38度4分。れっきとした風邪だった。本格的に生徒会長の座を引き継いでから随分と忙しくしていた為、知らない内に疲労が溜まっていたのかもしれない。長いこと病気とは無縁だったので、完全に油断していた。
頭が痛い。視界がぼーっとする。喉が痛い。寒気がする。汗が気持ち悪い。
トワは荒い呼吸を繰り返しながら、なんとか頭を回転させる。
(どうしよう……今日までに終わらせないといけない仕事があるのに……)
会長のトワにしか処理できない、今日中に提出しなければいけない書類がいくつかある。提出されなかった場合、多くの人に迷惑がかかってしまうような書類だ。
(……行かないと)
今日だけは、なんとしても登校しなければならない。幸い、今日は授業の数自体は少ない。悟られないように注意しながら、必要な仕事だけ終わらせて、さっさと帰って休めばいい。
トワは鉛のように重い体を気力で動かし、薬を飲んでから登校するのであった。
*
Ⅶ組の教室。丁度、授業が終了して昼休みに入ったところだった。リィンは軽く伸びをして、体をほぐす。
(ふう、今日の授業も大変だったな。日に日にハードになるから、付いていくだけでも一苦労だ)
流石は帝国でも随一の名門トールズだ。そういう意味では、留学生であるガイウスやムネノリは立派なものだと思う。入試の成績は上位で、今もしっかり授業に付いて行っているのだから。
——もっとも、どうやらムネノリは学業とは別になにか問題を抱えているようだ。自分の席でぐったりとしながら、ため息をついていた。
その理由をリィンは容易に察した。というより、学院生の中でそれを察することができない者など存在しないだろう。
「はあ……一体、どうすればよいのだろうか……」
「どうしたんだムネノリ。元気がなさそうだが」
見かねたリィンは声をかける。ムネノリがイズモの王太子であることは周知の事実だが、一学生として接して欲しいというムネノリの要望に従い、タメ口を続けている。
「リィン殿。いや、失礼。みっともないところを見せてしまったでござるな」
「気にすることないさ。なにか悩みでもあるのか。よければ相談に乗るけど」
素知らぬ顔をしながら、リィンは問いかける。他のⅦ組のみんなも興味があったのか、絶賛喧嘩中のアリサに至るまでの全員が退室を中断し、虫が蜜に吸い寄せられるようにムネノリの方に集まった。あっという間に9人分の輪ができあがる。
「そうですよ、ムネノリさん。皆さんに話している内になにか妙案が思いつくかもしれませんし」
エマが慈愛に溢れた微笑みを携えながら、優しい言葉をかける。しかし、その笑顔の裏からなにやら邪な気配が漂うのは気のせいだろうか。
「う、うむ……そうであろうか」
「そ、そうよ! ほら、私たち同じⅦ組の仲間じゃない? 助け合うのは当然よ!」
アリサが熱弁する。よく見ると、目をキラキラとさせている。そのあからさまな態度のおかげで、将来は朴念仁と呼ばれることが確定しているリィンにも彼女の意図が理解できた。要は、ムネノリの色恋に興味津々で、とにかく首を突っ込みたいのだろう。きっと、エマも同様だ。
「かたじけない。そういうことであれば、聞いてもらってもよいだろうか」
しかし当事者ゆえか、ムネノリは裏の意図に気づくことはなかった。Ⅶ組の熱い絆(?)にほだされたムネノリはポツポツと語り始める。もっとも、なにを相談されるかは分かりきっているが。
「実は拙者……トワ殿を妻として迎えたいがため、ずっとアプローチを続けているのでござるが、トワ殿はうんともすんとも言ってくださらぬのだ。それどころか、最近は避けられているような気さえするのでござる」
「ふん、なにか失礼なことでもしたんじゃないか。そもそも、衆目がいるど真ん中で求婚すること自体、どうかしてると思うが」
そんな至極真っ当な指摘をするのはユーシスだ。正直、彼がこの場に立っているのは意外だった。クラス全員の悩みでもあるマキアスとのいがみ合いも、不思議なことに今はしていない。
「ふむ、そうだろうか。リィンの話によれば、真正面から想いを告げたのであろう? 中々に情熱的で、好感が持てると思うが」
武人気質で比較的考え方がムネノリに近いラウラが反論する。模擬戦で引き分けたこともあって、ラウラの中でのムネノリの評価はだいぶ高いようだった。
「ちなみに、ムネノリは他にどんなアプローチをしたの? 噂では、いくつか聞いてるけど……」
エリオットが問う。噂というのは、いきなりグランローズを贈ったとか、支離滅裂な愛の言葉を囁いたとかなど、失敗が目に見えて浮かぶようなエピソードばかりだった。ちなみに、リィンはなぜグランローズを贈ったのか分からず、エリオットに聞いてから自身の不調法を知った。
「うむ。恥ずかしながら恋愛ごとは初めてゆえ、この書物を取り寄せて勉強しておったのだが……」
そう言って、ムネノリは『ヒツジンでも分かる、必勝求愛マニュアル!』という本を取り出した。
——次の瞬間、アリサは本を取り上げてゴミ箱に放り捨てた。
「な、なにをするでござるか!? それは5000ミラもした貴重な……!!」
「あんな本に5000ミラも使ってんじゃないわよ! あんた、女心舐めてるでしょ!」
アリサが吠える。鬼も逃げ出す凄まじい気迫にムネノリは叱られた子供のように黙りこくってしまった。他の女性陣もフィー以外はうんうんと頷いていた。
「ま、まあ、本の選定ミスに関しては同感だが……積極的にアプローチするのがそんなに悪いことなのか。僕からすれば、凄く勇気のある行動だと思うが」
「いえ、マキアスさん。確かにアプローチは大事ですが、物事には段階があります。女性というのは、男性の外見よりもむしろ内面を気にするんです。ムネノリさんがプロポーズしたのは会ってすぐですよね? 会長からすれば外見だけで選ばれたという風にも見えますし、そもそも会長はムネノリさんがどんな方なのか分からない訳です。戸惑われるのも、無理はありません」
理路整然としたエマの説明に、リィンはなるほどと感嘆の声を漏らす。つまり、自分にとって本当に最良な相手なのか分かるまでは、女性は簡単には首を縦に振らないみたいだ。
「そうなると、まずは互いのことを知っていくのが大事ということになるな。出会ってすぐということは、ムネノリは一目惚れだったのだろう?」
「それは……その……うむ……だが……」
ガイウスの質問に、ムネノリはもごもごと口を動かしながら言い淀む。図星だったようだが、それだけではないような気配も感じた。ただ、リィンがそれを追求する前にアリサがムネノリの机を両手で叩いた。
「とにかく! 今のあんたに必要なのは愛を囁くことじゃなくてコミュニケーションをとることよ! 生徒会の手伝いでもなんでもいいから、話すきっかけを作りなさい!」
アリサの発言を皮切りに、女性陣がヒートアップし始めた。あーでもない、こーでもない、と作戦を話し合ってはムネノリに指示を出していく。ムネノリも生真面目な性格な為か、次々とメモを取っている。唯一、フィーだけは眠そうにまぶたをこすっていた。
いずれにせよ、男性陣は蚊帳の外に追いやられてしまった。手持ち無沙汰になったリィンたちは、彼女らの分も含めて昼食を買って来るべく教室をあとにした。
帰って来るころには、おおよそのプランは纏まっていたのだった。
*
放課後。窓から差し込んだ夕日が廊下を染め上げ、グラウンドからは部活動に勤しむ活気のある声が響いている。
そんな中、ムネノリは生徒会室の前までやって来た。アリサたちに背中を押された為だ。実際のところ、行けと命じられたの方が正しいが。
ムネノリの前にはしっかりと閉じられた生徒会室の扉。今のムネノリには、それは天にも届きそうな巨大な城門のように見えた。
緊張で喉が乾く。嫌な汗が背中を伝う。最近トワに避けられていることを思い出し、本当に入って大丈夫なのだろうかと葛藤する。
(……いかんいかん! せっかくⅦ組の皆が知恵を出し合ってくれたのだ。拙者が及び腰になってどうする!)
パンパンと両手で頬を叩いて気合を入れる。武術においても、敢えて相手の懐に飛び込むのが正解なことが多々ある。きっと今の状況は、それと同じだ。
(念の為……念の為に、最後にもう1度アレを確認しておくでござるか)
ムネノリはごそごそと己の懐を漁ると、手のひらサイズの小さな巻物を取り出した。スルスルと開くと、表題には『Ⅶ組恋愛十ヶ条』と書いてあった。アリサたちが纏めたものを、ムネノリが巻物に書き写したのだ。
ムネノリは、そこに書かれている内容に目を通していく。
一:求婚や求愛の類は一切行わないこと。
二:この十ヶ条を会長から見える場所で読まないこと。
三:会長と世間話を行うようにすること。自慢話などは論外である。
四:会長の身体的特徴について言及しないこと。
五:会長を夕食に誘うこと。もしここで断られたら別の日に昼食に誘うこと。
六:双方が食べたいものが食べられる場所を選ぶこと。
七:今回だけでいいから奢ること。
八:ちゃんと寮まで送ること。
九:送り狼にならないこと。
十:最低でも十ヶ条を3回読み直すこと。
十ヶ条に従い、ムネノリはその場で3回読み直す。ちなみに、空き時間にも頻繁に確認していたので、これで読むのは通算10回目だ。
「……よし。行くでござる」
書かれている内容をしっかりと頭に叩き込み、巻物をしまうと、いよいよ覚悟を決める。
ムネノリは力強く、生徒会室の扉をノックした。
…………ところが、いつまで経っても扉が開く様子はなかった。再度ノックを行うが、結果は同じだった。
(……留守でござるか)
そう結論付けざるを得なかった。せっかく奮い立たせた気持ちが萎むのを感じる。どうしてこうも上手くいかないのだろうと、思わず溜め息が出る。それとも、恋愛というのは元々こういうものなのだろうか。
とにかく、不在なのであれば日を改めて挑戦するしかない。そう思ったムネノリは踵を返そうとする。
——その瞬間、生徒会室の方からガタンと大きな音がした。多くの重い荷物が一斉に床に落ちたような音だった。誰かが中にいるのは明白だった。
居留守を使われた線もあったが、生徒会の者がそんなことをするとも考えづらい。
ならば賊なのかもしれないとムネノリは考えを飛躍させた。王族としての教育を受けてきた為、ムネノリは常に最悪の可能性を想定する。
もしそうなのであれば取り押さえてやる。ムネノリは迷わず生徒会室の扉を開いた。
緊急用として懐に忍ばせてある脇差に手をかけながら、ムネノリは生徒会室全体を素早く確認する。不審人物がいればすぐさま拘束するつもりだった。
……結論から言えば、それは賊でもなんでもなかった。ムネノリは大きく目を見開く。
ムネノリの目に映ったのは、数多の本と共に床に崩れ落ちているトワの姿だった。
「——トワ殿!」
賊のことも十ヶ条のことも忘れ、ムネノリは真っ直ぐトワに駆け寄った。
*
ムネノリが生徒会室にたどり着く少し前のことである。
無理をしていたせいか、トワの体調は時間が経てば経つほど悪化した。それでもトワはそのことをおくびにも出さず、仕事を続けていた。
たとえ高熱であっても、本人がそれを本気で隠そうとすれば意外と気づかれないことをトワは経験で知っていた。そして実際、その通りだった。
トワにとって幸運だったのが、いつもの3人が不在であることだった。クロウとアンゼリカはサボりで街へ繰り出しており、ジョルジュは昨日から技術棟に缶詰めだ。もし3人の誰かがトワの側にいれば、トワの体調不良に気づけただろう。しかし、実際はそうはならなかった。
生徒会メンバーですらトワの異変に気づくことなく、己の仕事を終えた者から次々と下校してしまった。そして今、生徒会室にいるのは仕事のペースが鈍化していたトワだけだった。
これによって、誰かがトワの症状に気づく可能性がほぼ消滅した。
「はぁ……はぁ、はあ……」
もはや仕事どころではなかった。体は睡眠による休息が必要だとしきりに訴え、トワに強い眠気をもたらす。ほんの少しでも気を抜くと、視界が揺らぐ。地獄の釜で体が煮られているかのようで、熱くて、痛くて、苦しくて仕方がなかった。
そんなときだった。不意に生徒会室の入り口からノックが聞こえたのは。
(……誰、だろう。出ない、と……)
トワは立ち上がろうとする。しかし、できなかった。体に力が入らず、生まれたての子鹿のように四肢が震える。
「うっ……くっ……っ……」
再びノックがした。決して、急かすほどの間隔ではない。単にトワが出るのが遅すぎるのだ。
(早く、出ないと……行っちゃうかも)
このままだと、相手は不在だと思って立ち去ってしまうかもしれない。もしかしたら重要な用事なのかもしれないのだ。なんとして出なければならない。
机の淵に体重をかけるようにしながら、ノロノロと進んでいく。
ところが、トワの体はもう限界だった。無理を押して朝から夕方まで働いていたトワの体は、もはや動けるようにはできていなかった。
「ぁ……!」
導力が切れたように、ガクンと体から力が抜けた。その際、腕が積み上げてあった本の山にぶつかり、トワと一緒に崩れ落ちる。
ガタゴトと本が立て続けに床に落ちる音と共に、トワは床に倒れた。
直後、入り口のドアが開く。ぼんやりする視界をそちらへ向ける。幸い、まだ微かに相手を判別する余力は残っていたようだ。
「——トワ殿!」
「っ……で、殿下…………」
現れたのはムネノリだった。驚いたように目を丸くしている。
「大丈夫でございますか!? お怪我は!?」
ムネノリは一瞬でトワの側に駆け寄ると、ゆっくりとトワの上体を抱き起こす。彼の腕は力強く、それでいて優しかった。
大丈夫です。そう伝えたかったが、上手く唇が動かない。そしてそれを伝えるよりも先に、ムネノリの手のひらが額に当てられていた。
「……すごい熱でござる、すぐにでも休まなければ。……念のためお聞きしますが、歩けますか」
「えっと……っ……はぁ、ぅ……ん……はぁ」
足に力が入らない。やはり、もう無理そうだった。トワは力なく首を横に振った。
「そうですか。では——シノ!」
「ここに」
音もなくシノが現れた。
「トワ殿を医務室までお連れする。その役目は拙者より女のシノの方がよいだろう。だから——」
「それなのですが」
ムネノリの言葉をシノが遮った。
「ベアトリクス教官は1時間ほど前に出張で帝都に向けて発っております。現在、医務室は機能しておりません」
どうやら、最悪のタイミングだったらしい。ベアトリクス教官と会ったらすぐに風邪だと見抜かれてしまうと思い、今日は医務室に近づかなかったのでそのことを知らなかった。
「そうか。なら、トワ殿の自室にお連れしろ。それと着替えなどの世話を頼む。拙者もすぐに向かう」
「ま、待って……まだ、わたしがやらないといけない仕事が……」
ほんの2、3点ほどだが会長である自分にしか処理できない仕事が残っている。それを放置したら、大変なことになってしまう。特に、Ⅶ組が。
「そんなもの、サラ教官にお任せすればよいのでございます。先ほども暇しておりましたゆえ、事情を話せば分かってくれましょう」
そういう訳にも、と反論したかったが、ムネノリの有無を言わせぬ鋭い眼光にさすがのトワも黙らざるを得なかった。
「引き継ぎ等に関しては拙者がやっておきます。トワ殿は早くお休みください。——シノ」
「承知しました」
シノはトワに小さめのタオルケットをかけると、背中に手を回す。次の瞬間、トワはシノによって抱え上げられた。いわゆるお姫様抱っこだ。タオルケットは体を温めるだけではなく、スカートに対する配慮でもあったようだ。
「わ……」
同じ体格にも関わらず、シノは軽々とトワの体を支えていた。そのまま、トワを抱えて歩き出す。——ただし入り口ではなく、窓の方へ。
「ぇ……シノ、ちゃん……?」
「体調を考慮して、一刻も早くベッドで寝かせることを優先します。目を回さぬよう、目を瞑っていてください」
シノは窓を開けた。——そして全く躊躇することなくそこから飛び降りた。
「ッ〜〜!?」
トワは言われた通りに目を瞑る。視界が真っ暗になる。ただ、風を切る音からして、シノがかなりの速度で移動しているということは分かった。
(……なんだか、眠くなって来ちゃった)
無理に張り巡らせていた緊張の糸が切れたからか、本格的に睡魔が襲って来た。もう、あらがえそうにない。
小さな腕の中で揺られる中、トワはゆっくりと意識を手放した。
*
「う……ううん……」
トワはゆっくりと目を覚ました。まだ熱でクラクラするものの、先ほどと比べればだいぶ楽になった。しばらく寝ていたおかげだろう。周囲を見渡すと、内装ですぐに寮の自室だと気づいた。どうやらベッドで寝かされていたらしい。
明かりは消えており、光源は窓から差し込む月明かりだけだ。もうすっかり夜らしい。
「お目覚めですか」
「え……あ、シノちゃん……」
横にはシノがいた。全く気づかなかった。どうやら、運び込んでくれたあとも側にいてくれたらしい。
「どうぞ、スポーツドリンクです。お飲みください」
いつの間に用意したのか、シノはコップになみなみと注がれたスポーツドリンクを差し出した。トワは頷き、上体を起こす。よく見ると、今着ているものは寝巻きだった。
「このパジャマ、シノちゃんが?」
「はい。体をお拭きしたあと、無礼を承知でクローゼットから引っ張り出しました。申し訳ありません」
「あ、えっと、怒ってる訳じゃなくて……むしろ、ありがとうって言いたかったの。……飲み物、いただくね」
シノからコップを受け取り、ゴクゴクと一気に飲み干してしまった。自覚が薄かったが、相当喉が乾いていたようだ。喉を通る冷たい感触が心地よかった。
「少しは元気になられたようでよかったです。今、兄上をお呼びしようと思いますが、部屋に入れても大丈夫ですか」
「うん、平気だよ。えっと、もしかして殿下もこの寮にいらっしゃるの?」
元々クロウがしょっちゅう部屋にお邪魔している為、男の人を招き入れるのは慣れている。それよりも、ムネノリが寮にいることの方が気になった。
こうしてトワがベッドで休むことができるのは、全てムネノリのおかげだ。なるべく早くお礼を言いたかった。
「はい。今ごろ、夕餉の用意をしているかと存じます。呼んで参りますので、少々お待ちください」
最後にシノはトワにもう1度横になるように促すと、トワの額に濡れタオルを乗せた。ひんやりとしていて、とても気持ちがよかった。
トワが安静にしていることを確認したシノは退室する。しばらく待っていると、再び扉が開いた。
現れたのはムネノリだった。その両手はトレイで塞がっていた。シノは、もう隠れてしまったようだ。
「トワ殿……具合はいかがでございますか」
「はい、先ほどよりはずっとよくなりました。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「それはようございました。……夕餉を用意したのですが、食欲の方はいかほどでございますか」
「はい、なんとか——」
食べれそうです……そう言おうとした瞬間、ぐぅ〜と部屋に空腹時のお腹の音が響いた。それが誰のものなのかは言うまでもない。
みるみる内に顔から火が出たかのように熱くなり、トワは恥ずかしさのあまり布団で顔を半分隠してしまった。
「ぅ、も、申し訳ございません……その、朝からほとんど食事を摂っておりませんでしたので……」
「いえいえ構いませぬ。腹が空くのは元気になりつつある証拠でございましょう。ささ、たくさん食べて体力を取り戻しましょう。……一旦、明かりを点けますぞ」
トワに断りを入れたムネノリは明かりのスイッチを切り替える。明かりの強さは控えめにしてくれたようだが、夜の暗さに目が慣れていた為、少し眩しかった。
ムネノリはトレイをベッドの近くの台に置く。東方風の蓋のされた小さな土鍋と、すりおろしたりんごの入った器が乗っていた。
ムネノリは土鍋の蓋を外す。ふわり、と卵と思しき優しい匂いが鼻をくすぐった。
「わぁ……」
「卵粥とりんごのすりおろしです。イズモでは定番の病人食でございます」
卵粥はとてもおいしそうだった。卵で包まれた米は1粒1粒が金色に輝いており、見ているだけで涎が出そうだ。付け合わせのすりおろしりんごも、瑞々しくてとても甘そうだ。
「すごいです。これは、殿下自ら?」
「左様でございます。小さいころより料理を趣味としておりまして、シノが風邪を引いたときなどによく作っておりました」
ムネノリは近くの椅子に腰掛けると、スプーンで粥を掬う。すると、そのスプーンの先をそのままトワに差し出した。
「あらかじめ少し冷ましてありますのでそのまま食べれます。ささ、どうぞ」
「ぇ……! でも、これって……その」
俗に言う、”あーん”にあたるのではないだろうか。それは、いくらなんでも恥ずかしかった。トワが食べられずにいると、ようやくムネノリもなにをしているか気づいたのか、突如取り乱す。
「も、申し訳ございません! シノのときのことをを思い出していたら、つい同じように……! 失礼しました……!」
どうやら悪気はなかったらしい。嘘がバレた子供のような慌てようだった。
その様子がなんだか微笑ましくて、思わず頰が緩んでしまった。
「ふふ……あははっ。いえ、気にしないでください。わたしの方こそ、わざわざ作っていただいたのに失礼しました」
「あ、いえ、その……とにかく! どうぞお召し上がりください」
ばつの悪そうな顔をしながら、ムネノリはすりおろしりんごの器を一旦下ろすと、残った粥をトレイごとトワに差し出す。トワも体を起こしてトレイを受け取ると、それを膝の上に乗せた。
「いただきます」
早速、粥を掬って口に運ぶ。柔らかくなるまで煮られた米と、卵のコクのある甘みが渾然一体となって口の中で広がり、心をほぐす。端的に言って、非常に美味だった。熱さもほどよく、とても食べやすかった。
「おいしい……! おいしいです、殿下……!」
「そ、そうでございますか。そ、それはよかったでございます」
ムネノリは顔を真っ赤にしながら指で頰をかいていた。
トワは引き続き粥を口に運ぶ。時折、甘みの中に鋭い酸味が混じっているのが分かった。それがアクセントになって、するすると食が進む。
「えっと、この酸っぱいのは……?」
「それはイズモから持ち込んだ梅干しでございます。梅という木から生る果実を塩漬けしたあとに日干ししたものです。そのまま食べると非常に酸っぱいのですが、刻んで混ぜることでちょうどよい塩梅となるのでございます」
「へぇ、そうなんですか」
思いがけずして、東方の食べ物を1つ知ることができた。梅干し……覚えておこうとトワは思った。トワもそれなりに料理ができる為、新しい食材は気になるのだ。
その後もトワは次々と粥を口に運び、すりおろしりんごと合わせてあっという間に完食してしまった。お礼を言うと、ムネノリは嬉しそうに頷いていた。
*
ムネノリから漢方という東方の伝統的な薬をいただき、あとはもう寝るだけとなった。明かりは再度落とされている。ムネノリは、念のためトワが寝つくまでは部屋にいてくれるそうだ。正直に言えば1人は少々心細かったので、ありがたかった。
しかし……それはそれとして、落ち着かないのも事実だった。風邪が快方に向かっていることで心に余裕が戻ってきたからか、実は今はとんでもない状況な気がしてきたのだ。
夜、男の人と部屋で2人っきり。それも、相手は自分に求婚してきた男性。クロウでさえ、トワの部屋を訪れるときはちゃんと節度をわきまえている。少なくとも、自身が寝ようとしているときまで部屋に残っていたことはない。
別に、ムネノリのことを疑っている訳ではない。これまでの言動や伝聞からして、そんなことはしないという確信はある。だが、それとは関係なしに恥ずかしさが込み上げてくるのも事実だった。寝返りを打ったフリをして、ムネノリに背中を向けてしまう。
(うぅ……眠れない。でも、今からシノちゃんと代わって欲しいって言うのもすごい失礼だし……)
ベッドの中で悶々としながら、目を固く閉じてなんとか眠ろうとする。しかし、眠気はあるにも関わらず、一向に眠れそうになかった。カチ、カチ、と時計の針が動く音だけが響き渡る。
「……トワ殿、まだ起きていらっしゃいますか」
ふと、ムネノリの声が静寂を破った。トワはすぐに体の向きを変え、ムネノリと向き合った。
「はい。どうかなさいましたか」
「……その、ですな…………今まで、申し訳ございませんでした」
突然、ムネノリが丁寧に頭を下げた。それに驚いたトワは慌てて体を起こす。
「え、え? その、急にどうされたんですか」
「求婚のことでございます。……今日、Ⅶ組の仲間たちに色々と諭されたのです。お互いのことをよく知らずに求婚し続けるなど言語道断であると。それに、そのやり方にも問題があると」
「……それは」
確かに、それらはトワの抱いていた所感と一致していた。引き続き、ムネノリは語る。
「拙者、イズモでは外見ばかりが大人の女どもに、王族であることを理由に強引に迫られることが頻繁にございました。それゆえ、拙者は長いこと恋とやらに辟易としていました」
まあ、その女どもの大半は最終的にシノに追い払われておりましたが、とムネノリは付け加える。その光景を想像すると、僅かに笑みが漏れた。
「そんな拙者の前に現れたのがトワ殿でした」
「え……」
「恥ずかしながら拙者、人に恋慕の情を抱くのは初めてでございました。トワ殿を一目見たその瞬間、まるで自身が生まれ変わったような衝撃が身体中を走ったのです。それはもう、自分では抑えがたい衝動のようなものでございました」
「う……そ、そうでしたか」
ムネノリの言葉がストレートに響く。今までのアプローチと違って周囲に誰もいないからか、ムネノリの言葉をすんなりと受け入れてしまう。その情熱にあてられたのか、鼓動がうるさいくらいに速くなった。
「……ですが、振り返ってみると結局、拙者のやっていたことはイズモのはしたない女たちと同じでした。舞い上がって、トワ殿のお気持ちも考えずに……本当に、申し訳ございません」
再び、ムネノリが頭を下げた。それを見たトワは最初、なんて言葉をかけるべきか分からなかった。気にしていないと返すのは簡単だが、今すべき返事はそうではない気がした。
——ふと、ある考えが浮かんだ。前からずっと聞きたかったこと。それを聞いてみるのはどうだろうかと。
少し悩んだが、この場の勢いに任せて聞いてみることにした。
「あの、1つだけお伺いしてもよろしいですか」
「なんなりと」
「では……その、なぜ、わたしだったのでしょうか。なぜ、初対面だったわたしを……」
ずっと、プロポーズされたそのときからトワの根底にあった疑問。それをついに問いかけた。外見だけが要因だったのか、それとも……。
「それは……」
それを聞いたムネノリはしばらく無表情で黙り込んでいた。急かすようなことはせず、トワはじっくりと答えを待つ。
やがて考えが纏まったのか、慎重に言葉を選ぶかのように、ムネノリはゆっくりと口を開いた。
「一目惚れゆえ、最初は外見がほぼ全てだったことは否定しませぬ」
僅かに、落胆の気持ちがトワの心を満たした。やっぱり、そうなのかと……。
「——ですが、それだけではございませんでした」
「……え? それは、どういう……」
「あれは、直感をも超えた女神のお告げかと錯覚するような感覚でした。実はあのとき、こうも思ったのです。——この方を置いて、他にはいないと」
ドクン、と一際強く胸が鳴った。求愛の為の言葉ではなく、ムネノリ自身が真剣に考え、導き出した言葉だと分かったからこそ、トワの心が強く揺さぶられた。
「……それに、他の先輩方やリィン殿から聞きました。トワ殿が生徒会長としてどれだけ身を粉にして働いて下さっているかを。拙者たちⅦ組の為に色々と働きかけて下さっていることを。拙者自身、トワ殿がお忙しくされている様子を幾度となく目撃しております。いずれは玉座を継ぐ者として、心から尊敬致します」
トワは……すぐには返事ができなかった。感極まったと言えばよいのだろうか。外見以外もちゃんと見ていてくれていたのだと、心が満たされる気分だった。将来は王となる御方からいただいた言葉は、生徒会長のトワには最大級の賛辞だった。
「っ……ありがとう、ございます」
「……少しばかり、話が長くなりすぎました。また風邪がぶり返してはいけません。そろそろ、お休みになられた方がよろしいかと」
ムネノリに促され、トワは再びベッドに潜り込んだ。だけど休む前に、1つだけ言っておきたいことがあった。トワはムネノリの顔を真っ直ぐに見つめる。
「——ムネノリ君。今日はありがとう。それと、お休みなさい」
「ぇ、あ、な、なあ……ッ!?」
狼狽するムネノリを余所に、トワは再び背を向けた。なんだか、ちょっとした悪戯が成功したみたいで面白かった。
敬語を外したのは、いい加減線引きをするのを止めようと思ったからだ。それと、王太子としてのムネノリではなく、1人の男の子としてのムネノリと向き合うようにしたいと思ったからだ。
ムネノリがどんな人なのかをもっと知りたい。その為の前準備だ。そう、それだけだ。
まだ体調は万全ではない。でも、決して悪い気分ではなかった。次第に、睡魔が強くなってきた。
(今度……ちゃんとお礼……しない……と……)
徐々にまどろみに呑まれ、トワはついに眠りに落ちた。その眠りは、とても穏やかなものだった。
次の日、当然のようにトワの体調は完全に回復した。
その後、トワは仕事の合間にムネノリを生徒会室や技術棟に招き、一緒にお茶をするようになった。親友の3人は雑談に興じる2人を見て、微笑ましそうな表情で見守るのであった。