何一つ音のしない真夜中、木村は無我夢中で走っていた。空は月は無く、漆黒に包まれたように暗い、狭い直線の路地をただひたすら、木村は自分の出せる精一杯の力で走っていた。何故こんな事になったのだろう。全ての始まりは心の中のちっぽけな正義感からだった。
(あんな事をしなければ…)
木村の脳裏に教室の一場面が蘇り、同時に彼の心の中には強い後悔の念が渦巻いていた。
走りながら木村は後ろを振り返った。すぐ後ろは暗くて何も見えない。だが、確実にわかっている事がある。
誰かが、近づいてくる。自分は必死で走っているのに、明らかに歩く歩調の足音が近づいてくるのだ。もう木村は恐怖で前が見えない。死ぬ。追いかけてくる「誰か」に捕まった時、絶対自分は死ぬ、それはどうにもならない。木村は本能的にそう感じ取っていた。
ただひたすら追いつかれないことを祈るしか出来なかった。だが、無慈悲にも足音は少しづつ、確実に自分の方へ近づいてきた。
(もうダメだ…)
終わりなき疲労と絶望感そう思って足を止めようとした時、ゴツンと何かにぶつかった。木村の目の前には高い建物の壁が聳え立つ。その存在に気がついたと同時に、自分を追う足音が消えていた。木村は後ろを振り返ると、そこまで走ってきたはずの道が前方にある壁と瓜二つの壁に塞がれていた。木村は周りを見渡して初めて理解した。閉じ込められた、と。
しかし、音ひとつない閉鎖的空間は、それまで恐怖に駆り立てられていた木村の心を癒した。闇夜の空を見上げれば、それまで無かった月が煌々と輝き、自分を照らしている。
(なんて美しい月なんだろう。)
その美しさに木村は、自分が追われていることをすっかり忘れてしまっていた。その月をぼんやりと眺めていると、月の中央に黒い点が見えた。しかも、どんどん大きくなる。木村は目を凝視し、驚愕した。
大きくなってるのではない。その黒い点は、自分が今いる場所に向かって落ちてきているのだ。木村は驚きながらも立ち尽くすしかなかった。四方を塞がれどうしようもない状況で、彼は思わず目をつぶった。
しばらくの沈黙のあと、木村はゆっくりと目を開けた。自分に向かって落下しようとしていた黒い点は消えていた。あの黒点は一体なんだったのか、木村がそう思った瞬間、自分の足元に突如、黒いモヤが煙のように立ち上り、その中から二本の腕が自分の両足を掴んだ。驚きのあまり抵抗も何もできないまま、木村はその黒いモヤの中へ引きずり込まれた。真っ暗で何も見えない中、ひたすら足を掴まれ引きずり込まれる。ついに木村は意識を失い、視界が暗転した。
頭を殴るように鳴り響くベルの音が木村の耳な襲いかった。絶叫と共に飛び跳ねるように起きた木村は辺りを見渡した。
いつもの部屋だ。
それは、とても長く、気味の悪い夢だった。木村はその夢の内容がしつこく頭に残ることに不快感を覚えた。早く忘れたい夢ほど、人というのは不思議なもので、忘れることが出来ない。
床からは、下の階で朝食を作り終えた母が自分の名を呼んでいる。いつも通りの朝。これからいつも通りの一日がスタートするのだろうと、木村は思っていた。
この日から、「
学校の制服に着替え、下の階に降りた木村はいつも通りに朝食を食べていた。しかし、時折、フラッシュバックのようにあの夢が蘇る。木村は少しイラついた。その様子を見て母は、
「どうしたの?ナオキ。なんだか体調悪そうだけど。」
「別に、なんでもないよ。ちょっと変な夢見ただけ。」
「そう…無理しないでよ?もし何かあったらお母さんに…」
「そういう子供扱いするの、やめてくれよ!」
木村は、つい怒鳴ってしまった。そして、すぐに我に返り、
「…ごめん。」
申し訳なさそうに謝る木村に母は、
「私の方こそごめんなさい、ちょっとお節介過ぎたかしら。ほら、もう時間じゃない?お友達が待ってるわよ!」
「あ、ホントだ!行ってきます!」
そう言って急いで家を出る木村は、母の懐の深さに改めて感動していた。
母は窓から、いつも通学に使うバス停へ走っていく木村の背中を見ながら呟いた。
「ナオキ…先週から様子が変だわ…思春期なのかしら。」
木村は高校にバス通学をしている。そして、そのバス停は木村の先輩であり、親友である二人の待ち合わせ場所でもある。
木村の視界にバス停が映ると、その二人が自分のことを待っていた。
「遅れちゃってすいません、先輩!ハァ…ハァ…」
「遅せぇよ木村~、お前のせいでバス一本見逃すハメになっちまったじゃねーかよ~」
そう言って、ジリジリと陽の差す暑さに額をタオルで拭く、いかにもステロイドを使っていそうなこの男が、田所。木村より一つ先輩の高校二年生だ。クラスでは気さくで明るい性格から喋りやすいやつとして親しまれている。クラスメイトからのあだ名は、「おしゃべりうんち」。その性格と真っ黒に日焼けした肌からそう呼ばれているようだが、あだ名については彼自身、そこまで気にしてない。むしろ気に入っている。
その屈強なフィジカルで、体育で大活躍することから、学校の中で「野獣」の異名を持つ。ひょうきんな性格をしており、三人のムードメーカー的な存在だ。
実は遠野という彼女がいるらしい。
「木村が遅れてくるなんて珍しいじゃねぇかよォ〜」
「そうだな、いつもなら田所が遅れてきて、俺がシバいてるところだが。」
「なぁーんで木村はお咎めなしで、俺はシバかれるんすかね〜?」
田所が文句を言う横にいる丸坊主の男が、三浦。木村より二つ先輩の高校三年生だ。学校内の成績は常にトップクラス。冷静沈着な性格で、常に的確な事を言ってくれる、三人の中でもリーダー的な存在。去年の体育祭で、クラス対抗騎馬戦の総大将として出場した際、その見事な指示によって見事にクラスを優勝に導いたことから、周りから「智将」と言われるようになった。
語尾に時々「ゾ」が付く。
そんな彼にも弱点が存在する。某人気アニメに登場する、ポッチャマというキャラクターが好きすぎるのだ。これは、木村がまだ高校に入る前、田所と三浦がゲームセンターで遊んでた時、クレーンゲームの中に積み上げられていたポッチャマ人形を見た三浦が、口をあんぐりと開け、魂が抜けたかのようにそのポッチャマ人形を見つめていた事から発覚した。
余談だが、その時田所が恐る恐る三浦に声をかけると、
「ポッチャマ…(小声)」
としか喋らず、何度別の質問をしても同じ答えばかりが帰ってきて、いよいよ田所も怖くなりその場から逃げ出したという。
「あ、お前さ、木村さ、先週、お金渡して頼んだよな?」
「週刊コート364号ですね、ちゃんと買ってきましたよ。」
そう言って木村はショルダーバッグからコミックを取り出して、田所に渡した。
「コミックのラッピング剥がれてんぞ!さては読んだな?」
「すいません、どうしても気になってた話があったんで…」
「お前…コレ何回目だよォ~、 読みたい時は言ってくれたら読み終わった後渡すからよォ~頼むよォ~」
(田所先輩、一冊読み終わるのに二ヶ月かかるから、いちいち頼んでたら一生追いつかないよ…)
と、思いながらも木村は謝った。
「おい、さっさと本しまえ、バスが来たゾ。」
そう言って三浦が指さす先には、いつもの赤いバスが向かって来ている。
「一本送らせているからな、急ぐゾ。」
「うぃーっす。」
「分かりました。」
三人はバスに乗り、偶然他に乗客がいなかったので、一番奥の席に座ることにした。三人がバスに揺られて5分程経った頃、三浦が思い出したように言った。
「あ、そうだ。木村、先週の殺人事件、発生現場ってお前ん家の近くだったよな?」
「はい、そうですが何か。」
「『何か』じゃないゾ、俺たちは心配なんだゾ。犯人はまだ、見つかってないんダルルォ?」
「不安に思うことがあったら、俺たちに相談してホラホラ。」
木村は事件の当日の事と夢の事について話そうとしたが、二人に迷惑はかけられないと思い、
「ありがとうございます。でも、今のところ特に変わった事はありませんね。」
と言って濁した。
「物騒な世の中だから、身の回りには気をつけるんだゾ。」
三浦が心配そうに横目で木村を見る。すると、突然、バスが急ブレーキをかけた。三人が一斉に前のめりになる。
「おっぶぇ!ったく、急に道を横断するなってんだよ…」
つい運転手も口から文句が漏れた。バスのフロントガラス越しに一人、黒のレインコートに身を包んだ男が、横切る。その男の姿は、最後部の三人からでも確認出来た。
「夏にレインコート…?」
三浦が不思議そうに呟く。
「全身が…黒いッ…よほど日焼けするのが嫌いみたいっスね。」
「お前は
田所の小ボケにも三浦は丁寧にツッコミを入れる。
そんな中、木村はあの男になんとなく既視感を感じていた。今まで全く面識のない人物だが、なぜか自分はこの男を知っている。その事を木村自身が不思議に思っていた。その様子を見ていた三浦が、
「どうしたんだゾ?思いつめた顔をして…」
「え?いや…なんでもないですよ。」
「…木村、本当に俺たちに隠してる事無いかゾ?」
木村は黙り通すしかなかった。
いつも通りではない雰囲気の車内から見える外の景色はいつも通りの風景が流れている。