ナイトハルト・ミュラーが、元帥府の中庭で昏倒しているのが見付かったのは、年明けの五日、年始の休みが明けた午前中の事だ。
ショートカットしようと、書類を抱えて走っていたミッタ―マイヤー艦隊のカール・エドアルド・バイエルラインが、倒れ伏す彼に蹴躓いたのだ。
医師の診断によると、後頭部強打による脳震盪とこけた際の打撲に、バイエルラインが蹴り込んだ脇腹の痣だけですんだらしい。
部下からの知らせで、医務室にミュラーの副官を連れてやって来たウォルフガング・ミッターマイヤーは、手当てを受けて温かいコーヒーを受け取ったミュラーと対面した。
「すまなかったな、ミュラー」
「いえ、バイエルライン准将が通り掛らねば、小官はあのまま更に放置された可能性がありますから」
気温五度の屋外に一時間近く倒れていた所為か、少し掠れた声でミュラーは改めて礼を言い、上官の後ろに控えていたバイエルラインを恐縮させた。
「しかし、一体誰に襲われたと言うのだ? ミュラー」
蜂蜜色の髪の一年先輩の問いに、あたふたと世話する部下を宥めながら砂色の髪と瞳の年若い将官は、痛む首を庇うように目を伏せた。
「いえ、それが人が近付いた気配は無かったんです。本当に急に後ろから襲われて。ただ……」
「ただ?」
聞き返したミッターマイヤーに、ミュラーはうろ覚えなのだと前置きしてこう言った。
「ビッテンフェルト提督の声を聞いたような気がするのです、意識を失う寸前に」
「ふむ……ん? ちょっといいか、ミュラー」
彼が寝ていたベッドの、ピローカバーの上に落ちている粉に気付き、ミッターマイヤーは指に取った。白くて、微細な粒子には特に匂いも無い。
上官の手元を覗きながら、バイエルラインが首を捻る。
「打撲治療の薬品ではありませんか、閣下」
「いや、違うな……。取り敢えずミュラー、今日は大事をとって早退した方が良い。元帥閣下には、軍医から連絡が行っている筈だ」
「はい、キルヒアイス上級大将から連絡がありました。今日は午後から休んでよいと」
「ああ、こう言う事には理解のある方達だ。ゆっくり出来る間に治して置く事だ」
医務室から出ると、書類を抱えたバイエルラインを執務室に帰らせ、ミッターマイヤーは別方向に歩き出した。
彼が向かったのは、ミュラーが倒れていた中庭である。
ローエングラム元帥府の現在の建物は、実は正規のビルが出来るまでの仮住まいである。
今使っているのは、物好きな貴族の建てた別邸を帝室が徴収していたもので、コの字型の邸宅に庭を抱えた美しい建物ではあるが、実務的には無駄で不便な建造物である。
噂では、Lと言う貴族の嫌がらせらしいが、一時の仮住まいと言う事で、当の元帥は気にしていないらしい。
庭に出て見ると、石畳の通路と薔薇の生け垣が広がっている。
これを三階の窓から見ると、ちょっとした幾何学模様を造っているのだが、中央棟一階の扉から見ると裏門に通じる通路以外は、生け垣自体が一.八メートルもある立派な障害物で良く見えない。
ミュラーが倒れていたのは、ここから死角になる西棟と東棟を結ぶ直線通路のちょうど三分の一の場所だった。
東棟から、彼の執務室のある西棟に戻ろうとして、中央を過ぎたところで襲撃を受けたらしい。
恐らくは、肝心なものは一切写っていないだろう監視カメラの取り付け位置に額を押さえつつ、建物の中に戻ったミッターマイヤーを呼び止める声がする。
振り返ると、彼を探していたらしいオスカー・フォン・ロイエンタールの長身がこちらへと近付くところであった。
「何処に行っていた、ミッターマイヤー。執務室にいなかったようだが」
微妙な棘は、心配していた所為であろう。
判っているので、ミッターマイヤーは手短に事の次第を語って聞かせた。
中庭で、上級士官が襲撃されたと言う話には流石に眉を動かしたものの、それを調べていると言う親友に対して、ロイエンタールは金銀妖瞳を細めて渋い顔を作った。
「そう言う事は、警備の者に任せておけばどうだ、ミッターマイヤー」
「いや、どうにも気になってな。それに、凶器にはちょっと思い当たるものがあって」
そう言いながら、ロイエンタールを引き連れた形でミッターマイヤーが立ち止まったのは、とある艦隊の司令官の執務室前である。
ノックすると、扉一枚挟んだとは思えない声量で、
「どうぞっ」
と、言う声が返って来た。
扉を開くと、部屋の主がホクホク顔で二人を迎えた。
黒色槍騎兵艦隊《シュワルツランツェンレイター》司令官、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトは、執務机の上に置いた小さな電気コンロで、何やら焼いている真っ最中であった。
その周りには、木槌と小皿と、スティックシュガーとパック入りのソースらしいものが幾つか散乱している。
そして、叩き砕かれた白い塊があり、ビッテンフェルトは砕けた白い塊の幾つかを、焼き網を乗せたコンロの上で盛んに引っ繰り返しているところであった。
「何をしているのだ、卿は」
珍妙なものを見たと言う顔をしたロイエンタールの問いかけに、返った答えはあっさりとしたものだった。
「餅だ」
「もち?」
聞き返す親友の横で、ミッターマイヤーはやっぱりと言う顔をした。
「鏡餅だな。どうしたんだ、これ」
「おう、元帥閣下から拝領したものだ」
胸を張ってそう答えるビッテンフェルトの弁によると、かれこれ一時間ほど前に息抜きに中庭に出たところ、目の前にころころとこの鏡餅が転がってきたのだそうだ。
一体何処からと思案する間も無く、頭上から元帥閣下に呼び止められ、落したものだがよければ食べて欲しいと言われたと言うのだ。
「と、言う訳で、俺は昼飯としてありがたく餅を食っているのだ」
焦げ目からぷっくりと膨らんだ餅を、慌てて皿に取りながらそう言ったオレンジ色の髪の、元気な提督の部屋から出て二人は歩き出した。
「ミッターマイヤー」
「何だ?」
何やら納得がいかないと言う顔で、ロイエンタールは眉間を軽く摘まんだ。
「餅と言うものは、四角くなかったか?」
「そうじゃないよ、丸く作る丸餅と、平らに伸ばしてから切り分ける切り餅と、二通りあるんだ。前に卿に食べさせたのは、父方の祖母が送ってくれた切り餅で、奴が食べていたのは新年の装飾用の、大きく作った丸餅なんだ。
尤も、あの餅を割るのはもっと先なんだがなあ」
辺境暮らしの親族がいて、そこで帝国式とかけ離れた生活に馴染んでしまったミッターマイヤーはそう言うと、手早く食事を済ませるべく食堂へと向かった。
食堂に入るなり、二人を呼び止める声がする。振り返ると、ちょうど食事を終えたらしいアウグスト・ザムエル・ワーレンが近付いて来るところだった。
「遅いじゃないか、二人とも」
「ちょっとな。ところで、ミュラーの事は聞いたか?」
ミッターマイヤーの言葉に、ワーレンは赤銅色の髪を指で掻き混ぜながら頷いた。
「ああ、見えない襲撃者だそうだな。そう言えば、リュッケ少尉が変な事を言っていたな」
「変な事だと?」
聞き返すロイエンタールに、ワーレンは肩を竦めながら答える。
「中庭で、三階の窓から飛び出す白い円盤を見たそうだ。最も、一瞬だったそうだがな。ケンプの奴に絞られて、半泣きだったよ」
執務室に戻るワーレンを見送った後、席に着きながらミッターマイヤーは大きく嘆息した。
「多分、リュッケが見たのは誰かが投げた鏡餅だ。フリスビーや円盤投げの要領で投げられた餅が、たまたまミュラーの頭に当たった後、ビッテンフェルトの前まで転がったんだと思う。ミュラーの髪に、餅をくっ付けない為の澱粉粉が付いていたからな」
「確かに、加熱前の餅と言うものはやたらと硬い代物だったが、では、誰が投げたと言うのだ?」
二人は黙って互いの顔を見合わせると、そのまま黙って運ばれて来た食事に手を伸ばした。
その頃、ラインハルト・フォン・ローエングラムの執務室。
「私は、ものを、外に、投げませんっと。キルヒアイス、一〇〇回書けたぞ」
「ではラインハルト様、今度はこちらの用紙に、『私は二度と食べ物を粗末に致しません』と、一〇〇回書いてください」
ばさりと出されたレポート用紙に、華麗な美貌が下町の少年の如き表情を作る。
恨めしげに赤毛の親友を見上げるが、小姑と化す事を心に決めた親友は駄々を許さない。
「どうかなさいましたか、ラインハルト様」
にこやかな表情とは裏腹の圧迫感が怖い。
深く嘆息すると、ラインハルトは覚悟を決めてレポート用紙に手を伸ばした。
その向こう側には、元は二段重ねだったらしい鏡餅が一枚、裏白と橙とを載せて侘しげに鎮座していた。