自由行動日を間近に控えた5月の半ば。新入生たちはだいぶ学院生活に馴染み、生徒会の忙しさもピークは超えた。
先月の終わりには記念すべき第1回のⅦ組特別実習が実施され、大成功と大失敗が報告された。ちなみに、ムネノリはリィンたちと同じA班としてケルディックに赴いた。
聞くところによると、男女同室であることに女性陣以上に大反対だったらしい。曰く、「夜を同じ部屋で共にしてよいのは夫婦のみでござる!」などと言ってみんなを呆れさせたようだ。
終いには自分だけ野宿しようとしたのを他のみんなで必死に止めたようだ。最終的にはシノが物理的にベッドに縛り付けることで解決したらしい。
ちなみに、その報告を聞いたトワはあの風邪の日の夜はどういう解釈だったのだろうかと頭を悶々とさせたりもした。
ともあれ、トールズ士官学院は順風満帆なスタートを切っていた。その中でも特筆すべきが、トワとムネノリの距離感の変化だ。
トワが言葉遣いを改めたその日以降、2人が言葉を交わす機会は格段に増加した。今は求婚する王太子と求婚される平民の関係ではなく、仲のよい先輩と後輩となっていた。
当時は学院中大騒ぎの大ニュースだったが、最近は周囲の盛り上がりもひと段落し、2人のことは日常のものとして受け入れられるようになった。
ときには昼食や夕食を共にし、ときにはムネノリが生徒会の仕事を手伝う。和やかに雑談を交え、2人とも楽しそうに笑顔を浮かべていた。それを頻繁に目にする生徒会のメンバーはやれやれと苦笑いを浮かべるしかなかった。
そんな2人の様子を、片時も離れずに見守っている少女がいた。少女は影に溶け込み、2人を視線で捉え続ける。ただ、気のせいか、その視線はムネノリに向けられている機会が多いような気がした。
*
お昼前。平民生徒用である第2学生寮の1階。そこには、自炊をする学生の為のキッチンが設けられている。広い上に設備もしっかりしており、複数人で調理していても全く苦にならない。
そんなキッチン内が、甘いものが焼けているときの香ばしい匂いで満たされている。発生源は備え付けられているオーブンからだ。その使用者であるトワはエプロンを着けたまま、しきりに時計を確認していた。近くには洗い終えた調理器具がきっちりと並べられている。
「うーん、そろそろかな……」
トワは緊張しながら、オーブンを開いて中からトレイを取り出す。トレイには、丸い形をしたクッキーが大量に並んでいた。冷めて固くなるのを待ってから、その内の1つを手に取る。
「上手く焼けてるかな…………うん! 大丈夫そうかな」
サクサクとした軽い食感。砂糖の甘みに支えられたバターの香ばしい風味。クッキーを作るのは久しぶりだったが、しっかりと焼けたようだ。
「あとはもっとちゃんと冷ましてから、袋に詰めて……えへへ、喜んでくれるかなあ?」
「……おお、いい匂いがすると思ったらトワじゃねぇか。なに作ってンだ?」
トワがクッキーの出来に満足していると、同じ寮の仲間でもあるクロウが入ってきた。発言から察するに、匂いに釣られたらしい。
「お、クッキーじゃねぇか。もしかして、お前が作ったのか」
「えへへ、うん、そうなの。やっと纏まった時間が取れたから、久しぶりにね」
今日は生徒会の仕事はなく、午前中の授業もない。絶好のタイミングだったのだ。
「ほぉん。どれどれ、1つ貰うぜ」
クロウはトワの返事を待たずに1つ手に取ると、口の中に放り入れる。多めに作ってあるので、少しくらいなら大丈夫だ。だが、その食べ方はいただけない。
「ああ、ダメだよクロウ君。もっとお行儀よく食べなきゃ」
「固いこと言うなって……ふむふむ。おお、美味ぇじゃねぇか」
「ほんと? よかった。自分でも味見はしたんだけど、これなら平気かな」
クロウはこの手のことではストレートに感想を言うタイプだ。変に気を遣ったりはしない。そのクロウが美味しいと言っているのであれば、本当にそうなのだろう。自信を持って渡すことができそうだ。
「しっかし、なんで急にクッキーなんか……ははーん、なるほどな」
クロウの顔がいつもの悪巧みをしているときのニヤついた表情に変化した。それを見て、トワはやましいことがないにも関わらず慌てて言い繕う。
「ち、違うの! これはちょっとしたお礼のつもりで、そういうつもりじゃ……!」
そもそも、ムネノリだけじゃなくてシノにも渡すつもりなのだ。断じて、クロウが想像していそうな理由ではない。
「別になんも言ってねぇけど? ま、でもこれはゼリカにも報告だな」
その態度はいかにも『言わなくても分かってる』と言っているかのようだった。そしてトワの直感だが、きっと全く分かってない。
最後に「クッキー美味かったぜ、頑張れよ」とだけ言い残してクロウは姿を消してしまった。トワは弁明する暇すらなかった。引き止めようと伸ばした手が行き場をなくして宙を彷徨う。
「うう、もう……本当にそんなんじゃないのに……」
最近、噂などが沈静化した代わりに色々と知らないところで誤解を招いている気がする。それを解くのは多分無理なんだろうなあ、とトワはがっくりと肩を落とすのであった。
*
放課後。トワはクッキーの入った袋を2つ持って旧校舎に向かっていた。最初はⅦ組の教室を訪ねたのだが、トワのクラスのHRが終わるのが遅かったからか、既に教室にいなかったのだ。
念の為リィンたちに所在を尋ねたところ、日課の鍛錬の為に旧校舎に向かったことをリィンが教えてくれた。旧校舎を使っているのはフェンシング部に配慮してのことで、どうやらリィンが旧校舎の鍵を貸しているらしい。
それを聞いたトワは、目敏く袋に気づいたアリサたちの追求を躱しつつ、旧校舎へと進路を変更したのだ。
鍛錬中にお邪魔するのは失礼かとも思ったのだが、なるべく早く所在が分かっている内に渡しておきたかった。休憩中などを見計らって渡せば、問題ないだろうと考えた。
しばらく細い坂道を進んでいくと、旧校舎の姿が見えてきた。トワは正面の入り口に近づく。最初は草を踏む自身の足音くらいしか聞こえなかったが、次第に別の音も耳が捉え始めた。
金属が震え、火花を散らすような音。士官学院生として幾度となく実技訓練を受けているトワにはその正体がすぐに分かった。これは、刃物がぶつかり合う音だ。
(この音、ムネノリ君だよね……? ということは、相手はシノちゃん?)
外からも聞こえるということは、階段部屋の前の広場を使っているのだろう。危険を考慮してか、絶えず構造が変化している地下は利用していないようだ。
入り口の鍵を確認する。鍵はかかってない。一応合鍵を持ってきたが、不要だったようだ。トワは音を立てないようにそっと扉を開けた。
(あ、いたいた!)
校舎内の1階の広場に入ったトワは、早速目当ての人物を見つけた。
ムネノリは、リィンと比べると短めの刀を2本構え、呼吸を整えつつ、対面のシノとにらみ合いをしていた。かなり集中しているらしく、トワに気づく様子はない。
邪魔してはいけないと思い、一息つくまでその様子を見守ることにした。それに、学年最強の称号を2分するムネノリの実力がどの程度のものなのかも興味があった。
先に動いたのはシノだった。刀身が真っ直ぐな小刀を逆手で構え——突然姿が消えた。
(——え?)
トワは自分の目を疑った。瞬いていないのにも関わらず、その姿を見失ったのだ。それはまるで、教官であるサラの動きを見ているかのようだった。トワだったら、決して反応できない速度。きっとなにもできずにやられてしまうだろう。
しかし、ムネノリはそうではなかった。シノが消えた瞬間には既に、刀を背後に向かって振り抜いていた。けたたましく金属が弾ける。体重と姿勢の差で押し負けたらしく、シノが不安定な体勢で宙に放り出されていた。
ムネノリはその隙を見逃さず、すぐさま跳躍。両手の刀をシノの胴体に叩きつけた。一瞬、やりすぎなのではと心配になったトワだが、それがただの杞憂であることをすぐに知ることになる。
攻撃を受けたシノは、厳密にはシノではなかった。細切れになったシノだったものは、ただの丸太だった。原理は分からないが、丸太を身代わりに回避したことだけはトワにも分かった。シノのあまりの早業に、試運転を通して数々の修羅場を潜り抜けたトワですら戦慄を覚えた。
(すごい……シノちゃん、こんなに強かったんだ)
「ごふぅ!?」
「——追撃が遅いです、兄上」
そんな早業を披露したシノが、ムネノリの晒した特大の隙を逃す筈はなかった。ムネノリの背後に出現した彼女は彼の後頭部を蹴り飛ばす。ムネノリはまるでボールのように数回に渡って地面をバウンドし、向かいの壁に衝突した。そしてそのまま、動かなくなった。
まさしく一蹴。学年最強の1人と謳われるムネノリが、その妹にあっさりと敗北した瞬間だった。
予想外の結果にトワはしばらくその場を動けなかったが、ムネノリがズタボロになっているのを思い出して我に帰る。
「ムネノリ君っ!」
容態が心配になったトワは急いでムネノリに駆け寄る。ムネノリの側に跪くと、彼の頰を軽く叩いて意識を確認する。幸いにもすぐに彼の目は開き、トワ自身の姿が瞳に映った。焦点も合っているし、ひとまずは大丈夫そうだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「お、おお……トワ殿で、ございますか。これは、恥ずかしいところをお見せしました……」
「そんなことより、怪我は大丈夫!? すごい頭の打ち方してたし、医務室で診てもらった方が……」
「——以前にも申し上げましたが、これくらい普通です。心配するようなことはありません」
気づいたら、シノが隣に立っていた。驚くべきことに、あれだけの動きを見せたのに一滴も汗をかいていなかった。
「それで、何の御用ですか。見ての通り、今は鍛錬中で忙しいのですが」
”鍛錬中”という言葉を特に強調しながらシノはトワを問い詰める。言葉の節々から、少しばかり棘を感じる。確かに、一息つくのを待たずに鍛錬に乱入してしまったのはトワの方だ。もしこの光景が本当にいつも通りならば、悪いことをしてしまったと思う。
「えっと、ごめんね、急にお邪魔しちゃって。その、実はこの前の看病のお礼に2人にクッキーを焼いたんだけど……」
「え……」
トワは手に持っていた袋をシノに見せる。それを見たシノは、ぜんまいの止まったおもちゃのように動きを止めた。微動だにしないところに彼女の実力が垣間見えるが、一体どうしたのだろうか。
「えっと、シノちゃん……?」
いつまで経っても言葉を発しないことに不安を覚えたトワは、シノの目の前で手を振る。それからしばらくして、シノはようやく復帰した。
「い、いえ……すみません。それで、その袋ですが、本当に——」
「——トワ殿ぉおおおッ!!」
シノの声を、復活したらしいムネノリの咆哮が遮った。その咆哮は広場で何度も反響し、さながら魔獣の叫喚のようであった。トワはビクリと肩を跳ね上げる。
「む、ムネノリ君?」
「ま、ま、まさか、それはトワ殿が手ずから焼かれたものということでございますでしょうか!!」
「う、うん、そうだけど……」
なんだかムネノリの言葉遣いがおかしい。元々東方風の言い回しで分かりづらい部分はあったが、そういうのとは違った方向で変だった。
ムネノリから発せられる妙な威圧感に、トワは後ずさる。もしかして、甘いものが苦手なのかもしれない思った。ところが、そんなことは全くなかった。
「お、おお……トワ殿の手作りの菓子を賜るときが来ようとは……このムネノリ、天にも昇る喜びでございます!」
「あ、あはは……うん、ありがとう。でも、あんまり畏まるのは止めてほしいかなあ、とか思ったりするんだけど……」
なんてことはない。いつもの発作だった。ムネノリは気持ちが昂ぶると、こんな感じでクライマックスに差し掛かったオペラ歌手のようになってしまう。ちなみに、トワ相手限定の現象ではなく、Ⅶ組でもしょっちゅうのことのようだ。
以前はムネノリの過剰な称賛に逃げ出したくなるほどの恥ずかしさを覚えたものだが、今となっては慣れてしまった。トウは苦笑いを浮かべて受け流す。
「はい、どうぞ。湿気っちゃうから、早めに食べてね」
「は、ははぁ! ありがたく、頂戴いたしますりますぅ!!」
まるで1億ミラの壺を前にするかのような震えた手つきで、ムネノリは仰々しい態度で袋を受け取った。
「ありがたき幸せに存じます! この贈り物は大事に保管し、これより王家の家宝と致しましょうぞ!」
ムネノリの発作はますますヒートアップしていた。普段ならこの辺りでシノが止めに入るのだが、今日はまだそのつもりはないようだ。代わりに、トワの方から諭すことにする。
「腐っちゃうからダメです。ちゃんと今日か明日までに食べ切ること。いーい?」
「う……は、はい、かしこまりました。……では、早速いただき——」
「——お待ちください、兄上」
突然、シノが割り込んだ。
「どうしたの、シノちゃん?」
「……王家のしきたりでは、こういう場合はまず護衛が毒味をするのが決まりです。トワ様を疑うわけではありませんが、しきたりなので」
「いや、しかし、シノ……」
「兄上は黙っててください、大事な話なので。……構いませんね?」
ムネノリを一言で沈黙させたシノはジロリとトワを視線で射抜く。……気のせいだろうか、なんだか今日は全体的にシノの態度が冷たいように思える。毒味の理屈は分からないでもないが、今までそんなことをしている素振りがあっただろうか。
トワは何度か学食でムネノリと昼食や夕食を共にしているが、シノが事前に毒味をしていたことはなかったように思う。
「……うん、いいよ」
不審に思いつつも、トワはシノの提案を承諾することにした。正直、作ったものに対して毒味をすると言われるのは複雑だが、色々と事情があるのかもしれないと納得しておいた。
「ありがとうございます。最後に確認しますが、そちらの袋は私に向けたものということでよろしいのでしょうか」
「うん、そうだよ。でも、どっちも同じ数だけ入ってるから、どっちが誰のとかは特に決めてなかったかな」
「そうですか。ですが念の為、袋も交換しましょう」
そう言うや否や、シノはトワから袋を受け取ると、ムネノリが持っていたものと交換してしまった。ムネノリは必死に手放すまいとしていたが、再び頭を蹴られて倒れてしまった。呻き声を上げているので無事ではあるみたいだ。少しずつ、ムネノリの頑丈さを理解してきた。
シノはムネノリが持っていた方の袋を開けると、中からクッキーを1枚取り出す。
「それでは、いただきます」
(毒味なのに”いただきます”でいいんだ……)
思考が変な方向に逸れたトワを余所に、シノはクッキーを口に入れた。クッキーが口の中で砕ける軽妙な音が辺りに広がる。毒味だからか、何度もしっかりと噛んでいるようだ。やがて、シノはこくんと飲み込んだ。
「……ふむ」
毒味を終えたシノは、なにかに没頭するかのように黙り込む。毒の効果が現れないかを待っているのだろうか。もちろん、毒なんて混ぜてないので絶対になにも起きない。ラジオのクイズ番組の正解発表のときのような心持ちで、トワはシノの判決を待った。
「…………」
結局、判決は下されなかった。何を思ったのか、シノはもう一枚手に取って口に運んだのだ。
もぐもぐ、サクサク。そして再び飲み込む。
「……うん」
そして——更にもう一枚、取り出した。
「.……あの、味は全部一緒だから1枚だけで大丈夫だと思うよ?」
このままだと全部食べてしまいそうな勢いだったので、トワはおずおずと待ったをかけた。すると、ピタリとシノは動きを止めた。
「…………失礼しました。特に、問題はなさそうです」
なにやら葛藤があったようだが、シノはクッキーを袋に戻した。そして、毒味に使った方の袋を倒れているムネノリの側に置いた。交換しなくてよいのだろうか。
「……兄上。少し早いですが今日の鍛錬はここまでにします。それでは」
なぜだか早回しのテープのような早口で告げると、シノは姿を消してしまった。結果的に数が多くなった方の袋を持ち去って。
(…………あれ? もしかして、気に入ってもらえたのかな?)
シノが去ってからしばらくして、トワはようやく彼女のとった一連の行動の意味に気づく。どちらかと言えばそうであってほしいという願いでもあったが、意外にも筋が通っていた。
「あ、あ、ああぁああ……。トワ殿の、トワ殿のクッキーが2枚も……減って……っ」
ようやく復活したムネノリは、袋の中身を見てさめざめと泣いていた。まるで金貨が奪われたような悲しみようだった。
「あわわ、な、泣かないでムネノリ君! また今度作ってあげるから!」
「ほ、ほんとでございますか……」
「うん、ほんとだから! だから、ね? 元気出して?」
トワはポンポンとムネノリの背中を優しく叩く。それからムネノリが立ち直るまで、もうしばらくかかった。
(……でも、なんでシノちゃんはあんなにご機嫌斜めだったんだろう?)
真意を問える相手は、もうこの場にはいなかった。
*
「それはアレさ。俗に言う、ヤキモチというやつだね」
翌日、事の顛末をトワから聞いたアンゼリカはあっさりとそう答えた。2人は今、喫茶店のキルシェにてお茶をしている。トワは、ミルクを少しばかり入れたコーヒーを口にする。
「うーん、やっぱりそうなのかなあ……」
「なんだ、トワも最初から気づいてたんじゃないか」
「昨日の夜、ずーっと考えてて、一応そうなんじゃないかなあとは思ってたんだけどね。違うかもしれなかったし、アンちゃんに聞いておいてよかったよ」
「ふふ、それは光栄だね」
人の本質を見抜くことに長けたアンゼリカと意見が一致している以上、間違いなさそうだ。
ムネノリの話では、シノはまだ12歳らしい。ちなみに、それを聞いてシノと同じ体格のトワは少なくないショックを受けたがそれは今は置いておく。
とにかく、そんな歳頃の少女が護衛の為に単身で異国の地に来ているのだ。身のこなしからして特殊な訓練を受けているのは分かるが、それでも淋しさは感じる筈だ。そんな中で護衛の対象であり、兄でもあるムネノリの存在は大きな心の支えなのではとトワは予想している。
その2人の間に結果的に割り込んでしまったのがトワだ。思い返せば、あの日以来かなりの頻度でムネノリと話し込んでいた気がする。ちょうど1回目の特別実習が実施されたこともあり、お互いに話題には事欠かなかった。護衛のシノは、その様子をずっと遠巻きに眺めていたことになる。
もしトワがシノの立場だったら、なにを思うだろうか。決まっている。淋しい、疎外感、混ざりたい……そんなことを思うのではないだろうか。
特に、今にして思えば昨日の鍛錬にお邪魔したこと自体がまずかった。見方を変えれば、あれは兄弟水入らずで過ごせる数少ない時間とも言える。そこにトワという異物が乱入してしまったのだ。機嫌が悪くなったとしても不思議ではない。
「はあ、失敗しちゃったなあ。自分のことばっかりでシノちゃんの気持ちのこと、全然考えてなかった」
大人びたところがあるし、忍びなどの不思議な面にばかり気を取られて、シノが年下の女の子であることをすっかりと忘れてしまっていた。少なくない罪悪感がトワの心の内で燻る。
「こう言ってはなんだが、過ぎてしまったことはどうしようもない。トワはこれからどうしたいんだい?」
「もちろん、謝りたいよ。でも、それだけじゃないの」
トワは1拍置いてから告げる。
「わたし、シノちゃんとも仲良くなりたいんだ」
紛れもない本心だった。風邪のときは大変お世話になったし、その前の日もムネノリの密かな決意について教えてもらった。そんなシノと仲良くなりたいと思うのはごく自然な感情だ。
「でも、あんまりいい方法が浮かばなくて……」
それがトワの悩みの種だ。さすがに真正面から「ヤキモチ焼かせるようなことしてごめんなさい。これからは仲良くしたいです」とは言えない。シノの神経を逆撫でするだけだろう。
だからこそ、こうして女性の扱いに長けたアンゼリカに相談しているのだ。一通りの話を聞いたアンゼリカはコーヒーを飲むと「ふむ」と頷く。
「まあ、そうだね。1ついい案があるよ」
早くも解決案が思い浮かんだようだ。是非教えて欲しいと、トワは懇願する。
「いやなに、別に難しい話ではない。それとも、トワは会長の仕事に忙殺されて頭から抜け落ちてしまっているのかな? こういうときには打って付けの日がもうすぐやってくるじゃないか」
「打って付けの日? ……あ、そっか!」
そうだ、すっかり忘れていた。なんで思いつかなかったんだろう。
トワの様子を見ていたアンゼリカは、貴族子女らしい優雅な笑みを見せる。
「そうさ。明後日は”自由行動日”。そこまで言えば、あとは分かるだろう?」
トワは、力強く頷いた。
*
忍であるシノの仕事は、兄のムネノリのことを陰ながらお護りすることだ。ゆえに、授業中の今も窓を介してムネノリの姿が見える位置の木の上に隠れている。偽装も施しているので、シノが動かない限りは周囲に気づかれることはない。
シノは油断なく周囲を警戒する。学院の敷地内でそれはやりすぎと言われるかもしれないが、そういう慢心が最悪の結果に繋がるのだ。忍として長年訓練を積んできたシノは決して気を抜かない。
その一方で、思考が時折横に逸れてしまっていることも自覚していた。思い出されるのは、昨日の旧校舎での自身の大人気ない態度のことだ。
(トワ様……私のこと、お嫌いになられたかな……)
さすがに、毒味は言い過ぎだった。すぐにでも撤回すればよかったのだが、あのときは原因不明の苛立ちが心の大部分を占めていて、どうにも抑えが効かなかった。
トワと同じ場所に留まるのが憚れたこともあって、日課の鍛錬も途中で打ち切ってしまった。
(……折を見て、謝罪しないと)
そう思った直後のことだった。
「シノちゃーん! いるー!?」
「ッ!?」
足を滑らせて落ちるかと思った。まさか、こんなタイミングよく現れるとは……。
聞き間違える筈もない。それは、トワの声だった。彼女はシノの潜んでいる木のすぐ近くまでやってくると、しきりにシノのことを呼び続けている。
授業中のクラスが多い為か、トワの周囲には誰もいない。だが、きっと近くの教室からは聞こえているだろう。傍から見れば、路上で叫んでいるだけの変人だ。
確かに、用があればムネノリの近くで声をかけて欲しいとは伝えた。だが、まさかこんな形になるとは思わなかった。
「うーん、おかしいなあ。ムネノリ君の教室の場所からして、この辺だとは思うんだけど……」
どうやら、かなり正確にシノの潜伏場所に見当をつけているようだ。さすがは、トールズ士官学院の首席と言ったところだろうか。
ただ、もしこのままシノがだんまりを決め込めば、当てが外れたと見て立ち去ってしまうだろう。
正直、かなり迷った。折を見て、とは思ったがいくらなんでも急過ぎる。ちゃんと話せるか分からなかった。このまま、やり過ごすのも手だ。
……だが、できなかった。困ったように眉をひそめながら、キョロキョロと周囲を見渡すトワを見て、沸々と罪悪感が湧いてきた。
「——お呼びですか、トワ様」
結局、シノは偽装を解いてトワの側で姿を見せた。
「あ、シノちゃん! よかったあ、ここで合ってたんだ。もしかしたら間違ってるんじゃないかって思っちゃった」
シノの姿を見つけたトワは、花が咲くような笑顔を見せた。まるで、昨日のことなどなかったかのようだ。
「その……なんの御用でしょうか」
ここで謝るべき……それは分かっていた。だが、今のトワがなにを考えているのかが読めなくて、思わず言葉を引っ込めてしまった。代わりに、無難な言葉で応じてしまう。
「うん、あのね。シノちゃんって、明後日は空いてたりするかな?」
「明後日……ですか。空いてるもなにも、私は兄上の護衛なので兄上のご都合次第ですが」
「それなら大丈夫! さっきムネノリ君に通信で聞いてみたんだけど、なにも予定は入れてないみたいだから」
そういえばと、ムネノリが廊下でARCUSを使って通信していたことを思い出す。シノから見て背を向けていたので、唇を読むことができなかったのだ。どうやら、トワと話していたらしい。
「あ、それでね、シノちゃん——」
——明後日、3人で帝都にお買い物に行かない?
目の前の同じ背丈くらいのお姉さんは、そんなことを告げるのであった。