真夏の夜の怪奇録   作:ビッグフロント博士

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序章 夜明けの狼狽

時々、月の指す光がまるで自分の目を突き刺すかのように眩しく感じる時がある。そう、あの事件があった日もそんな夜だっただろうか。

 

 

じっと見ていると自分が吸い込まれそうになるほど真っ黒な夜に煌々と輝く月が美しく、戦列(ライヒ)のように規則正しく並ぶ高層ビルは磨きたての鏡のようにその月影を映していた。沿道を歩く者はその月を見てどう思うのだろうか。あるカップルは美しそうに眺めていた。ある会社帰りのセールスマンは、疲れきった目でその月をただぼんやりと見つめていた。

 

そして、ある男は必死に、ただ必死に前を向いて走り続けていた。まるで何かに追われているかのように。目は充血し、表情は恐怖に引き攣っている、まるで妖怪にでも出会ったかのように。すれ違う人たちは一人で走る男を不思議そうに見ていたが、しばらくすると気にせず普段の帰宅路をまた歩き始める。

 

男はまだ走り続けた。周りの人間に構ってる暇はないのだ。正直、邪魔。そう思ったのだろうか、男は沿道から路地に入って行った。近くの通行人たちの目には、まるで男が自ら死の世界へ潜り込むように闇の中へ消える、そう見えたに違いない。コンビニからいつもの週刊誌を買って帰る途中だった木村という青年も、同じように見えていた。

 

男は何も考えず走り続けた。自分を追う「何か」を振り切ろうとするかのように、一寸先も見えないほど暗い迷路のような路地の中を気力の限り走り続けた。だが、その男の命運も今尽きようとしていた。

 

巨漢の男にぶつかりそうになったのだろうか、男は突然足を止めた。そして、顔色が真っ青になった。目の前に聳え立つのは建物の影で真っ黒になった壁。行き止まりだったのだ。

 

男の心拍数は跳ね上がった。それは決して、かなりの距離を全力で走ったからではない。やってくるのだ、「何か」が。コツン…コツン…と静寂な狭い空間の中をゆっくりと、でも確実に、男の方へと近づいてきている。男は上着のポケットからスマホを取り出し、焦りながら誰かに電話をかけた。電話の呼び出し音さえも周りに響くほどこの空間は静かだった。その呼び出し音の中に足音が入り込み、男の鼓膜は不協和音のオーケストラでも聴いているようだった。

 

「出ろ…早く出ろっ…」

 

足音は近づく。

 

「お願いだ、早く出てくれ…!」

 

足音はもう目の前にまで来ている。男の手はガタガタと震え、体は硬直し、瞬きひとつする余裕は無くなっていた。そして男は叫んだ。

 

「なんで出ないんだよォォォォ!」

 

そう叫んだ途端、足音がピタリと止んだ。男は膝から崩れ落ち、顔を上げた。

 

男の視界には一人の黒いフードを被った人間が立っていた。顔は影になっていてよくわからない。黒いフードは、男を上から下までまじまじと見つめたあとにすっと腕を上げた。男は黒いフードに命乞いでもするかのように、

 

「ちょっ、ちょっと待ってください!待って!助けてください…!」

 

直後その空間に響き渡った悲鳴は、迷路のような路地中で反響しながら、大通りの喧騒なざわめきとエンジン音の中に溶けていった。

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