫抗体が出来る。だが、この抗体は厄介な事に抗原と結び付いて激しいアレルギー症状を起こすものがある。それを『アナフラシキーショック』と言うのだが」
それを聞いて、ミッターマイヤーは唐突にロイエンタールに向き直った。
ロイエンタールも、酷く不快なことに行き当たったように眉を顰め、ケスラーの方に視線を向ける。
「ロイエンタール、彼女、何の病気か聞いていたか?」
「ああ、一応な。ケスラー、今すぐ彼女の周囲で揉め事が無かったか、調べてみてくれ。……恐らくは、事故だと思うのだが」
「それは一体……」
怪訝そうな同僚に、二人は軽く視線を交わしてこう切り出した。
「確認とって見てくれ。彼女は、辺境で結核を患っている。恐らく、古めかしくもストレプトマイシンの大量投与と言う治療だった筈だ」
「後、薔薇の花を扱った店も。バクテリアの繁殖予防に、きっとストレプトマイシンが使われた筈だから」
そこまで聞いて、ケスラーにも事態が飲み込めた。
二人に一礼して席を立つと、そのまま端末を抱えて店を出て行った。
残された二人は、ぐったりとソファーに凭れ掛かった。
「なんて事だろう。彼女は好きな花の香りを楽しむ為に、花束を受け取ったんだろうに」
「人生、何があるか判らんさ。さあこれからと言う時に、足元に穴があるなんてよくある事さ」
悟ったような親友の言葉に、些かむっとした表情で向き直ったミッターマイヤーは、そのまま喉元まで出掛かった罵倒を飲み込んだ。
「どうした、ミッターマイヤー」
「ロイエンタール、泣いているのか?」
ミッターマイヤーに言われて、初めてロイエンタールは自分の右目から一筋、涙が零れている事に気が付いた。
翌朝、演劇ファンに復帰を祝福されたばかりの女優の死亡記事が、新聞の芸能欄を賑わせた。
その数週間後、様々な花に飾られた墓に、彼女の愛した薔薇の花束を抱えた一組の夫婦と若い女性、そして一人の高級軍人が訪れた事を、知る者はいない。