その晩、オーディンはそれまでの陽気が嘘のように冷え込んだ。
春先の薄い上着しか持っていなかった人々は、前を掻き合わせて家路を走った。
そんな、息が白く凍る晩、機材搬入の為に軍直轄の資材倉庫に向かっていた大型トラックを運転していた下士官と、助手席に座っていた少尉は、路上に蹲る人影に気付いた。
だが、資材を満載して重くなった車体は、法定速度内で走行していたものの彼を避ける事は出来なかった。
悲鳴を上げ、合成ゴムを焦がしながらのブレーキにも拘らず、蹲ったまま動こうとはしなかった男の引き連れた顔を二人は見ていた。
引き倒され、ずたぼろに引き摺られた男は、病院に運ばれる前に絶命していた。
死亡した男の名は、デートレフ・フォン・ハウプトマン。
トラックが向かっていた資材倉庫に勤務している――と、言うよりそこに籍を置いて遊び歩いている伯爵家の次男坊だった。
遺体から大量のアルコールが検出された為に、泥酔した上で路上に座り込んでいた為に起きた事故と結論付けられたが、ハウプトマン側の親族は納得しなかった。
但し、運転していた下士官はともかく、彼を庇う士官――この少尉は、ロイエンタール艦隊所属だった――にねじ込んで『金髪の小僧』まで話が行くのを嫌ったハウプトマン伯爵家は、憲兵側に金を積んで、徹底検証を申し込んだのだった。
それから数日後、暦は三月から四月に変わった。
仕事帰りに『海鷲』ゼー・アドラーを訪れたミッターマイヤーは、憲兵隊の制服を着た若い士官と話し込む同僚の姿に気がついた。
黒髪に、耳の近くに少し混じった白い髪と、立派な押し出しの体躯と言えば、辺境から戻って元帥府に入ったウルリッヒ・ケスラーに違いなかった。
「ああ、これはミッターマイヤー中将」
若い士官が立ち去った後、己を見ている蜂蜜色の髪の持ち主に気付いてケスラーは片手を上げた。
「何かあったのか?」
「いえ、大したものではないのですが。……そう言えば、ミッターマイヤー中将は推理物がお得意とか。少し力になってはいただけませんか?」
深刻にそう頼まれ、ミッターマイヤーは軽く眉を顰めながら話を聞く態度を作った。
あの士官が持って来たのは、例の数日前に起きたハウプトマン少尉の事件についてだった。
「憲兵側の報告を、親族側が断固として聞き入れないとかで。こちらに見落としがあるに違いないと、向こう側が遺体の精密な解剖結果を出して来たのですよ」
「解剖? 向こうは医者か何かなのか?」
貴族の医者など聞いた事がない。
そう言いたげなミッターマイヤーに、年上の新たな同僚は資料を端末に入れて、署名のところを見せた。
「ハウプトマン伯爵家は、帝国内シェア第三位のオーステルン製薬の会長ですよ。最も、ここ数年製品トラブルですっかり信用を落していますがね」
そう言えば、点滴薬に異物が混入していて、しかもそれが何処ぞの公爵の当主に使ってどうこうと言う騒ぎがあったのを思い出して、ミッターマイヤーは眉間の皺を深くした。
確かその時の病院は、オーステルン製薬から逆に責められて、閉鎖に追い込まれた筈である。
「……それで?」
「結論を言わせて貰うなら、結果は憲兵側のものと一緒です。ただ、憲兵の司法解剖では取り上げなかったものが一つ入っていて」
ケスラーがそう言った時である。
「何が取り上げられなかったと?」
極めて不機嫌な声が、ケスラーの話しを遮った。
声の主を振り返れば、剣呑な光を浮かべた金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の美丈夫が立っている。その身に纏った低気圧に、ケスラーは困ったように年下の同僚を見るが、ミッターマイヤーのほうは笑って自分の隣りを空けた。
そしてロイエンタールを座らせると、何事も無かったように目の前の同僚に向き直った。
ケスラーはまだ機嫌の傾いでいるもう一人の同僚を気にしつつ、端末に問題の箇所を呼び出し二人に見せた。
「被害者である、デートレフ・フォン・ハウプトマンの軍靴に、メタノールの付着した痕跡があったと」
「メタノール? ああ、メチルか」
メタノールとは、メチルアルコールの事で、無色ながら刺激臭がある可燃性の液体である。
燃料、用材、ホルマリンの原料として広く利用されているが、同時に有毒で、取り扱いには資格を要するものだ。
だが、あの倉庫にはそう言うものは置かれていなかった筈なのだが。
だがそれを聞いて、ロイエンタールが不愉快そうにこう告げた。
「ふん。どうやら殺人かも知れんな、その話」
「ロイエンタール、どう言う事だ?」
運ばれて来たグラスを取り上げると、ロイエンタールは低い声で、
「化学反応」
と言った。
「過冷却反応と言う奴だ。メタノールにドライアイスを混ぜると、マイナス七十七度の超低温液体が出来上がる。これを掛けられたら、軍靴が路面に凍り付くだろう。
それを剥がそうともがいている間に撥ねられたと、そう言う事では無いか?」
「だとすれば、犯人……は、少なくとも化学や劇薬物に詳しい人間と言う事だな」
「そうなるな、危険物や劇薬物取り扱いの資格を持つか、そう言うものに慣れている人間と言う事だ」
二人の言葉をメモに取ると、ケスラーは席を立った。
「感謝します。これで少しは進展するでしょう」
「「ああ、それなら良いが」」
意味合いは違うが、二人は同時に同じ言葉を返していた。
去り際、そう言えばと言いながら、ケスラーはメモ帳の前のページをさらった。
「三週間前の、エルウィン・シューベルトの件ですが、調査の途中で関わり合いのありそうな人物が見付かりました」
写真は無いのだがと前置きして、身を乗り出すミッターマイヤーに参考人の名を告げた。
「シューベルトの元婚約者で、ハンナ・ウィーラントと言う二十代の女性です。オーディン市内で小売店の店員をしています」
「元婚約者?」
「ええ、彼女が十代の頃に婚約したものの、二年前に彼女の実家が破産した為に解消したとか」
その言葉に、ミッターマイヤーは強く眉を顰め、ロイエンタールはあからさまに冷笑を浮かべた。
対照的な二人の表情にうろたえつつも、ケスラーはメモ帳を仕舞い込んだ。
「取り敢えず、今の段階ではこれだけですが」
「いや、教えてくれてありがとう、ケスラー中将」
三色の瞳に見送られて、憲兵上がりの提督は店を後にした。
「しかしあの事件、顔見知りの犯行と言う事になるな」
何時もの席に移って、ワインを口に運びながらミッターマイヤーがそう呟くと、美丈夫の親友は苦虫をつまみに酒を飲んでいるような顔を作った。
判じ物や推理物が嫌いと言う訳ではないが、人が持ち込んだ厄介事にこの最愛の親友がのめり込むのが嫌なのだ。
「そうか? まあ、あっと言う間に凍結するから、あまり時間は掛けられないとは思うが」
親友の言葉に、ミッターマイヤーは顎を擦りながら呟く。
「細工自体は急がないと……そう、人に気付かれないようにする必要があるけど、それを被害者に確実に当てる為には、すぐ側に立つのが一番だろう? ……この間の毒だってそうだ」
「飲み物のすり替えか? そう言えば、奴の横には誰もいなかったが、奴と背中合わせに座っていた奴がいたそうだが」
何時聞き出してきたのか、そう切り出したロイエンタールに向かってミッターマイヤーはそれだと言いたげにグラスを置いた。
「どう言う奴か判るのか?」
「ああ、俺やワーレン、ビッテンフェルトの同期の奴らしいが、俺は奴の事はよく覚えていない」
正確には、執拗に絡んできたビッテンフェルトと、クラスの副委員長(当然委員長職が当ったのはロイエンタールの方だ)だったワーレンくらいしか覚えていないだけだが。
「マルティン・ウィーラント。確か医療大尉とか言ったな」
「医療大尉? ああ、軍医と言う事か。……でも、軍医だからって、ハシリドコロが手に入れ易いって話は無いよな」
かつての地球では、普通に自生している劇毒植物だったが、宇宙時代の現在において、『ハシリドコロ』はあくまでも薬剤生成原料として栽培され、厳重に管理されているものである。(無論、あくまでも建前で、抜け道はあるのかもしれないが)
一介の、しかもあの作業に参加していた以上は平民であろう、ウィーラント大尉の手に入るものだろうか?
そこまで考えた時だった。
「ミッターマイヤー、話がある」
微妙に低音の響く声で声を掛けると、ビッテンフェルトは空いた席にどっかりと腰を降ろした。
あからさまに嫌そうに睨みつける、金銀妖瞳の同窓生には目もくれず、オレンジ色の髪の将官はミッターマイヤーに向き直った。
「どうした、ビッテンフェルト。何かあったのか?」
「ああ、ミッターマイヤー、俺ぁ嫌な事が判っちまったよ」
そう言ったビッテンフェルトは、何時になく落ち込んで見えた。