トワ殿って呼ばないで   作:Washi

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第15話 それぞれの想い

 ムネノリが旧校舎で帰国の本当の理由を語っていたときのことだ。いつの間にかアンゼリカが姿を消していたことに驚きを覚える一同だったが、彼女が退室したことに唯一気づいていた者がいた。

 

 それはクロウだ。彼はアンゼリカが姿を消す直前、彼女と目配せを交わした。試運転を通して幾度も戦術リンクを繋いできたこともあり、仕草だけでも簡単な意思疎通ができるようになっていた。

 

 アンゼリカの目はこう語っていた。トワのことは引き受けるからムネノリを頼む、と。クロウは小さく頷くことで同意を示した。

 それからしばらくして、アンゼリカは音を立てずに旧校舎から出て行ったのだった。

 

 

 

 

 昼休みの終了が近づき、一同は自然と解散を始める。みんな、何かしらムネノリに対して気遣おうとしているのは顔を見ればわかる。

 しかし、かける言葉がないようで、後ろ髪引かれるようにムネノリの方へ最後まで視線を向けつつも、旧校舎を出て行くのであった。

 

 中に残っているのはクロウとムネノリだけだ。それを確認したクロウはすたすたとムネノリに歩み寄る。

 

「よっ、少し話さねーか、ムネノリ」

「クロウ殿……しかし、もうすぐ授業ですが……そもそも、単位が危ないからⅦ組の編入したのでは?」

「わーってるつーの。今回だけだよ。話が終わったらすぐに教室に戻りゃなんとかなるだろ」

 

 クロウは近くの段差に座ることを提案する。しばらくは悩んでいたムネノリだったが、結局はクロウの案に乗り、腰を下ろすのであった。

 時間もないので、早速本題へと入る。クロウは迷わず切り出した。

 

「さっきも似たようなことを言ったが……お前さんは分かってンだろ? トワの奴がどんな思いで決断したか」

「……もちろんです。拙者とイズモの為でございます」

「だな。そんで、それが最適解であることも分かってるわけだ」

「……うむ」

 

 ここまではただの事実確認。ムネノリが心中を吐露しやすくする為の考えの整理だ。

 

「そんじゃ、お前さんはどう思ってンだ? 今回の件について」

「どうもなにも……たった今クロウ殿が言われたではないですか。これが最適解だと。トキノリもトワ殿もそれが分かっていた。分かってなかったのは、拙者だけです」

 

 模範解答が返ってくる。だがクロウが聞きたいのはそういうことではない。

 

「ああ、悪ぃ。聞き方が悪かったな。そういうことじゃなくてな……いいとか悪いとか関係なしに、ムネノリがどう思っているのかを聞きてぇんだ」

 

 ムネノリが目を見開く。返答はすぐには返って来なかった。ムネノリが沈黙している間、クロウも黙って待ち続ける。しばらくすると、「そんなの、言うまでもありませぬ」とムネノリが口を開く。

 

「認められないに決まってるではないですか! それどころか、生涯をかけて守ると誓っておきながら、その相手に貧乏くじを引かせてしまう有様! 情けなくて、今すぐにでも腹を切ってお詫びしたいくらいです!」

「いや……別に腹は切んなくていいんじゃねーか」

 

 この4ヶ月の間、ムネノリが謝罪代わりに切腹しようとした回数は両手の指では足りない。誠意は伝わるかもしれないが、言われる側としては気が気でない。

 というか、少し前まで恋人だった男がいきなり目の前で腹を切って死んだら、それこそ生涯のトラウマとなるだろう。

 

「まあ、とにかく……お前はこの決定が嫌で嫌でしょうがねーわけだ」

「それはそうに決まっております! ですが……ですが! 拙者は王太子です! 個人の感情よりも、民を守ることを優先すべきです」

「本当にそうかぁ?」

「え……?」

 

 まさか否定されるとは思っていなかったのだろう。ムネノリは虚を突かれたかのように呆けた声を出した。理解が追いついていないであろうムネノリに対して、クロウは自分の考えを伝える。

 

「別に、正しいことだけをしなくちゃいけねー決まりなんてねーだろ。やりたいことをやるのも1つの選択じゃねーの?」

 

 大局的な視点で見れば正しかったとか、少数が犠牲になる代わりにより多くの人を救えるだとか、合理性に基づく選択というのはどうしても強力な説得力を持ってしまう。

 だが、短期的に見た場合、あるいは切り捨てられた少数から見た場合、それは必ずしも納得のいく選択というわけではない。人の心というのは、合理性だけで動くものではないからだ。

 

 それはクロウ自身がよく分かっている。なにせ彼もまた、自分が納得できないという理由だけで、そう遠くない内に帝国に混乱を巻き起こそうとしているのだから。

 それが正しいことではないと理解しつつも、個人の感情や矜持を優先したのだ。だからこそ、ムネノリを唆す。感情の赴くままに動いてもいいんじゃないかとささやく。

 

「いや、しかし、それではイズモの民が……!」

「ま、そうだな。何万もの命がかかってるもんな。別に国を捨てろとか言うつもりはねーよ。でもよ……なんでもかんでも合理的に判断したって疲れるだけだと思うぜ」

 

 よいしょ、と掛け声と共に立ち上がる。伝えるべきことは伝えた。あとはムネノリ次第だろう。別に、ムネノリに自分と同じ選択をしろと強要しているわけではないのだから。

 

「最終的に決めんのはお前さんだ。誰も文句は言わねーよ。ただ、ちょっとくらいはオレの言うことも考えといた方がいいと思うぜ。お前さん、ちょっと真面目過ぎるからな」

 

 それだけ言い残して、クロウは出口に向かう。出る直前にムネノリの様子をチラリと窺うと、真剣な面持ちでなにかを思い悩んでいるようだった。しばらく1人にしておいた方がよいだろう。

 

 クロウは旧校舎を出て教室に戻るのであった。結局、ムネノリが戻ってきたのは次の授業の終わりころだった。

 

 

 

 

 納得がいかない。こんな形で終わっていい筈がない。いや、終わってほしくない。それがシノの正直な気持ちだった。

 

 半ば外れているとは言え、シノも一応は王族。トキノリの言い分自体は理解できる。だが、納得できるかは別の問題だった。

 

 シノはトワのことが大好きだ。作ってくれるお菓子は美味しいし、とても優しくて気が回るし、可愛いし、お菓子は美味しいし、なによりもお菓子が美味しい。

 

 シノには血の繋がった姉はいない。だがトワのことは本当の姉のように慕っていた。本気で義理の姉になってほしいと思っていた。だからこそ”義姉上”と呼んでいたのだ。

 

 ただのわがままだということは分かっている。もしかしたら、結果的にイズモに大打撃を与えてしまうかもしれない。ついでに言えば、アヤメという人になにかしらの恨みがあるわけでもない。

 

 それでも、取り戻したかった。トワにはムネノリの側で笑っていてほしい。ずっとずっと、義姉上と呼び続けたいのだ。それが忍となって感情を閉ざすことを心掛けてきた、12歳の少女の唯一の願いだった。

 

(きっと……私は王族としても、忍としても失格。でも、それでもいい。もし戦になったら、私が他のみんなの何倍も働けばいい)

 

 だから、シノは動き出す。彼女が望む結末に少しでも近づくように、できる限りのことをする。

 

(まずは、アヤメ様にご挨拶。それと、ツバキ様にも相談を…………あれ? 導力通信ってどこまで行けば通る? もしかして、本国まで戻らないとダメ?)

 

 やるべきことを1つずつ確認し、その達成手段を整理していく。ずっとトワの側で仕事ぶりを見ていたせいか、スムーズに整理が進む。

 

 整理が終わったシノは早速行動に移る。帰国間近の為、教官たちはムネノリのことをそれとなく気にしてくれるだろう。それにもうすぐVIP待遇になるので、帝国正規軍からも護衛が出る。つまり、シノが側にいる必要はない。

 

 シノはムネノリに一言も告げることなく姿を消した。ムネノリが旧校舎から教室に戻る直前のことだった。一応、『先に本国に戻っています』と記した書き置きをムネノリの机に残してはおくのであった。

 

 

 

 

 トワとムネノリが秘密裏に別れてから3日が経過し、8月21日となった。

 

 出立は22日だが、妃となるアヤメとの顔合わせの為に21日……つまり今日の放課後にトリスタを発ち、帝都で1泊することになっている。夫婦となる為、部屋はアヤメと同室だ。

 そして22日の早朝に帝都の駅から列車に乗り、イズモへ向かう予定だ。早い話が、帝国に来たときに使ったルートを逆に辿るだけである。

 

 

 ……ちなみに、言うまでもないかもしれないが、今日までの間に2人の関係が改善することはなかった。

 

 

 トワは無理に仕事に没頭することは止めたものの、ムネノリを避けていることに変わりはなかった。偶然廊下で遭遇しても、「お疲れ様です、殿下」とだけ言ってそそくさと横を通り抜けてしまう。

 顔を合わせないことで極力、悲しみがぶり返さないようにしていた。アンゼリカに泣きついた日、トワは決めたのだ。自分の決断に最後まで責任を持つことを。

 

 

 一方、ムネノリの方も手をこまねいていた。クロウの言葉を忘れたわけではない。だが、彼に助言された通りに好き勝手やるのには躊躇があった。国を守るべきだという理性と、トワと一緒にいたいという欲望の狭間で心が揺れる。

 そのせいで、廊下でトワとすれ違っても声をかけることすらできなかった。その度に胸が苦しくなったが、どうしようもなかった。そもそも自分がどちらに向かいたいのかすら分からないのだから。

 

 

 膠着した状態が続いたまま、時間を浪費してしまう。1時間、また1時間と運命のときが近づいてくる。ムネノリがトールズの学院生として過ごせる最後の1日が終わろうとしている。

 

 ……仮にこれが三流作家が書いた物語であったのならば、なにかしら都合のよい奇跡が起きてイズモはいきなり危機を脱し、婚約の件が有耶無耶になり、トワとムネノリは元の鞘に収まっていたことだろう。

 

 しかし、実際にはそんなことは起きない。起きる筈もない。現実は、ただただ残酷に2人を引き裂こうとするだけだった。

 

 ……なにも起こらぬまま、いよいよ放課後となってしまうのであった。

 

 

 

 

「……みんな、世話になったな」

 

 放課後。トリスタの駅の前にて、ムネノリは荷物を纏めた滑車付きのトランクと共に立っていた。彼の目の前には、Ⅶ組のメンバーやアンゼリカたち、そして教官のサラが横に並んでいた。見送りの為、駅前まで来てくれたのだ。

 

 ……ただし、トワの姿はなかった。生徒会の仕事があるからなのか、それとも単に顔を合わせたくないのか。いずれにせよ、この場にはいない。半ば予想通りとは言え、微かながら期待も抱いていただけに落胆は大きかった。

 

「こちらこそ。ムネノリとの鍛錬のおかげで太刀への理解が深まったし、出雲流からも色々と学ばせてもらったよ」

「うん。よき好敵手であり、よき仲間であった。無論、これからもずっとそうだ」

 

 武術的な交流の多かったリィンとラウラが言葉を返す。≪剣仙≫が生み出した東方剣術の集大成とされる八葉一刀流、それと帝国の武の双璧の1つであるアルゼイド流。それらの使い手と交流できたことは、ムネノリにとっても大変貴重な経験であった。

 

「……元気でね。イズモの料理、おいしかった」

「風と女神の導きを。健闘を祈っている」

 

 フィーとガイウスが続く。ノルドの各地に残されていた遺跡や伝承はムネノリにとって黄金に等しい価値を秘めていた。きっと、イズモの将来的な危機に役立つだろう。

 

「バイバーイ! また会おうねー!」

「帰りもお気をつけて。機会があれば、また帝国にいらしてください」

「そうね。何年後になるかは分からないけど……そのときはⅦ組のみんなで集まりましょう」

「だったら、東方の楽器とかも持ってきてほしいな。料理のときみたいに、交流会とかしてみようよ」

 

 ミリアムはなんの裏も感じない満面の笑顔を浮かべる。一方のエマ、アリサ、エリオットは困ったような笑みを作っていた。だが、かけられた言葉自体は温かかった。

 

「もしなにかあれば連絡してくれ。できる限り力になろう」

「そうだな。家の力は貸せんが、俺個人の力でよければいくらでも貸そう」

 

 マキアス、ユーシスの助力の申し出に力強く頷く。Ⅶ組との学院生活で得たこの絆はとても大切な、一生モノの宝物だ。 

 

「アンゼリカ殿、クロウ殿、ジョルジュ殿にも世話になりました。ジョルジュ殿の導力機器のお話、大変参考になり申した」

「僕の話が役立ってよかったよ。卒業後は各地の工房を回る予定なんだ。近くまで行くことがあったら、連絡させてもらうよ」

「それを言うのならば私も大陸一周をする予定でね。是非、イズモに寄らせてもらおう」

「俺は別にそんな予定はねーが……ま、その内見に行ってやるよ」

 

 先輩組の言葉に「そのときは歓迎させていただきます」と答える。招ける状況なのかはそのときになるまで分からないが、できることならば1度は招きたいと思った。

 

「ま、頑張りなさい。きっとあんたなら大丈夫だから」

「サラ教官……ありがとうございます」

 

 深く、頭を下げる。飲んだくれだったり、色々と大雑把だったり、トワに仕事を押し付けてばっかりと、問題も多かったが、それ以上に頼りになる素晴らしい教官だった。サラの豊富な経験に基づく数々の助言は今もムネノリの心に深く刻み込まれている。

 

 学院に来て日が浅いミリアムはともかく、別れ際だからか、他のみんなは誰1人として暗い話題は出さなかった。純粋にありがたかった。

 トワのことに関しては今も思うところは色々とあるが、この場ではみんなの気遣いに甘えることとした。

 

「……殿下。そろそろ時間となります」

 

 護衛の指揮を任されているクレア・リーヴェルトが駅から姿を現す。特別実習を通して知り合った縁で、彼女が担当することになったらしい。

 

「承知しました。では……みんな、また会おう」

 

 最後に大きな挨拶を交わし、ムネノリはトランクを持って駅の中へと消えた。その直前、第二学生寮や学院に続く道の方へと視線を向けたが、そこから誰かが現れる気配はなかった。失意に呑まれたまま、列車に乗り込むのであった。

 

 

 

 

 列車に揺られること30分。ムネノリは帝都に到着する。

 

 ムネノリはヘイムダル中央駅にある鉄道憲兵隊の詰所で明日の護衛の段取りの説明を受けたあと、導力車によってホテルまで送り届けられた。ムネノリが泊まる部屋の隣に隊員が詰めているので、用があれば呼んでほしいと言い含められた。

 

 ムネノリは部屋の扉をノックする。しばらくすると、扉が静かに開いた。

 

「……お待ちしておりました、ムネノリ様。アヤメと申します。まずは、お部屋へどうぞ」

 

 アヤメ・トクカワが姿を現した。焦げ茶の腰まで届く長髪で、ツバキと比べると大人びた印象を感じさせる女性だった。確か年齢はムネノリの1つ上だった筈だが、20代くらいのようにも思えるほど、その雰囲気には落ち着きがあった。

 

 ムネノリは部屋に入り、トランクを部屋の隅に置く。部屋はスイートルームであり、かなり広々としている。

 

 そんな中、キングサイズとは言え、1つだけしかないベッドを見て気が重くなる。確かに夫婦となる仲なのだから問題はない。しかし、ムネノリはアヤメに対してまだそこまで割り切れていない。気づかれないように小さく、ため息をついてしまう。

 

 リビングに備え付けられているソファに腰を下ろすと、少ししてからアヤメが目の前のテーブルに湯呑みを置く。淹れたてらしき湯気の立ったお茶が入っていた。

 

「かたじけない」

「いえ、妻として当然のことですから」

 

 アヤメは静かに微笑む。その笑みは、野にひっそりと咲く1輪の花のようであった。

 

 ”妻”という言葉に吐き気を催すような拒否感を覚えつつも、茶をいただく。さすがは名門のトクカワ家の娘といったところか。文句なしに美味かった。

 

 アヤメはムネノリから1人分離れた位置に座る。すると、深々と丁寧にお辞儀をした。正座でかしずかないのは、ここが帝国のホテルだからだろう。

 

「改めまして、トクカワ家より参りましたアヤメと申します。妻として精一杯ムネノリ様をお支えする所存でございます。これから、なにとぞよろしくお願い致します」

「……ああ、よろしく頼む」

 

 少し、ぶっきらぼうな返しになってしまったかもしれない。だが、どうしたってアヤメを歓迎することはできなかった。反発する磁石のように、自然と心が不快感を示すのだ。

 

 別に、アヤメが悪いというわけではない。挨拶を交わしたあともしばらく会話を続けるが、彼女がいわゆる”イズモの理想の淑女”としてのあり方を体現している立派な女性だということは、すぐに分かった。

 

 気遣い、言葉遣い、容姿、所作……その全てが完璧だと言ってよい。イズモの男であれば、100人中99人が心奪われてしまうだろう。ただ、ムネノリがその99人の中にいないだけだ。

 

 たとえアヤメがどれだけ美しく、賢く、優しくとも関係ない。ムネノリが心に決めていた女性はトワなのだ。たったそれだけの未練がましい想いが、アヤメを受け入れることを拒絶してしまう。

 

 そしてそれは、知らない内に態度にも現れてしまっていたようだ。

 

「……ムネノリ様? 聞いておられますか」

「っ!? す、すまぬ。なんでござるか」

 

 どうやらいつの間にかアヤメの話を聞き逃していたらしい。慌てて謝る。怒らせてしまったかもと思うムネノリであったが、彼女は全く気にしていない様子だった。笑みを崩すこともなく、再度問いかけてくれた。

 

「夕餉はどうされましょうか。一応、ホテル内のレストランの席を予約してはおりますが」

「あ、ああ……夕餉であるか。そうだな、予約しているのであれば、そこにしよう」

 

 あとで隣の隊員たちに知らせておけば大丈夫だろう。

 

「かしこまりました、では1時間後に伺いましょう。それと……今宵はどうなされますか」

「どうとは、なにがだ?」

「夜伽のことでございます」

「なっ……!?」

 

 突然横から鈍器で殴られたかのようだった。全く予想もしていなかった言葉に声を失う。だが、アヤメの質問は妃という観点から見ればなんらおかしいものではなかった。というより、それも妃の大事な務めだ。

 

 もし仮に今すぐに王が亡くなってムネノリが玉座を継いだ場合、後継者の問題を考えておく必要がある。万が一があってもまだ弟のトキノリがいるが、やはり実子がいるに越したことはない。

 

 しかし…………ムネノリは頷けなかった。頷かないといけなかったのに、頷けなかった。脳裏に涙を浮かべたトワの姿が映り、頷くことを拒否してしまった。

 

「……すまぬ。今はまだ、そんな気にはなれぬ」

「そうですか、かしこましました。……お疲れのご様子ですし、食事の時間までベッドで休まれてはいかがでしょう? 時間になりましたらお呼び致します」

「……そうだな、そうさせてもらおう」

 

 今度こそ機嫌を損ねたかもしれないと思ったが、そんなことはなかった。それどころか、アヤメに余計な気遣いまでさせてしまった。

 

(早く、慣れねばな……)

 

 自己嫌悪に苛まれながらもアヤメの言葉に甘えてベッドに向かい、横になる。眠気はないが、寝ているフリをしていればアヤメとしゃべらずに済む。今は話し続けても、きっと彼女に負担をかけてしまうだけだ。ムネノリはゆっくりと目を閉ざした。

 

 

 

 

 アヤメとの気まずい時間はまだまだ続く。食事の席でも会話は弾まず、懸命にムネノリに話題を振っていた彼女も次第に口数が少なくなっていった。

 

 部屋に戻り、寝る直前になるころにはお互いにほとんど無言だった。ベッドの近くの小さな明かりだけが、寝室をぼんやりと照らしていた。

 

 寝巻き姿になったアヤメがベッドの端に腰掛ける。ムネノリが元々反対側に座っていたので、互いに背を向け合う格好となっている。

 

 今のアヤメの表情を窺うことはできない。だが、今のこの状況が彼女の心の内を物語っている気がした。

 

(イズモの為にもアヤメ殿を大切にすべきと分かっているのに、なぜこんなにもアヤメ殿をないがしろにしてしまうのだ……)

 

 努力はした。したつもりだ。だが、なぜだか上手く話せない。舌が口内に縫い付けられたかのように、言葉が出ない。

 今もそうだ。せめて気を遣わせたことに感謝の一言でも言えればと思うのに、体が石になったかのように一向に行動に移せない。

 

 そんな自分が嫌になる。義務か私欲かすら選べずにいる自分が。これでは、結局はアヤメとトワの2人を同時に傷つけているのと同じだ。

 

 そんなムネノリの心の内を察しているのかは分からないが、アヤメも同様になんの動きも見せなかった。人形のように、背後でじっとしているのを感じる。

 

 ムネノリは明かりの奥の方に焦点を合わせたまま、頼りない光源をじっと眺めていた。時が動かず、沈黙だけが場を支配する。

 

 ——そんな沈黙が破られたのは、均衡が10分ほど続いてからのことだった。ふと、アヤメが口を開いたのだ。

 

「……ムネノリ様。1つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「……うむ」

 

 ”アヤメのことが嫌いなのか”。そう、聞かれると思った。そう思われてしまうだけのことはしてしまっている。下手するとこのまま破談もあり得る。無意識の内に体が強張った。

 

 だが、そうではなかった。アヤメから投げられた質問は、予想の遥か上を行くものだった。

 

「——ムネノリ様は、今もトワ様を愛されているのですか」

「ッ!? ど、どこでそれを……!?」

 

 体に雷が落ちたような衝撃だった。勢いよく振り向くと、アヤメは居住まいを正し、ベッドの上で正座をしていた。そして苦笑いを浮かべつつ、ぽつぽつと語り始める。

 

「実は2日前、シノ様が部屋にいらっしゃったのです」

「シノが……ここに?」

 

 確か書き置きにはイズモに戻ると書いてあった筈だ。まさか嘘をついたのだろうか。そう思っていると、アヤメは「もちろん、そのあとイズモに戻られましたよ」と補足した。単に寄り道をしただけのようだ。

 

「シノ様が、ムネノリ様とトワ様の仲のことを教えてくださいました。お話を聞く限りでは、仲睦まじかったようですね」

「いや、まあ……その、すまぬ」

 

 遠回しに肯定してしまう。アヤメの瞳を見ていたら、後ろめたさで嘘をつけなくなってしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 

「ふふ、お気になさらず。とても幸せそうで、聞いているこちら側としても微笑ましかったくらいですから」

 

 そのように真正面から言われるのはさすがに恥ずかしく、ムネノリはそっぽを向いて頬をかく。話題を逸らそうと、ムネノリの方から質問を振る。

 

「しかし……シノの奴はなにゆえ、ここに? まさか、トワ殿とのことを教える為だけにアヤメ殿のもとへ?」

 

 それではただの嫌がらせになってしまう。だが、シノは此度の決定に反発していたし、まだ12歳だ。その可能性は十分にある。もしそうであれば、シノに謝罪させねばなるまい。

 

「いえ……実はシノ様はおふたりのお話をされたあと、こう仰られましたわ。『アヤメ様に恨みはありません。ですが、私が義姉上とお呼びできるのはトワ様だけです』と」

「な……!! す、すまぬアヤメ殿! まさかあいつがそんなことを言うとは!」

 

 もっと最悪なことをしていた。ムネノリは慌てて頭を下げる。イズモに戻ったら、よーく言い聞かせておかなければならない。

 

「面を上げてください。確かに最初は驚きましたが、私とて政略の道具とされている身。親しい者と結ばれたいというお気持ち、少しは分かるつもりです。シノ様の話しぶりから察するに随分とトワ様に懐いていたようですし、無理もありませんわ」

 

 なんと、そこまで言われてもアヤメは怒らなかったようだ。とんでもない懐の深さだ。迷いまくりのムネノリにはもったいないくらいの器量である。

 

「そんなわけで、シノ様からトワ様のことを色々とお聞きしたわけですが——実際のところ、どうなのですか。ムネノリ様は、今もトワ様を……?」

「…………うむ、そうだ」

 

 とうとう、はっきりと肯定してしまった。トワを愛していることを。諦めきれずにいることを。よりにもよって、妻となる者の目の前で。男としても、王太子としても最低だ。

 だが、それこそが不変の事実なのだ。ムネノリは今も、そしてこれからもきっと、トワだけしか愛せない。その気持ちをどうすることもできないことを、アヤメと共に過ごすことで再認識してしまった。

 

「だが、拙者は王太子だ。自分の勝手で、イズモを危機に陥らせることはできぬ」

「ええ、そうかもしれません。——ですが、少しくらいの勝手はよいのではないでしょうか」

「なに……?」

 

 思わぬ言葉にムネノリはアヤメに続きを促す。一体どういうことだ、と。

 

「なにも、0か100で考えなくともよいと思いますわ。人の生はたったの1度きり。たとえ王太子であっても……1割くらいは自分のわがままの為に使ってもよいと存じます」

「っ……!」

 

 アヤメの言葉にハッとさせられる。そんな考え方があるなど、思ってもみなかった。

 

(そういえば、確かクロウ殿は……)

 

——『別に、正しいことだけをしなくちゃいけねー決まりなんてねーだろ。やりたいことをやるのも1つの選択じゃねーの?』

 

 数日前、クロウに言われた言葉がフラッシュバックする。ここに来てようやく理解した。クロウが言わんとしていたことの本当の意味を。

 

 イズモか、トワか、ではない。イズモも、トワも……そんな選択もあるのではないだろうか。もちろん、ちゃんと現実味のある計画に基づいた上での、だ。

 どちらかを選ばなくちゃいけない決まりなんてない。どちらも選んでしまったっていいのだ。無論、その為の障害は多いかもしれぬが。

 1つ、大きな問題があるとすれば……やはりアヤメの存在だ。

 

「だが、アヤメ殿はそれでよいのか。拙者にその道を勧めるということは、つまり……」

 

 どういう形であれ、ムネノリとアヤメが夫婦であり続けることはないということだ。それはトクワカ家にとっても都合が悪い。それに、このままではアヤメにメリットがない。

 

「ふふ、そうですね。——ところで、実は私も1割だけ、叶えたいわがままがあるのですが、聞いていただけます?」

「……? うむ、なんだ?」

 

 なぜ自分に? と思いつつもムネノリは頷いた。

 

「実はですね……」

 

 アヤメは一拍置いた後、答える。

 

「無礼を承知で申し上げますと私——ムネノリ様よりもトキノリ様の方が好みですわ」

 

 そう言って、くすりと笑った。いたずらっぽい、無邪気な笑みだった。

 

「——は」

 

 それを聞いたムネノリはしばらくの間言葉を失った。それはショックを受けたからでも、怒りを感じたからでもない。

 

「はは、ははは……!」

 

 心底愉快で、おかしかったのだ。ムネノリは数日ぶりに腹を抱えて笑い出すのであった。呼吸ができずに苦しくなってしまうくらい、大声で笑い続ける。

 お淑やかな方だと思っていたところに、まさかこんな大胆不敵な発言をねじ込んで来るとは夢にも思わなかったのだ。

 ムネノリが思っていたよりも、お茶目な人物だったようだ。

 

 ——同時に、道筋が見えた。守りたいものを守りきり、欲しいものを手に入れることができる、最善の道が。

 トワに我慢を強いることに変わりはない。だが、永遠にではない。どこまで縮められるかはムネノリ次第。そして、最終的にはトワの返答次第だ。

 

「……では、そういうことでよいのだな?」

「ええ、そういうことでよろしゅうございます」

 

 互いに頷き合う。これから行うのは、2人だけの謀りごと。WinWinの関係となる為の取引相手。この瞬間から共犯者となった2人は、初めて心の底から笑い合うのであった。

 

「……しかし、そなた。最初からこのつもりで?」

「シノ様のお話を聞いたとき、ムネノリ様のお気持ちを確かめようと決めておりました。もし、ムネノリ様がトワ様のことを諦めていたら、進言するつもりはございませんでした。ムネノリ様に倣って、私も諦めようと」

「そうか……感謝する、アヤメ殿」

 

 アヤメを愛することはできないかもしれない。だが、選ばれたのが彼女でよかったとも思った。きっと、仲良くやっていけるような気がする。

 

「……差し当たって、まずは文をしたためんとな」

「導力通信でなくてよいのですか」

「伝えたいことがまだ纏まっておらぬ。それに……手紙の方が長持ちするゆえな」

 

 ムネノリはベッドから立ち上がる。リビングに戻って、手紙を書く為だ。

 

「拙者は居間で作業をしておるから、アヤメ殿は——」

 

 もう休むとよい。そう言おうとした瞬間だった。——バァン! と玄関の扉が凄まじい勢いで開いた。ムネノリは咄嗟に刀に手を伸ばし、アヤメを後ろに隠す。

 

 ……結論から言うと、警戒は不要だった。

 

「——ムネノリ様!! あなたはなにをやっているのです!? 見損ないましたわよ!!」

 

 現れたのは、なにか猛烈な勘違いをしているらしいツバキだった。そしてその後ろにはシノがいた。その手にはピッキングツールがあった。隣に鉄道憲兵隊が詰めているのに、なんてことをするのだと思った。

 

「あの……ツバキ様? 別に私たち、まだなにも……」

「言い訳はいりませんわ! そこに直りなさい! 特にムネノリ様! ハーシェルさんになんてことさせてますの!? あのときの啖呵はなんだったのですか!!」

「……あー、まあ、なんというかだな」

 

 ツバキがここまでやって来た理由を理解する。おおかた、シノから事情を聞いたのだろう。

 

 ……ただ、タイミングが悪かった。ツバキの言い分には確かにぐうの音も出ないが、とにかく来るのが数分ばかり遅かった。なんとも言えぬ気持ちが胸中で渦巻く。

 

 ——結局、ツバキとシノを落ち着かせるのに1時間ばかりを要するのであった。その間、鉄道憲兵隊の者までもが部屋から出てきて、さらに面倒な状況になったのは言うまでもない。

 

 

 

 


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