帝国では、ゲルマン神話以外神話ではないとされている。
だが、世間には風潮に逆らう奴はいるもので、エッシェンバッハ伯爵はそう言う無法者《アウトロー》であった。
彼は北欧神話には目もくれず、ギリシャ神話の彫刻収拾に明け暮れている人物だった。
そのエッシェンバッハ伯爵の屋敷で、ダンスパーティが開かれた。
尤も、内実は彼が辺境で手に入れた彫刻の、お披露目パーティだったのだが。
こう言う事に極めて興味を持てない上司に代わって、パーティに出席したのがオスカー・フォン・ロイエンタールと、ウォルフガング・ミッターマイヤーである。
まあ、帝国騎士とは言え、美男子で金持ちであるロイエンタールに女性が群がり、ミッターマイヤーは壁の花に徹していたが。
元々、こう言う場所に縁が無いミッターマイヤーは、ぼーっと壁際に立って発泡ワインを舐めつつ、ダンスホールのそこここに並べられた彫刻を眺めていた。
辺境住まいの祖父から、情操教育として様々な物語を語り聞かせて貰った事もあり、そこら辺に並んでいる彫刻が何を現しているのかは、大体見当が付いた。
身体から若木の枝葉を生やした少女を抱き締める青年の像。
その横には、大きな牛に乗る少女像。
林檎を掲げる女性と、三人の女性の像は、林檎を持つ女性像の前に、不自然に大理石が抉れているところがある事から、本当はもう一人立っていたのかもしれない。
その更に横には、翼の生えた靴を履き、蛇の巻きついた杖を携えた少年像がある。
そして一番奥は、慈しむように少年を抱き抱える青年の像だった。
足元に、欠けているが円盤が置かれている事から、これがヒアシンスの花の故事を現している事に気付いた。
幾ら何でも、本当に地球で創られた物とは思えないが、なかなか美しい出来栄えの像が並べられている。
ふと気が付くと、ミッターマイヤーの横に小柄な白髪の老人が寄って来ていた。
「お若いの、女子《おなご》を誘って踊ってはどうかね?」
「いえ、小官は上官の代理人の護衛のようなものです。それに、小官は平民ですし」
そう笑ったミッターマイヤーは、気を取り直すように彫刻へと目をやった。
「立派な彫刻ですね」
「そうかの?」
「どんな人が創ったのかは知りませんけど、本当に素晴らしいと思います。でも、エリスの前にあっただろう、パリス像が無くなってるのが残念ですね」
そこまで言ってから、ミッターマイヤーは喋り過ぎたと思った。
ギリシャ神話なぞ、知らない者の方が圧倒的に多いのがオーディンなのだ。
だが、老人の方は目を丸くして、そしていきなり大笑いしながらミッターマイヤーの肩をどやしつけた。
「何と、お若いの。ギリシア神話を御存知か?! 何と何と、嬉しいのお、像を見て場面が判る人間がおると言うのは!」
そう言われて、今更のようにミッターマイヤーは、この老人がエッシェンバッハ伯爵であると悟った。
咄嗟に反応出来ないミッターマイヤーの手を掴み、エッシェンバッハ翁はかんらと笑った。
「ギリシャ神話が判るなら、もっと良い物がある。こっちに来るがいい、秘蔵の品があるんじゃ」
そう言って、老人はミッターマイヤーを引っ張って行った。
その背中を、憎々しげに睨む目があった事に、ミッターマイヤーは迂闊にも気付く事が出来なかった。
その日、結局ミッターマイヤーは伯爵のごり押しに負けて、伯爵邸の客間に泊まる事となった。
ロイエンタールの方はと言うと、当初は早々に帰るつもりだったのが、途中で姿の見えなくなった親友が道楽爺の相手をしていた事を知って、内心の暴風雨を押し隠して彼ミッターマイヤーと共に泊まる事を申し出た。
伯爵家側としても、同じローエングラム元帥の代理人、しかも寄りにもよって貴族号を持つ者を帰らせて平民を留めたと言うのは外聞に触ると、彼の滞在を許した。
尤も、そう言う事を気にしているのは、老エッシェンバッハの甥と孫達だけで、当の当主はミッターマイヤーを連れて、屋敷の地下に造った収蔵品の倉庫に篭ってしまった。
「どうじゃ、素晴らしかろう。残念ながら、今の帝立芸術家協会《ライヒス・キュンストラー・フェアアイン》とやらでは、ただの人物像として二束三文の価値しか付けられてはおらんがのう」
そう言ったエッシェンバッハ翁は、メデューサの首を掲げたペルセウス像に手を当てた。
周囲には、作者が違うらしい一〇〇体を越える大小様々な彫刻が、所狭しと並べられている。
「これらは、儂が見付けた彫刻家の作品なんじゃ。どうじゃ、生き生きと彫っておろう? たまたまモチーフがゲルマン神話でないと言うだけで、あれほどにけしょけしょに言わんでも良いと思うんじゃがのう。じゃが、何分権門の連中が一度けちを付けた芸術家には、あっと言う間に道が閉ざされてしまう。それが、今の帝国の芸術界じゃからなあ」
「古いものじゃあ、無いんですか?」
少し途惑ったようにミッターマイヤーが問うと、老人はからからと笑った。
「まあ、大広間のは、『一応』な。だが、儂ゃ文化振興とやらを狙っておっての」
その言葉に、表情を改めたミッターマイヤーに向かって、老エッシェンバッハは目を細めて言った。
それは、祖父が孫を見る目だった。
「もうすぐ、嵐が来るからのう。どうせ儂が死ねば、碌で無しどもが奪い合うだけの金じゃ、それなら生きとるうちに使い切ってやるわい。どうせ、その嵐で老木は倒れるんじゃしのぉ」
そう、かんらと笑う老人に、ミッターマイヤーはただ黙って後ろから着いて行く事しか出来なかった。
宛がわれた客間に入ると、ミッターマイヤーは足を止めた。
低気圧を身に纏ったロイエンタールが、ベッドに腰を降ろして待っていたからだ。
「今まで、徘徊老人に付き合っていたのか?」
その言葉に、カチンと来たミッターマイヤーの目がすっと細くなる。
「何処の誰から吹き込まれたかは知らないが、御老に対してそれは失礼だぞ、ロイエンタール」
「愚にも付かない石膏の固まり、それも無名の駄作家にばかり湯水のように金を注ぎ込む、極楽蜻蛉のぼけ老人。社交界では有名だぞ」
「……エッシェンバッハ伯爵は、権門貴族に蔑ないがしろにされている新進気鋭の作家達を支援なさっているんだ、それをそんな風に言うな」
「ほう、ものは言いようだな」
次の瞬間、一瞬でロイエンタールの鼻先に飛び込んだミッターマイヤーの拳が、彼の顔面へと繰り出される。
それを紙一重で受け止め、ロイエンタールは双色の瞳で、鋼色に変わった友の瞳を覗き込む。
「迂闊だぞ、ミッターマイヤー。此処の連中に、難癖を付けられる様な事をしてどうする?」
その言葉に、ミッターマイヤーは肩から力を抜いた。
「連中が凋落する事を、御老は判ってらっしゃるようだぞ? 『嵐の前に使い切ってやる』って仰ってた」
その言葉に、ロイエンタールも眉を上げた。
「そう言ったのか?」
「ああ。『文化振興』だって」
その言葉に、ロイエンタールは不思議なものを見る目をした。
翌朝、客間のある二階から降りて来たミッターマイヤーを、ざっと憲兵の集団が取り囲んだ。
呆気に捕らわれているミッターマイヤーを庇うように、ロイエンタールが前に出た。
「一体、これは何事だ? 我らがローエングラム元帥幕下の提督と知っての行動か!」
その一喝に、何処となく小役人めいた小隊長が、おどおどと応えた。
「はあ。しかし、ミッターマイヤー中将には、エッシェンバッハ伯爵殺害の容疑が掛かっておりまして」
「俺に?!」
ミッターマイヤーの声が跳ね上がると、それを待ち構えていたように三人の男女が現れた。
一人は、エッシェンバッハ伯爵の甥であるエーデン子爵、険の高そうな銀髪の女性が孫娘のカロリーネ、そして典型的な貴族の子供と言った感じの底意地の悪そうな目をした少年が、一応次期エッシェンバッハ伯のヨハン少年である。
三人を、目を丸くして見詰めるミッターマイヤーに、ヨハン少年が勇んでビニルに入れられた血染めのハンカチを突き出した。
それは、彼の妻がイニシャルを刺繍した素朴な木綿のハンカチで、夕べから探していたものだった。
「お爺様の死んでいた場所に落ちていたものだ! お前がお爺様を殺した時に落としたんだろう!」
その言葉に、呆気に捕らわれるミッターマイヤーを背中に庇い、ずぃっとロイエンタールが前に出る。
その押し出しに気圧され、ヨハン少年はじりっと後ろに下がった。
「ほう、それは夕べ、我が親友が探していたものだが。何処で拾ったか、それと老エッシェンバッハが何時亡くなられたのか、教えて貰おうか」
じろりと金銀妖瞳で睨まれ、憲兵隊のヴィッツレーベン少佐は小さくなって、まだ特定出来てはいないが、恐らく午前一時前後だろうと告げた。
それを聞くと、ふっと笑ってロイエンタールは顎で背後の友を示した。
「その時間帯なら、俺がミッターマイヤーのアリバイを証言してやろう。同じ部屋に泊まったのだからな」
「ふざけるなっ!」
そう叫んだのは、エーデン子爵である。
「お前が偽証していないと言う、証拠が何処にある! 第一爺様の死体の側に書かれていた言葉が示した場所に、このハンカチが落ちてたんだ! この平民士官以外に、こんな安物を持ち歩く人間がいるものかっ!」
子爵の言葉に、二人の表情がピシッと凍る。
ミッターマイヤーは、妻の真心を安物呼ばわりされて。
ロイエンタールは、無二の親友を士官呼ばわりされて。――ミッターマイヤーは将官である。
「と、取り敢えず、調書を取らせて戴きたく」
「その前に」
今にも泣き出しそうなヴィッツレーベン少佐に、ミッターマイヤーが声を掛ける。
「御老の亡くなられた場所を見せて欲しい。御老の書き残した文字とやらが見たいんだ」
声は優しいものの、鋼色の瞳には有無を言わせぬ迫力があった。
結果として、少佐は彼らを現場に案内するしかなかった。
エッシェンバッハ老が殺された場所は、あの地下の収蔵庫の中だった。
既に死体は、司法解剖の為に運び出されていたが、倒れていた辺りには、結構な血溜まりがまだ残っていた。
その、死体の右手の辺りに、確かに血文字で『エロス』と書かれているのが見て取れた。
「ここで見つけたんだ、そこに書いてある言葉でぴんと来た」
エーデン子爵は、勝ち誇ったように壁際の石膏像を指差した。
それは端正な青年に向かって、鏃の違う矢を二本持った羽根の付いた子供が弓を引く姿を表現していた。
だが、それを見てミッターマイヤーは眉を顰めた。
「どうしてそれだと思ったんです?」
「決まっているわ、『エロス』はアフロディテの使者で、羽根の生えた子供の姿をしているわ。だからこれがエロスの像に決まっているでしょう!」
カロリーネの言葉に、ミッターマイヤーはその像から三つ離れた、眠る女性の手を取る、有翼の青年像を指差した。
「残念だが、『エロス』の像は必ずしも子供の姿をしていない。この像も『エロス』像になる」
言葉が出ない三人に、何気無い風を装いロイエンタールはこう聞いた。
「ところで、エッシェンバッハ老は左利きだったかな?」
「右利きだよ。ちゃんとそれくらい確認して、血文字書いたもの」
「! ヨハン! この馬鹿!!」
カロリーネが殴っても、それは流石に遅かった。
「詳しいお話を聞かせて頂きたい。御同行を願います」
少佐のその言葉と共に、今度は三人が憲兵に取り囲まれた。
結局、意味の無い石膏像に金を注ぎ込む老エッシェンバッハを殺して、資産の山分けを狙った三人による犯行だった。
尤も、当の昔に遺言状が作られており、全資産は美術大学設立資金として総て寄贈される事にされており、貴族号も皇室に返還するようになっていた為、あの三人がやった事は無駄に自身に犯罪歴を付けただけに終わった。
後に、ローエングラム王朝となってから、このエッシェンバッハ美術大学の卒業生が画壇やデザイン部門で名を成して行くのだが、それはずっと未来の話である。
尚、その大学の名誉理事として、メックリンガーと共にミッターマイヤーの名が入っているのは、ごくごく一部の者しか知らない事である。