トワ殿って呼ばないで   作:Washi

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第14話 壊れた関係

 トワがムネノリに別れ話を切り出す少し前。まだ授業が終わっていないころのことだ。

 

 トワは授業中にハインリッヒに呼び出され、会議室まで案内された。なんでも、イズモからのお客さんがトワと話をしたいのだそうだ。

 

 おそらくは、ムネノリの関係者だと思った。トワと話がしたいということは、ムネノリとの関係を知っているということだろう。それを知る為には、ムネノリかシノから聞くしかない。一応ツバキという線も考えられるが、彼女はあまりそういうことを言いふらすイメージはない。

 

 結論から言うと、トワの予想自体はあっていた。しかし、そのお客さんは予想以上の身分の御方だった。

 

 

 

 

「お初にお目にかかる。拙者、イズモの王子のトキノリと申す。兄のムネノリが世話になっている」

 

 まさかのムネノリの弟だった。継承権第2位。紛れもなく、イズモからの最上級のVIPだった。

 

 トワは最大限の礼をもって挨拶を交わす。トキノリは楽にしてくれと仰ったが、ムネノリとはこの場にいる事情が違う。譲歩した上で、「トキノリ様」と呼ぶこととした。

 

 トキノリはいきなりは本題に入らず、最初は他愛のない世間話を振ってきた。学院でのムネノリやシノの様子のことだ。トワが正直に、ムネノリが学院生活を満喫していることを伝えると、とても嬉しそうにしていた。

 

 話題は移り、ムネノリとトワの関係についても言及される。やはりというべきか、シノを経由したムネノリからの報告で2人の関係については知っていたらしい。ムネノリの弟に知られていたという事実がこそばゆく、トワは照れ笑いを浮かべた。

 

「そうか、トワ殿と兄上はクロスベルにも行ったのか。拙者もここに来るときに列車から見たが、大きな街だった。ただ、西方の街はまだ慣れなくてな。どれもこれも同じように見えてしまう」

「きっと、わたしたちから見た東方の街のように映っておられるのですね。なんとなくですが、分かります」

 

 和やかに会話が弾む。しかし、わざわざ授業中に呼んだのだ。これだけの筈がない。

 

 実際、その通りだった。いよいよ、本題へと入る気配を感じる。トキノリは穏やかな顔を引っ込め、眼光鋭く真剣な顔を浮かべる。その目元は、ムネノリそっくりだった。トワも同様に居住まいを正して心の準備をした。

 

「……まず最初に断っておくが、これからする話はそなたが兄上の恋人だから伝えるということを理解してくれ。兄上はともかくとして、決して他言は無用だ。よいな?」

「はい、かしこまりました」

 

 トワは力強く頷く。出会って間もないトワが示せる、精一杯の誠意だ。一応それはトキノリに伝わったらしく、彼も頷きを返した。

 

「では、伝えよう。拙者が帝国まで来た理由を。そなたを呼んだ理由を。実はな……」

 

 順序立てて、トキノリは話し始める。最初は真剣な顔で聞いていたトワですら驚きを隠せないほどの衝撃的な内容が彼の口から語られる。

 

 王が毒殺されそうで、今にも戦争が起きそうだという、イズモの現状を。

 

 

 

 

「イズモで、そんなことが……」

「ああ。正直、今でも信じたくはない。だが、事実なのだ。そしてそうである以上、対策を講じなければならない」

 

 淀みのない受け答え。ムネノリと同じく、彼もまた王族なのだなあと実感する振る舞いだった。

 

 トキノリから聞かされた話は、帝国人のトワとしても他人事ではいられない内容だった。現在の帝国も共和国との対立や、革新派と貴族派の確執、《帝国解放戦線》の出現など、内憂外患とも言える問題が山積みだった。

 

「先ほど兄上とお話した。その結果、兄上はイズモに戻る決断をなされた。出立は4日後とのことだ」

「っ!? そう、ですか……」

 

 一瞬胸が強く弾むも、トワは努めて平静に言葉を返した。ムネノリが帰国する必要があることは、朧げながらも理解できたからだ。

 

「すまぬな。まだ1ヶ月経つかどうかという時期に、こんな話を持ち込んでしまって」

「い、いえ! お気になさらないでください! これが仕方がないということなのは、分かっておりますので」

「そうか、かたじけない……」

 

 トキノリは深々と頭を下げる。そんなことをさせてしまっているのが申し訳なくて、トワは慌てて顔を上げるようにお願いした。ムネノリに負けず劣らずの実直さだった。

 

「……実は、もう1つ伝えねばならぬことがある。いや、頼みがあるのだが……聞いてくれるか」

「……? はい、わたしにできることでしたら」

「ああ、そなたにしかできぬことだ」

 

 トキノリの瞳がトワをがっちりと捉える。相当重要な話らしい。それも話の流れから察するに、今のイズモに関わる重大な事柄。

 イズモは恋人のムネノリの故郷だ。加えて、トワは生来のお人好しでもある。

 自分がイズモの助けになれるならば、助力を惜しむつもりはない。トワはそんな、強い決意を秘めていた。

 

 ——だがまさか、その決意の源泉が揺るがされる一言が飛び出してくるとは、夢にも思わなかった。

 

「兄上を説得してほしいのだ。アヤメ・トクカワ殿との縁談を承諾するようにと」

「……?」

 

 ……たった今、なにを頼まれたのかをトワはすぐには理解できなかった。1秒、2秒と沈黙が続く。

 

 少しずつ、少しずつ、何秒もかけてゆっくりと言葉の意味を消化していく。

 

(えっと……つまり……ムネノリ君がアヤメさんという方と…………え?)

 

 胃が素手で握られたかのように締め付けられる。胃酸が逆流しそうな感覚を押さえ込みつつも、トワの頭は混乱の極地に達した。

 

 待て、落ち着こうと己に言い聞かせる。今、自身が頼まれたのはムネノリを説得することだ。説得の目的は、彼がアヤメという人との縁談を受け入れるようにすること。そして、その話をムネノリの恋人であるトワに持ちかけている。

 

 …………つまり、暗に……………別れろ……という、ことなのだろうか。

 

「あの……トキノリ様、それは……」

「トクカワ家はイズモ有数の名家でな。誰が敵になるかも分からない今、確実に信頼の置けて、かつ強い力を持っている家との結びつきを強めたいのだ。その為の縁談だ」

 

 震えた声で発せられたトワの問いかけを無視してトキノリは話を進める。その声は平坦で、和やかに会話をしていたときの彼の面影は微塵もなかった。その二面性に、トワは心の奥底が冷えるような感じがした。

 

「無理を申しているのは分かっているつもりだ。それを承知の上で、どうかお願いできないだろうか。この縁談に、イズモの今後が関わってくるのだ」

 

 それは……なんとなくだが、理解できる。これでも政治に関しては色々と勉強してきたつもりだ。力の強い家が1つでも明確に味方をしていると内外に知らせれば、それだけで抑止力になるし、場合によっては他にも味方になる家も出てくるかもしれない。

 

 しかし……やはり簡単には頷けなかった。ようやく両想いになり、交際を始めてまだ1ヶ月。しかもシノの監督のもと、自分なりに嫁入りの準備のようなものも進めていた。トワとて真剣なのだ。

 

「トキノリ様。その……わたしには、そんなこと……」

「——どうかお願い申し上げる!! なにとぞ、なにとぞ!!」

 

 消極的な否定の返事をしようとしたそのとき、トキノリはそれを先読みしていたかのように動き出す。なんと、彼は椅子から飛び降りるようにして床に正座し、土下座の姿勢をとったのだ。その姿勢に乱れは存在せず、全身から研ぎ澄まされた誠意が醸し出される。

 

「えっ!? あ、お待ちください! そんなことなされないでください!」

「いいや、止めぬ! 拙者の頭で気が済むのならば、いくらでも下げようぞ!」

 

 イズモでは土下座は最大級の謝罪や懇願の意を伝えるときに用いられるそうだ。その国の王子であるトキノリに土下座をさせてしまっているという状況に慌てふためいたトワは、彼の側に跪いてなんとかして止めさせようとする。

 

 しかし、止まらない。どれだけ宥めて止める気配がない。トワが承諾するまで、てこでも動かぬという決意がひしひしと伝わる。

 

「もし望むのであれば、全てが済んだあと、拙者は腹を召そう! それでいかがだろうか!?」

「ダメ! ダメです、そんなこと! そんな簡単に命を捨てようとなさらないでください!」

 

 それどころか、ますます発言がエスカレートするだけだった。なぜイズモの人間はそんな簡単に腹を切ろうとするのか。もっと命を大事にしてほしい。

 

 そう思っていたのだが、次にトキノリから飛び出した発言にハッとさせられることになる。

 

「イズモを守るには、どうしても、どうしてもアヤメ殿との結婚は必要なのだ! それくらい、家同士の縁というものが強力なのだ! 拙者の命でイズモが守れるのなら、喜んで差し出す所存!」

「っ……!?」

(違う……命を粗末に扱ってるんじゃないんだ。それくらいの覚悟がいる事態なんだ……)

 

 文字通り、命がけでイズモを守ろうとしているのだと理解する。トキノリの発言1つ1つに、尋常ならざる重みを感じる。これが、王族というものなのだろうか。同時に、彼がイズモを深く愛しているのだと分かった。

 トワが帝国を大事に思っているのと同じだ。あるいは、それ以上なのかもしれない。

 

 また、トキノリの命がけの姿勢から、ムネノリとアヤメの結婚が成立しなければイズモが滅ぶかもしれないということを強く実感した。少なくとも、国が大きく荒れてしまうことは間違いないだろう。トワの想像以上に、家のつながりがイズモでは尊ばれているのだと理解させられた。

 

 つまり、今のトワは1つの国の運命を左右する立場にいる。恋人を渡したい渡したくないどころの話では済まないのだ。両肩に重石を乗せられたかのようだった。

 

(わたしが身を引けば、イズモが守れる……)

 

 自分とて真剣だと思っていた。しかし、それがおままごとに見えてくるくらいには重大さのスケールが違った。

 もし、自身のわがままを突き通した末にイズモが滅んでしまったら。きっと、トワは一生自分を許せないだろう。決して、取り返しのつかない失敗となる。

 

(ムネノリ君……)

 

 好きな人の故郷を守る。代わりに、その人は自分以外の女性と結ばれる。その光景を想像すると、ズキリと胸が痛む。

 

 だけど、しょうがない。そうするしかない。ムネノリと別れることとて胸が張り裂けそうだが、自身の選択でイズモが滅ぶかもしれない恐怖と比べれば……なんてことは、ない。

 

「……分かり、ました」

「ッ!? 真か!?」

 

 トキノリが顔を上げる。トワは「はい……」と肯定する。

 

「放課後……わたしの方からムネ……殿下に別れを切り出します。そうすれば、殿下も観念するかと存じます」

 

 とうとう、同意してしまった。ムネノリとの関係を終わらせることに。ムネノリが他の女の人と結ばれることを認めることに。胸の中心に、刃物が刺さったかのような激痛が走る。

 

「よく、決断してくれた……! すまぬ、つらい選択をさせてしまって。この償いは、いずれ必ず……!!」

「いえ、気にされないで、ください……わたしはイズモと殿下が無事でいられれば、それ以上は望みません」

 

 真っ赤な嘘だ。だけど、そう言うしかない。今すぐにでも「やっぱり無理です!」と叫びたい衝動を強引に抑えつけ、精一杯の愛想笑いを浮かべる。

 

 これが、最善だ。個人の欲が、大多数の命より優先されることはあってはならない。正しい選択を、した筈だ。

 そう己に言い聞かせる続けるも、トワの心が晴れることは一向になかった。

 

 そして、トワは約束した通りに、放課後の生徒会室でムネノリに別れを告げるのであった。

 

 

 

 

「……では、まだ生徒会の仕事が残っているので失礼します」

 

 自失呆然とし、完全に沈黙してしまったムネノリの姿に筆舌に尽くしがたい罪悪感を覚えるも、トワはいくつかの書類を抱えて生徒会室を飛び出す。事実、仕事は存在するのだが、それ以上にムネノリの顔を見ているのがつらかった。あの場に留まっていたら、前言を撤回してしまいそうだった。

 

 学生会館を出て、早歩きでその場から離れようとする。

 

「——義姉上!」

 

 すたり、とトワの行く手を阻むような形でシノが立ち塞がる。その瞳に涙を浮かばせ、眉間にしわを寄せている。どうやら、先ほどのやりとりを聞いていたようだ。

 

「……もう義姉じゃないよ、シノちゃん」

「そんなことありません! 私にとっての義姉は、義姉上だけです!」

 

 シノがブンブンと首を横に振る。その度に涙が周囲に撒き散らされ、夕日を反射して儚く輝く。

 

 これが、トワの選択の結果。自身よりずっと年下の女の子を泣かせてしまった。大の為に、小を切り捨てたのだ。心が揺さぶられる。だが、決意までは揺らがなかった。

 

「……ありがとう。でもやっぱりダメだよ。そんなの、アヤメさんに失礼だもん」

「っ、それは……! ですが!」

「……今までありがとう。帝都に一緒に遊びに行ったとき、とても楽しかったよ」

 

 シノの横を通り抜ける。今度は……邪魔されなかった。

 

 その代わり、通り抜ける瞬間に微かに聞こえたシノのすすり泣く声が、いつまでも耳にこびりつくのであった。

 

 

 

 

 ムネノリが留学を切り上げるという話は次の日、HRを通して学院生たちに伝えられた。留学の中断の理由は、王である父が体調を崩されたから。大事はないが、念の為にイズモに戻るという形となった。

 

 だが、それは真実ではない。そして、その真実を知る者は極めて少数。学院長であるヴァンダイクにすら伝えられていない。それを知っているのは、HRで告知された時点ではトワだけだ。

 

 そして、その人数は少しばかり増えることになる。その日の昼休み、ムネノリはミリアムを除くⅦ組の全員と、トワの親友であるジョルジュとアンゼリカを旧校舎の広場に集めた。ミリアムは昨日編入したばかりなのと、情報局出身ゆえに信用ができなかった。見張りはシノに任せてある。

 

 ムネノリは全員集まったのを確認したあと、自身が帰国する本当の理由を語った。戦争の危機であること、イズモを纏める為に政略結婚を行うこと、そして……トワとの関係が壊れてしまったこと。全て包み隠さず話した。

 

 それは、トワに知られた以上はアンゼリカたちにも伝えるべきだという義務感でもあるし、単純に己の心の内を1度吐き出してしまいたかったという自分勝手によるものでもある。

 

 最初はこの場にトワがいないことを疑問に思っていた一同も、話を終えるころにはその理由を理解する。その反応は様々だった。

 ムネノリの痛みに共感するかのように沈痛な面持ちを浮かべる者、腕を組んで目を閉じたまま神妙に沈黙を保つ者、涙を浮かべる者。本当に様々だった。

 

 そんな中、最初に口火を切ったのはマキアスだった。彼は怒っているような、それでいて悲しんでいるようにも見える複雑な表情をしていた。

 

「君は、本当にこれでいいのか!? これでは、ハーシェル会長があんまりにも……!」

「……やめておけ。リンクを繋がずとも、今のムネノリの心境くらい貴様にも分かるだろう」

 

 マキアスが感情のままに叫び出しそうとしたのを制したのはユーシスだった。冷静に諭されたマキアスは言葉に詰まり、「……すまない」と萎んだ声を返すのであった。

 

 マキアスは昔、貴族関連のゴタゴタで姉のように慕っていた従兄弟を失った過去がある。帝都での実習の際、本人から聞いたことだ。もしかしたら、今の状況がそのときと重なっているのかもしれない。

 

「……でも、こんな終わり方はあんまりよ。なにか、方法はないの!? もっと穏便に済ませられる方法は……!」

 

 アリサが叫ぶ。Ⅶ組の女性陣の心情を代弁しているらしく、エマたちも小さく頷くことで同意を示してしていた。恋愛方面で陰ながらムネノリを支えたり、トワから根掘り葉掘り2人のことを聞き出したりと、彼女らもムネノリの痛みが理解できてしまうくらいに強く関わってしまっていた。

 

「しかし……国の一大事ともなると、やはり……いや、すまない。忘れてくれ」

 

 ガイウスが途中で口を閉ざす。クロスベルほどではないにしろ、帝国と共和国の狭間で揺れているノルドの出身の彼はイズモの事情を理解できるのだろう。

 

「その、アヤメさんだっけ? その人との結婚は、本当に必要なの? 僕には、その理由がいまいち分かりづらいというか……」

「まあ、必要だろうな。帝国で言えば四大名門のいずれかを革新派の味方につけるようなものだ。その影響力は計り知れん。加えて言えば、世継ぎの問題もある」

 

 貴族社会に精通しているユーシスがエリオットの問いに答える。おそらくは、そう遠くない内にムネノリは玉座を継ぐ。その際、世継ぎが生まれれば民は安心する。そのお相手がイズモ屈指の名家出身であればなおさらだ。

 

「……なあ、ムネノリ。今日、トワ会長とは話したのか」

「いや……声をかけようとしても通商会議や生徒会の仕事を理由に逃げられてしまうのだ。言葉遣いも、戻してくださらぬ」

 

 普段のムネノリであれば考えられぬ、消え入りそうな声。それが今の彼の心情を物語っていた。問いかけたリィンもそれに釣られるように顔を曇らせた。

 

「ま、オレたちにできることはなんもねーよ。少なくとも、ここであーだこーだ言ったってなんの解決にもならんだろ」

「クロウ先輩! それは、そうかもしれませんが……!」

 

 見方によっては冷たいともドライともとれるクロウの反応にリィンは苦言を漏らす。だが、クロウの言い分にも一理あるのも事実だった。

 

「トワはイズモとムネノリを天秤にかけて、断腸の思いでイズモを選んだんだ。そこら辺をちゃんと汲んでやるべきだろ。オレたちも、ムネノリも」

 

 1つの国の存続に関わるかもしれない重大な決断。軽々しく個人が立ち入るべきではない。そう、言いたいのだろう。

 

 それはムネノリを含めて、この場の全員が理解していたようだ。水の中に閉じ込められたような、重苦しい沈黙に包まれるのであった。

 

 ——だからこそ、だろう。誰も気づくことはなかった。途中でアンゼリカがその場から忽然と姿を消していたことに。

 

 

 

 

 トワは昼休みにも関わらず、なにも食べていなかった。実を言うと朝食も飛ばしている。食欲が微塵も湧かないのだ。今日口にしたものと言えば、水を1杯だけだ。

 

 その代わり、トワは生徒会の仕事を淡々とこなしていた。本来はまだ期限に余裕があるタスクにまで手を出し、自ら多忙な状況を作り上げていた。普段であっても忙しくしている彼女だが、今はその倍は働いていた。

 

 ……そうすれば、余計なことを考えずに済むから。自分の決断の正否を問わなくていいから。悲しい思いを仕事の山で覆い隠すことができるから。

 

 トワが勝手に仕事を増やしているだけなので、当然他の生徒会のメンバーはいない。生徒会室にいるのは彼女だけだった。

 

 そんな状況に変化が現れるのは昼休みがもうすぐ終わろうとし、そろそろ教室に戻ろうかと考えていたころのことだった。

 ノックもなしに、いきなり扉が開いたのだった。心臓の鼓動が乱れる。もし扉の前から現れたのがムネノリだった場合、逃げ場がないからだ。

 

「やあ、トワ。やっぱりここにいたね」

 

 現れたのはアンゼリカだった。どういうわけか、彼女はトワがここにいることが分かっていたらしい。とりあえず、予想していた人物でなかったことに安堵する。

 

「アンちゃん、どうしたの? もうすぐ、お昼休みも終わっちゃうけど……」

「いやなに、ちょっと走りたい気分でね。よかったらトワもどうだい? ちょうどサイドカーも完成したから、後ろで掴まっている必要もない」

「え、でも、このあとわたしは授業があるし……というか、アンちゃんもでしょ?」

「私はあの男と違って単位はちゃんと取っているからね。いつも通り、問題はないさ。トワは言うまでもないだろ?」

 

 確かに、トワは毎日しっかりと全ての授業に出席している。仮に今日、残りの授業を欠席したところで卒業には些かの影響もない。

 

 しかし、そもそもちゃんと出席しているのはトワが真面目な優等生だからだ。単位が問題ないからと言って、堂々とサボるような人間ではない。

 実際、トワの返答は消極的だった。

 

「でも……ちゃんと授業は出なくちゃだし……」

「ふふ、なんなら私に無理に連れ出されたとでも後で言えばいい。ほら、そんなつまらない書類仕事なんて放って置いて行こうじゃないか」

「あ……! ちょっと……!」

 

 アンゼリカに腕を掴まれ、無理やり生徒会室から引っ張り出されてしまった。つんのめりそうになりながらも、どうにかアンゼリカの歩調に合わせる。

 

 結局、精神的に不安定だったこともあって、トワは状況に流されるようにサイドカーに乗ってしまい、アンゼリカの運転で街道に繰り出してしまった。

 

 

 

 

「ふふ、どうだいトワ? 私の後ろからではなく、正面から風を受け止める心地は?」

「……うん、気持ちいいよ」

 

 バイクのエンジンが唸りを上げる。見渡しのよい街道の景色が絵本のページのようにパラパラと過ぎ去ってゆく。バイクが走ることで生まれる強風に煽られ、後ろで結んである髪がたなびく。

 

 今の天気は曇りだ。日光は出ていない。しかし真夏の為、気温はそれなりに高い。じっとしてても少しずつ汗ばむ程度には暑い。それゆえ、体を駆け抜ける風はとても気持ちがよかった。その気持ちに嘘偽りはない。

 

 だが、その一方で完全には気が晴れないのも事実だった。心の奥にしこりが残っているかのように、どこか居心地の悪さを感じていた。

 

「ああ、トワと2人きりでツーリングとは、なんて幸せな時間なんだ。このまま帝都まで行ってしまおうか。久しぶりに新しい服でも見繕ってあげよう」

「ダメだよ、アンちゃん。せめて、次の授業までには戻らないと」

 

 アンゼリカの提案を間髪入れずに却下する。現在進行形で行われている授業はサボってしまったものの、やはり授業は受けないとダメである。少なくとも、トワはそう考えていた。

 

「どうしてもダメかい? 別に、今日くらい……」

「絶対にダメ! もうすぐ自由行動日なんだから、行くならそのとき……っ!」

 

 そこまで言って思い出す。ムネノリの出立の日が自由行動日である22日であったことに。思わぬ形でムネノリとのことを思い出してしまい、言葉に詰まってしまった。

 

「……そうだね。確か、もう少し先に休めそうな大きな木があった筈だ。そこで休憩したら、戻ろうか」

 

 トワが不自然に言葉を止めたことでなにか気を遣わせてしまったのだろう。アンゼリカはあっさりと方針の変更に応じてくれた。ここで追及してこなかったことに、密かに安心する。もっとも、仮に問い詰められたところで上手く説明できる気がしなかったが。

 

 アンゼリカが言っていた通り、しばらく走ると一際大きな木が見えてきた。その周辺は開けており、腰を下ろして一息つくにはちょうどよい場所だった。

 

 バイクの速度が徐々に緩んでいく。サイドカーが付くと重量が増すせいか、減速のタイミングは以前より早かった。

 

 大木の近くにバイクを停め、2人並んで根元に座り込む。相変わらず空模様はどんよりとしていたが、雨が降りそうという感じではなかった。それでも、早めに戻った方がいいのかもしれない。

 

「いやー、走った走った。ありがとう、トワ。いい気分転換になったよ」

「えっと、どういたしまして……でいいのかなあ?」

 

 トワは苦笑いを浮かべる。気分転換になったのは、トワも同じだ。少なくとも、生徒会室にいたときよりはマシになったと思う。

 

「でも、急にどうしたの? サイドカーのテスト自体は、もうジョルジュ君とやったんだよね?」

「ああ。まあ、そうだね。あのときは操作性の違いに苦労したものだが、今回は上手くできてよかったよ」

 

 どうやらもうコツを掴んだらしい。さすがだなと思うトワであった。

 

「それよりも、今回誘った理由だったね。——こういうことさ」

「えっ!?」

 

 突然のことだった。アンゼリカはトワを抱き寄せるようにして肩を掴む。それに驚く間もなく強引に引き寄せられ、トワは自身の顔をアンゼリカの胸元に押し付ける形になっていた。早い話が、彼女に抱き締められていた。

 

「ちょ、ちょっとアンちゃん!?」

「いいから、ほら」

 

 ポンポン、と背中を叩かられる。まるで子供のような扱いだ。いきなりどうしたのだと、戸惑いがトワの心の中に生まれる。

 

「——私は君の決断に対してなにか言うつもりはない」

「ッ!?」

 

 息を呑む。まさか、という思いだった。まさか、ムネノリとの間に起こったことを知っているのかと。アンゼリカの顔を見る。すると苦笑いを浮かべて「さっき、本人から聞いたのさ」と教えてくれた。

 

(あ……だから、ドライブに……)

 

 そして気づく。アンゼリカには全て見抜かれていたのだ。トワの葛藤や苦しみを。仕事に没頭することで無理やり悲しみを誤魔化していたことを。生徒会室に現れたのが、その証拠だ。

 我慢する必要はない。そう、言われているかのようだった。

 

「アンちゃん、わたし……わたし……!」

 

 堰にヒビが入ったかのように、少しずつ心が漏れる。あと少しのきっかけがあれば、完全に歯止めが効かなくなってしまうだろう。

 

「なにも言わなくていい。私にできることは少ないが、こうして胸を貸すくらいはできる」

 

 再度、背中を叩かれる。それが起爆剤となってしまった。目の奥がジンと熱くなった。

 

「う……ぐすっ……ひっく……ぁあ……!」

 

一度涙腺が緩んだら、もう止まらなかった。あっという間に視界が滲み、熱いものが頰を伝う。顔を見られたくなくて、アンゼリカの胸元へと埋める。涙で彼女の服が濡れてしまうが、文句を言わずに背中をさすってくれた。

 

「わたし、これでよかったのかな……っ!? もしわたしのせいでイズモがなくなっちゃったらと思ったら、怖くなっちゃって……!」

「そうだね、そりゃ怖いさ。何万もの命を左右するかもしれないのだから」

 

 アンゼリカはトワの決断を否定も肯定もせず、ただただ自身の気持ちに共感してくれる。みっともないと思いつつも、その優しさに甘えてしまう。どんどん心の内を吐き出してしまう。

 

 誰も見ていない街道のど真ん中だからか、嗚咽が押さえられない。子供のときみたいに、情けない声を出してしまう。

 

 これが、失恋の痛みなのだろうか。いや、そもそも失恋と形容するかでさえ定かでない。関係を終わらせたのは、トワの方からなのだから。

 いずれにせよ、トワは恋人を失った。今も大好きな恋人を。それもたったの1ヶ月でだ。そのダメージは計り知れなかった。

 

 イズモが滅ぶのが怖かった。結果的にムネノリを喪ってしまうかもしれないのが怖かった。でも、本当は別れたくない。ずっと、一緒にいたい。一緒にやりたいこと、行きたい場所はまだまだたくさんあった。できることならば、イズモにだってついていきたい。

 あらゆる感情が入り混じり、トワの頭の中で竜巻のようにグルグルと回る。

 

 世界が終わってしまったかのような気分だった。悲しみが洪水のように溢れて止まらない。1日だけとは言え、無理に我慢していた分その反動は凄まじかった。まるで涙が決して尽きぬのではないかと思えるほどだった。

 

 少しずつ曇り空が黒みがかっていく中、トワは全ての感情を涙で流し切るまで泣き続けた。結局、次の授業どころか、その日の残りの授業を全てサボってしまうのであった。

 

 

 

 

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