「でさ……あの時のまこったら……」
「はい、それでは30分、いや20分で駅まで……」
……雑踏の中は、とても、苦手。
白と灰色の地面を歩きながら、大勢の体をすり抜けて反対側へと渡り切る。華道のコンクールのためとはいえ……こんな街中まで一人で来たのは……初めてであった。
「あ」
背中に、大きな何かが……ぶつかりました。
そちらを流し見ると……携帯電話でお話をしたまま、走っていくじゃんぱーを着た大きな男性……。余所見を、していたのでしょうか、こちらには特に気が付くことなく行ってしまいました。
「……」
前を向いて、再び歩き出そうとしたときに、足元に、違和感が……
どうやら、履いていた下駄の鼻緒が……切れてしまったようでした。
じんわりと、背中に汗が浮かんでくる。
その場で屈みこんで、鼻緒をもう一度穴に挿してみましたが、ぷっつりと切れてしまって、どうしようも……
日差しが、熱い。
目の奥が、ぎゅっとなったように縮こまって痛い……。
昔からそうだった。
凛世(りんぜ)は、他の子たちとは、変わっているから……だから、誰も凛世の事など見ていない……。
だから、凛世は……誰にも見つけられない、気にかけられないのです。
落ちている石と、変わらない、居なくてもいい存在……。
「君、どうかしたのか?」
そんな時だった。
背の高いすーつ姿の殿方が、凛世と、すぐ同じ目線までしゃがみこむと、低いけれど、どこか優しそうな声をかけてくれたのは。
「……凛世、でしょうか……?下駄の鼻緒が……」
「あぁ、切れちゃったのか……ええと、ちょっとそれ、貸してくれないか」
そういうと彼はズボンのポケットから、自分のハンカチを取り出すと……突然その場で切り裂いた!
どうして……と思っていると、そのまま今度は、黒い小銭入れを取り出して5円玉を一つ……下駄の下から通すと、鼻緒と布を蝶々結びで……。
「はい……ちょっと不格好かもしれないけど、少し歩くくらいなら問題ないと思う」
そういって申し訳なさそうに笑う。
しかし、不格好だなんて、とんでもない。
今、凛世の下駄には、温かくて素敵な紺色のリボンが結ばれたような気がしました。
「ご親切、感謝いたします。ですが……貴方様のハンカチが……代わりの品をお返しにあがりますので……ご所在を、お教えください」
自分でも、過ぎたことをお願いしていると、そう思いました。けれど、この優しい殿方に、凛世は何か、何かお返しをしてあげたいと、生まれて初めて、心からそう感じてしまったのです。
私を見つけてくれた、この方に何か……
けれど彼は首を横に振って笑顔を見せる。
「ハンカチは返さなくていいよ、貰ってくれ。それより……」
そして、次には真剣な目をして凛世の肩を力強く掴むと……
「俺の……パートナーになってくれないか?」
「っ!!?」
意識が遠のくかと思いました……。自分が、少なからずこの方に惹かれ始めていたのは、事実。
ですが、まさか、凛世に「求婚」の申し出など……!
このようなまっすぐな「告白」の言葉を口にされては、凛世には、抗う術などあろうはずがありません……。
ぱーとなー……即ち、凛世が彼の……伴侶として……
「そ……君……ロ…………した……だ俺………高の舞台……れて…………せる……どうかな?」
「……」
ぼーっと、胸の中に、不思議な気持ちが、染み込んでいきます……ですが、彼が折角、凛世のために、必死に話しかけている。真剣に、お聞きしないと……。
「あ……すまん、急にこんなこと言われても困るよな……でも、ちょっとでも興味があったら、この名刺の事務所にきてほしい、待ってるから」
「こちらに、貴方さまが……」
彼から渡された白い一枚の紙。ここに彼が、そして凛世たちは……。
「必ずや、お伺いいたします。この凛世、不義理は、いたしません」
俺の担当アイドルが、全員合鍵を持っている件
「さて、彼に言われたのはこの事務所で間違いがない筈だけど……」
白瀬咲耶は名刺と目の前のビルとを改めて見直す。
街角の茶色い3階建て家屋。1階はペットショップやクリーニング店、靴屋と書店……どの店も特別賑わっているわけではないけれど、そこまで寂れているというわけでもない……目線をそのさらに上に向けると窓ガラスには白い文字で大きく「283(つばさ)」と書かれている。
ここにアナタが居る。
入るのに少し躊躇してしまうような正面入り口を抜けると、中は薄暗い階段と3階までしか行かないエレベーター。薄暗い階段を上り始めると2階に283プロの文字が見えてくる。詐欺ではなかったけれど、あまり大きな事務所でないことは確かなようだ。
「フフ……」
それでも不安に思うことはなかった。
なぜだろう。
きっとアナタとなら平気だと、そう思っているからかもしれない。
自分でもわからない何かを、アナタならきっと与えてくれる……そんな気がする。
階段を上り切ると意外に綺麗な茶色いドアが迎えてくれる。
扉の前に立つと肺の奥まで息を吸い込んで……吐き出して……ノックをしようと手をかざした……その時だった。
「おっと!?す、すみませ……あ!君は!」
ガチャリと偶然にも、反対側からドアを開けてくれたのはこの前私に愛のプロポーズをしてきた……いや、違う。
あれはきっと、彼なりのスカウトの言葉だったのだろう。
そう頭では理解していても、この胸の高鳴りは、焦燥感は?
何事にもあまり動じたことのない私であったが……今日ばかりはそうも言っていられないのかもしれない。
「こんにちは。今日はこの前のお話について私なりの答えを持ってきたのだけれど……」
「おぉ、本当かい!!あ、こんなところではなんだし、どうぞ上がってくれよ!」
「失礼します」
そういって扉を開けてくれているアナタに導かれるようにして事務所に入る。
と、早速目についたのはソファで眠っている猫の目隠しをした女性……。それを見たアナタはギョッと目を剥いて慌てて女性の事を揺さぶり起こす。
「は、はづきさん!起きてください!新しいアイドル候補生の子が来てくれてですね……」
「ふわぁ~……人が気持ちよく眠っているときに何ですかプロデューサーさん」
「だから、新しいアイドル候補生が来たんですよ!?それで、ここを使いたいので……」
「大丈夫、私なら気にしないよ」
「ほら、彼女もこういってることですし~」
「いやいや、でもですね!?」
「冗談ですよ。冗談。こんにちは。ようこそ283プロへ」
笑顔で私の事を歓迎してくれるはづきさん。
それに対して疲れた様子のプロデューサー。
たった数秒の出来事だったけれど彼らの関係性がわかったような気がする。
「えっと、まぁこんなところだが座ってくれよ」
「じゃあ、失礼して……」
彼に言われた通り、先ほどまではづきさんの寝て居た白いソファの上へと腰かける。
お尻の下がほのかに暖かい……。
この事務所の中は私の思い描いていたそれよりも随分と庶民的な、誰かの家のようなアットホームな雰囲気があった。
白いソファに大きなテレビ、奥には冷蔵庫にキッチンまで……事務所というよりまるで……。
「ここが気に入りましたか?」
そういって私の前にそっとコーヒーを出してくれたのは先ほどまで寝て居たはづきさんだ。耳元に掛かっていた髪をかき上げて微笑む姿はまるで別人のよう。
「えぇ、とても」
そう笑顔で返すと、彼女もまた目を細めて微笑んでくれた。
人によってはこの事務所のことを質素ととらえるかもしれないけれど、私はこの温かな雰囲気の空間がとても好みだった。
出してもらったコーヒーに口をつけようとしたとき、ちょうど、彼が社長室から出てきたようだった。
初めて会った時といい慌ただしい人だ。
「ごめんごめん。お待たせ」
私の斜め前の席に着くと、コーヒーが自分の前に置かれていないことに気が付きはづきさんの方を2度見する。しかし、彼女は既にパソコンで別の作業を始めたのかわかりやすく落ち込んだ後、改めて私の目を見る。撮影の時に私を見ていた、吸い込まれるようなまっすぐな瞳……。
そうだ、私はこの目に……
「それで、この前の話の答えなんだけど……聞かせてくれないか」
ここに来た時点で私の答えはすでに決まっていた。だけど
「その前に一つ、アナタに質問をしておきたいのだけれど……良いかな?」
「ああ、もちろん!」
「アナタは……私のどこを好きになったんだい?」
気に入った、とか、見込んだなんて言葉は使わない。
私の一生が欲しいのだろう?
だったら、どこに惚れ込んだのかくらい聞く権利はあるはずだ。それにそれがつまらない返答なら、私は……「全部だ」!?
「キミの全部が好きだ」
顔には火さえ灯ったような気がした!?
てっきり顔だとか、スタイルだとか、そういった言葉が返ってくると思っていたから……その間もアナタは言葉を続ける。
「咲耶を初めて見たとき、何て綺麗な子だろうと思った。けれど、すぐに綺麗なだけじゃなくカッコいいと思った。堂々としていて、自分の魅せ方を知っていて……引き込まれるような何かがあった。その時から、俺は君の全部に惹かれていたんだ」
先ほどまでのどこか頼りない雰囲気は消え失せて、真剣な表情でそう語る。
アナタの放つ情熱的な言葉一つ一つが頭の奥に焼き付いてくる……。上手く目線が合わせられないと思ったが、そんな私を逃すまいと、彼は更に顔を近づけて言葉を続ける。
「改めて言わせてくれ。どうか、俺のアイドルになってくれないか?」
まるで言葉に針金が通ってるんじゃないかと思うくらい、力強い彼の言葉。
それなら……私の答えは……
「あぁ……私は……アナタに私の一生を捧げると誓うよ」
「!本当か!ありがとう!!咲耶!!!」
ガンと、奥に席に居たはづきさんが机に頭をぶつけた音が聞こえてきた。
私の方はと言うと……なんでもないように微笑んで見せているが、身体が熱くて仕方がない……。
参ったな。
これから毎日こんな日が続くと思うと……心臓が一つでは足りないかもしれない。
「よし!な、なら気が変わる前に詳しい手続きを!いや、その前に社長に報告を……はづきさん!」
「はいはい、全くプロデューサーさんもバイト使いが荒いんですから……」
はづきさんに声をかけて社長室に駆け込む……と思ったら再びこちらに戻ってくるプロデューサー。続いて、私の両手を優しく包む。
「アイドルになってくれて、本当にありがとう!これから一緒に頑張って行こう!」
そういって歯をむき出しにして少年のように笑った。
胸の中がドキドキとしてはち切れそうだった。
アイドル、私にできるかはわからないけど彼と一緒ならどんな結果だってきっと……。
アナタそう言って私の手を離すと、そのまま再び走って社長室に飛び込んでいく。
本当に忙しない人だな、私のプロデューサーは……フフ。
ようやく出されたコーヒーに口をつけると、奥に座っていたはづきさんが私の前に再びやってくる。
「改めまして私はアルバイトの七草はづきです。これからよろしくお願いしますね」
「白瀬咲耶です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「ライバルは多いみたいですよ?」
「え?」
ぽつりと呟いたはづきさんの一言に首を傾げる。
まぁ、その言葉の意味は……すぐにわかるのだけれど、ね。
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「ふぅ」
パイプ椅子に腰かけてレッスンルームの少し明るい天井を見つめる。
あれから数日、色々とあったが無事に5人のアイドルを集めることができた。
一人目は幼馴染の桑山千雪。勤めている雑貨屋との兼務を条件に、アイドル活動を行ってくれるとのことだった。
彼女がそう言ってくれたのは嬉しいが、兼務となるとそのうち……
「おはよう、ございます……P君」
「おはよう、千雪」
と思考を巡らせていると本人が到着したようであった。パイプ椅子から立ち上がり落ち着きなくレッスンルームを見渡す彼女の方へと近づいていく。
「今日は動きやすい服は持ってきたか?」
「うん。ジャージを買って……でも、運動なんて久しぶりだし、心配で」
「大丈夫。今日はそこまで激しい運動はしないよ。前にも言ったけれど、無理はせず、千雪のペースでステップアップしていこう」
「はい!」
微笑む千雪は可愛いらしい。って、いかんいかん。自分のアイドルに向かって。っというより、こんな親し気な会話はあまり……。
「こほん、千雪、皆の前では、俺の事はプロデューサーと呼ぶように」
「プロデューサー……さんですか?」
「あぁ、仕事の時もそうだけど、あまり親し気に呼び合っていると勘違いをされてしまうかもしれないしな」
「あの、二人の時は……」
「……二人の時は、その、別に構わないけど」
「……はい!わかりました。プロデューサーさん」
また微笑む。少し残念そうにして。
何だか距離が出来てしまったような気がするがこれで良い。彼女と俺はあくまでアイドルとプロデューサー。そのことを忘れてはいけないのだ。
その後千雪を更衣室に案内している間に、また一人、レッスンルームに入って来ていたらしい。黒いドアを開けて中に入るなり、大きな声が聞こえてくる!
「おはようございます!!プロデューサー!!」
「おはよう。恋鐘……朝から元気いっぱいだな!」
「うん!うちはいつでも元気いっぱいたい!」
恋鐘がぐっと力んで見せると、ブルンとたわわに実った二つの果実が跳ねる。
明るい笑顔に、長い髪を大きなリボンでポニーテールにした姿が特徴的な少女の名前は月岡恋鐘(つきおかこがね)。
……俺が4人目にスカウトしたアイドル……。
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それはアイドルを探して街の中を練り歩いていたある夕方のことである。
公園でコーヒー缶を片手に一息ついていると、何やら落ち込んでいるらしい一人の少女がブランコに座っているのを見つけた。
放っておいても良かったのだが、楽しそうにサッカーをする子供たちや、雑談をする主婦と比べてその姿はあまりに異質で……
隣のブランコに腰かけると、意を決して声をかけることにした。
「えーっと、どうかしたのか?」
「……あ。えへへ、恥ずかしかとこ見せたばい」
目尻を拭って笑う彼女を見て、心がざわついた。
……話を聞いてみると、なんでもほかのアイドル事務所のオーディションに挑戦し、そして……ことごとく落ちてしまったらしい。
それでも、納得のいかなかった彼女は今回落ちた理由を直接オーディションを受けた事務所に問いただしに行ったらしいのだが……原因はどうやら彼女の長崎訛りが原因だったらしい。
彼女、月岡恋鐘はまだ上京して日が浅いために標準語が苦手で、喋ろうとすると緊張して歌やダンスが上手くいかないらしい。逆に、彼女の出身である長崎弁は審査員の人に顔を顰(しか)められ……もう自分でもどうすれば良いのかと悩んでいたみたいだった。
全てを話し終えた恋鐘はブランコから立ち上がると、お尻についた砂利をぱっぱと払いこちらへと振り向く。
『話しば聞いてくれてありがとう。うち、少し気が楽になったばい!』
『……これからどうするんだ?』
『アイドルになる夢は諦めとらんけん、またオーディション受くるつもり!』
『じゃあ……標準語を勉強するのか?』
『それも考えたばい。ばってん、やっぱりうち長崎ん良かところばそのままみんなに伝えたいけん!もっと、今以上に!がんばらんと!!』
彼女の中に再び闘志の火が宿る。すごい気迫だ。それに、あのキラキラとしたアイドルへの純粋な気持ち。絶対にあきらめないという鋼のようなメンタル……。彼女を見ていると、俺の闘志もかっかと燃えてくるようであった。
『なぁ、だったら……』
そして俺は……気が付けば彼女に名刺を差し出していた。
彼女はそれを受けとってくれた。
ただ、それだけの話である。
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いつのまにか、レッスン場の中には4人のアイドルが揃っていた。
千雪に恋鐘、咲耶に凛世……。時間は……もう予定時間を2分過ぎたか。
「よし、じゃあ、早速レッスンを始めるぞ」
立ち上がって、初めてのレッスンを行おうとする。思い思いにそれぞれと話をしていた皆の顔も自然と引き締まる。
結局来なかったか……最後の一人は。
最期の一人は……彼女しかいないと思ったんだが……仕方がない。
俺の顔が浮かないことに気が付いたのか、凛世が心配そうに声をかけてくれた。
「プロデューサーさま……どうかいたしましたでしょうか?お顔の色が、あまり……」
「ああ、いや、大丈夫だ、ありがとう凛世。じゃあ改めて……「わ、悪い!遅くなった!」……!?」
……来たか!5人目が!
はぁはぁと息を切らせながら扉を開けて入ってきたのは金色のショートヘアに、ワインレッドの瞳を持つ、孤高の狼のような少女……西城樹里。
俺が最後にスカウトしたアイドルである。