「はぁ~~、とても幸せです~」
くぐもった室内に響き渡る、可憐な少女の声。
……どうして。
「風情ある露天のお風呂もいいですけれど、やっぱり慣れたお風呂が一番ですね」
ちゃぷん。耳奥に燗のように焼き付けられる、艶やかな水の音。
どうして僕は女子寮の大浴場で。
「マスター、後でお背中をお流し致します」
凛とした声の悪魔の囁きとも取れる、魅惑の
なんでサクラとミサキとシオリと──彼女たちと、『
恍惚の表情のサクラ、ゆったりとリラックスしたシオリ、手をわきわきとさせて眼を輝かせるミサキ。
マスターがこんな天国(ある意味地獄)と言っても差し支えないような状況に至っているのには、少し
──ガチャリ。女子寮のリビング、帰るべき場所のドアを開ける。最初に視界に入った寛げる場所を見付けたマスターは、皺になるのも厭わず、スーツのまま倒れこむように音を立ててソファに座り込んだ。
今日は流石にハードだったなぁ……けれど、ドールズの皆の為ならと思えば、いくらでもこの身を動かせられる。皆に最高の仕事をしてもらえるように、僕が少しでも気の抜けない管理をしなければならない。とはいえ、此処は僕の居場所だ。とりあえず、今は。
「っっっふーーー……疲れたぁ……」
「お疲れ様です、マスター」
!!!???
「のわっ!?」
後ろから吐息と共に聞こえた優しい声に、しかしまさかの出来事にマスターはソファから転げ落ちた。
バクついた心臓を必死に抑えながら、何が起きたかをしっかりと考え直した。まてよ落ち着け、此処はピグマリオンなんて居ないDOLL HOUSEの女子寮だ……仕事を終えて、帰ってきたんだ。僕は生きている?心臓がこんなに跳ねているんだ、僕はまだ生きている……そうだとりあえず安心出来る所に帰ってきて、それで一息着こうとして、ソファの後ろから……!
カーペットの上で尻餅を着いた体勢からソファの方を見ると、其処には優しげな笑みを浮かべてソファの裏側からその身を覗かせたシオリの姿が。その姿に安堵して、なんだ、とマスターは胸に貯まり込んだ行き場の無い息を大きく吐いた。
「び、びっくりしたぁ……!もう、驚かせないでよ……」
「ふふ、ごめんなさい。そろそろ帰ってくると思って待ち伏せしちゃいました♪」
「待ち伏せって、なんでそんな──」
と言って、つい先程漏らしてしまった言葉に気が付いた。故意では無いが、普段から頑張っている彼女達の前で……
「「疲れた」……確かにお聞きしましたよ、マスター」
背後から聞こえる、静かに凛とした声。聞き紛うこともあるまい。
「えっ!?ミサキ!??」
マスターがさらにビックリして後ろを振り返ると、棚の裏側にその身を隠すようにして腕を組み、瞳を伏せたミサキの姿が。入口から見えなかったから気がつかなかったけれど、なんて所に隠れているんだ……!
「そ、その……」
ミサキは静かに瞳を開いて、揺るぎない眼差しでマスターを見据える。
「お疲れ様です。無理もありません……私達のマスターとしての業務、そして貴方はマネージャーでもある。その二つを一人でこなす、ならば疲れるのは必然の事です」
「で、でもそれは……皆だって……」
ザッ。ミサキがマスターの眼前に立つと、その片膝と拳を地に着け、頭を垂れた。宛ら、それは主に使える従者……侍のように。
「我がマスター。僭越ながら、今宵はこの私がお背中を流させていただきます」
……。
「は!??」
「私たち、の間違いですよ?」
スっ。座ったままのマスターの肩にシオリは手を置き、マスターの耳元で再び囁く。いや、ちょっとまって。なんか話が変な方向に飛躍しすぎてってない?
「あ、あの……二人とも……?」
「天知る地知る、私が居る……」
バァン!勢い良くリビングのドアが開けられ、部屋に入ってきたのは……なんと、サクラだ。その瞳をやる気でメラメラと燃やし、ビシっと敬礼の構えを取る。
「お風呂に入るというのは、体のお掃除……お掃除を私無しで語ってはダメです!!さあ、マスター!日頃の垢を一緒に落しましょう!!!」
「え」
えぇ……?訳もわからないまま、背中を押されて僕は脱衣所へ放り込まれる事になったのだった──
──湯浴着、よし。かけ湯、よし。覚悟……まったくよくないね???
出来る準備は出来る限りした、少なくとも彼女たちと湯船に入る以上はしっかりとした姿でなければならない。とはいえ、タオル一枚……うーん、水着にしてくれって言えば良かったな。渡されてはいはいと促されるままやっていたら気が付いたらこんな状況に。というか。
「なんで僕は断れなかったんだ……」
湯船につかり冷えた体を温めつつ、過ぎた事を何度も反復する。いいや落ち着け、此処は一先ずステイだ。焦るな、慌てるな。敵を知り己を知れば百戦危うからず。
なあに、普段から気楽に接している少女達と一緒の湯船に入る、ただそれだけじゃあないか。この前は初めての経験に少しばかりのぼせ過ぎただけ。言うなれば、あれは初陣……どんな兵であろうと、初めての戦場とは緊張する物。
僕だって伊達に皆の戦いを身近で見てきて、その修羅場を共に潜ってきた訳じゃ無い。そう、この僕には覚悟がある!皆を幸せに導くという使命が、誰にも負けないこの熱い心が──
「お待たせしました♪」
「マスターとこうして一緒の湯船に浸かれるのは、やはりいいものですね」
「あ……あまり、見ないでくださいね……?」
──バスタオルをその身に纏った三人を目の前に先程まで燃えていた覚悟とやらは風前の灯にも成れずに吹き飛んでいった。
現実という物は残酷である。彼が抱いた建前、決意、覚悟、見栄……あまりにも暴力的で魅力的なその御姿が瞳に入った瞬間、彼は一人前の頼れる大人ではなくただ萎縮して一人の少年にならざるを得ない。
マスターの浸かる両隣にそれぞれ座る彼女達。無言の方が気まずいと悟ったマスターは、とりあえず思った事を口に出す事しかできなかった。
「あのさ、皆は……その、恥ずかしくないの?男の人と、一緒のお風呂って……」
と言ってしまって、踏み込みすぎてそれはもっと気まずいだろう……!?僕のアホ……!!となけなしの択を自分で責めることになる。
サクラは顔を赤くして少し俯いた後、笑顔で答えてくれた。
「その、恥ずかしい……ですけれど、マスターとだからいいかなって……嬉しいんです」
……え……?
「この前皆で一緒に入ったときにマスターがのぼせてしまいましたから、今日はそうならないように楽しんで入りたくて」
「入浴とは即ち、命の洗濯──日々命懸けで戦っている私達とマスターは戦友です。マスターとこうして一緒のお風呂に入ることが出来て、嫌な訳が無いじゃないですか」
シオリはいつも通り朗らかで楽しそうに、ミサキは静かな表情を携えつつも唇の端っこで仄かに笑みを作り答えてくれた。
……なんて良い娘達なんだ……!なんか、僕が情けなくなってくる……!!
「うん……ありがとう……皆、ありがとう……!」
表情には出せないけれど、僕は今、心で泣いている……。これは、喜びの涙だ……皆の暖かさに、僕の心が共鳴をしているんだ……!!
「さあ、それではマスターがのぼせない内に体を洗わさせていただきましょうか」
「あ、え?本当にやるの?」
「そう言ったじゃないですか。さあ、椅子にお座りください」
「……あいも変わらず頭は堅い(ボソッ」
と気持ちを順順に切り替えていく暇無くミサキに促され、有無を言えず小言で文句を言いシャワーの前で椅子に座る。
「では、まずは私からお背中をお流し致しますね」
そしてマスターの背後に膝をついて立つシオリ。……今振り向くと凄そうだ。凄そう……だけれど、いや、だからこそ。僕は此処で振り向けない。
「ごしごし、ごしごし」
敢えて口でオノマトペを付け、石鹸で泡立てたタオルでシオリが僕の背中を丹念に洗ってくれている。癒しの声色と肌に滑るタオルの繊維の感触がとても気持ちよくて、また力加減がとても絶妙で……。
「お痒い所はございませんか?」
「うん、凄く気持ちいいよ」
「ふふふ、そうですか……ふっ」
いきなりシオリが耳に息を吹きかけてきた。
「~~~っっ!!???」
なっ、なんてことをするんだこの小悪魔さんは!!!落ち着いた心臓がまた破裂しそうに跳ねる。ぐ……っ、心臓に悪い……!け、っけれど……、すごく、すごかった……。
「さあ、スイッチですよ」
「漸く私の出番のようね」
次いでは、ミサキが手にシャンプーを付けてそれを擦り合わせ、泡立てた上でマスターの髪を滑らかに流していく。
「頭も洗うの……?」
「背中はシオリに取られましたからね。ご安心ください、幾ら泡だとうとこの私の眼はマスターの頭皮のツボをしっかりと抑えます」
「え、それって」
髪から頭皮へと滑り込み、ミサキの巧みで繊細な指がマスターの頭の表面を捉えていく。
「おおお!?」
「
あ、さっきの聞こえてたんだ。それは仕方がないとして、もはやシャンプーを超えた勢い。これはもうマッサージの域だ……いや、あまりの丁寧さに長すぎて泡が瞼に垂れてきて眼を開けられないんだけれどね。
「さて、仕上げッ!」
ミサキが椅子を回すと、一転マスターは壁から三人に顔を向ける形になる。
「さあて……えへへ、私の出番ですね!」
視えない。シャンプーで瞼が開けられないけれど、その声の主は分かる。妙にウキウキしてはいるが……サクラだ。少し、血の気が引いたのが自分で分かった。
「え、あの、もしかしてそういう事……?」
「モチロンです!体は隅々まで洗わないと!」
「ひゃうっ!?」
サクラの柔らかい手で腕を取られ、しっかりとタオルで腕を洗われて行く。普段自分が体を洗う感覚とは一切違う、未知の体験。
視覚に頼る事が出来ない(そもそもこの状況で目前を直視出来ない)ので、やむを得ずそれ以外の感覚に頼る事になる。……石鹸の良い匂い、胸板をタオルで擦られていく。視えずとも、確かに傍にいる君。
気が付けば、脳髄が痺れるような体験。待て、まずい!待て待て待て、平静をたも……あれ、ぼくはいまどこにいる……?ぼくはいまなにをしている……?
「ぷぁっ」
「きゃっ……あ、ま、マスター!?」
臨界点を遂に越え溜まりに溜まった血液は留まる場所を見つけられず、やむを得なく皮層の薄い箇所……鼻腔から、逃げ場として、鮮血として溢れ出した。
EXバトルシミュレーターよりも手強いマスターとドールズとの混浴リベンジ、またもや、失敗。
──花々に囲まれた庭園。上には青空とも夕焼けとも……はたまた星空とも取れるような美しく、そして摩訶不思議な世界が広がっている。
宙に浮かぶ断崖、何処からか流れている滝。少なくとも此処は東京では無い。そんな場所で、マスターはいつも通り眼を覚ました。
「……随分と楽しそうだったわね」
「いやはや、嬉しいのか辛かったのかよく分かんなかったよ」
灰色の髪に黒い髪飾り、ゆったりとした白いドレス……柔和な庭園の主はいつも通りにティーカップに紅茶を注ぎ、それを嗜んでいた。
また彼女に呼ばれた……?何でだろう。まあいいや。目の前のお皿に乗った美味しそうなアップルパイを取ろうとしたが、ひょいっと。マスターの手が宙を掴む。取ろうとしたアップルパイは、既に彼女が口にしていた。
サクサク、もぐもぐ。頬を少し膨らませ、彼女はそれを味わっているとは言い難く咀嚼する。
「えっと……あれ、怒ってる……?」
「さあ?知らないわ」
妙にツンとした雰囲気の彼女のご機嫌をどう取っていいか分からないまま、マスターは意識を取り戻すまでの時間を其処であたふたと過ごしていた……。