トワ殿って呼ばないで   作:Washi

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第16話 いつまでも

 結局、トワはムネノリの見送りには行かなかった。通商会議の準備で忙しかったというのもあるが、やはり顔を見てしまうと決意が揺らいでしまうと思ったからだ。

 代わりに、自室の窓からこっそりと覗いていた。ムネノリが駅前でⅦ組やアンゼリカたちに見送られるところを。

 

 いよいよ、遠く離れた場所に行ってしまう。自分から会いに行こうとしない限り、2度と会えなくなるだろう。仮に会えたとしても、その隣にはトワ以外の女性が立っているのだろう。

 

 ふと、近くの棚に並べてある写真立てを見る。

 幼少のころのものや、アンゼリカたちと撮ったものの中に混じって、ムネノリと写っている写真が何枚かあった。ミシュラムでスタッフの人にお願いして撮ってもらったものだ。ここ数日は、極力視界に入れないようにしていた。

 写真に写っている2人は、それはもう幸せそうだった。写真からピンク色の幸せのオーラが可視化されているかのようだった。笑顔が眩しすぎて、直視しているのがつらかった。

 

 ……結局、トワはムネノリの姿が入っている写真を全部伏せてしまった。捨てるまではできないが、飾り続けるのも無理だった。あとで、アルバムかなにかに移してしまおう。

 

 そして、窓際に戻ったころにはもうムネノリの姿はなかった。出発してしまったようだ。

 その瞬間を見逃してしまったが、きっと見ていたら今より胸が苦しかった筈だ。結果的にはこれでよかったのかもしれない。そう己に言い聞かせる。

 

 ……なのに、なぜだろう。

 

「あ……」

 

 ポロポロと、勝手に瞳から涙が溢れてしまうのは。自分でも全く気づかない内に、涙を流していた。

 

「っ……ぐす……ムネノリ、くん……ぅ」

 

 止まらない。アンゼリカに泣きついたときに流しきった筈の涙が止まらない。涙の量を調節する機能が壊れてしまったかのように止め処なく溢れ続ける。

 

 今すぐ部屋を飛び出せば列車の出発には間に合うのかもしれない。でも、そんなことをしてはいけない。

 今すぐよりを戻したいと懇願すれば、あるいはムネノリは国を捨ててくれるかもしれない。でも、そんなことは許されない。

 

 我慢するしかない。全部全部胸の内に仕舞い込んで、痛みが消えてくれるまで抱え込んでおくしかない。

 1度はアンゼリカに対して己の感情を吐き出してしまった。だからこそ、もうそんなことをしてはいけない。

 

 涙を流すのもこれで最後だと、トワはなるべく声を押し殺しながら静かに泣き続けるのであった。

 その後、泣き疲れたせいか、夜は意外にもすんなりと眠りに落ちることができたのであった。

 

 

 

 

 気づいたら、見たこともない場所に立っていた。いや……厳密には違う。そう、確か、イズモ関連の本のどれかの写真で見たことがある場所だった。

 

 目の前の壁は綺麗に切り出された石材が積まれ、レンガのようになっている。石垣、という東方独自の建築様式の1つだった筈だ。主に城の防備の強化に使われる。

 

 石垣の上の方へと視線を移す。5~6階分の高さになるであろう、塔のような建物があった。白い壁と、黒い瓦で構成されていた。ムネノリから聞いたことがある。天守閣、と呼ばれるらしい。

 

 もはや疑いようがなかった。なぜだかトワは、イズモにいた。それも、おそらくは王城に。

 

(いつの間に……こんなところに?)

 

 周囲を見渡す。床一面に砂利が散りばめられ、ポツポツと等間隔で木が植えられている。その更に奥には、ちょっとした高台があった。

 興味を持ったトワはその高台に歩み寄る。石でできた数段の段差を登り、手すりの近くまで行く。

 

「わあ……」

 

 どうやら相当高い場所にいたようだ。眼下には、おもちゃのように小さな建物が規則正しく、無限に広がっていた。きっと、城下町だ。

 道は石材で丁寧に舗装され、大通りは多くの人で賑わっていた。1人1人は小さいが、数が多いおかげで人の動きがよくわかった。ケルディックのような活気を遠くからでも感じ取れた。

 

 近くに川が流れている。2~3人が乗れる程度の小舟がいくつも浮かんでいた。荷降ろしをしている者、なにかを飲んでいる者、身を寄せ合っている者。それぞれの船に、それぞれの物語が見えた。

 

 その更に奥には大自然が広がっていた。いくつもの水田が日光を浴びて輝いている。美しい川と森のコントラストに加え、動物が何匹か川沿いをうろついている。そして青みがかった山々は、なんと全面が木の緑衣で覆われていた。帝国では、見たこともない景色だ。

 

 絵葉書にして今すぐにでも売り出したい。そう思わずにはいられないほど美しい光景だった。感動のあまりその場から動けず、いつまでも眺めてしまう。

 

「——義姉上、ここにおられましたか」

「……え?」

 

 声をかけられるとは思ってなかった。ワンテンポ遅れるような形で振り向く。シノだった。

 

「シノちゃん……?」

「義姉上はこの場所がお好きですね。イズモにいらしてからというものの、いつもこの場所にいますね」

「え、いつも……?」

 

 どういうことだろうか。トワはこの場所に来るのは初めての筈だ。だが、シノの口ぶりも嘘には見えなかった。

 

「どうです、義姉上? イズモにはもう慣れましたか」

「えっと、その……どう、なのかな」

 

 返答に詰まる。慣れるもなにも、今日初めて来たのだ。答えようがない。

 

「それはそうと……兄上がお呼びでございます。二の丸の正門にてお待ちです」

「ムネノリ君が?」

 

 なぜ、ムネノリが呼んでいるのだろうか。ムネノリとトワはもうなんの関係もない筈だ。そういう意味でも、この場にいる理由が分からなかった。

 

 そのような疑問を抱いている間にもシノは「行きましょう」とトワを先導する。呼ばれてしまった以上は行くしかない。道も分からないので大人しく案内に従う。

 入り組んだ城内を歩き回り、緩やかな坂を下っていく。所々、写真で見たことのある光景が目に入った。本当に今、イズモにいるんだなと不思議な感覚に包まれる。

 

「こちらです」

 

 シノの案内が終わる。視線を正面に戻すと、一際大きな木製の扉があった。中世のころは、敵を阻む頼もしい壁だったのだろう。

 門には1頭の馬が繋がれていた。そしてその近くに、見覚えのある後ろ姿があった。……それ以外には、誰も門の前にはいなかった。

 

「おお、おいでになられましたかトワ殿!」

 

 馬の世話をしていたムネノリが振り返った。溢れんばかりの笑顔だった。

 

「お待たせしました、兄上……いえ、陛下」

「ふっ、別に誰か見ているわけでもない。好きに呼ぶといい」

(…………え?)

 

 耳を疑った。ムネノリが陛下? そんな筈はない。だって、ムネノリは王ではなく、王太子の筈だ。……なにかが、おかしかった。

 それに、なぜムネノリはそんな邪気のない笑顔をトワに向けることができるのだろうか。

 

(わたしはもうムネノリ君とは別れて…………あれ、別れたんだっけ?)

 

 記憶にノイズがかかる。そう、別れた……確かに別れた。でも、そのあとどうなった? なぜか……思い出せない。

 

「すまぬな、朝早くから歩き回らせてしまって」

「いえ。すぐに見つかりましたので、大して苦労はしてません」

 

 簡単に2、3言交わすと、シノは姿を消した。残されたのは、トワとムネノリだけだ。

 

「……ねえ、ムネノリ君」

「なんでしょう、トワ殿?」

「わたし……なんでここにいるんだっけ?」

「……? もしや、寝ぼけておられるのですか。珍しいこともあるものですな」

 

 ムネノリは首を傾げる。まるで、おかしいのはトワの方だと言っているかのようだった。

 

「もうイズモに来てから3ヶ月ではありませぬか。それで拙者が王位を継ぎ、トワ殿との祝言を上げたのはもう2ヶ月も前ですぞ」

「——っ!?」

 

 3ヶ月!? いや、まさか……ありえないと首を横に振る。記憶喪失でもないのに3ヶ月分もの記憶が飛ぶわけがない。

 それに、祝言とはどういうことだ。それではまるで、トワがムネノリと結婚したみたいではないか。

 

 ふと、自分の服装を見る。なんと、身に纏っていたのはいつもの制服ではなく、色鮮やかなな柄のついた着物だった。以前、ツバキが着ていたものと同じくらい高価なものだと、着心地ですぐに分かった。

 こんな高価なものを着ていること自体、祝言があったことを裏付けているようにも思えた。もし本当に祝言があったのなら、今のトワは……后ということになるのだから。

 

「最近ではようやくトワ殿も周囲から認められるようになり、だいぶ落ち着いてきました。政務もトワ殿が手伝って下さっているおかげで、大変捗っております」

 

 政務……それだって、やった覚えがまるでない。イズモの者からなにかしら嫌がらせを受けた記憶もない。

 

 やっぱり…………変だ。

 

「ささ、トワ殿。お手を。今日は一緒に市場を回る約束でしたな。昼までには戻らないといけませぬので、早く行きましょうぞ」

 

 ムネノリは馬に跨ると、手をトワの方に向かって差し出す。きっとトワのことを持ち上げて後ろに乗せてくれるつもりなのだろう。

 

 彼の手の感触はよく覚えている。大きくて、剣を振ってできたタコのせいで表面はゴツゴツとしている。だけど、とても優しくて温かいのだ。

 

 ……トワはおずおずと、手を伸ばす。少しずつ、少しずつ近づいていく。あと数リジュで手が重なりそうだ。

 

「……」

 

 もう少し、手を伸ばす。ついに、手のひらが重なった。ムネノリはトワの手を取る。そのまま勢いよくトワのことを引き上げようとする。

 

 ——次の瞬間、トワはムネノリの手を振りほどいた。

 

「トワ殿……?」

「…………いけません、陛下。陛下が取るべき手は、わたしではございません」

 

 ……気づいた、気づいてしまった。気づかなければよかったのかもしれないのに、不幸にも聡明なトワは気づいてしまった。

 

 ……ここは、夢の中だ。都合のいいことが好きなだけ起きる、夢の世界。潜在的な願望が具現化する理想の世界。

 

 ……だが、現実ではない。浸っていたって、目が覚めたときにつらくなるだけだ。

 

「なにを仰っているのです、トワ殿? 他に誰の手を取ると言うのです?」

 

 トワにとっての都合のよいムネノリはなおも彼女を誘う。眉をひそめ、明らかに困惑している様子だ。彼から見れば后のトワ以上に優先すべき女性はいないのだろう。

 

 だからこそ、はっきり否定しなくてはいけない。トワはふるふると首を横に振った。

 

「——陛下の后はわたしではなく……アヤメさんです」

「——っ!?」

 

 ピシリ、と視界にヒビが入った。まるで、ガラスのように。どこからともなく力が加わり、ヒビが全体に広がっていく。ヒビのせいで、ムネノリの顔が歪にズレる。

 

「お、お待ちを……! トワ殿!」

 

 ガラスが割れ落ちていく中、ムネノリは馬から降りて必死な様子でトワに向かって手を伸ばす。しかし、届かない。ガラスが割れたことでトワとムネノリの間に物理的な隔たりが生まれたからだ。割れた視界の奥は、真っ暗な闇だった。

 

「 ……ごめんなさい。でも、お願いです——2度と、出てこないでください」

 

 パリン! と視界が完全に砕け散り、闇しか見えなくなった。

 

 それが、夢の終わりだった。

 

 

 

 

 鳥のさえずりが聞こえる。完全に閉じきれていなかったカーテンから光が漏れ、トワのまぶたに注がれる。眩しさに耐えかねて、トワは目を覚ました。目元をこすりながら、上体を起こす。

 

(…………あれ、なんだろう? なんだか、大事な夢を見ていたような……)

 

 ほんの数瞬前まで確かに覚えていたのに、もう思い出せない。どれだけ記憶を掘り起こしても、それらしいものは出てこなかった。

 

(え……涙?)

 

 目元をこすっていたら、指に大粒の涙がいくつもくっついていた。枕の方を見ると、枕のカバーもまた小さく濡れていた。

 ……昨日泣いた分が残っていたのか、それとも……夢の中でまた涙を流していたのか。今のトワにはどちらなのか分からなかった。

 

 時間を確認すると朝の6時過ぎだった。今日はこれと言って大事な用はない。せいぜいが、リィンのポストに依頼を入れておくことと、通商会議に関する調べ物だろうか。

 とはいえ、目はばっちりと覚めている。寝直せそうになかった。仕方ないので、もう起きることにした。

 

(そういえば今日、帝都を出発するんだよね……)

 

 ムネノリの帰国の予定表を思い出してしまう。確か、7時に出発する列車だった筈だ。それで共和国まで向かい、そこから東方へと戻る段取りである。

 

(昨日、アヤメさんと同じ部屋で寝たんだよね。じゃあ、もしかしたら……)

 

 嫌な想像をしてしまう。もうトワは関係ない筈なのに、そのアヤメという人に対して暗い感情を抱いてしまう自分が嫌になる。

 

(……やっぱり、仕事しよう。確かサイドカーのモニタリングもやるみたいだし、よかったらまた乗せてもらおうかな)

 

 とにかく、もう忘れようと思った。さすがに出発の時間を過ぎてしばらくすれば、諦めもつくだろう。それまでの間、余計なことを考えない為に仕事をしようと決める。無理をしなければ、アンゼリカに咎められることもないだろう。

 

 学院に行くと決めたトワは制服に着替えようと、寝間着を脱ぎ始める。どうせ自由行動日だ。急ぐ用事もないので、のんびりと支度をしようと思っていた。

 

 ——そんな思惑は、次の瞬間には粉微塵に吹っ飛ぶのであった。内側から鍵をかけている筈の扉から金具の回る音がしたかと思うと、勢いよく開いたのだ。

 

「え……!?」

 

 咄嗟に脱いだばかりの寝巻きで胸元を隠す。しかし、その必要はなかった。なぜならば、扉の向こうから現れたのはトワのよく知る女の子だったのだから。

 

「お邪魔しますわ、ハーシェルさん」

「え、ツバキちゃん!? な、なんで……それに、鍵がかかってた筈なのに……」

「私が開けました。忍の前では導力式を除くあらゆる鍵が無意味です」

 

 ツバキとシノだった。鍵はシノが開けたらしい。その為の道具と思しきものを握っていた。トワはシノがピッキングしていたことに全く気づかなかった。噂に聞く怪盗Bのような手際だ。

 

 だが、なぜノックをしてくれなかったのか。そうすれば普通に開けたのに。そう問おうとしたが、ツバキはトワにそんな時間すら与えてくれなかった。

 

「ほら、さっさと着替えなさい! ……シノ!」

「はい」

「え……ええ!?」

 

 なにがなんだか分からない内にシノの手によって強引に制服に着替えさせられてしまう。呆気に取られるあまり抵抗する暇もなかった。

 

「残りは車内で済ませまればよいですわ。ほら、行きますわよ!」

「失礼します」

「わ、わわッ!?」

 

 それだけに留まらず、いつぞやのようにシノに抱えられ、第二学生寮から連れ出されてしまった。入り口には、以前ツバキが乗ってきたのと同じ導力車が停まっていた。

 トワは荷物のように乱暴に車内に放り込まれる。幸い、高級車だけあって車内は広々としていたので変に頭をぶつけたりとかはしなかった。続けて、シノとツバキが乗り込んでくる。

 

「いいですわ、出しなさい! アクセル全開で構いませんわ!」

 

 ツバキは運転席に座っている黒スーツの男に指示を出す。魔獣の咆哮のようにエンジンが唸ると、砲で撃ち出されたかのように急発進した。急な速度の変化に、体が座席に深く沈み込む。

 

 まるで誘拐されたかの如く、トワはトリスタを発つのであった。

 

 

 

 

「ほら、身繕いしますわよ。そこに座ってじっとしてなさい」

 

 車が直進の多い街道に入って揺れが落ち着いたころ、ツバキがブラシやら化粧道具を持ってトワを化粧台の前に座らせる。ツバキが車内のボタンを押したら、近くの棚が変形して化粧台になってしまったのだ。

 

「ま、待って待って! その前に、どこに向かおうとしてるの!?」

 

 拉致同然に連れ出されたトワは、ブラシで髪を解かされながらも状況説明を要求する。後ろを向こうとするトワと、彼女の顔を前に向かせようとするツバキの間でせめぎ合いが起こる。

 

「決まっ、て、る、でしょう……! ムネノリ様のところですわ!」

「え……」

 

 今、一番聞きたくない言葉だった。トワの体から力が抜ける。その隙にツバキはトワを前に向かせ、ブラシを丁寧にかける。

 

「……ハーシェルさん、貴方本当にこれでいいんですの? わたくしとの決闘であれほど必死に勝利をもぎ取った貴方は、本当にムネノリ様のことを諦められますの?」

「っ……」

 

 唇を噛む。ツバキに「血が出てしまいますわよ」と注意されるが止めない。胸の内に渦巻くのは……苛立ち。チクチクと棘が無数に刺さるような、小さなイライラの集合が轟くような感覚。

 

 今更、その話を蒸し返さないでほしいと思った。トワは、もう結論を出したのだから。忘れようとしているのだから。

 

「わたくしは約束通り、本国での結婚の打診を断りましたわよ。それに比べて、貴方はなんて体たらくですの? どうせトキノリ様に言いくるめられたのでしょうけど、それにしたってあんまりな決断ですわ。トールズきっての秀才の名が泣きますわよ」

「……だって」

 

 拳を握りしめる。伸びてきた爪がこれでもかと喰い込んでいるが、あまり痛みは感じない。

 

 トワがなにを考えてこの結末を選んだか、ツバキは知らないのだ。だから、こんなにも無神経なことが言えるに違いない。

 むしろ、ツバキはなぜ結婚を断っているのだ。イズモの危機に、そんな約束を律儀に守っている場合ではなかった筈だ。結果的にアヤメがいたからよかったものの、取り返しのつかない結果になったかもしれないのに。

 

「ムネノリ様もかわいそうに。昨夜ホテルでお会いしましたが、意気消沈とした様子でしたわ。アヤメとの結婚も気が進まなさそうでしたし、見ていて気の毒でしたわ」

 

 背後から「はぁ……」と盛大なため息が聞こえる。その声は間違いなく、トワの神経を逆撫でした。胃の中が胃酸で灼けるかのようだ。

 

「……お願い、もうそれ以上言わないで」

 

 沸々と湧き上がるのを自覚しつつも深呼吸を繰り返し、どうにか理性を繋ぎ止める。努めて冷静な口調を作り、ツバキに黙るように頼む。それでも、普段より声が低くなってしまった。

 

「いいえ、止めませんわ」

 

 だが、ツバキは聞き入れなかった。どこからともなくリボンを取り出し、トワの髪を纏めながら話を続ける。

 

「少なくとも、貴方の本心を聞くまでは止めませんわ。とっとと白状しなさいな。貴方、今でもムネノリ様のことをお慕いしているのでしょう?」

「……さ……い」

 

 静かにしてほしい。なぜ、放っておいてくれないのか。トワは正しい選択をした筈だ。なのに、なぜ今こうして問い詰められているのだ。……それとも、間違っていたとでも言いたいのだろうか。

 

「ああ、それともアレですの……? 本当は金がありそうな殿方なら誰でもよかったとでも? だとしたら、大した執念ですわね」

「っ!? ——そんなわけない!!」

 

 トワは座ったまま振り向くと、喉が痛くなるくらいの大声で叫んだ。

 

 ……挑発だって、分かっていた。本音を引き出す為に、わざと言ったのだと。でも、もう我慢できなかった。例え誤解だったとしても、ムネノリへの気持ちをそういう風には捉えられたくなかった。

 

「好きだよ! 今も昔もこれからも! ずっとずっと好きに決まってる! ムネノリ君以外の男の子なんて、考えられないよ!」

 

 感情が爆発する。小さな火種であっても、1度山火事が起こってしまえば広範囲に容易く燃え広がってしまうのと同じように、あっという間に心が激情に支配されてしまった。無理に押さえつけていたバネが如く、強く弾けた。

 

「でも、だったらどうすればよかったの!? イズモを見殺しにすればよかったの!? そんなことしたら負けちゃうって分かってるのに、それでも無理に嫁げばよかったの!? ツバキちゃん、教えてよ……っ!!」

 

 自分でも無茶苦茶を言っているという自覚はある。だけどトワの口は勝手に泣き言を喚き、周囲に当たり散らす。多分……ここまで激昂するのは生まれて初めての経験だった。

 

 もし、もっとよい方法があるのならば教えてほしかった。自分のわがままを貫き通してよかったのなら、誰かにそう言ってほしかった。だが、今さらそんなことを知ってなんになる。もう、どうにもならないところまで来ている……筈だ。

 そんな思いを子供の八つ当たりのように手当たり次第に喚き散らしてしまった。

 

 一通りの感情を吐き出したトワは、「はぁ、はぁ……」と肩で息をする。トワが僅かばかりの落ち着きを取り戻す間、車内には走行音のみが流れる。それは沈黙と同義だった。

 

 その後、先にトワの言葉に返答したのは、ツバキの方だった。

 

「……1つだけ、わたくしから断言できることがありますわ」

 

 ツバキはトワの八つ当たりに一切臆することなく、扇子を開く。貼られた紙は真っ白で、中心にはただ一言、『忠』とだけ記されていた。

 

「——婚姻があろうとなからうと、わたくし……ひいてはマツナガ家は、全面的に王家を支援する方針ですわ」

「え……」

 

 前提条件が1つ、ひっくり返った。トクカワ家やマツナガ家を全面的に味方につけるには、婚姻が必要不可欠だという前提条件が。

 

「元々、父上は陛下と旧知の間柄。そして、恋慕の情を抜きにしても、わたくしの忠義はムネノリ様にありますわ。結婚などせずとも、最初からお味方しますわ。トキノリ様は、個人の情を軽視しすぎですわ」

 

 トワの中で、ガラガラとなにかが崩れる気がした。瓦礫の隙間から、光が微かに漏れる。もしかして……もしかしてと……自分でも理解できないソワソワとした感覚が渦巻く。

 

「——トワ様、これをお受け取りください」

 

 ずっと沈黙を保っていたシノが懐から便箋を取り出し、トワに差し出した。宛名にはトワの名前がある。そしてその筆跡は……間違いなく、ムネノリのものだった。

 

「これって……」

「今朝、兄上が書き上げた文です。どうか……読んでくれませんか」

「…………うん」

 

 迷った末に、トワは便箋を受け取った。口を破るのではなく、のりがされている部分を丁寧に剥がしていく。普段はペーパーナイフを使ってしまうが、今だけは破きたくなかった。

 

 そっと、中に入っている手紙を取り出す。手紙は、何枚も重ねられた状態で折られていた。相当な文量だ。

 

 トワは、1文字も読み飛ばさないように、ゆっくりと目を通し始めた。

 

 

————

 拝啓、トワ・ハーシェル殿

 

 実は、この手紙を書いている時点で37回目の書き直しとなってしまいました。夜中に書き始めた筈なのに、もう空は白み始めております。ツバキとシノにさっさと書き上げろと急かされている次第でございます。

 とりあえず、拙者に文才はなさそうです。これはこれで貴重な経験でございました。

 

 代わりに、今、頭に思い浮かぶことをそのまま文字に起こします。長くなってしまうかもございませんが、できれば最後まで読んでいただきたいと存じまする。

 

 ……拙者は最初、トワ殿に言われた通りに、王族としての運命を受け入れようとしました。政略結婚であっても最終的に仲睦まじかった例はいくらでもある。だから大丈夫だと己に言い聞せました。

 

 実際に、アヤメ殿と話をしました。とても器量のよい御方でございました。拙者にはもったいないくらい、よいおなごでございます。

 ですが……拙者は受け入れられませんでした。受け入れようとすればするほど、思い浮かぶのはトワ殿の顔でございました。

 

 今ここに、宣言致します。拙者が生涯の伴侶として選んだのは、トワ殿です。トワ殿なしでは生きていけないと感じるほど、貴方に心奪われております。愛に狂っているとは、拙者のような人間のことなのでしょう。

 

 ……ですが、その一方でイズモを愛しているのも疑いようのない事実でございます。王族としても、1個人としてもイズモは守り抜きたいのです。

 ツバキは家を挙げて協力すると言ってはくれましたが、トクカワ家を味方につければイズモはより盤石となります。その意味で、やはりアヤメ殿との結婚は避けられぬでしょう。

 

 ですので、もし……もし、トワ殿が構わなければでよいのですが……お願いがございます。もし聞けぬ願いでしたら……この文を破り捨てて、シノにお渡しください。あとで、シノに事情を伝えておきますゆえ。

 

 

 

 ——待ってて、くれませぬか。イズモを守り、立て直し、土地の荒廃の未来を避け……拙者の王族として務めが全て終わる、そのときまで。

 

 何年かかるかは分かりませぬ。不確かなことを言って、トワ殿を騙すようなことはしたくありません。数年で終わるかもしれませぬし、あるいは10年以上かかるかもしれませぬ。きっとそれは、拙者の努力次第でしょう。

 

 全てが終わったそのとき、拙者は王位をトキノリに譲ろうと思います。きっと、”不運”にもアヤメ殿との子宝には恵まれないので。再び平和な時代が訪れれば、拙者よりトキノリの方が王に向いていましょう。

 既に、アヤメ殿と話はついています。そのときが来れば拙者と離縁し、トキノリに嫁ぐ手筈となっております。

 

 そうしたら、王族としての身分は捨て、ただのムネノリとして会いに行きます。必ず、迎えに行きます。女神に誓って、お約束致します。

 

 もし……承諾…………ば、……シ……………キに…………………………

 

————

 

 そこから先は、もう読めなかった。なにも書かれていなかったからではない。字が汚かったからでもない。

 

 ——涙で視界が歪み、加えて涙が文面に落ちてインクを滲ませてしませてしまったからだ。

 

「っ……ぅ……ムネノリ……っ……く、ん……ッ……!!」

 

 蛇口を捻ったかのように涙が止まらない。アンゼリカに泣きついたときに、あるいは昨夜声を押し殺して1人泣いたときに、涙は枯れ果てたと思っていた。

 

 なのに、溢れ出す。いくらでも溢れ出す。嬉しくて、嬉しくて、狂おしいくらいに嬉しくて……! 涙が、止まらなかった。堪えきれず、口に手をやる。

 

「——どうですの? 心は決まりましたか」

「うん……うん……っ!!」

 

 何度も頷く。壊れた機械のように頷き続ける。

 

 ——伝えたい。手紙ではなく、通信でもなく……言葉で直接。ムネノリの顔を見て、返事がしたい……!

 

「義姉上……」

 

 きっと、手紙を破り捨てなかったことで答えを得たのだろう。シノの呼び方が元に戻っていた。それを訂正する必要は……もちろんなかった。

 

「では、行きましょうか。ムネノリ様の出発は7時。なんとしてでも、間に合わせますわ——いいですわね?」

「御意!」

 

 運転手が返事をする。直後、ただでさえ速かったスピードがさらに上がった。おそらく、法定速度はとっくに無視しているに違いない。

 

「ほら、ハーシェルさん、涙を拭きなさいな。そんなお顔でムネノリ様にお会いするわけにはいかないでしょう? ちゃんと身嗜みを整えませんと」

「うん、ありがとう……!」

 

 ハンカチで涙を拭かれ、再び前を向かされる。自分で見ても、酷い顔だった。涙の跡がはっきり残ってるし、目も充血している。薄くであっても、化粧は必須だろう。

 

 ——もう、迷わない。後悔するような選択は、しない。

 

 ツバキによって化粧を施される中、車は猛スピードで帝都に近づくのであった。

 

 

 

 

 ヘイムダル中央駅のホームに、大陸横断の列車が到着する。ホームに留まる時間はおおよそ15分。トリスタなどの比較的小さな駅には止まらない、特急列車だ。

 

 ムネノリには、最後尾の特別車両が用意されている。そこにムネノリと私服姿の護衛隊員が乗り込み、共和国まで向かう。そこでイズモの護衛が待機しているので、彼らと共にイズモに戻る段取りとなる。

 

(トワ殿……来て、くださるだろうか)

 

 駅の入り口に繋がっている階段を見る。そこから、トワやシノが現れる気配は今のところない。

 

 手紙の返事に関しては、シノに言伝させようと思っていた。だが、シノが反対したのだ。必ずトワを連れてくるから待っていてほしい。そう、シノに言われたのだ。

 だから、こうしてホームで待っている。

 

「殿下? そろそろ、列車に乗り込まれては……」

 

 私服姿となったクレアが声をかけてくる。彼女も、車内で護衛してくれる隊員の1人だ。

 

「先に乗り込んでてくださりませ。出発までには拙者も乗りますので」

「いえ、そういうわけにも……もしかして誰か、お待ちになっているのですか」

「……うむ」

「……分かりました。私が側に控えています。ですが、出発を遅らせることはできませんので、時間までには必ず……」

「ええ、分かっております」

 

 ムネノリは待つ。ひたすら待つ。トワが現れてくれることを祈って、決して階段から視線を外さなかった。

 

 

 

 

 列車の出発の20分前。法定速度を大幅に破った甲斐あって、トワたちは帝都に余裕をもって到着した。だが、問題は帝都に入ってからだった。

 

「この……とっとと動きなさいな……」

 

 ツバキが恨めしげに正面を見る。その視線の先には、長蛇の如き車の列ができていた。早い話が、渋滞になっていた。信号が青にも関わらず、一向に列が動く気配がない。

 帝都は元々交通量が多いが、最近は法整備が進んでいる。ここまで……それもこんな朝早くから渋滞になるのは珍しかった。

 

(あと、少しなのに……)

 

 通常であれば、車で10分程度の距離まで来ている。ちゃんと間に合う計算だったのに、その目論見が崩れようとしている。

 口にはしないが、トワは密かに焦りを覚え始めていた。当然だが、走って間に合うような距離ではない。

 

 導力トラムを使おうにも、この場所から最も近い停留所に向かうには、駅から離れる方角に移動しなければならない。加えて、停留所に到着した瞬間に導力トラムが到着しなければ完全にアウトだ。

 

 八方塞がりの予感を感じる。あともう一歩で届くのに、まるでなにか見えない力に邪魔されているかのように、駅までの道を阻む。

 

「——走りましょう、義姉上」

 

 そんなとき、シノが唐突に口を開いた。そして、彼女の提案に戸惑う。

 

「シノちゃん? でも、ここから走っても絶対……」

「私が義姉上を抱えて走ります。建物の上から一直線に向かえば、なんとか間に合う筈です」

「……ぇ」

 

 なにを言っているのだ、と失礼ながらも思ってしまった。確かに、以前抱えて走ってもらったことはある。だがあれは生徒会室から第二学生寮までの短い距離だ。それに、おそらくは全力疾走ではなかった筈だ。あのときと、状況がまるで違う。

 

「だけど、それじゃシノちゃんが……」

「私なら大丈夫です。絶対に間に合わせてみせます。どうか、信じてくださりませんか」

「……それしかありませんわね。ハーシェルさん、行きなさいな。シノなら、きっと大丈夫ですわ」

「……うん、分かった! シノちゃん、お願い!」

 

 ツバキの後押しもあって、トワは最後の賭けに出ることを決断した。手短にツバキに礼を言ってから車を降りて歩道に出る。

 

「では飛ばします。しっかり掴まっててください」

 

 シノは間髪入れずにトワを抱きかかえると、力強く地面を蹴った。体が大きく宙に浮く。シノは器用に次から次へと踏み台を見つけては飛び上がり、あっという間に建物の屋上に飛び移った。2人分の体重が合わさっているのに、凄い身体能力だ。

 

 そのまま駅に向かって一直線に駆け、屋根から屋根へと飛び移る。景色が風のように流れ、もはやトワには正確な位置の把握すらできない。あとはもう、シノを信じるしかない。

 

 残り13分。トワは、しっかりとシノの首に腕を回した。

 

 

 

 

 出発まで、残り5分となった。まだ、トワたちは現れない。間もなく出発であることを知らせるアナウンスがホームに響いた。

 

「殿下。さすがに、そろそろ……」

「いや……もう少しだけ、お願い致します。もう少しだけ……」

 

 再度クレアの催促を蹴ってしまう。申し訳ないと思いつつも、ここだけは譲れなかった。

 

「……1分前まではお待ちします。ですが、それ以上は無理にでも車内に連れ込みます。……構いませんね?」

「承知しました……ありがとうございます」

 

 頭を下げ、視線を階段に戻す。変わらず、トワたちの姿はなかった。

 

 

 

 

 出発2分前。すたり、とシノは駅前に降り立ち、トワを降ろした。シノは肌を上気させ、夏場ということもあって体のあちこちに汗を浮かべている。息も、かなり荒かった。

 

「はぁ……はぁ……申し訳、ございません。ここからは、義姉上だけで……」

「うん、うん……! ありがとう、シノちゃん!」

 

 こんなにも疲労困憊になりながらも、シノはなんとか間に合わせてくれた。感謝してもしきれない。

 

「列車は……7番ホームの……っ……最後尾の、車両です……急いで……ください」

 

 シノの言葉に頷き、トワは駅の構内に飛び込んだ。人目を気にすることなく、全力で駆ける。途中、改札に阻まれるが……。

 

「——ごめんなさい!」

「あ、ちょっと、君……!」

 

 無理やり飛び越えて先に進む。駅員に呼び止められるが、無視する。あとでいくらでも頭は下げるし、きっと学院にも連絡が行ってしまうが、今は間に合わせることだけを考えて進む。

 

 帝都育ちの甲斐あって、目的のホームまで迷うことはなかった。階段を1段飛ばしで駆け上がり、廊下を全力疾走する。最後尾に出る階段を目指して、決して速度を緩めない。

 

「はぁ……はぁ……!」

(お願い……お願い……間に合って……!)

 

 体温が上昇し、全身から汗が吹き出す。こんなことになるのならば、せめて夏服を着ればよかったと思ってしまうくらいには暑かった。ストッキングも止めておけばよかった。

 

 ——目的の階段が見えてきた。トワは急制動をかけ、階段の手すりを掴みながら直角に曲がる。強引な動きだったせいて体の筋が少しばかり痛んだが、気にするまい。

 足を踏み外さないようにだけ気をつけながら、階段を下りていく。

 

(——いた、ムネノリ君……!)

 

 視線の遥か先。とうとうムネノリを見つけた。——だが、状況はかなり切迫していることを知る。ムネノリは今にも列車に乗り込もうとしていた。実際、時間を考えればいつ扉が閉まってもおかしくない。

 

 もし扉が閉まってしまったら、声を上げても届かないだろう。魔獣対策で車体は分厚く、丈夫に作られているからだ。

 

「————ムネノリ君ッ!!!!」

 

 だから、力の限りの大声で叫んだ。喉がダメになり、声を失ってしまってもいいというくらいの覚悟で、懸命に叫んだ。

 

 ——ピタリ、とムネノリの動きが止まった。そして……こちらを向いた。

 

 

 

 

「……殿下、申し訳ありませんが……時間です」

「……分かり申した」

 

 ついに、トワは姿を見せなかった。それどころか、ツバキやシノも戻ってこなかった。

 

(間に合わなかったか……)

 

 元々、手紙を預けたのが遅すぎたのだろう。間に合わなくとも仕方ない。それでも、落胆の気持ちが胸中で大きくなるのを止めることはできなかった。

 

 これ以上クレアに迷惑をかけるわけにもいかない。もう十分わがままを聞いてもらった。観念して、車両に乗り込むこととした。この瞬間、ムネノリは階段から視線を外した。

 

 ……だからこそ気づかなかった。あとほんの数瞬で目当ての人物が階段の最上部に現れることに。目と鼻の先まで来ていたことに。

 

「————ムネノリ君ッ!!!!」

「ッ!?」

 

 声が、聞こえた。ずっと聞きたかった声と呼び方が。ムネノリは乗り込むのを中断し、体を階段の方へ向ける。

 

 ——いた。視線の先に、トワがいた。必死に階段を下り、こちらに向かってきている。

 

「トワ殿!」

「あ、で、殿下……!?」

 

 クレアを置いて駆け出してしまった。約束を破ってしまった。だが、構わなかった。ここでトワと言葉を交わさずに帰国するくらいなら、いくらでも謝罪をしよう。そう、思った。

 

 1歩、2歩と互いに互いの距離を縮め——ついに、久方ぶりに抱き合うのであった。

 

 

 

 

 ……温かい。全身が、ムネノリで包まれている。たったの数日離れていただけなのに……もう何年も抱擁を交わしてなかったんじゃないかと錯覚するくらい、愛しい感覚だった。

 

「……来て、くださったのですな」

「うん……ツバキちゃんと、シノちゃんのおかげで間に合ったの」

 

 もっと強く抱きつく。この感触を何年経っても忘れないように、己の魂に刻み込む。

 

「手紙……読んだよ。お返事……聞きたい?」

「ええ。是非……聞かせてください。どんな答えでも、受け入れるつもりでございます」

「うん、ありがとう。じゃあ……言うね……」

 

 大きく息を吸う。顔を上げ、ムネノリの目を真っ直ぐに見る。

 

「——待ってる。ずっと……10年でも20年でも、待ってるから」

「っ……まこと……でございますか」

「うん。絶対待ってるから……ずっと、大好きだから……だから——いってらっしゃい」

 

 今できる精一杯の笑顔を浮かべる。気持ちは、晴れ晴れとしていた。ムネノリもまた、爽やかな笑みを浮かべてくれた。

 

「——うむ、行って参ります」

 

 最後に、一際強い抱擁を交わした。……また、目の奥から涙が湧いてくる。せっかく施してもらった化粧が台無しだ。でも、別にいい。こうしているだけで、ムネノリの気持ちは十分伝わって来るのだから。体裁を繕う必要なんてない。

 

 ——自然と、互いに体を離した。もう、言葉は十分に交わした。

 

「……殿下」

「ぁ……クレア殿。す、すみませぬ……約束を破ってしまいました……」

 

 きっと、出発の時間のことだろう。結果的に、トワとムネノリは列車の出発時間を遅らせてしまったことになる。

 ……ところが、クレアから返ってきた言葉は意外なものだった。彼女は薄く微笑む。

 

「……護衛を万全にする為、臨時点検を行っております。5分後には発車しますので、そろそろご乗車をお願い致します」

「……ありがとうございます」

 

 トワも、深く頭を下げた。今回の件で、多くの人に迷惑をかけてしまった。あとで、きちんと謝って回らないといけない。

 

 最後に、トワはムネノリと視線を交わす。トワは微笑んで、コクリと頷く。ムネノリも、頷きを返すのであった。

 

 

 

 

 ——5分後。トワは列車が出発するのを見送った。列車の姿が完全に見えなくなるまで、その場に立ち続けていた。

 

 必ず、また会える。その想いを胸に、トワはホームを去るのであった。

 

 ——空は、見事な快晴だった。

 

 

 

 

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